第一章「少女との出会い」4話
翌朝の教室はいつもより騒がしかった。
原因は荒川剛の一件。負傷した四人の学生が救急車で運ばれた事件だ。昨日の今日でよくもまあ聞きつけるものだ。
ちなみにその救急車を呼んだのはおれだったわけだけど、噂のなかにおれの名前が出ていないことにはひとまず安堵した。
そちらのことはいい。どれだけ噂が広まろうと、おれは事件の目撃者にすぎない。仮に名前が出たところで、多少質問攻めに遭うくらいだろう。
実はもう一つ、騒がしさの原因がある。
主に一人、別の一件について騒ぎ立てているやつがいた。
「北村てめえ! 誰なんだよこの子は!」
人の顔にスマホを突きつける不届きものがこちら。ムラムラコンビの片割れ、西村くんである。
人が礼儀正しく席について明日の宿題にとりかかろうとしたら、いきなりこの仕打ちだ。
けれど今、西村にイラつく余裕はない。向けられた画面を食い入るように見つめるのみ。
そこには見覚えのある好青年の姿が写っていた。
黒髪の少女に押し倒される、おれの姿が。
「な……なんだ、これ……」
白いコートと白いスカートに身をつつんだ真っ白な少女は、はっとするほど鮮やかな赤い瞳をしていた。こんな目にあえば忘れるはずもないのに、まったくもって覚えがない。
それは音声入りの動画だった。始まりは少女におれが押し倒されているところから。やがて少女がおれの自転車にまたがり、おれが自転車の荷台をつかみ……。
そしてちょうど今、荒川のやつが道へ飛び出していった。
これは――昨日、チンピラを目撃する直前の?
「チクショウ、抜けがけしやがって! 今度紹介しろこの野郎!」
「抜けがけって。これはどっちかっていうと強盗されてる感じじゃない?」
一緒に動画を見ていた黒縁メガネの友達がいった。このスマホの持ち主だ。
「だまされんな! そういうプレイに決まってらあ!」
「ご……強盗プレイってこと?」
「そんなことより」
発狂する西村を押しのけ、おれは聞く。
「この動画、どこで」
「ああ、ぼくのスマホに入ってたんだ」
「おまえの? じゃあ、これは」
「いや、それがさ、撮ったのぼくじゃないんだよね。いつの間にかこの動画がスマホに入ってて。誰かがぼくのスマホで撮ったってことなんだろうけど、スマホなくした覚えもないし」
「はあ? なんだそりゃあ?」
西村が急に正気を取り戻す。
「なんでお前のスマホで撮らなきゃいけないってんだ?」
「ぼくに聞かれても」
西村の疑問はもっともだが、おれはなんとなく、彼の言葉を信用していた。根拠はまったくないけれど。
「ほほう、なるほどなるほど~」
「うおっ、にいな」
おれの背後からひょっこりと顔を出したにいなは、何か得心したように頷き、
「それはもしかしたら、白いゆうれいのしわざ~、かも……ね~……」
がくがくぶるぶると震え出した。
「自分で言って自分でビビるなよ」
「だ、だって……」
すっかり青ざめてしまったにいなに呆れながらも、なんだか、胸の奥が妙にざわついていた。
白いゆうれい――あながち、間違っていないんじゃ……。
いやいや。
何を考えているんだ、ゆうれいなんているわけがない。
けれど、だとしたらこの動画は――この少女は、いったいなんなのだろうか?
異変はそれだけにとどまらない。
夕暮れ時の校内でそれは起きた。
放課後の教室で、おれは机に突っ伏して眠っていた。雨が降っていたのでそれが落ち着くまでのつもりだったのだけれど。
あくび混じりに教室を出ると、ちょうど廊下には人がいなかった。人の気配といえば、遠くから運動部の声や吹奏楽部の演奏が聞こえるのみ。
そう。確かにそこには誰もいなかったし、おれも何もしなかった。にもかかわらず、それは起きたのだ。
おれの傍にあった窓ガラスが、ひとつ丸ごと、大きな音を立てて割れた。
粉々になった破片が足元に飛び散り、おれは大いにうろたえる。尻もちをつきそうになり、慌てて壁に背中をついた。
……何が、どうなった?
「どうした!」
突然のことに動けずにいると、太い声とともにクマのように大柄な体育教師がかけつける。
熊田というその教師は放心したおれと窓ガラスとを見比べて、かっと目を剥いた。
「北村、おまえ」
胸ぐらをつかまれ、おれははっとする。厄介なことになったとようやく気づいた。
「何故こんなことをした」
一言の確認もなしに犯人あつかいとは。
「聞いてるのか! 何故こんなことをした!」
「いや、おれは」
参った。このまま家に呼び出しでもかかれば、夢路おばさんたちにひどい迷惑をかけることになる。
「こっちへ来い!」
無理矢理に引っぱられる。抵抗するヒマもない。
つかまれた腕の痛みにうめいたそのとき。
「まってくださいっ」
廊下の先に、手を広げて飛び出す影があった。
……どうして、よりにもよって。
そこにいたのは、にいなだった。
「秀一がそんなことするはずありませんっ」
にいなははっきりと言い切った。
「だがな、夢路。これはどう見ても」
「そ、そうですっ、よく見てください。そのガラス」
そういってゆびをさす。
廊下にぶちまけられたガラスの破片。煤けた床の上で、外のあかるさを反射してキラキラしている。
「これが、なんだと?」
「この窓、ほとんど全部内側に割れてます。今秀一が割ったんだとしたら、こんなふうにはならないと思いますっ。そ、それに! 秀一は今何も持ってません! 素手で割ったなら、手を怪我してないなんておかしいですっ」
言われてみれば。
おれはきっと間の抜けた顔をしていたことだろう。早口でまくしたてるにいなを見るのはこれが初めてだった。心配になるくらい顔を真っ赤にして、必死になって説明してくれた。
おれのために、無理をさせてしまった。
「なら他のだれが割ったと言うんだ。言ってみろ、北村」
それでもなお、熊田は納得しない。
「――わかりません」
そう答えるより他にない。
にいなに無理をさせた手前、おれもなんとか無実を証明したい。けれどその手立てがなかった。
「そういうことだ。わかったならそこをどけ。こいつを連れていく」
「いやです!」
にいなは動かず、熊田を真摯に見つめる。敵意がない分熊田もやりにくそうにしていたが、やがて苛立ちの気配を見せはじめた。
潮時か。
「夢路、いい加減に…」
「もういい、にいな。大丈夫だから」
「でも!」
「にいな」
「……」
「頼むよ」
胸の痛みをこらえ、おれはいった。
にいなは言葉を失い、ふらふらと道をあける。
「――先生」
おれが声をかけると熊田はふんと鼻をならす。おれの腕を再びつかんで、生徒指導室へと向かう。
すれちがうにいなは、涙をこらえるように唇を噛みしめていた。
これだから面倒ごとはごめんだというのだ。
けれども意外や意外。そのあと熊田は頭ごなしに怒鳴ったりはせず、ガラスが割れた時の状況をくわしく聞いてきた。大したことは答えられなかったけれど、とりあえずおれを犯人と見るかは保留となった。きっと、にいなのおかげだ。
「また話を聞くことはあるかもしれないが、まあ、今日のところは帰れ」
「……失礼しました」
熊田に見送られ指導室をあとにする。早とちりしたことへの謝罪はもらえなかった。
それにしても。
どうしていきなりガラスが割れたのだろう。あのとき窓の外には誰もいなかったはずなのに。
漠然とした不安を抱えたまま、自転車に乗って下校する。
ざっと三十分ほど走ってから、おれは急ブレーキをかけた。
……携帯忘れた。
大きくため息をつき、暗くなった道を引き返す。
「ったく、今日は散々だな」
よほど気分が乗らなかったか、戻るまでに五十分弱もかかってしまった。
下校時刻ぎりぎりの学校は、校舎の古めかしい外観もあいまって哀愁がただよっていた。
げた箱に駆け込み上履きに履きかえ、急ぎ足で教室へ向かう。
けれどすぐに立ちどまることになった。
寂しげな夜の校舎。その廊下の先に、白い毛皮つきのフードがついた、真っ白なコートを着込む後ろ姿があった。
華奢な体つきと流れるような黒髪で少女だとわかるが、どことなく現実ばなれした空気を感じる。やけに気配がうすいというか、儚げというか。
というか私服じゃないか。
うちの高校では制服を着ていないと、敷地に入ることすら許されない。それをこうも堂々と。
ふいに少女が身をひるがえす。
目があった。驚くほど明るく鮮やかな、真っ赤な瞳をしていた。
奥ぶたえのあどけなさが残る顔立ちに、透きとおるような白い肌。口元にたたえた妖しい笑み。それらすべてが幻想的な雰囲気を引き立て――少女を、芸術めいた幻のように思わせる。
「あら、あなた昨日の」
女の子にしては少し低めの、芯の通った声だった。力強く、はっきりとした声。
「昨日?」
「気にしないで、こっちの話」
どこかで会ったのだろうか? 少女の印象は決して薄くない。一度会ったら忘れそうにないけれど。
そういえば朝、似たようなことを思った気がする。
そうだ、あの動画の――。
「じゃあ。急ぐから」
嫌な予感がして、おれは足早に彼女のそばを通り抜けた。
「ねえ、あなた」
その手を、うしろからつかまれる。
「ちょっと手伝ってくれない?」
「……いきなり、なに」
笑顔の少女を真顔で見返す。
「だから、手伝って」
「こんな時間に学校で何しようってんだよ」
「説明はあと。とりあえず、いっしょに来て」
「悪いけど、面倒ごとならごめんだ」
低い声ではっきり告げると、黒髪の少女は目をぱちくりする。
それから、くすりと笑った。
「あなたねえ。なにもわかってないのね」
突然、少女の顔が晴れ晴れと輝く。
儚げな印象を吹き飛ばすように、弾けんばかりの笑みを浮かべた。
「その『面倒ごと』が楽しいんじゃない!」
有無を言わさず、少女はおれの手を引く。
残念ながら、彼女とは話が合わなさそうだ。
けれど、真昼の日差しのようにはつらつとした笑みに、おれは文句のひとつも言えなくなってしまった。