23:希望の光
「大丈夫だ。いますぐあの竜は俺が打倒する」
「え――?」
脳裏に青白い炎が激しく燃えさかっていた。
怒り――。
いや、言葉では言い表せない種のものだ。
身体中を括りつけていたピンが残らずはずれて飛んでゆく。
全身は火のようにカッカッと燃えているのに思考は次になにを行うか最善を自然と選んでいた。
いまでは、なんとなくで扱っていたスキルの幅が自然と理解できていた。
鳥が空を飛ぶように魚が海を泳ぐように土竜が地中を行くように、すべてはあたりまえのことだ。
エビルドラゴンがブレスを放ってきた。
速度も破壊力もずばぬけている。
だが、恐れることはない。
時間そのものを丸ごと止めなくてもいい。
動きを停止させるのは炎そのものだ。
右手を突き出して脳裏にイメージを描く。
虚空に巨大な時計が現れて迫ってきたブレスの炎が宙で凍りついた。
世界を止めるのではなくブレスそのものの刻を止めたのだ。
これならば必要以上のマナを使用しなくても済む。
クロノスはソフィアをその場に横たえると、飛び上がって停止しているブレスの塊に乗った。
存在そのものが止まっているのでクロノスの足裏は微塵も燃えることはない。
あまりの異常な状況にエビルドラゴンが戸惑っている。
だが、向こうもダンジョンを統べる百戦錬磨の魔獣の王だ。
すぐさま顎を突き出し直接クロノスを噛み殺そうと吠えた。
ドラゴンの雄叫びだ。
並みの生物ならばこの吠え声を聞いただけで居竦まって動けなくなるだろう。
だが、クロノスも吠えた。
エビルドラゴンに負けず劣らずの怒声を放った。
声帯だけではなく全身が弾けたような怒声が身体の奥底から湧いてくる。
武器はいらない。
そもそもこの種の巨体を持つ超獣に通常兵器で立ち向かおうとしたのが愚かだった。
使うべきはスキル。
天より与えられた己の才覚のみ。
クロノスはエビルドラゴンの噛みつき攻撃をかわすと、虚空でトンボを切って顔の上に着地した。
額に手を当てて、イメージを現実化する。
虚空に巨大な時計が現れて急速に針が動き出した。
――時間操作、早送り。
竜種といえど生きられる時間は無限ではない。
刻を操るクロノスはエビルドラゴンの本来生きるべき時間を数百万年単位で早送りした。
強靭なウロコを持つドラゴンの色が徐々に褪せて力を失い、すべてが灰褐色に変化してゆく。
四つ足で自重を支えられなくなったエビルドラゴンはズズーンと地響きを立てながら伏せてわずかに首を上げた。
クロノスは見た。
竜の瞳にある確かな怯えを。
クロノスはエビルドラゴンから飛び降りると灰になってダンジョンに沈んでゆく超獣の断末魔をゆっくり聞いていた。
戦闘はほんの数十秒しかかからなかった。
圧倒的なクロノスの勝利である。
エビルドラゴンを斃し終わったクロノスは横たわっているソフィアのもとに駆け寄って、すでに動きがほとんど感じ取れなくなった胸に手を置いた。
――時間操作、巻き戻し。
彼女の大穴が空いた胴の時間だけを無事だったころに巻き戻る。
致死であった腹にぽっかりと空いた大穴がふさがり、地面を黒々と染めていた血がソフィアの身体の中に戻ってゆく。
しばらくするとソフィアは小さく呻いて目を開けた。
「……ここは天国ですか?」
「残念ながら違うよ」
「姫さま!」
感極まったトルテがソフィアにすがりつく。
クロノスはソフィアを抱き起すと乱れた彼女の顔にかかった髪を指先で払い、満足げに笑った。
――こんなはずじゃなかった。
レオンは肩口から噴き出す傷口を押さえながら、迷宮の奥底を這いずっていた。
渇きと空腹は極限まで迫っている。いつも整えられていた髪は艶を失い、顔は垢と泥と血に塗れている。
最後にまともな飲食を取ったのはいつだろうか――。
七日?
十日?
逃走時に荷をすべて置いてきたのが悪かった。
なんどか、僥倖にも似て、ほかの冒険者が捨てたザックを回収し、カビの生えた干し肉を口にすることができたが、それも、どれだけ食い延ばしても数日分にしかならない。
時折、這い出るトカゲのようなものを生で喰らい、岩肌から湧き出る水を舐めて生を繋いだ。
現れるモンスターも強力であり、当初は自慢のスキルである竜剣を使用し軽々と屠ってきたが、ついにはそれを使う体力も残っておらず、ひたすら逃げた。
「ふ、ふざけるなよぉ……僕は勇者さまなんだぞぉ……なんで、こんな惨めな目にィ」
レオンは使えなかった仲間たちの名を呪いながら、どことも知れぬダンジョンをさ迷い続けていた。
いま思えば、道の探索のほとんどは斥候のクロノスや盗賊のブレイグに頼りきりで、レオンはまともに現在位置を知るすべもわからない。
日が差さぬ、日時も行く先もわからぬ無限に続く回廊では闇だけが延々と続いていた。
レオンはエビルドラゴンから恐怖のあまり逃走したのち、いままで一度も冒険者が踏み入れたことがない、迷路のような隧道に完全に嵌っていた。
カチリとなにかを踏んだ音が鳴った。
「はうっ」
同時に壁から矢が発射されレオンの背中や脹脛、右脚首に刺さった。
「が、がああっ」
強烈な痛みが走る。
「お、おいいいっ。コンスタンツ、僕の分のポーション寄越せよおおおっ」
誰もいない暗闇に手を伸ばして必死に叫ぶ。
――ああ、そうか。もう誰もいないんだ。
レオンはゴツゴツした岩のある地面を這いずりながら、背中に刺さった矢を抜き取った。
ぞぶう、と肉を引き毟る音と共に、ふさがりかけていた別の傷口から膿がどろりと流れた。腐臭がするはずだがレオンの嗅覚はすでに麻痺していて、なにも感ずることができない。
栄養が偏っているせいか、歯茎から血が止まらず、痒さに頭を掻き毟ると毛が面白いように抜けた。
背中に空いていた穴と尻に無数に空いた穴から血膿がとめどなく流れる。傷口の腐敗した穴は日に日に大きくなり、穴と穴とが合体してレオンの背は真っ赤な熟れたザクロのような断面に変じていた。
「死にたくねぇ、死にたくねぇよおお」
地獄の餓鬼のようにレオンは足掻きながら闇に身体も脳も冒され、残された道は生が終わるか発狂するかの二択だった。
クロノスはソフィアを抱えて歩き出した。
体力は限界の喫水線を割っている。
数歩歩いて激しくあえぐ。
ソフィアが心配そうに覗き込んでくる。
努めて笑顔を作った。
腰の袋には残っていたエビルドラゴンのウロコの欠片が入っている。
ドラゴンのウロコは武器商が喉から手が出るくらい欲しがるものだ。
しかもトカゲのような地竜ではなく、一級のエビルドラゴンともあらば捨て値で売っても一生遊んで暮らせるほどだ。
だが、クロノスは安穏と余生を生きるつもりはない。
もう駄目だと思った道がどこまで続いていると知ったのだ。
共に歩む者を失ったと思ったが、また新しく巡り合えた。
村を出たあの日のように――。
クロノスの胸には希望が満ちていた。
どんなことだって、なんだってできる。
さあ、地上に戻ったらなにをしようか。
ダンジョンは闇に包まれていても、クロノスには希望の光が前途を明るく照らしていた。




