第二章「トラとの出会い」1話
すぐ目の前で、見知らぬ少女の髪が揺れている。
午後六時十五分。下校を促すアナウンスが流れる。華奢な後ろ姿に手をひかれながら、ぐんぐんと廊下を進む。
「さっさと帰れよー」
生徒たちに声をかける顔見知りの先生がいた。若くて親しみやすい男の先生だ。
ところが少女はそんなことお構いなしにまっすぐ歩く。
「ん? どうした、そこの二人」
瞬間、少女は走り出した。
「こ、こら! 待てよ! ってか、制服はっ?」
「おい、あんたっ」
「今は無視!」
なにもそんな、積極的に喧嘩を売らなくてもいいんじゃなかろうか。
しばらく後ろから声が飛んできていたが、角を曲がり近くの階段を駆け上がると、もう追ってくる気配はなかった。
「あんた、なんなんだ」
「マナ」
「は?」
「わたしの名前。マナっていうの」
マナ――どこかで聞いたような。
「あなたは?」
「……北村秀一」
「北村くんね。よろしく」
よろしくされても困る。
「で、マナ……さん。何者なんだあんたは」
「う~ん。部外者?」
なるほど。
「おれたちはどこに向かってんの」
「どこにも」
「あ?」
「どこに向かうとかじゃないの。ぐるぐる回るのよ、校舎を」
「……」
「オッケー?」
「帰る」
「待って待って、ふざけてるわけじゃなくて」
「どうしておれなんだ、よりにもよって」
たった今、傍を大またで駆け抜けていった生徒を見送る。結構いい体格をしていたし、あちらのほうが頼りになりそうなものだ。何をするかは知らないけれど。
マナさんはおれをまじまじと見つめ、改めて何かを確認するように頷いた。
「人がよさそうだから」
「どのへん見ていってんだ」
「にじみ出てるわよ」
生まれて初めて言われた。
「度胸もありそうだし」
ありがとう。
「ってことで、行きましょ」
「おう」
ちょっと嬉しくなって普通に頷いてしまった。
ダメだダメだ、ここはなんとか隙を見計らって逃げだして……。
しかしそう甘くはなかった。頭の中でこそこそ策を練っている間に、目の前で教室のドアが引かれ、一番会いたくなかった男と出くわしてしまった。
「おい、下校時刻は過ぎてるぞ」
早とちり野郎の熊田である。おれたちを見るなり、腕を組んでしかめっ面になる。
「それに制服はどうした。……お前、見ない顔だが」
荒川よりさらに大きな彼は、ただ見下ろされるだけでも相当な威圧感がある。そこにヤクザのようなドスの利いた声が加われば、もはや逆らう生徒などいない。
が。
「いまは無視!」
マナさんはその巨体に見向きもしなかった。
「北村ァ!」
「おれは関係ねえだろお!」
おれたちは走った。走り、駆け下り、駆け上がり、とにかく走った。これまでの人生でも一二を争うほどの全力疾走だ。
数メートル先。馴染みの教室のドアが開いている。真っ暗な室内に一目散に飛び込み、ドアを閉め、カギをかけた。
「か……勘弁してくれ……」
床にたおれ込み、ぜえぜえと肩を上下させる。
熊田は……追ってこない。ここに入ったことはばれなかったようだ。
「あ……あんな、執念深く、追いかけてくるなんて……」
「最悪だ。完全に怒らせちまった」
息の乱れに苦しみつつ腰をあげる。ここはいつもの教室だった。スマホを回収してしまおうと顔をあげて、暗い室内に誰か潜んでいるのに気づいた。
壁に手をつくようにしてスイッチを押すと、視界がはっきりする。
そこにいたのは――。
「き……北村? なんだよお前びびらせんなよな!」
「西村……お前も忘れものか?」
胸を撫で下ろす。先生とかじゃなくて助かった。
とりあえず机の中をのぞく。スマホは――あった。
「……ん? っておい! おいおいおいおい! 北村!」
西村にいきなり肩を組まれる。
「なんだよそのかわいい子は! 学校にあんな子いたか? いなかったよな? つーか私服だし!」
「北村くん!」
マナさんが叫んだ。
「いまは無視!」
西村から無理やりに引き離され、さっきのように手を引かれる。
「えっ? そ、そんな! 待ってくれえ! ぼくのかわいい子ちゃああん!」
「なにあれ」
「知らない人」
幸い、廊下に熊田の姿はなかった。
西村と会ったせい、いや、おかげだろうか。
昨日の昼に西村と話した、神隠しのことを思い出していた。
きれいな黒髪の少女がある日突然姿を消した、わりと大きな騒ぎだ。
完全なる忘却。事件が神隠しと呼ばれたゆえんは、それに尽きる。
同じ教室にかよったクラスメイトも、担任の先生も、ともだちも後輩も、誰一人として、消えた少女のことを覚えていなかった。
理由はわからない。ともかく彼女は、すべての人から忘れ去られた。残されたのは、噂だけ。
神隠しにあったという黒髪の少女。当時中学三年生なら、おれのひとつ上になる。
その少女は、マナと呼ばれていた。
ずんずんと前を行くマナさんは、こうして見ているかぎりは、ただの元気な女の子だ。元気すぎではあるけれど。
マナ。そう珍しい名前じゃない。この程度の偶然、気にすることもないのかもしれない。
けれど、警戒するに越したことはないだろう。
階段を降り、廊下に出る。
「ここには、ある噂を聞きつけてきたの」
おれの前を歩きながらマナさんがいった。
「どんな」
「白い影のうわさ」
「それを確かめるために、わざわざ?」
教室の施錠をする先生とすれちがい、堂々と挨拶をしてやり過ごす。職員室へむかう振りをした。
「あんたバカだろ」
かかとですねを蹴られた。
「いってえな!」
「あら失礼」
痛みにうめくも足を止めてもらえず、すねを押さえつつ歩く。
そういえばマナさんはきちんと上履きを履いている。わざわざ持ってきたということか。
そこに気を使えてなぜ人には喧嘩を売るのか。
「ゆうれいなんているわけないだろ」
「いるわけないかは置いておくとして、別に影がゆうれいだとは思ってないわよ」
「野生動物かなにかってことか?」
「さあ? どうかしらね」
からかうような声音は、彼女のセリフをどこか意味ありげにする。
マナさんはわずかに振り返り、横顔でほほえんだ。
「でも、ゆうれいなんかよりずっと、タチの悪いものかもしれないわね」
窓からの光がないと、明かりがついていても少し薄暗い。床が古いせいもあって、廊下の空気はひどく寂しげだった。
「で、なんでその調査におれが必要なんだ」
「襲いかかられたらイヤだもの」
「おれだってイヤだ」
「まあまあ、乗りかかった船じゃない! 今さら降りるなんていったら、わたしがあなたを襲うから」
違う意味にしか聞こえないからやめろ。
「怖いなら放っておけばいいだろ。部外者なんだし」
「そのつもりだったんだけど、ちょっとまずいかなって思って」
「まずい? なにが」
「ガラス、割れたんでしょう?」
そこまで知っているのか。
「どこで聞いたんだ、ついさっきのことだぞ」
「知ってる子がいるのよ、この学校に」
「けど、それがどうして白い影のしわざだなんて」
「確信してるわけじゃないの。ただ、ガラスが割れるのを見たあなたが、犯人を見なかったって言ってたみたいだから」
「……あんたの知り合いってだれだ。おれと顔見知りなのか?」
「昨日ナンパされてた子よ。ほら、あなた制服着てたでしょ? それであなたの顔を覚えてて」
おれは足を止めた。マナさんの手を振りほどく。
「まて。どうしてあんた、そんなこと知ってんだよ。ナンパの件はともかく、そこにおれがいたってことまで」
マナさんは「あちゃー」と顔に手を当てる。
背筋がざわついてきた。こいつ、思っていたよりもはるかに怪しい。
「偶然よ。たまたまわたしもあそこにいたの」
「おれはあんたなんか見てない」
「わたし、物陰から覗いてたから」
「じゃあ今の『あちゃー』はなんだ」
「そんなことより!」
「ごまかすな」
ぐぬぬ、と言葉に詰まるマナさんに、おれは視線で圧をかける。
すると彼女は、おれの後ろ、はるか遠くを見て目を細め、ぱっと顔を輝かせた。
「あ! お~い!」
「あ?」
廊下の先、三年校舎へと繋がる渡り廊下の方向。クマのような大男がやってくるのが見えた。
熊田だ。
「ばっ! あんた何考えてんだ!」
「まあまあ」
「なんだお前たち、下校時刻は……」
熊田は言葉の途中で黙り込む。おれたちに気づいたか。
「マナさん、ここは逃げ…」
「おい、北村。そこにいるのは誰だ」
「……はい?」
様子がおかしい。さっきの怒りはどうした。
なんだかわからないが、距離があるうちに。
「すいません、忘れもの取りに来てただけなんで。もう帰ります」
形だけ深く頭をさげて、今度はおれがマナさんの手を引いた。
廊下を突っ切り、階段を駆け下りる。いい加減足が疲れてきた。
「ん? 何やってんだ」
「げ。また……」
「なんだ北村か。いつまでうろうろしてるんだ。さっきは急に逃げ出すし」
マナさんと校舎を歩き出してから最初に出くわした若い男の先生が、階段の先で待ち受けていた。
「で、もうひとりの、きみは……あれ、制服はどうした」
先生は、今気づいたとでもいうように眉をあげる。さっきも同じことを聞いていたはずなのだけど。
「まあまあ、お気になさらずに。ねっ!」
「あっ、こ、こら!」
相手のふいをついて逃げ出すのも、これで何度目だろうか。
ついにおれたちは校舎から飛び出し、木々の陰に隠れて息を整える羽目になった。
古めかしい校舎からの微かな光に照らされ、自分の手のひらを見つめる。
さっき、再び熊田に見つかったとき、どうしておれは手なんて引いてしまったんだろう? 一人で逃げればいいものを。
となりで同じく息を切らすマナさんを一瞥し、視線を落とす。
「なあ。さっきから気になってんだけど」
「なにかしら?」
会う人会う人、あんたのことを忘れていってる気がするんだけど。
「……いや。やっぱいい」
いくらなんでも、そんな妖怪じみた話があるわけない。
そう、思いたいのに。
神隠しにあった少女、マナ。
クラスメイトのスマホで撮られた、おれと自転車を取りあう黒髪の少女。
そしてマナさんが時々見せる奇妙な言動。
白い影を探しに来たなんて言っているけれど、本当はこの少女こそ――。
そのとき、低く小刻みな、何かが震えるような音がした。おれは文字通り跳びあがる。
「……なんだ、電話か」
相手は西村だった。
「なんだよ、今取り込み中で」
「そうなのか? 一緒に帰ろうかと思ったんだけどよ」
「ああ、悪いな。じゃあ……あ、ちょっと待った」
「おん? なんだ?」
「さっきおれといた人だけど、別に知り合いとかじゃないからな」
補足しておかないと、後でうるさい。
けれど西村は――まるで、神隠しの時と同じように。
「一緒にいた? なんだそりゃあ?」
あやうく、電話を落とすところだった。
「さ、さっきの話だよ。会ったとき見ただろ? おれの横にいた…」
「わりいわりい。ぜんぜん気づかなかった」
「お前、何いって…」
「ま、取り込み中ってことならしょうがねえ。先に帰らせてもらうぜ。あばよ!」
プツリ。通話が切れる。
しばらく、無音の時間が流れた。
おかしい。西村も忘れているのか? あんなに騒いでいたくせに。
はっとしてマナさんを振りかえる。
闇に浮かぶ鮮血色の瞳が、凝然とおれを捉えていた。
「なにか、聞きたいことがあるみたいね」
不信と恐怖にひざが震え、逃げることすらままならない。
そして、ほとんど無意識のうちに問うた。
「あんた――いったい、何者なんだ」
瞬間、彼女を覆う空気が変わったように思えて、おれは息をのむ。
そのとき彼女がたたえた笑みは、艶やかで、優しげで、こんなときに言うのもなんだけれど、甘美な気配を漂わせていた。
「――知りたい?」
どこか挑戦的な、弄ぶような声音で彼女は言う。
もれた息はすぐさま白い霧となり、闇のなかへと消えていった。