囚われのリィナ
フェルムの街中で冒険者と魔物の戦いが繰り広げられていた頃、囚われのリィナはクローネ大聖堂の地下で拘束されていた。
両手足を魔術で作った石の手錠で拘束され、埃まみれの床に転がされるリィナ。見た限りでは拘束されていること以外に危害を加えられている様子は無い。
リィナが意識を取り戻したのはついさっきのこと、目が覚めると同時に状況を理解したリィナは自分のそばに立つメレンディスを睨みつける。
「おや、起きましたか」
メレンディスはリィナの方に顔を向けることも無く、リィナの様子に気付く。
何処に目が付いている? リィナはメレンディスの感知能力に対して疑問を抱く。
戦いの最中もメレンディスはずっと目を閉じていたが、メレンディスの周囲に対する感知能力は極めて高く、どのような方向から攻めてもリィナの攻撃は見切られ、回避されていた。
感知能力もそうだが、メレンディスの身体能力は枯れ木のような老人とは思えないほどに優れている。結局の所、リィナはシステラと協力して二対一の状況を作ってもメレンディスには手も足も出なかった。
「やはり中々、手強い。もっとも私が用兵を心得ていないせいでもあるのですが」
傍から見ればメレンディスは突っ立っているようにしか見えないが、リィナはメレンディスが閉じた目でどこか遠くの光景を見ているようだと察する。
白神教会の聖騎士兼密偵であるリィナはその役職上、教会の上層部とも接触があり、教会の上層部には今のメレンディスと同じように、その場にいながらどこか遠くの光景を見る能力を持つ者が多くいることもリィナは知っている。そしてリィナの知る限りでは若い頃に白神教会の総本山であるクルセリアで修業をしたというメレンディスも同じ能力を会得していてもおかしくはない。
「こんなことをしてどうなるか分からないわけじゃないでしょ」
だからこそリィナは疑問に思う。クルセリアで修業をしたメレンディスであれば白神教会を敵に回すということがどういうことか知らない筈がないからだ。
「聖騎士の方々のことでしょうか? 確かに彼らは恐ろしい。白神教会の敵を一切の容赦なく滅ぼす教会の剣。教会を敵に回すと言うことは彼らを敵に回すということですからね」
好々爺の雰囲気を崩さずメレンディスはリィナの問いに穏やかな口調で答える。
それを分かっていて、どうしてとリィナは問いたくなるが、それを遮りメレンディスが先に口を開く。
「彼らが攻めてくるというのならば、それはそれで構いません。私が手を下す手間が省けますからね。異端の信仰が暗躍し、魔物の溢れた街を聖騎士達は見逃すということはあり得ない。彼らは私を抹殺するついでにフェルムも滅ぼすでしょう。そして、それは私の目的と合致するので聖騎士がやってくるというのはとても助かる」
メレンディスはリィナに顔を向ける。
その表情に浮かぶのは穏やかな笑みであり、その顔を見てリィナは既にメレンディスが正気ではないと察する。
「何でこんなことを」
リィナが聞いた話ではメレンディスは白神教の敬虔な信徒であったはずだ。
善良で高潔な人格者であるという話も何度も耳にしている。だが、今リィナの目の前にいる人物は噂で聞いた人物像とは似ても似つかない。
「何故? 理由などありませんよ。私は私の仕える神の御心に従っているだけです」
「貴方は白神教会の聖職者でしょう」
「それは既に昔の話です。今の私は黄神に仕える神官であり、我が神の御言葉に従う身」
そう言いながらもメレンディスの表情はどこか過去を懐かしむような物であり、その表情のままメレンディスは輝かしき日々を思い返し、言葉を漏らす。
「秩序を重んじ、博愛を以て人々に手を差し伸べるという教会の教えを私はまだ忘れてはいません。そして、その教えに従い教会に尽くしてきた日々もまた私にとってはかけがえのない思い出です」
「なら、どうして」
リィナの疑問は当然の物。
メレンディスの言葉からは教会に対しての憎しみは感じられないし、教会の聖職者としての過去にも誇りが感じられる。そんな思いを今も持っているというのにどうして別の神に仕えているのか。
メレンディスは床に倒れているリィナに対し憐みの表情を向ける。目は閉じているが、瞼の奥の眼差しも憐みの色を浮かべていることがハッキリと分かる。
「貴方はまだ何も知らないのでしょう」
「何を──」
リィナの言葉を遮り、メレンディスは続ける。
「私は神を見たのです」
何を言っている?
リィナはメレンディスの言葉に口を挟もうとするが、メレンディスの表情を見て言葉と共に息を呑む。
メレンディスの顔に浮かぶのは深い失望と深い絶望。先ほどまでと打って変わった様子を見てリィナは口を挟むことを躊躇った。
「貴方は知らないでしょうが、神は実在します。それは御伽噺や神話で語られるような空想の存在ではなく、確かな実体を持って、この世界に存在している。私はそんな神をこの目で見たのです」
自身の閉じた眼を指さすメレンディス。
リィナ自身は教会に属しているが神の存在などは信じていない。神など人々が人心を都合よくコントロールするために作り上げた存在であり実在する存在ではないと考えている。
だから普段であればメレンディスの言葉などは一笑に付すのだが、メレンディスのただならぬ様子にリィナは簡単に空想や妄想の産物だと言い切ることができなかった。
「実際にいたというなら何故?」
神が実在するというなら、なおのこと裏切るのはおかしいように思いリィナは疑問を投げかける。
「貴方もアレを見ればわかります。私はあんなものを神と認めることはできない」
口調こそ平静を保っているが、その言葉の裏に断固とした物が感じられ、リィナは息を呑む。
「アレに比べれば我が主である黄神は遥かに真っ当な神です。例え、我が一族を数百年以上も呪い続けていようとも、白神などという偽りに塗り固められた存在を崇めるよりは遥かにマシです」
そんな簡単に信仰を乗り換えられるものなのかとリィナは思うが、よくよく考えれば自分も神など信じていない。
「それに我が主は使命を果たした暁には我が一族の呪いを解き、私に永遠の命を授けてくれると約束してくださいました。であるならば黄神に仕えない理由は無いでしょう」
メレンディスの言葉を聞いてリィナは理解する。目の前の聖職者は神々という物に対して完全に失望をしていることを。
失望しているからこそ利益だけで自身の信仰を選ぶことができる。メレンディスにとっては神々は既に畏敬を抱く存在ではなく単なる取引相手に成り下がっている。
一体どうしたら、敬虔な聖職者と記録に残っていた人間がここまで堕ちるのか。リィナはメレンディスが見たものが気になって仕方が無かった。
「仮に神が実在するとして約束を守るとは思えないけれど?」
「それならそれでも構いません。どうせ私自身、放っておいても長くない身ですからね。寿命が尽きる前の悪あがきですので、約束を反故にされても自然の摂理に従って死を迎えるだけ。恐れることなど何一つありません」
やはりメレンディスは正気ではないとリィナは理解する。
表情には何も浮かんでおらず自分の命などを実際の所は大した問題ではない考えていることが察せられる。
「呪いは私の体を苛み、常に痛みを与え続ける。そして、毎夜聞こえる黄神の怨嗟の声。自分を忘れて平穏な日々を営むこの地の民への復讐を叫ぶ声がいつも頭に響いている。最低でもそれが無くなるならば、私は何も言うことはありません」
メレンディスの表情に人生に対する疲れが浮かぶ。
それが本音なのか判断できずに困惑するリィナに対し、メレンディスは優しげな表情を浮かべ感謝の言葉を口にする。
「この地に貴女が来てくれて良かった。貴女からの定時連絡が無ければ聖騎士団が動いてくれる。私が失敗したとしても|聖騎士(彼ら)がフェルムを滅ぼしてくれるでしょう。彼らは事情など関係なく秩序が乱されたこの地を滅ぼす」
メレンディスの顔に浮かぶのは勝利への確信だった。
その勝利に自分が生き残ることは含まれていないように思える。
リィナは目の前の人間が全く理解できなかった。永遠の命が欲しいようなことを言ったと思えば、呪いが解けるだけで良いと言い、最後は自分が死んでも構わないと思っている。
まるで一貫性が無い。だが、これが正気ではないということなのだった。
「そんなにアンタにばかり都合よく事が進むわけないじゃない」
メレンディスに何を言ったところで状況は変わらない。
拘束されて動けないリィナに出来るのは負け惜しみを言うことくらいしかなかった。
「さぁ、それはどうでしょう? 現状では全てが私にとって都合よく進んでいます。もっとも、最後まで上手くいくとは限らないのが人生であるので、おそらく私も足元をすくわれることになるのでしょう。ただ──」
言葉を区切りメレンディスは何か別のことに意識を集中する。
そして、僅かな沈黙を置いてメレンディスは再び口を開く。
「私にとって唯一恐ろしい存在であるアッシュ殿の姿は見えません。となれば、よほどのことが無い限り、私の計画は崩れることは無いでしょう。このまま私が魔物を召喚し続け、フェルムの住人を皆殺しにすることは勿論、それが失敗したとしても聖騎士の方々が異端の教えに染まった可能性のあるフェルムを滅ぼしてくれます」
アッシュがいない? メレンディスの話を聞き、そんなはずはないだろうとリィナは思う。
この状況でアッシュ・カラーズという男が何もしないというわけはない。長い付き合いではないが、リィナはこれまでに厄介事に巻き込まれた経験からアッシュに対してそんな確信を持っている。
「我が神の望み、この地に生きる全ての人の死という望みが遂に果たされる時が来た」
自らの言葉に陶酔の表情を浮かべるメレンディス。
しかし、その時間は長くは続かず、余韻は唐突に聞こえてきた言葉によって断ち切られた。
「演説はそこまでにしてもらおうか」
聞こえてきた声の方にリィナは身をよじり顔を向ける。
そうしてリィナが視線を向けた先、そこにはサイスの姿があった。
メレンディスはいつの間にか、この場に辿り着いたサイスに対し、顔を向けることもなく訊ねる。
「何か御用ですかな?」
その問いに対するサイスの答えは──
「殺しに来たぞ、メレンディス」
その答えを受け、メレンディスはサイスの方へと向き直る。その顔には不敵な笑みが張り付いていた──