夜の箱庭に歌う
研究者たる主様は、毎夜毎夜、寂しそうに泣いている。
その瞳から涙こそ流していないものの、お酒を飲むと感傷的になってしまうのか夜の静けさが身に染みるのか、心はいつも泣いている。
たかだか使用人を晩酌に付き合わせるのだから、一人身というのがよほど寂しいのだろう。
主様の晩酌に付き合わされるようになった当初は真面目に話を聞いていた。がしかし、それが何度も何度も続いて、これまた同じ話を何度も何度も酔って寝落ちするまで聞かされる身にもなってほしい。しかも私は使用人で、主様が起きる時間よりも前から仕事があるのだ。何時に終わるかもわからない、とりとめのないお話に付き合い続けるなんて無理に決まっている。
なのでここだけの話。
私が準備する主様のお酒に時々薬を混ぜているのは、お屋敷で働いている執事と私を含めた使用人4人だけの秘密だ。知らぬは、主様一人だけ。
執事に相談した結果、時々なら薬を盛ってもいいと許可をもらった。もちろんその後のアフターケアはかかさない。副作用のない薬を使っているけれど、翌日に変調がないかとか身体に優しい食事を作るようにしている。
そして、驚くことに今のところ主様には気付かれていない。一番最初に盛った時の翌日はドキドキしたけれど、昨日はよく眠れた気がするとだけ言われ、疲れが溜まっていたんですねぇなんて言って誤魔化した。
主様は貴族だ。と言っても、一代限りの叙爵だけれど。
主様は遠い大国からおいでになった獣人で、ある目的のためにこの国にやって来たそうだ。獣人が支配するその大国との繋がりは近辺諸国では欠かせないものであり、その国からやって来たとなれば国としても何かしらの待遇で自国の評価を少しでも上げておかなければいけない。
数年に一人の割合でやって来る獣人は人間ばかりのこの国ではとても珍しく、5年前にやって来た主様が通りを歩くと誰もが注目する。ほとんどの人間は、獣人と言う存在はおとぎ話のような物語上では知っている、という認識なのだ。力を持っている大国と言えども、それほど遠い土地の種族だということでもある。
獣人の特徴について説明すると、ほぼ人間と変わらない。人間と同じ二足歩行だし、髪は生えているし服だって着るし食べ物だって変わらない。ただ身体にその獣の特徴が現れたり、昼と夜で行動の時間が違ったり、獣としての血が濃いと獣化と呼ばれる変身をすることもできるらしい。ただし獣化をするとそれまで着ていた服は見るも無残なことになるので替えの服は必須なのだとか。
主様ももちろん二足歩行であり、滅多に部屋から出ないといっても服はいつも着ているし、お風呂にも入って清潔さを保ち、私たち人間と同じ食事をして、朝に起きて夜に眠る。そして一人身が寂しくなると私を呼び出して晩酌に付き合わせる。
主様にこの国での爵位が与えられて、主様に不都合が無いように王都から少しだけ離れた場所の屋敷に住むことになった時、初めはとてもたくさんの人が雇われていたらしい。だけどそれもこの五年の間で次々といなくなり、しまいには3人だけとなってしまった。
執事として雇われ、今は主様の数少ない友人となったロビン様。3人しかいないので侍女長の役割を担い、みんなのお母さん的存在のアルマさん。自分の食い扶持は自分で稼ぐと豪語する働き者のオリヴィア。そして、半年前に新しくこの家に使わされた私が4人目となる新参者だ。
そして、4人とも貴族の出身だ。ロビン様は何の問題もなければ突出して良い所もない伯爵家ののらりくらりと過ごしてきた三男。アルマさんは歴史だけは立派な子爵家に嫁いだ裕福な男爵家の出身で、夫に先立たれ、息子を当主にした途端に義母に追い出された未亡人。オリヴィアは没落寸前の子爵家の長女だったが、意に沿わない結婚をさせられそうになった時に相手の家の犯罪を世間にばらして家から勘当された。私は国政の重役を担っている父を当主とする侯爵家の次女で、父に言われてこのお屋敷にやって来た。
地位としては私が一番高くて3人も最初はその様に接していたけれど、働く身としては私が新参者で何も知らないのだから止めてもらった。好き好んで身分を笠に着ることはしないから、このお屋敷ではそうしてもらって正解だった。
じゃないと、ちょっとした軽口を言い合えるくらいの今の関係にはなっていない。お屋敷に住み込みで働くたった4人なのだから、仲良くなって気の置けない関係になりたいと思うのは当然のことだと思っている。そのおかげで、3人とは時間を置かずに良い関係を築けていると自負している。
もう少し気取った人だと思っちゃった、とオリヴィアには言われたけど、気取る必要のないところで気取ったって得はない。
そんなわけで私は主様と直接的な接点を持ったのは初めてお屋敷に来て挨拶をした時のみで、それからはずっと3人に仕事を教えてもらっていたので、まるっと1か月は主様と会話なんてしなかった。籠りっぱなしの部屋から出てきていて廊下ですれ違った時、ほとんどないお出かけの際に見送りをする時に頭を下げるだけだった。
多分私が考えるに、主様はその1か月は私のことを認識していなかったと思う。最初に挨拶をした時もおざなりな返答をされたので、研究に夢中な主様はすぐに忘れてしまっていたに違いない。なにせお風呂は入らないし、自室兼書斎が本と書き物で埋まっても気にせず寝ることがほとんどで、食事も食堂で摂った日なんてそれまでなかった。
そんなずぼらな主様だから、獣人で国に優遇されている主様に近付きたいとお屋敷で働くことに志願した人たちは早々に去っていったそうだ。新しい使用人が来ては、主様の歯牙にもかからずに去っていく。
だから、そんな中でもあの3人が残っていたのは、ただ本当に働くためであって他には何の思惑もなかったということだ。それから、主様とも適切な距離を保って接することができている、ということ。
誰もが主様の立場を理解していて、主様が踏み込んでほしくない領域には決して踏み込まない。
主様のこの国にやって来た目的を誰もが知りつつ、3人は決してその目的についてとやかく言わない。
それはきちんと主様を仕えるべき主人として考えているから。本来の使用人とは主人の意向を第一に考え、暮らしやすいように身の回りの世話をするもの。私もその姿勢をきちんと見習って仕事をしているから、みんなとも打ち解けることができて、お屋敷に来てくれて良かったと言われるようになった。
あれは2か月目に差し掛かった頃だ。
その日、珍しく主様が食堂で食事をするとロビン様が聞いたらしく、アルマさんとオリヴィアとで豪勢な食事を用意していた。籠ることが多い主様の為に片手でも食べられるものを作っていたけれど、『食事の作法を思い出してもらうためです』と悪い顔をしたロビン様が提案されたことだった。
久しぶりに見た主様は食事前の入浴によって小綺麗にはなっていたけれど、顔色はとても悪くて人相がとてつもなく悪かった。
へびの獣人である主様の右頬にはうろこが一部見えていて、主様は確かに獣人なのだと食事の用意をしながら改めて思った。
『・・・誰だ?』
実のところ主様の前に料理を持っていった時からこれは誰だという視線を浴びていたのだけれど私は総無視しており、他の3人も知らない振りを決め込んでいた。ロビン様なんか笑いを堪えきれずに咳で誤魔化していた。
『1か月前からこちらで働いております。ドゥルイット侯爵家のルイーズでございます』
『そうか』
そこで、主様は私の存在と名前を認知した。
ロビン様もアルマさんもオリヴィアもそう言っていたから間違いない。それから主様は通りすがりに私がいた時は、名前を呼んで用事を言いつけてくれるようになった。
3か月目に差し掛かった頃。
珍しく王宮からの客人が来られた日の夜、食堂で主様から報告があった。ある伯爵家の長女で、世間を知るためにこのお屋敷に来るのだと。みなまで聞かなくても、主様の縁談相手として来るのだと全員が悟った。
主様は淡々としながらも面倒くささを隠そうとはせず、それは主様が望まないものだということもすぐにわかった。あとでロビン様に聞くと、そこの伯爵家当主とは懇意しているそうで当主からは世間を知らせてやってくれと逆に頼まれたらしい。獣人に抱いている娘の
夢をぶち壊して現実を知ってほしいという親心だそうだ。
そうしてやってきた伯爵家の娘は、初日からやらかした。
なんと主様のお怒りを挨拶の時から買ってしまったのである。
私たち使用人に挨拶をするその態度から何か一波乱ありそうだと、アルマさんとオリヴィアと話していたけれど、その早業にはその場にいた全員が呆然とした。
名前も忘れたその娘は、主様の逆鱗に触れたのだ。
『お前が番かなどと確かめなくてもわかる!!出ていけ!その足りない脳で二度と私の前に現れるな!!』
察しの通り、今まで獣人に夢を見ていた純粋無垢で自分勝手な乙女は泣き喚いて主様の傷をしっかり抉ってから去っていった。後日、伯爵家当主から謝罪とお礼が届いた。
それからの主様は傍から見てもいられないくらいに落ち込んでいた。ロビン様は特に同い年で結婚適齢期なのに相手がいないという点が一緒なので、主様へいたわりはいつもよりも優しかった。
『大丈夫です!この国にいることはわかってるんですから、いずれ見つかりますよ!!』
でも五年も経ってるんだからこのまま待っていても難しいのでは?、というのが女性3人の意見でもある。
番、という存在が獣人にはいる。
番は獣人の唯一無二の存在で、本能で惹かれ合う相手だそうだ。
獣人の誰もが出会えるとは限らない。
けれど彼らは番に憧れ、番と出会えた者たちの幸福を知り、自身も番を得たいと心の底から願うのだそうだ。例え番がどれだけ遠い土地にいてどんな種族であったとしても、番という唯一無二の存在を得たいと渇望するのだと言う。
主様も同じように番を得るためにこの国にやって来た。なんとなく本能に惹かれるままにきっとこの国にいるような気がする、そんな曖昧な理由で。
何故そんな曖昧な理由かと言うと、ここで主様の獣人としての特徴が邪魔しているからだ。
本能で惹かれると言っても、もしそれが獣人同士ならば互いに鋭い感覚を持っているから会えばわかるけれど物理的距離が離れていればその分だけ感覚は薄くなる。こっちにいるかもしれない、という手探り状態になってしまう。そして、もしそれが嗅覚の鋭い獣人や聴覚の鋭い獣人ならば近づくほど見つけやすいが、主様は違った。
主様はへびの獣人だ。主様いわく、へびは味覚も劣っているし聴覚も人間と同じ聞こえ方しかしない、が嗅覚は舌で確認すればその鋭さを発揮する。
つまり、主様がこれが番だと確証を得るためには相手の身体に舌を這わせて、番独特の匂いを確認しなければならないのである。
ということを私は全て主様から聞いた。
伯爵家の娘が嵐のようにやって来て去ったその日の夜、厨房で翌日の仕込みをしていた私は既に酒に呑まれていた主様の晩酌に強引に付き合わされ聞かされた。
初めて入った主様の寝室にはすでにロビン様が酒瓶片手に眠っていた。部屋中にお酒の匂いが充満していたけれど、主人の憂さ晴らしに付き合うのも使用人の役目と割り切って、主様のグラスには途中から水を注いだ。案の定、主様は最後までそれが水だとは気づかなかった。
『僕は、触れるなら番とだけがいいんだ・・・』
夜が白み始める頃に主様も酒瓶片手に力尽きてしまったので、ロビン様は放っておいて主様だけは身支度を整えてから寝台に苦労して移した。
日をまたいだその日の主様はずっと寝室に閉じこもり、次の日は少しやつれながらもみんなの前に顔を出した。
それからである。
私が主様の晩酌に付き合わされるようになったのは。
『主様はずっと王都にいらっしゃいますけど番様を探しに出かけようとは思わないのですか?』
『いや・・・ここらへんだと思うんだ。絶対、近くにいる気がする』
『主様は日々研究しておりますがどのような研究をしているのですが?』
『うーん・・・王子たちの補佐と番を迎えるための準備かなぁ』
『主様が番様に焦がれているのはわかりました。ちなみにこれで50回目です。いい加減にしてください』
『僕の、僕だけの番に早く会いたい・・・どうして出会えないんだろう』
『ヘタレな主様。私そろそろ休みたいのですが』
『早く・・・早く僕だけの・・・』
『主様、そんなんだから一生番に出会えずに寂しい一人身を過ごすんですよ』
『うわあぁぁ!!あんな女と同じことを言うのは止めろ!!』
『小心者の主様、いつまでも夢見る子供のままでいられては困ります』
『・・・・・・どうしてルイーズはいつも厳しいんだ?』
主様がこの国にやって来た当初、馬鹿正直に番を探しに来たのだと言ったせいで国中から繋がりを持ちたいと思惑を持った貴族から娘たちをあてがわれ、意味のない争いがお屋敷の中で繰り広げられていたことは知っていた。そして、積極的な令嬢に襲われそうになり、それがトラウマになっていることも。
だから未だに主様は番と出会えていない。この国に来て5年、近くにいるとわかっているのに出会えていない。そんなもどかしい想いを抱えて5年、主様の想いは日に日に増していく。
幸せな結末ばかりではない番のお話には、唯一無二の番への愛情深さ故に悲惨な末路を辿るお話もある。
主様の未だ見ぬ番への想いがどのように転ぶのか。
私たち使用人は時に主様をあしらいながらも、主様に幸せになってほしいからこそ案じているのだ。
そんなこんなで今日も主様の晩酌に私は付き合ってあげている。
この国では16歳で男女共に成人とみなされるので、17歳の私がどんなにお酒を飲んでも法律に違反することはない。お酒は美味しい。
「ルイーズはさ、」
「はい」
「見かけによらず酒豪だよね」
「心外ですね。主様のお相手を務めるのですから度数の低いものを選んで飲んでいるだけです」
「ええ!?そんなのおいしいの?」
「私にとっては美味しいので何の問題もありません」
主様は味覚が鈍いから、お酒の苦みや甘みはほとんど感じない。なのにアルコールだけは毎回毎回丁寧に摂取するのだから参ってしまう。いつも長椅子に向かい合って飲んでいるので、主様が寝てしまうと寝台に連れて行かなければいけないのは私なのだ。
一応貴族令嬢でもある私を気遣って最初はロビン様も同席していたけれど、お酒が入ると眠ってしまうという酒癖の悪さから私から遠慮した。これに関しては主様もロビン様もアルマさんも渋っていたけれど、私もある程度の護身術は使えるし、何より番だけを求めている主様を相手に何かが起きることはないと断言して以降は私と主様だけの時間になった。
私が主様を襲わないと、決して有り得ないけれど、それが不安だとみんなから言われなかったのはそんなことはしないという信頼がこの半年が築かれたのだと思うとそれが嬉しかった。
「いつも気になっていたんだけどルイーズはどんなお酒を飲んでるの?」
「ほとんどフルーツ系のお酒です。ちなみに今日はワイルドストロベリーの果実酒です」
透明なグラスに注がれる赤い果実酒を主様はじっくり眺めている。
「赤いなあ」
「赤い実ですから赤いお酒になります」
主様は優しい方で、晩酌が日課になってから私が好きなお酒を仕入れていいと許可してくださった。
なので常時20種類のお酒を用意し、それを時々お菓子にも入れて有効活用している。ただ飲むだけではないのだとロビン様を説得させるために。
「それ、僕も飲んでみよう」
「お口に合うかどうか」
「いいよ。どうせ味覚よりも匂いだから、甘そうな匂いがするなあ」
もうほろ酔いの主様が本格的に酔っぱらうのも時間の問題だ。ここ連日ずっと主様の晩酌に付き合わされているので、今日はしっかりと薬を盛っている。それが完全に効くまでにできれば寝台に移したいけれど、今回はどうやって移ってもらおうか。
飲みかけのグラスを口に運ぼうとしたら、真正面から突然現れた大きな手がそれをさっと奪ってしまった。
あっ、と思った時にはもう遅い。
「・・・すごい甘い匂いだね」
「砂糖も入っていますし、果実本来の甘みもあります。柑橘系のお酒以外はみんなそうですよ」
「そうなんだ?」
そこで匂いは感知できないくせに鼻でも匂いを嗅ごうとして失敗し、二股に分かれている舌をするりと出してちゅるっと舐めた。
「・・・うん」
「そんな曖昧な顔をされるならもう返してください。私のお酒ですよ」
「僕さ、この前祖国から取り寄せた古い本の呪いをしたんだ」
うわ、始まった。
ほんの少しだけ熱に浮かされたような声がして顔が変わりそうになるけど、それをそっと心に押しとどめ、主様には慈しみの表情をして頷いた。
案の定、長椅子にだらんと背をかけた主様は目元を赤くしてふにゃりと笑んだ。
「やっぱり僕の番は王都にいるんだ。僕の、僕だけの番が!」
「まあ、そうなんですね」
「僕もそれはわかっているんだ!空気に交じる番の匂いが!なのに、どこかおかしいんだ・・・どうしてなんだろう・・・」
「おかしいとは何がです?」
「彼女の匂いが強くなったり弱くなったりするんだ。弱い時なんて全く匂いがしない時もある。もしかしたら僕の番はどこかに囚われているのかもしれない」
「そうだと考えるならどうして助けに行かないのですか?主様の、唯一無二の番様なのでしょう?」
「・・・だって、僕は」
次第に曇っていく主様の顔がついに暗く陰り、顔の半分を黒いうろこが覆う。
感情が高ぶると主様の顔がへびそのものに近付いていくのは、あの伯爵家令嬢事件があった時に気付いた。突如響いた怒号に驚き、すれ違う令嬢を放って主様の部屋に行くと顔を両手で覆い、床に膝をついていた。
その時、指の隙間から覗く目と目が合い、そして顔も手もへびのうろこが浮きだっていた。
主様はいつだって怯えているのだ
「僕はへびの獣人だから」
主様が望む、唯一無二の番に。
誰しもがそうであるように、獣人の国では当たり前のことでも人間の国ではそうでないことが多々ある。文化の違い、体格、力の強さ、獣人それぞれの特徴、想いの強さ。
主様は夢見る子供のまま、外の国へと旅立った。
自分だけの番に会いたい。
ただそれだけの願いのために、その願いが小心者の主様の心を強くしていた。
けれど主様は間もなく現実と向き合うことになる。
獣人の国では当たり前だった自分の容姿が、人間にとっては歪で気持ち悪い姿になることを知ってしまった。おとぎ話の中での獣人しか知らない、あるいは獣人という存在すら知らない者たちによって主様は様々な迫害を受けた。この国にやって来る頃には、主様はすっかり陰鬱な青年になって心が疲れていて、それでも鈍さばかりの感覚の中で掴み取った番の匂いだけを頼りに希望を持っていた。
そして、主様はさらに現実を直視させられることになった。この国が獣人の存在を知っていて、初めから待遇を受けられるのは良かった。けれど、番を求めてやってきたことを公にしてしまい終いには叙爵されたばかりに、その懐に野心家な貴族たちが付け入る隙を与えてしまった。
そうして主様の更なる苦痛の日々が続いた。主様のお世話をするためと息子や娘を送り、息子には主様の信用を得て獣人の国という大国との縁を、娘には番になって子を作り国の優遇を得続けようと画策した。
隠しきれない嫌悪を覗かせながら、擦り寄って来る貴族たちに主様は人間不信を募らせていった。そんな中でも数少ない友人ができたのは、その人たちが主様を特別扱いしないからだ。今、お屋敷で働いている3人もへびの獣人だからと怖がったり、優遇を受けているからと言ってご機嫌伺いなんてしない。
主様の見た目から早々に家に帰った者、尽くしているのに見返しをくれないと憤る者、獣人に仕えられるかと見下すプライドの高い者、見切りをつけて去る者・・・いろんな人間がいる中で主様が一番耐えられなかったのは色仕掛けで迫った者たちだ。
主様はへびの獣人で、その舌で匂いを嗅ぎ取り、番かどうかを判断する。
しかし、貴族の女性たちにとってその行為は既成事実と同じことでもある。一度でもそうした行為をすれば、強かな者たちは傷物にされたと騒ぎ出しかねない。
あるいは恋を仕掛けた者たちもいる。獣人だって恋をする。番と出会えなかった獣人は、恋を成就させて一生を終える。番を探している主様に恋を仕掛け、まんまと獣人の妻という稀有な存在になろうとした。その瞳には嫌悪を隠して。
もう一度言おう。
主様は純粋で臆病な心の持ち主だ。こと、番に関しては。
未だ見ぬ番に夢を抱きつつ、もし番が人間ならば自分の見た目を気持ち悪がって拒絶するのではないか、それともあの女性たちのように嫌悪を隠しながらも自分の付加価値だけを見て言い寄って来るのだろうか。
ただ純粋に愛し愛されたいだけなのに。
だから主様は早く番に会いたいと泣きつつも、その臆病さから決して自ら番を探そうとはしない。お屋敷に籠って、未だ出会えぬ番の行方を呪いで探しつつ、番と出会えた獣人の話をなぞっては自分が無事に番と出会えたらと夢に夢を重ねる。
そうしてこんなに遠くの国にまでやって来て、近くにいるだろうことはわかっているくせに、無駄に時間を過ごしている。
なので私は正直に主様を、臆病者と呼んでいる。
「ぼく、の・・・・・」
いつの間にかグラスの中身を飲み干した主様は、アルコールが効いたのかそれとも薬が効いたのか、うとうとと少し体が揺れ始めて身体の力が抜けつつある。
手から滑り落ちそうなグラスを受け取り、私は主様が寝そべる長椅子に近付いて顔を寄せた。
「主様、寝台に移ってください。こちらで眠られては困ります」
「んー・・・る、いーず?」
元々細い目がさらに細められていく。
完全に酔っぱらっている証拠だ。早く寝台に移そう。
「主様、お願いです。私のお願い、聞いてくださるでしょう?」
「・・・うん」
優しく手を引いて、私よりもずっと背の高い主様をゆっくりと寝台に連れて行く。
ぽんと軽く押せば寝そべってくれるので、後は少しだけ服を緩ませて寝やすいようにしておけば問題はない。へびは変温動物だから、主様の身体も多少の温度変化には対応できる。
これで仕事は終了だと思い、下ろしていた腰を寝台から上げると、何故か薄目を開けている主様に手を引かれた。
普段はうろこと同じ茶色に近い緑が赤く染まっていて、見下ろすような格好になってしまって主様と目が合った。
「主様?」
「るいーずが、つがいなら・・・いいのに」
主様は次の瞬間には完全に意識を飛ばしていた。
思わず腕を掴まれた手を振り払い、完全に眠りについた主様から距離を取る。
「・・・貴方が私を拒絶したくせに」
自分の口からでた声なのに、とても冷たくて一切の感情もこもっていないその音に思わず嗤ってしまった。
貴方が私を拒絶した。私の夢を壊した。
だから、貴方はずっと苦しめばいい。
『挨拶は不要だ。貴族の女も僕の番に成り代わろうとする人間も要らない。それでもここにいたければ一生使用人として働け。さっさと僕の前から消えろ』
お屋敷に来て、みんなの歓迎してなさそうな雰囲気を感じながらロビン様に案内されて主様に挨拶をした時、主様が私に言い放った言葉だ。
いつまでも夢見る少女ではいられないと理解して、ならば一生使用人として仕えようと決意した。
主様はへびの獣人。嗅覚は舌。
舐めて確かめなければ、私が主様の番だと気付かれることはない。
あれは8歳の頃だったか。
姉との確執をなんとなく理解できるようになったある日、ある獣人の番の会ったことがある。
その人はとてもとても愛されていた。人目も憚らず、ただ一途に、互いだけしかみえていないその姿は、私が幼い頃から憧れていたおとぎ話の獣人の恋人たちと同じ姿だった。
私は昔からおとぎ話が大好きで、毎日毎日飽きるほどおとぎ話を繰り返し読んでは憧れていた。
唯一無二の番と出会えた獣人とやっと探して巡り合えた番が幸せな恋人になることに。
次期侯爵当主である姉と誓約を交わし、私は侯爵家の身分を捨ててこのお屋敷にやって来た。
主様に言われなくても私には帰る場所がないからずっとこのお屋敷で働く他ない。市井に出ることを考えたこともあるけれど、ロビン様から聞いた雇用条件がとても良く、安全面においても市井よりこのお屋敷の方が安全だ。獣人に怯えて、強盗に入ろうなどと考える者は少ない。
小さな頃から憧れていたおとぎ話のような獣人の恋人たちに会ったことで私は憧れを強くして、自分が誰かの番だと知って、私も彼女たちのような関係になるのだと信じて疑わなかった。
それを、最初から私を見ることもなく背中越しに嫌悪と蔑みの言葉を吐かれて、成人になるまではと待って待った挙げ句焦がれて止まなかった番のはずの相手に拒絶される番の絶望なんて、あの時の私の絶望を主様はわからない。
だから、ずっと苦しめばいい。
番が近くにいると知りながら、焦がれてやまない番と出会えない苦しみを。
「ルイーズ」
「はい、何でしょう?」
翌日、偶然廊下ですれ違った主様から呼び止められた。
目が一度会いながらも視線をうろうろとさ迷わせるのは主様の癖で、これは恥ずかしがったり申し訳なさそうな時にする表情だ。ちなみに凛々しい獣人を想像していた貴族の女性からは挙動不審に見られて、気持ち悪いと嘲笑られる原因の一つでもある。
こんなにもかわいい仕草を見ることができるのは、晩酌に付き合って寝るところまで世話した翌日の私の特権だ。
「昨日はありがと」
「いいえ、いつものことですから」
「うん・・・本当、いつもありがとう。ルイーズといるとなんだか楽しくて、時間を忘れて飲んじゃうんだよね」
「そうですか。私もただ酒を飲むことができて嬉しいです」
「そ、そう・・・。ところで、ルイーズの部屋からなんだか異臭がするんだけど・・・あれなに?」
するりと二股に分かれた舌で、主様は部屋から漏れ出た空気を嗅ぎ取ったらしい。
変態ぽいなと思いながら、今朝起きてからの自分の行動を思い出してみて思い当たることに気付いた。
「あ、きっと柑橘系のルームフレグランスをかけたからでしょう。この前市井に出た時に気に入って買ったのです。忘れていたのですが今朝急に思い立って、気分転換に開けたのできっとそれだと思います。というか異臭だなんて失礼ですね。とてもいい匂いじゃないですか」
「ええー・・・僕は、なんか嫌いっていうかあまり近寄りたくないな」
「あら、でも主様はまさか使用人の部屋に夜這いに行こうだなんて思わないでしょう?」
「思うわけないだろ!」
純情な主様は真っ赤になって叫んだ。
何事かと驚いたロビン様が部屋から現れて、私が主様をからかっている様子を見て安堵し、また部屋に入っていった。これが日常茶飯事の光景で、主様と使用人との距離感だから何の問題もない。
「ならばいいでしょう?私に与えられた部屋ですもの。私がどのようにコーディネートしようと自由ですよ。先月の雇用条件の更新でもロビン様から許可は取っております」
「・・・・・・」
「仕事がありますので失礼いたします」
よっぽど嫌な匂いだっただろう。
主様は微妙な顔をしつつも、それが雇用条件に入っていることを知って納得したのだろう。
「ルイーズ」
後ろから呼び止められて振り向くと、主様はどこか悲しそうな顔をしていた。
「もしかして、僕のこと嫌い?」
意外な問いかけにすぐに有り得ないと思った私が声を上げて笑うと主様がむっとしたので、咳で誤魔化してきちんと居住まいを正して答えた。
「いいえ、まさか。誤解の無いように言っておきますが、主様のことは雇用主としてお慕い申し上げております。ただ・・・ちょっと私生活がだらしない点がマイナスポイントかと」
「なんだかわかるけどちょっと傷ついた」
「心中お察しいたします」
「ねぇルイーズ?僕は君の言葉で傷ついたんだけど?」
「わたくしもロビン様もアルマさんもオリヴィアも不摂生な生活を続ける主様の健康を憂いておりますわ」
拗ねてしまった主様に、私はこれ見よがしに憂いてみせる。
そうして互いに顔を見合わせ、少しだけおかしくなって笑い合った。
こうして今日も、主様の番は見つからない。
柑橘系・・・レモンの匂いはへびにとって苦手な部類に入るそうです。
読んでいただき、ありがとうございます。