19:魔物使いの最期
翌日のことである。
息苦しいような気配を感じてクロノスが振り返ったときはすでに遅かった。
用心して後方を歩いていたソフィアの背に巨大なダンジョンくらげが突如として出現したのだ。
「くっ」
振り返ってクロノスが長剣を鞘から抜くよりも早くソフィアの細い首にはダンジョンくらげの触腕がするりと巻きつき、天井近くまで差し上げられてしまう。
くらげの触腕は素早くソフィアの僧衣に巻きつくと、キリキリと絞り上げる。
日ごろはダブッとした服装でわかりにくいソフィアの豊満な身体のラインが浮き彫りになる。
「おっとお、妙な真似はしなさんなよクロノス。ブレイグが戻らないってことは、考えにくいがおまえさんが妙な手を使ってやっこさんを片づけちまったってことだろ」
「おまえは、パッドウェイ」
元メンバーであった魔物使いのパッドウェイが粘つくような独特の声音で語りかけてきた。
ゾロゾロと裾を引きずる焦げ茶のローブに柿色の帽子を目深に被っている。
手には使役するモンスターを操る特殊な鞭を持っており、用心深くクロノスとは距離を取っていた。
「どんな手を使ったかは知らんが、オレはおまえを見くびったりはしない。この女、コンスタンツよりも具合が良かったのか? ああん?」
「パッドウェイ。一度だけ言うぞ。レオンのパーティーから離脱して降伏を宣言するなら命だけは助けてやる」
「アホか? こっちは人質を取っているんだぞぉ、とへへ」
パッドウェイは腰の袋を開放すると、中からグアンナと呼ばれている巨大な角を持つ牛魔獣を召喚した。
「馬鹿が。レオンだけじゃねぇ、どいつもこいつもテイマーであるオレをおまえたちは見くびってやがる。コソ泥風情のブレイグはあしらったようだが、クロノスよ。おまえがどんなスキルを得ていようと、オレのとびきりの魔獣には勝てねぇよ」
パッドウェイのスキルである調教は瀕死状態にしたモンスターを隷属させて、自由に扱うというシロモノである。
だが、ただひとつ使い方に難点があるとすれば、パッドウェイ本人はなんら戦闘力を持ち合わせておらず、強い仲間がいなければモンスターをテイムできなかった。
「オレの育てたグアンナで死にな!」
パッドウェイはなんら躊躇なく牛魔獣をけしかけてきた。
「いや、死にたくはないのだが」
クロノスは巨大な角を向けて猛進する牛魔獣を前に深くため息を吐く。
勝敗は端から決している。
必ず勝てると確信しているので、態度に余裕が出て、パッドウェイはロクに対峙する相手を観察せず魔獣をけしかけた。
――それが決定的敗因。
(おかげでこっちもなんのわだかまりもなくおまえを殺れるよ)
――刻止め。
時間停止十六秒。
巨大な時計が宙に出現し、停止した世界が動き出すまでの時間の計測を始める。
パッドウェイにしてみれば人質を取って動きを止めて、自らの中で最大戦力のグアンナを繰り出し決定的勝利を収めたつもりなのだろう。
(だが、この魔獣のことを俺はよく知っている)
捕らえた魔獣を調教して隷下に加える術を持つパッドウェイは、今までなんどもパーティーの危機を救うために大型モンスター相手にグアンナを多用してきた。
操作性、攻撃力、忠誠心、そしてためらいのなさ。
パッドウェイの用いる牛魔獣の強さは、主に突撃時に用いるその強力な角にあった。
まともに喰らえばクロノスだけではなく、スキルで身体強化を満遍なく行ったレオンですら大ダメージを受けるだろう。
――だが、こちらは刻と止めているのだ。
角で抉ろうとするグアンナの前からクロノスは移動すると、まず、ソフィアの身体を縛めているダンジョンくらげの触腕を切断した。
「ぐっ」
触腕を切ったときに触れた場所が激しく溶解液で焼かれクロノスは苦痛に顔を歪めた。
時間が止まっていてもくらげの強力な毒性は失われてはいなかったのだ。
ソフィアを安全地帯に移動させるとクロノスはダンジョンくらげの触腕を担いで全力でグアンナの前に引き据えた。
「が、がああっ」
肩口から背中に激痛が走るが拘泥している時間はない。
(思ったとおりだ。このくらげ、巨体のわりに体重はそう重くない)
これで位置関係が変わった。
すなわち突進するグアンナの前にダンジョンくらげが配置されたのだ。
「これで終わりだ」
――パッドウェイには悪夢にしか思えない光景だろう。
クロノスを貫かんと突進したグアンナの前に離れた位置でソフィアを捕らえていたダンジョンくらげが突如として出現したようにしか見えない。
パッドウェイが制止のオーダーを下す前に猛牛はダンジョンくらげの巨体に突っ込むと、その凶悪な角で抉りに抉ったのだ。
巨体を持つ二頭の怪物はそのまま勢いを殺すことなく壁際に突っ込み破壊した岩石を撒き散らした。
グアンナの絶叫が流れる。
無論、ダンジョンくらげの身体に突っ込んだことでグアンナは本能的に排出した溶解液を全身に浴び、ドロドロに崩れていった。
「な、なんで……」
勝利を確信していたパッドウェイは蒼白な表情のまま、溶解液に溶かされ半ば白い骨を見せながらもよろよろと歩くグアンナを見つめながら、酸素を求める鯉のように口をパクパクさせた。
ずずぅん、と地響きを立ててグアンナが横倒しに崩れる。
強烈な腐臭を嗅いでもなお、パッドウェイは現実に戻ることができなかった。
「パッドウェイ、確かにおまえのテイマーの実力は本物だ。だが、相手が悪かったみたいだな」
「な――馬鹿な、クロノス、おまえはオレの最強の魔獣をどうやってあんなふうに……」
「さあな。俺の手品の種はあの世に行ったブレイグと共に仲よく考えるんだな」
「ま、ままま、待ってくれ。オレは、おまえを追い出すのは反対だったんだ。な? な? オレがなにをしたよ?」
「いまさら見苦しいぜパッドウェイ。おまえはヘルマンやブレイグの尻馬に乗って散々俺をコケにしたじゃねぇか」
「ま、待って、待ってええええっ」
「おまえを斬り殺して仇を討つ。覚悟しろ」
「や、やだあああっ!」
パッドウェイは跳ねるようにその場を駆け出した。
クロノスは長剣を振りかぶると逃げ出したパッドウェイの背中に目がけて投げつけた。
長剣の刃はパッドウェイの腹まで貫いて揺れることがないくらいに地面まで食いこんだ。
クロノスは予備のナイフを引き抜くとパッドウェイの首に腕を回して喉笛に刃を当て一気に引き抜いた。
パッドウェイは大きく両眼を見開くと、ゴボゴボと血泡を吹いて絶命した。
――やったか。
「そうだ、ソフィア!」
クロノスが駆け寄るとソフィアは気絶していた。
「ああっ、どうしよ、ねえどうしよっ」
ピーチスライムのトルテがソフィアの周りをぽよんぽよん跳ねながら動揺している。
幸か不幸かクロノスが確認すると特に外傷はなく、破れているのは僧衣だけに留まっていた。
「とりあえず運ぼう。着替えはもう一着荷物の中にあったはずだ」
「クロノス、ねえ! ソフィアさまだいじょうぶよねっ?」
「心配するな。ダンジョンくらげの粘液は強烈な痺れもあるんだ」
「あんたはダイジョブなの?」
「ダンジョンくらげはまず獲物を捕らえて眠らせてから溶解液を出して消化にかかる。俺は直で消化液を喰らったから痺れはない。行動に支障はないよ」
「あ、クロノスも酷い怪我。待って、ほら、ポーションよ」
トルテはうにょーんと身体の一部を伸ばすと器用にポーションの蓋を開けてクロノスの患部に振りかけてくれた。
ギルドの回復ポーションは外傷ならば経口摂取するよりも、直接患部にふりかけたほうが効きがよい。
「ありがとな。それよりもソフィアを安全な場所に移そう」
「うんっ」
クロノスはソフィアを抱き起すと素早くその場を後にした。
テントの中でクロノスは激しい尿意を感じ目を覚ました。
傍らでは眠っているソフィアにくっついてトルテが健やか寝息を立てていた。
このあたりはだいぶ気温が低い。
羽毛のジャケットを着ていても顔を動かすたびに、テントの中の冷たい空気が動くのがわかった。
一応はランプを使っている。
持ちがいい油を使っているのは、クロノスの勘がダンジョンの最下層に近づいていると感じたからだ。
パッドウェイを斃してから三時間。
気絶したソフィアを見つかりにくい穴倉に引き入れて早めの休憩を行ったが、クロノスは目が冴えて眠れなかった。
尿意が激しく膀胱を刺激している。
うら若い女性のそばで下履きをいじることも憚られ、クロノスはそっと身を起こすとテントを出てなるべく離れた場所でおのれのものを開放した。
「うっ――とと」
思った以上に我慢していたのか、筒先から放出される液体は鋭くほとばしって岩肌に当たり跳ね返った。
「うっわ。我ながらすごい量だ。へへ」
おおどけてみても、暗い気分は晴れなかった。
昨日、魔物使いのパッドウェイを斃した。
残りは勇者レオンに、戦士ヘルマン、魔術師ゴーディー、それに弓使いのコンスタンツだ。
積極的に殺し合いをしたいわけではないが、向こうが襲いかかってくるから。
そんな言い訳をしても、かつての仲間を屠ったのは言い訳ができず、クロノスの心に深い影を落としていた。
時間操作のスキルは神の領域である。
これさえあればどのような敵に負けることもなく、レオンを斃し、自分を裏切ったコンスタンツを見返してからこそ本当の自分の人生が再び始められると思っても、異様な辛さは薄れることなく、徐々に黒々と胸の内へと澱のように溜まってゆく。
思えば――。
初めて冒険者になろうと夢を抱いて彼女と村を出たときには、はちきれそうなこれからのことだけで胸が一杯だった。
街にたどり着き、苦労して冒険者ギルドに登録して、いまのように狭いテントに泊まり身を寄せ合って寝た。
どう取り繕おうと、いまのコンスタンツは明白に他人にもので、クロノスのもとに戻ることは絶対にありえない。
状況によっては彼女をこの手にかけることもあるだろう。
かといっていまさら村には戻れない。
クロノスはこの生き方しか知らないのだ。
結果がどうであろうと、すべて受け入れ、この地を去ることになっても冒険者はやめない。
絶対に。
「未練だぜクロノス」
甘さを捨て去る。
クロノスは誰もいない闇に誓いを立てた。




