街の外では
白神教会聖騎士団七番隊隊長イグナス・せプテンズは特別な出自を持たない。
生まれは白神教会の総本山であるクルセリア近郊の農村。両親もただの農民であり、数世代遡っても目立った活躍をした人物など一人も見られないような平凡な生まれである。
そんな生まれや血筋に特別な物はないイグナスが聖騎士団の隊長になるまでには紆余曲折があり、それは一言で言えるものではないが、イグナスがその地位にまで昇りつめた要因は一言で説明できる。
その要因とは愚直であること。その生き方がイグナスを聖騎士の隊長にまでさせた。
特別な物を何も持たない人間であるイグナスが唯一持つ才能は諦めずに信じた道を突き進み続ける愚直さだけであり、その愚直さがただの農民の少年を精鋭が揃う聖騎士の中でも屈指の実力者へと成長させた。
鍛錬すれば強くなるという。
それはイグナスが幼年期に会ったとある聖騎士から聞いた言葉。
子供相手だとしても適当に答えたとしか思えないような、そんな言葉を受けてイグナスはひたすらに鍛錬を続けた。そして一瞬も疑わずに己を鍛え上げ続けて、イグナスは今の地位にある。
「……強いな」
イグナスと対峙してゼルティウスは呟く。
剣を構えて立つと目の前の相手の強さが良く分かる。身の丈ほどの大剣を両手で持ち正眼に構えるイグナスを見て、ゼルティウスはその実力を見抜いていた。
イグナスの強さは奇をてらわない強さだ。徹底的に基礎を積み重ね磨き上げている。そうして完成された強さというのはちょっとしたことでは揺るがない。基本的な能力の高さで大抵のことは解決できるからだ。
「そちらも強い」
大剣を構えるイグナスは目の前の相手の呟きを聞き逃さなかった。そして返した言葉は世辞ではなく本音である。
両手で正眼に構えるイグナスに対してゼルティウスは右手に持った長剣の切っ先を下げた下段の構えを取っている。普段であればイグナスは相手の構えなど考えずに自分の剣を打ち込むのだが、今はどういうわけか体が前に出なかった。
自分の本能が危険を伝えているなどと分かるほどイグナスは知恵のある人間ではない。だが、嫌な予感だけは確かに感じていた。
「む……」
どうにも嫌な感覚を覚えてイグナスは構えを変える。
大剣を顔の横に構える所謂、八相の構えを取るイグナス。すると、イグナスは僅かに気持ちが落ち着くのだった。
「ふむ」
イグナスが構えを変えたのに合わせてゼルティウスも構えを変える。
同じように八相の構えを取るとイグナスは露骨に顔をしかめ、ゼルティウスとの距離を半歩分だけ詰める。
その動きを受けて、ゼルティウスは剣を八相から正眼に構えなおす。
「ぐぬ……」
イグナスは嫌そうな顔を浮かべて剣を上段に構えると、ゼルティウスを中心に一定の距離を保ちながら円の軌道を描くように右に数歩動く。
自分の周囲を回るような動きを見せるイグナスに対してゼルティウスはその場から動かず、体の向きと切っ先だけをイグナスの方に向け続ける。
「むむ……」
イグナスの表情は変わらず適切な位置を探すように動き、そしてここと決めた場所に立ち止まるとイグナスは大剣の切っ先を下げて下段に構えを取り、一歩だけ前に出てゼルティウスを見据え、そんなイグナスに対してゼルティウスは無言で剣を片手で下段に構える。
それを見たイグナスが即座に大剣を上段に構え、しかし、すぐさま正眼に構えなおし、後ろに二歩下がると、慌てて半歩だけ足を前に出して位置を修正する。
ここまで一度も刃を交わしていないのにイグナスの顔には汗が浮かんでいる。
それを見た副隊長以下、七番隊の聖騎士達が首を傾げる。
「何やってんだ! 真面目にやれ!」
副隊長がイグナスに向かって叫ぶが、イグナスは摺り足でゼルティウス距離を調整することしかできない。
その様子を見ても副隊長以下、七番隊の聖騎士はイグナスがふざけているだけだと思っていた。それは彼らに見る目が無いわけではなく、イグナスの普段の実力を知っているが故のものであり、イグナスが戦いで後れを取るはずが無いという思いこみによるものでもあった。
「……すまん、これは無理だ」
しかし、信頼を向ける七番隊の面々の前でイグナスは武器を下ろし、戦いの構えを解く。
「こちにはちょっと敵わない」
七番隊の面々に向かってイグナスはそう告げて、ゼルティウスに対しての敗北を認める。
だが、そう言われても見守っていた聖騎士達は納得できない。一度も剣を振っていないのに負けるなんてありえないだろうと叫びそうになるが、聖騎士達が口を開くより先に対峙していたゼルティウスがイグナスに訊ねる。
「何手読めた?」
「三手で死んだ」
戦っていた二人にしか通じない言葉のやり取り。
ゼルティウスとイグナスの会話は傍からすれば理解不能であったが、ゼルティウスはイグナスの回答に満足したように頷く。
「いい腕だ。時間があれば、俺が稽古をつけてやりたいくらいだな」
「そうか? 褒めてくれて嬉しい。アンタ良い奴だな」
ゼルティウスとイグナスの間で通じ合う物があったのか、二人の間に弛緩した空気が流れる。
ついさっきまで剣を構えて向き合っていた殺伐とした雰囲気は消え去っていた。
「いや、駄目だろ! アンタがそいつを倒さねぇと、自分達が街に入れねぇんだよ! そいつが行く手を塞いでるって分かってんのか?」
ゼルティウスとイグナスの間の空気は和やかだったが、副隊長以下の七番隊の聖騎士は先程から一歩も前に進めずにいた。
イグナスと向き合っている際もゼルティウスが放つ殺気は七番隊の聖騎士を捉えており、殺気に当てられた聖騎士達は、イグナスと対峙している状況であっても一歩でも踏み込めばゼルティウスに斬り捨てられるという予感を抱き、その恐れから一歩も動けずにいたのだった。
「とりあえず、もう少し本気で戦え! 隙を作ればこちらはこちらで突破する!」
ゼルティウスとイグナスから少し離れたところで叫ぶ副隊長。
その指示を聞いたイグナスはこめかみを指で掻き、肩を竦める。
「いや、でも戦ったら絶対死ぬし、ちょっと嫌だ」
イグナスの声が聞こえた副隊長たちはそんなわけはないだろうと言い返そうとするが、続けて聞かされたイグナスの言葉を聞いて黙るしかなくなる。
「攻撃したら、お互いの行動を合わせて三回くらいで俺が殺されると思ったから、間合いとか構えを変えて何とかしようと思ったんだが、どんなに工夫しようとしても三回で殺されるイメージが消えなくてな。これはちょっと無理だと思った」
達人同士は刃を交えずとも相手の力量が分かり、刃を交わす前に結果が見えるという。
ゼルティウスとイグナスの対峙した際に、まさにそれと同じことが起こっていた。
イグナスはどれだけ考えてもゼルティウスに勝つイメージが湧かなかった。構えや間合いを修正し、様々な攻撃パターンを考えても、ゼルティウスには軽々防がれ、逆に自分は簡単に斬り伏せられる。
構えや間合いを修正して、かろうじて耐えられる展開が予測できてもゼルティウスが構えを変えた瞬間にその予測は自分が斬り伏せられるものに変わる。それを繰り返した結果イグナスの出した結論はゼルティウスに敵わないというものだった。
「だからって、そのままってわけにはいかないだろうが」
その強さに絶対の信頼を置く存在の敗北宣言に副隊長の声の調子も弱まる。
イグナスが敵わないのでは七番隊の聖騎士は誰もゼルティウスには敵わない。
そのことを理解している副隊長だが、教会の方針には逆らえず、フェルムの街に進軍しなければいけないという事情もある。だが、イグナスが勝てない相手に突撃をしかけるわけにも……
「だが、こいつと戦ったら、俺も死ぬしお前らも死ぬぞ」
それは困るだろう?
そう訊ねるイグナスの言葉に聖騎士達は全員がなんとも言えない表情を浮かべる。
聖騎士としては命を賭して教会の命令に従うべきと答えるべきだが、七番隊などという聖騎士の最底辺にいる者たちは教会に対して命を賭けてまで仕えるような義理はないと考える者が大半だった。
「それでも良いなら、俺ももうちょっと頑張るが」
イグナスは大剣を再び構えるが誰が見ても戦意は不十分なのは明らかだった。
呆れたようにゼルティウスも応じて長剣を構える。
「状況に流されて剣を振るうのはあまり褒められないな」
「俺が戦わないと困る奴もいるし、それは仕方ないことだ」
イグナスは体を捻り、大剣を振りかぶるよう後ろに構える。
その構えは全身を使った渾身の一撃を放つための物であると簡単に予測できる。
「まぁ結局、余計なことを考えても仕方ない。俺ができることは限られているからな」
そう言った直後イグナスが動く。
予測されていようが構わない。自分にできることは剣を振ることだけである以上、それを貫くしかない。
そんな思いを込めて放たれた大剣は全身の力を使った横薙ぎの一撃。
防御など何も考えずに放たれたフルスイングの一撃は膨大な魔力を帯び、そのまま放てば城壁すら吹き飛ばす威力を有する。
魔力や闘気を自身の肉体強化にのみ用いるイグナスの攻撃はただの斬撃であっても絶大な威力を持つ。だが、そんな一撃をゼルティウスは右手に持った剣を振り上げ、簡単に撥ね上げる。
地面に対して水平の軌道で放たれたイグナスの攻撃は下からのゼルティウスの剣を受けて、軌道を変えさせられる。しかし、そうして真上に撥ね上げられた大剣をイグナスは攻撃を続けようとそのまま振り下ろす。
しかし、振り下ろそうとした瞬間、イグナスは懐に飛び込んできたゼルティウスの肩からぶつかる体当たりで体勢を崩される。そして体勢が崩れると同時にゼルティウスは体当たりから続けざまに、長剣を体に巻き付けるようにして最小限の振りでゼロ距離から斬り上げる。
これでゼルティウスは三手。剣を振り上げての防御、体当たりによる崩し、斬り上げの攻撃の三手、イグナスの予測ではこれで仕留められているはずだったが──
「何とかなるもんだ」
斬り上げが放たれると同時にイグナスは後ろに跳んで回避していた。
「だが、次はどうする?」
しかし、ゼルティウスはそれすらも読んでおり、既に距離を詰めていた。
一瞬で間合いを詰めるとゼルティウスは右手に持った剣をイグナスの右側頭部に目掛けて叩き込もうとする。
咄嗟に大剣を壁にするようにして防御の姿勢を取りイグナスはその一撃を防ぐ。大剣を通して手に衝撃が伝わるが、それが伝わると同時にイグナスは大剣を振ってゼルティウスの剣を弾く。そして、即座に大剣を振りかぶり、全力で振り下ろす。
イグナスの全力で放たれた斬撃は衝撃波を生み出し、ゼルティウスの背後にあったフェルムの城壁に直撃すると衝撃波だけで壁が削れて吹き飛ぶ。
「なかなか良いな」
絶大な威力の一撃、しかし、そんな攻撃も当たらなければ意味は無い。
ゼルティウスはイグナスの渾身の一撃を容易く躱し、平然とした様子で立っていた。
「この一瞬でも成長が感じられる。そういう相手は理想的だ」
三手で仕留められる相手であったはずだが、三手以上を持ちこたえている。それは成長に他ならない。
「ならば、これはどうだ?」
成長する相手ならば、もっと成長させたい。
それが剣士として目の前の相手の遥か先を歩んでいると自負するゼルティウスの親心だ。
ゼルティウスはイグナスの成長を促すため、新たな技を見せることにする。
「真陽流──天位剣」
それは、こことは別の世界でゼルティウスが学んだ剣術流派の技の一つ。
足を肩幅に開き、天に向かって腕を真っ直ぐ伸ばしゼルティウスは立つ。手に持った長剣の切っ先は天を衝くように真上を向いていた。
その構えからでは剣は振り下ろす以外の攻撃は出来ない。なので、攻撃を読むことは容易く、仕掛けやすいはずだが、イグナスは動けない。
イグナスは大量の汗を浮かべ、その表情は強張っている。傍から見ればゼルティウスの構えは隙だらけであるが、対峙するイグナスは一歩も動けなくなっていた。
「すまん、それは無理だ」
イグナスにはゼルティウスの技の細かい理屈などは分からない。だが、ゼルティウスの技が意味する所は分かる。それは分かっていても絶対に防げない剣だ。
振り下ろすことしかできない構え。だが、そうやって他の行動を制限することで、たった一つの動作に全ての力を注ぎこみ、肉体の動きを最適化、そして必殺の一撃を放つのだろうとイグナスは推測する。
もっとも、実際のイグナスの思考内では全く言語化されておらず、漠然としたイメージでしかないが。
「だが、術理は理解できただろう」
それで充分だとゼルティウスは剣を下ろし、ゼルティウスが刃を収めたのに釣られてイグナスを剣を下ろす。気持ちの上ではイグナスはゼルティウスに敗北しており、ゼルティウスもそれを理解しているから刃を収めることに抵抗は無い。
敗北を認める相手へ必要以上に剣を向けることをゼルティウスは好まなかった。
「やはり時間があればな。もう少し稽古をつけてやれるんだが……」
そう言うとゼルティウスは長剣を鞘に収めて、イグナスと聖騎士達にフェルムへ向かう道を譲る。
どういうことだと、聖騎士達が疑問の表情を浮かべると、ゼルティウスは肩を竦め、その疑問に答える。
「言っただろう? 時間が無いと」
ゼルティウスがそう言った瞬間、地面が大きく揺れる。
突然の地震に何事かと目を白黒させる聖騎士達の視線の先、城壁に囲まれたフェルムの街から巨大な何かがせり出してくるのを聖騎士達は自分の目で見る。例えそれが信じがたいようなものであっても、自分の目で見てしまった以上、疑うことはできない。
聖騎士達の視線の先にあるフェルムに城壁より高く、見上げるほどに巨大な魔物が現れていたとしてもだ。
「あんなものが出るとは聞いていないんだがな」
ゼルティウスは地面を突き破って現れたであろう魔物を市外から眺めながら呟く。
何かがあるとゼルティウスは予測していたが、それが神の気配を発する存在などとはアッシュからは聞いていない。
「さて、どうする?」
ゼルティウスは呆然とした表情で巨大な魔物を見つめるイグナスたちに訊ねる。
「お前らが優先するべきなのは、あの魔物を倒すことか、それとも街を滅ぼすことなのか、さぁどちらだ?」
どちらを選んでも結果は大して変わらないだろうと思いながら訊ねるゼルティウスに対して、イグナスの答えは──