第七章「再び、出会い」3話
長くだらだらとした坂を自転車で下る。
左右をはさむ林のために道が暗く、なんとなく緊張する。深く深くへと入り込んでいくような感覚。
やがて見通しの利く平地に出ると、まばらな家々が見えてくる。その先に、しっかりとした造りの白塀に囲まれた家屋があった。
自転車をとめ、腕時計を確かめる。午前十時。約束の時間だ。
メールで送られた写真と、目の前の寺のような構えの門とを見比べる。間違いない、ここだ。
チャイムを鳴らす。出てきたのは、六十か七十代くらいの元気な女の人だった。
「話は聞いてますよ。さあさ、こちらへ」
風格のある日本家屋の庭をぬけ、傍らの建物に案内される。
そこは剣道場だった。
「うれしいわあ、あの子、あんまりお友だちと遊んだりしないって聞いてたから。あ、でも道場に呼んだってことは稽古でも?」
「いえ、そういうわけじゃ」
「あらそう? じゃあやっぱり遊んでくれるのね。わたしすぐに出かけちゃいますけど、家にあるお菓子は食べていいですからね」
そういって、彼女は早々に家屋のほうへ引き返していった。
友だちではないんだけどな。
周囲をぐるりと見まわす。しかし立派な家だ。縁側まである。
深呼吸して玄関をあがる。緊張のせいか、自然と息を殺してしまう。
静かだ。剣道場といえば竹刀と竹刀のぶつかりあう音がたえず爆ぜているイメージがあるけれど、今日ばかりはそれでは困る。
あの男とは二人だけで会うひつようがあった。
中を覗いてひとまず胸を撫で下ろす。そこには稽古にはげむ門下生たちの姿はなく。
代わりにいたのは、ひとりの青年。
何十畳もあるであろう板の間の向こう。たったひとり座していたのは、肩幅の異様に拾い、日本人にしてはあまりに筋骨隆々とした大男だった。
こちらに背を向け正座する彼――荒川剛こそ、おれが連絡をとり、協力を仰いだ相手だった。
「――北村か」
「すいません、急に連絡して」
「私たちのような間柄で、急じゃない連絡があるのか」
ごもっとも。
学ラン姿の荒川はこちらに見向きもしない。竹刀の手入れをしているらしい。
その傍らには通学用らしき鞄が置いてある。
「あいにく世間話などするつもりはない。本題に入るなら早くしてもらおう」
腹にひびく、低く重々しい声。目さえ合わせていないのに気圧されてしまいそうだ。
「先輩ひとり……ですよね」
約束では、人のいない場所で会うということになっていた。周りの目があってはまずい。
「ああ。他人に話を聞かれる心配はない。おばさんも出かけるといっていただろう」
「ここの指導者のような人は」
「もういない。この道場は既に潰れている」
予想外のことで、上手く言葉を返せなかった。
「ここのかつての道場主――私の生涯の師は、怪異に呪われ剣を握れない体となった。詳しく語るつもりはないがな」
だから荒川は呪いの力を――密かに唾を飲みこむ。
これからおれが利用しようとしているのは、荒川が、そしておれ自身がつよく憎む、呪いの力だ。
その力を得るために、おれはあろうことか荒川を利用しようとしている。
「しかし、あの話は本当なのか?」
「……」
「どうした、まさか冗談というわけもあるまい」
口を開けない。
下手をすればこの場で殺されてしまうかもしれない。そう思うと、足に力が入らなくなった。
「何か言え。早く済ませて鍛錬に励みたいんだ」
「……」
拳を握りしめ、震えを抑える。
今は怖気づいているときじゃない。
一歩前に進み出てポケットに手を入れる。
「先輩、すいません」
そうしておれは、ばさりと黒い布を広げた。
黒い布は二枚あった。
おれが佐野に襲われたとき、小屋の壁を覆っていた一枚と、おれを縛り付けていた一枚。その両方をもらっていたのだ。マナさんはまだポケットの中にいる。
ともあれ、荒川を包むことに成功した。小さくなった布をつまみあげる。
奇襲は成功した。ほとんどダメ元の気持ちだったから、こうも上手くいってしまうと拍子抜けだ。
後々の心配はあるにしても、これで障害はなくなった。
どこかに連れて行こうというのではない。少しの間寝ていてもらえればそれでいい。
布から出せば、荒川は気を失っているはずだ。
と、それを再び広げようとしたとき。
「何の真似だ」
心臓が跳ねた。
背後を振り返ると、喉元に竹刀を突きつけられる。
バカな。いつの間に。
あの一瞬で後ろに回り込んだというのか。
それに黒い布には確かに――そうか、荒川の傍らに置いてあった鞄のみを。
ぎろりと剥かれた四白眼がおれを見おろす。
瞬間、彼の巨体から突風が吹きつけたように感じた。
「よもや私をだまそうとはな」
この場でなければとうに殺している。荒川の目はそう告げていた。
へたり込みそうになるのをぐっと堪え、睨み返す。
「見逃してもらえませんか。大切な人の人生に関わることなんです」
「知ったことか」
ドスの利いた声に身がすくむ。迫力だけで体を押し潰されそうだ。
自然と後ずさってしまうおれの動きに合わせ荒川も前に出る。竹刀の先は喉元をとらえ続けていた。
このままではまずい。逃げなければ。
しかし――。
禍々しさすら思わせる荒川の眼光は、微かな動きも見逃すまいとおれをとらえ続けている。ほんの一瞬、瞬き程度の隙もなく。
話し合いはおよそ不可能、腕力でも勝ち目なし、不意を突いて逃げることさえかなわないときている。
拍子抜けとバカにしたのも束の間、絶体絶命の大ピンチだ。
「選べ。腕か足、どちらを叩き折られたい」
脅しでないのは明らかだった。実際この男には、佐野やチンピラたちに重傷を負わせた前科がある。
黒い布を握った手をわずかにあげる。
荒川が大きく身を引いた。その隙を突き駆けだす。
重たい音とともに、まっすぐな風が後頭部をかすめた。
竹刀を振られた。防具をつけてもいない頭をめがけて。
ここで立ち止まっては確実に病院送りにされる。そうなれば全てが台無し。マナさんを救うどころではない。
今はただ走れ。走って走って逃げ切るんだ。
玄関が遠い。一秒が惜しいこの瞬間にこの十数メートルはあまりにも長い。
早く、早く――。
だが。
焦りすぎたのだろうか、盛大にバランスを崩し前のめりに転倒した。
慌てて顔をあげる。上から竹刀が降ってきて、ぎりぎりのところで転がって身をかわす。我を忘れて床をはい、攻撃の手から遠ざかる。
瞬く間に壁際まで追いつめられた。
「大人しくしていろ。叩き斬ってやる」
荒川が竹刀を振り上げる。
万事休す。恐怖に目を閉じかけたそのときだった。
荒川の動きがぴたりと止まった。
……なんだ?
玄関のほうで引き戸が開けられる。
「いけないいけない。剛ちゃん、言い忘れてたんだけどね」
現れたのは、剣道場まで案内してくれた先ほどの女の人だった。
荒川は竹刀をおろし、そちらに体を向ける。
チャンスだ。
「お友達が来るって聞いてたから冷蔵庫に……きゃあっ」
「すいません!」
板の間を駆け抜け、玄関を飛び出す。
靴を履く暇も惜しかったが、長時間の逃走になる可能性も考えて足をつっこんだ。
敷地の外へでて自転車に飛び乗る。振り返るより先に走り出した。
道場にきたとき確認したが荒川が自転車できている様子はなかった。全力で走れば確実に逃げ切れる。
しかしここは建つ家もまばらでやたらと見通しがきく。せめて荒川の目の届かないところまで。
曲がり道に入る。左手、遠くのほうに小さくなった剣道場が見える。
意外なことに荒川は追ってきていなかった。
不意を突いたとはいえ、しばらくは死に物狂いで逃げる覚悟だったのだが。
ほっと息をついて前を向いたところで、おれははっとした。
まさか。
後ろを振り返る。
「……!」
いた。
両目を大きく開いた荒川が、すぐ後ろを全速力で駆けていた。
既に同じ曲がり道に入っていたから、左手には見当たらなかったのだ。
おれは確かに全力で自転車を漕いでいた。それをあの男は二本の足で。
というか、こっちより速い。
みるみるうちに距離が縮まっていくのが分かる。荒川が槍のように手をのばすと荷台に指がかかりそうになった。
つかまれたら終わりだ。慌てて前をむく。
早く、早く、早く――!
けれど、荒川の足には敵わなかった。
ハンドルとサドルから強い衝撃をうける。ちょうど急ブレーキを利かせたときのような感覚だった。
予期せぬ力に驚く間もなく、自転車ごと体を引きずられる。タイヤのこすれる悲鳴のような音が耳をつんざいた。
瞬きのあと、おれは宙に浮いていた。
左肩を強く打ち付け、アスファルトの上を盛大に転がる。
「がっ……」
痛みに呻き目を開けると、顔めがけて蹴りがふってきた。ぎりぎりでかわして身を起こす。
ふらふらと立ち上がったおれの前で、自転車が踏みつけられる。
「どこへ行くつもりだ」
このあたりは人気がまったくない。家はあるというのに、自転車を走らせている間誰ともすれ違わなかった。
じりじりと後ずさりする。徐々に、しかし確実に距離をとる。
目に見えて遠ざかっても荒川は詰め寄ってこなかった。その代わりに――自転車をつかみあげ、地面に叩きつけ、チェーンを踏み壊す。
無惨にひしゃげたタイヤを見おろし、荒川は鼻を鳴らした。
「無駄な抵抗はしないことだ。ついでに、私の荷物も返してもらおうか」
「……少しだけ、貸していてもらえませんか」
「ふざけるな。返せ」
「少しの間でいいんです。お願いします」
「――聞こえなかったのか」
一体いつ跳び上がったのだろう。
五メートルは離れていたはずの荒川が、おれの言葉が終わるよりも先に眼前まで飛び込み、そして。
「返せと言ったんだ」
鋭い蹴りを放った。
固い靴が腹にめりこみ、内臓を丸ごと抉る。
痛みで遠のいた意識を、背中を打った衝撃で引き戻される。
あまりの激痛におれはその場をのたうちまわった。
息ができない。視界がかすむ。口から胃液が漏れでる。
それでも、ゆっくりと近づいてくる荒川の気配にだけはなんとか注意を向けられた。
――これだけはやりたくなかったが、最後の手段だ。
ポケットに手を入れる。握ったのは黒い布。
当然広げる隙はなかった。
「この中か」
腕をつかまれ、いとも容易く奪い取られる。
狙い通り。
荒川が布を開き鞄を落とす。それと同時に、おれはもう一枚の布をばさりと広げた。
「なっ……!」
さすがの荒川も面食らったらしい。布にではない、現れた人影にだ。
出てきたのはもちろん、気を失ったマナさん。ふらりと荒川に倒れかかる。
それを抱える一瞬。
おれは再び黒い布をはためかせた。
大きく膨れ上がった影は、瞬く間に小さく縮んで地面にぽとりと転がり落ちる。
マナさんと――荒川を包み込んで。
「やった……のか?」
目の前には黒い布が二枚と、鞄が一つ。それに壊れた自転車のみ。
背後を振り返っても荒川の姿はなかった。
「そうだ、あれは」
鞄を拾いあげる。
「……よし」
取り出したのは、黄ばんだ一枚の紙。
縦長のそれは、呪いの力が込められた品だった。
『誓いの札』だ。
おれが今日荒川を呼びつけたのは他でもない。この札のためだった。
誓いの札でかけられた呪いを解く方法が見つかったから現物を持ってきてほしい。電話ではそんなふうに言ったように思う。
札を持ってきてもらった時点で、彼の無自覚な協力は済んでいたのだ。
この忌々しい呪いを、まさか利用するときがこようとは。
全く、最低の気分だ。
だが、それでもおれは――。
「――答えろ」
「なっ!」
声に振り向くが、誰の姿もない。
今のは、荒川の声?
馬鹿な。やつは捕えたはずだ。今は布の中に――。
目を見張る。
「……嘘だろ」
そんなことがあってたまるか。黒い布だって呪いの力を有した品のはず。いくら化け物のような男でも逆らえるはずがない。
けれど彼は、呪いの力すらも凌駕してみせた。
地面に落ちていた黒い布が、ひとりでに浮かび上がり――ばさりと大きな暗闇が広がる。
こじあけられた闇のなかから、人間の腕が飛び出した。
首を絞められる。
バランスを崩し、地面に背中を打ち付ける。そのまま押さえつけられた。
「答えろ。今のはどういうことだ」
出てきたのはやはり、荒川剛だった。
首をつかむ手に、さらに力を込められる。
「ぐっ……」
今度こそ打つ手は失われた。
呪いの布に包んでさえも、完全に縛ることができないなんて。
「あの女はなんだ」
「……」
「答えろ!」
ふと、首から手が離れる。
「お前、あの女をどうするつもりだった」
「……」
「呪いをかけようとしたのか」
「――そうですよ」
耳元で破裂音が轟く。
アスファルトに拳がめりこんでいた。
荒川の口から煙のような息がもれ、血の滴る拳が引かれる。
血走ったその眼は、もはや彼が言葉の通じる相手ではなくなったことを示していた。これから何をされるかは考えるまでもないだろう。
……それもいい。
おれはマナさんに最低なことをする。だから殴られるのは当然だ。そんなもの罰にもならない。たとえ何十回なぐられ、砕けるまで四肢を踏みにじられようとも、それくらいの痛みは受け入れてみせよう。
けれど、ここで諦めるつもりはなかった。
おれ自身のためならいざ知らず、マナさんのためにできることがあるのなら、諦めるなんて選択肢はありえない。最後に残るのがどんな手段であろうと、それこそおれは何だってしてみせる。
おれに今できること。
その答えは、一つだ。
後悔することになるかもしれない。
その先に待つ幸せを奪うことも有り得る。
心を深く傷つけ、永遠に苦しめることにもなるだろう。
おれは呪いだ。
マナさんを縛る呪いに成り果てる。
もしかしたら、忘却の呪いなんかよりもずっとタチが悪いかもしれない。
それでも。たとえ傷つけることになってでも、一人にだけはしたくなかった。
彼女が孤独を嫌うのなら、おれを好きだと言ってくれるのなら、独りぼっちにしていい理由なんて、どこにもありはしない。
だからおれは、これから先何度でも、マナさんを好きになると決めたんだ。




