05:絶体絶命
「ここは……?」
ベッドから身を起こす。服は質素であるが清潔感のあるものに変わっており、全身の傷口はふさがっていた。
「づ!」
「動かないでください。出血は治癒魔術で止めましたが、体力は戻っていません」
「助けてもらったみたいだな。礼を言う。俺は冒険者のクロノス。君は?」
「申し遅れました。わたしはシスターのソフィアです」
ソフィアと名乗った麗しい少女はまだ二十前後くらいの年齢だった。
抜けるような白い肌と耳に心地よい話し方はあきらかにクロノスが日ごろ接する平民階級出身ではなく、高度な素養と知識が窺え、貴族階級であることが推察された。
クロノスを心配そうに見つめる瞳には理知の光と深い慈愛が宿っていることがわかる。
彼女は生まれながらにして人の上に立つ人間である。クロノスはベッドに横たわったまま上体をなんとか起こすと居住まいを正した。そうしなければいけないような気分にさせる少女だった。
「まだ、寝ていなければいけません」
「いや、だいじょうぶだ。結構、回復した」
「結構、強情なんですね」
ソフィアが腰に手を当てて表情を若干ゆるめた。部屋の燭台の灯でマジマジと彼女の顔を見ると、雪のような白い頬がわずかに赤らんでいる。クロノスは手をかけさせたすまなさに恥じ入り身体を縮こませた。
「倒れたあなたを前に困っていらっしゃる方がおられると連絡がありましたので、勝手ながら当教会で引き取りました」
「教会、ここは教会なのか?」
「はい。ただ、そのうちお気づきになられると思いますので先に申しておきますが、街の中央にある正規のものではなく、はずれにある教会でして」
「そうか、例のカタル派の廃教会か」
クロノスが住む街はずれにはロムレス教カタル派と呼ばれる、いわゆる本道とは違う解釈で信仰を行う少数派がいたことを想いだした。カタル派は現在使われていない廃教会を占拠し細々と布教を続けている。
(そうか、シスターはカタル派の人間なのか)
クロノスも形だけは聖ロムレス教会の信徒であるが、礼拝を行っていたのは養育されていた幼いときだけであり、信仰心というものは限りなく薄かった。
「彼は、無事にギルドに戻れたのか?」
ソフィアは静かにうなずいた。
「ああ、彼は命の恩人だ」
「彼は冒険者ギルドに戻りました。勝手な外泊はさすがにできかねるようでして」
「彼に報いることができなくて心苦しい」
「クロノスさま。彼からあなたの善行を聞きました。彼はあなたになにかをもらいたくて助けたわけではないと思います。日々の思いやりが窮地に至ったあなたを地獄の底から拾い上げた。これこそ神のご加護でしょう」
「だといいがな」
「ゆっくり休んでください。なにも考えずに」
「……ご厚意はありがたいが、そうもしていられない」
「でも、まだお身体は回復なすっておりませんのに」
「悪い。礼はいずれするよ。今は――」
「いけません。あっ」
立ち上がろうとするクロノスとソフィアはもつれあってベッドに倒れ込む。クロノスの上にソフィアがまたがる形になり、鼻先がくっつくくらいの距離になってしまう。こんなときだというのに、クロノスはソフィアの美貌から目が離せなくなってしまう。
奇妙な沈黙を破ったのは若い女の声だった。
「ちょっと、ソフィアさまが善意でおっしゃっておられるのにその態度はなによ! てか、とっととどきなさーい!」
「え?」
ベッドの脇の机の上でカラフルな物体がぽよんぽよんと跳ねている。
(こいつは、ピーチスライム? 初めて見たぞ)
灰色味を帯びたオレンジ色のスライムはダンジョンでもほとんど出現しない希少種である。書物によれば、希少種のスライムは知能度が高く、固体によっては人語を操り魔術すら使うものもいるとあるが、現実で見ると若い女の声で喋るぷよぷよの塊はかなり強烈だった。
「なんなんだ、この物体は」
「こらぁー、物体とか言うな。私はトルテ! ソフィアさまの侍女よ。あるじであるソフィアさまに無礼を働いたら許さないわよ」
「……なるほど。自分を侍女だと思い込んでる物体か」
「物体言うな!」
「あら、もう仲良くなりましたのね」
ソフィアがころころと笑った。
「シスター、こいつはなんなんですか」
「わたしの侍女ですよ。本人がそう言ってますから」
「いや、じゃなくてだな」
そう言いかけた直後、クロノスの目が光った。
「悪い。もう巻き込んでしまったようだ。シスターとトルテは裏口から逃げてくれ」
「クロノスさま……」
ソフィアは勘が鋭いらしく、即座にクロノスの言葉を理解すると、頭にトルテを乗せて部屋を出てゆく。
クロノスは素早く足元に置いてあった剣を手繰り寄せると、隠そうともしない大きな足音のする礼拝堂に向かった。
「くれぇぞ。灯りを出せ」
闇の中でヘルマンの鋭い声が響いた。十を超える数の男が一斉に手にした松明に火を灯した。真っ暗な礼拝堂が昼間のように明るくなる。
あれだけクロノスを拷問したヘルマンが助けるために、これだけの手勢を率いて街はずれの廃教会までやってくるはずがない。
「出てこいクロノス。テメェがここに逃げ込んだのは先刻承知でぃ!」
二十七という年齢に似合わないガラガラ声が轟く。
「おれたちの目を盗んでテメェを逃がした奴隷ちゃんは、ほら、ここできちんと殺しましたでちゅよう。クッソ雑魚のC級冒険者ちゃんは薄汚い下層民の皆さまと仲がおよろしいでちゅわねぇ。ハッ、そんなんだからコンスタンツのやつを寝取られんのよ!」
最愛の恋人だった女の名にクロノスは心が冷えた。
「今ごろおまえのだーいすきだったコンスタンツちゃんはレオンにしっーかり調教されてんぞ。それこそ穴という穴に男汁を注ぎ込まれてよ。けけけ、まあ、そのうちにレオンが飽きたらおれらもコンスタンツで楽しませてもらうさ。冒険の役にも立っておれたちの穴奴隷になるコンスタンツにぶち込めると思うと、今からたまらねぇぜ。おう、そんときゃおまえたちにも回してやるからな!」
「本当ですかい!」
「いやったぁ!」
「ヘルマンさま万歳!」
腰巾着たちが浮かれ騒ぐ。
「おっと、そんなくだらねぇ話じゃなかったな。状況が変わったんだ。レオンがおまえを連れてこいとさ。よかったじゃねぇか、いとしのコンスタンツのアへ顔を拝ましてもらえるなんて、元恋人冥利に尽きるだろ、オッ?」
――軽率に手に乗るな。安い陽動だ。
どうやらクロノスの隠れている位置をヘルマンは特定できていないらしい。
そっと長剣を引き抜くとクロノスは長椅子の影から影に移動し、敵の位置と数を探った。斥候であるクロノスからしてみれば、こういう作業は得意中の得意である。
ヘルマンの連れてきた下位ランク冒険者の数は十二人だった。
正直なところ、スキルのないクロノスがこれだけの相手にどれだけやりあえるかわからない。
だが降伏はない。
どこまでできるか男の意地を貫く時がきたのだ。
「クロノスさま……」
長椅子の下に隠れているそばまでソフィアが四つん這いになりながら這ってきた。
――逃げろといったつもりなのに。
「逃げましょう。今なら裏口から」
用意周到なヘルマンのことだ。筋肉馬鹿に見えて、中々に手落ちがない。このような廃教会の出口などとっくに押さえているだろう。そういった点では抜かりがないのは仲間であった自分が一番よく知っている。
「ありがとうシスター。君のおかげで最後に救われた」
暗がりの中でも彼女が表情を歪ませたのがわかった。
クロノスは身を低くして長椅子の間を駆け抜けた。
燭台を持っていた男の太ももに長剣を突き刺した。
悲鳴と共に男が倒れ注意がこちらに向けられる。
「テメェ、そこにいやがったか!」
クロノスは長椅子の上に立つと跳躍しながら長剣を振り下ろした。
斬撃をもろに喰らった男の顔面が血で真っ赤に濡れて手にした矛がこぼれ落ちた。
クロノスは矛を手に取ると車輪のように頭上で旋回させて、あたるを幸いに、ひとり、ふたりと瞬く間に葬った。
血濡れた矛を放り投げる。
ヘルマンはさすがの反射神経で大剣を引き抜くと矛を叩き落して獣のように吠えた。
「俺は逃げも隠れもしない。おまえだけは地獄の道連れにするぞ、ヘルマン」
「ふざけやがって。野郎ども、やっちまえ!」
これだけの人数である。まさかクロノスが攻勢に出てくるとは思っていなかったヘルマン一党たちに隙があった。
そしてクロノスは見事にそれを衝いたのだ。
序盤は優勢であったクロノスもさすがに敵の数が多すぎた。
本来、斥候であるクロノスは敵の位置を偵察する役目であり純然たる戦闘員ではない。
六人目を屠ったところで、壁際に追い詰められた。
「ハン! 所詮テメェはクソ雑魚なのよ。おれさまに逆らおうっていうのが無駄なあがきだったのさ」
クロノス自身はC級の冒険者であるが、ヘルマンの集めた手勢は誰もがD級E級を出ない格下であった。
冒険者はランクがひとつ違えば隔絶した力の差がある。
だが、多勢に無勢であった。
ヘルマンを含めた七人は余裕を持って武器を満身創痍のクロノスに突きつける。
「てこずらせやがって」
勝っているというのにヘルマンの瞳には焦りの色が濃い。
――敵は多勢で自分にはないスキルも擁している。
だが、クロノスはこの期に及んでも敗れることも囚われることも、絶対にしないと固く心に誓っていた。
スキルのないクロノスのただひとつの意地だった。