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忘却姉さん  作者: 白沼俊
23/26

第七章「再び、出会い」1話

「あなたのことなんか知らないわ」


 冷たく淡々とした声で、彼女はいう。


「さよなら」


 くるりと踵をかえし、軽やかな足取りで、少女はおれに手を振った。


 その背中が、遠ざかっていく。


「待って」


 おれは考えるよりも先に走り出していた。


 手を伸ばす。


 ここで行かせてしまったら、二度と会えないかもしれない。


「もしかして、忘却の呪いに――」


 少女の赤い瞳が、さっとこちらを向く。


 その表情に、おれは息をのんだ。


「ぐっ」


 手首を取られ、近くの木の幹に強い力で押さえつけられる。


「触らないで。気持ち悪いから」


 肩に激痛が走る。頬を幹にこすられて、血の流れる感覚があった。


「呪いにかかってたら、なんだっていうの?」


「あんた、おれのことを知ってるんじゃないのか」


「そうねえ、知ってはいるわ。でもそれだけ。こうしてわざわざ話をするような関係じゃないの」


 腕を引かれ、背中を蹴飛ばされる。


 落ち葉の上に手をつくと、少女が歩きだす音が聞こえた。


「分かったなら早く消えて。これ以上は不愉快よ」


「……そうはいくか」


 少女が一つ、ため息。


「しつこいと次は本気で…」


「あんた、一人なんだろ」


「……それが何よ」


「寂しくないのか」


 手についた砂をはらい、おれは彼女の前に立つ。


 唇を噛み、少女は目を逸らした。


「別に」


「嘘だ」


「決めつけないで」


「だったらなんで、泣いてんの」


 少女は、今気づいたというように頬を拭った。


 その目から、さらに涙があふれる。さっきからずっと、声も手も震えていた。


 多分、店を出た時から、ずっと。


「これは……別の理由」


「言いわけが下手だな」


「信じてもらわなくて結構よ」


 少女は時々しゃくりあげて、あふれだして止まらない涙を拭い続ける。


 涙を自覚してしまったせいなのか、声の震えは激しくなり、ついには話すこともままならなくなった。




 パリパリに枯れた葉が風で転がる。


 おれは足元に視線を落とし、つぶやいた。


「――ここ数日、ずっと変な感じがしてたんだ」


「何の話よ」


「寂しかった、って話だ」


 声のつまる気配があった。


 構わずに続ける。


「電車に乗ってるときとか、家でテレビを見てるときとか、朝起きたときとか――そういうとき、思うんだよ。今までと何も変わらないはずなのに、いやに静かっていうか。言っちまえば、寂しかったんだ」


 今まで、一人でいることに疑問など持ったことはない。暮らしを苦痛に感じたことはなかったし、誰にも迷惑を欠けずにいられるのは気が楽でよかった。


 けれどおれの心は、ある日突然変わった。変えられた、というべきか。


 生活の中から、「誰か」がひとり欠けてしまったような感覚。


 その「誰か」は、今目の前にいる。


 そしておれは知っていた。今、自分がいかに身勝手なことを言っているのかを。


「寂しいってなによ」


 彼女はいっそう強く、胸ぐらにつかみかかる。


「北村くんが言ったんじゃない! わたしとはもうこれっきりだって!」


「……やっぱり、そういうことなんだな」


 想像していることがあった。おれのやってしまったことについて。


 どうやらそれは、当たっていたらしい。


「おれは……あんたにかかった忘却の呪いを解こうとして、失敗した。そして暴走の呪いにかかったと思い込んだとき、あんたを傷つけたくないとか何とかいって、突き放した。そういうことなんだろ」


「……自分のやることくらいお見通しってわけね」


 手を離し、少女は苦く笑う。


 あまりにも似合わない表情だった。


「そうよ。北村くんはわたしを傷つけないためにわたしから離れた。結局勘違いだったわけだけど、もう、そういう問題じゃないのよ。元々わたしは気づいてたし」


 風が吹き、足元で落ち葉が舞い上がる。


「なあ。どうしてあんたは店にいたんだ? おれが熱を出したことまで知ってたし、今日だけのことじゃないんだろ」


「そのことね」


 少女は目を伏せる。話すうち、あふれる涙も落ち着いていた。


「まさかとは思ったんだけど、ネル店長がわたしのことを思い出しちゃってないか確かめに来てたのよ。でもいつも出かけてて困ったわ。さっきやっと会えたところ」


 ネルさんが少女をのことを知っていたらしいことは分かっていた。トラを探す時協力してもらったし、彼女は「忘却の呪い」について書かれているというノートを持っていた。今は見当たらないようだけれど。


 きっとそれも、少女の仕業なのだろう。


「どうしてそんな」


「決まってるでしょ」


 赤い瞳がおれを睨む。


「あなたに二度と会わないためよ」




 風で木々がざわめき、日陰が大きくゆれる。


「おれに――」


 突きつけられた言葉の鋭さにたじろいだ。


 言い返せないおれに愛想を尽かしたように、少女は踵を返す。


「そういうことだから、これ以上わたしに構うのはやめて」


「……これから、どうするつもりなんだよ」


「別に。適当にやるわ」


「一人で?」


「ええ。そう決めたの」


 横顔だけをこちらに向け、うすい笑みを浮かべる。


「わたしばっかり頼りっぱなしなんて、そんなの辛いだけだから。だってそれじゃ、呪いみたいでしょ?」


 憂いのまなざしに、おれは唇を噛む。


 にいなの時と同じだ。


 他人のことを思うふりをして、自分のことばかり見ていたから、孤独に苦しむ華奢な少女をも突き放すことになった。


「ああもう!」


 突然少女が両手を自分の頬に叩きつけた。


「皮肉っぽい! 自分で言ってて寒気がした!」


「だ、大丈夫か?」


「どういう意味よ!」


「いや……」


「わたしの話はもう終わり! あ、そうだ! せっかくだし、明るい話でもしましょうよ。それなら少しくらい付き合ってあげてもいいわよ」


 にっこりと笑い、おれに手を差しだす。


 急に明るくなった少女に面食らって、一歩引いてしまった。


「ほら、来て!」


 お構いなしに手をつかまれる。ちょっと冷えた手のひらは、細いのにやわらかかった。


「近くにバス停があるのよ。ちょうどいいからベンチに座らせてもらいましょ。バスのことなら安心して、全然来ないから」


 さっきまでとは打って変わった朗らさに戸惑いを隠せない。けれど理由を考える余裕はなかった。


 つややかな黒髪から漂う甘い匂いで、おれの頭は熱くなる一方だ。


 少女の言うとおり、カフェの敷地を抜けて少し進むと狭い道路があり、錆びた標識のそばにバス停があった。


 古びて色あせたベンチに腰かけ、少女は自分のそばをぱしぱしと叩く。座れという意味だろう。


 隣に腰をおろすと、彼女は身を乗り出した。


「さ、何か話して」


「いきなり言われても」


「あ、その前に」


 白いコートのポケットに手を突っ込み、


「これ貼らせて」


 ばんそうこうを取り出した。


「消毒綿もちゃんと持ってるのよ。その辺の子どもたちと遊んでるとたまに転んじゃうから」


「……ありがとう」


 つぶやいてばんそうこうを受け取ろうとすると、手を引っ込められた。


「自分じゃ見えないでしょ? わたしがやるわ」


 少女はベンチからおりた。


 普段からそうしているのだろう、ごく自然におれの膝に手をおき、頬を覗きこむ。じっと傷口を睨み、優しく拭く。


「痛むかしら。ごめんなさい。怪我させるつもりじゃなかったの」


「いや」


 それどころではなかった。


 傷に汚れが残っていないか確かめているのか、顔が異様に近い。


 頬に貼ったばんそうこうを軽く叩いて、少女は頷く。


「はい! おしまい! ……あれ、北村くん。どうかした?」


「別に」


「そう? なんか顔が……」


 理由に思い当たってしまったらしい。俯いて頬を赤く染める。


 その反応が意外で、見入ってしまった。


「何よ」


「……明るい話、だっけ」


「何かあるの?」


 顔をぱっと輝かせる。表情のころころ変わる人だ。


「そういうわけじゃないんだけど」


「えー。期待させといて」


「……じゃあ、名前教えてくれよ」


 少女の瞳がかげった。


「忘れてるんだったわね。いいわ、教えてあげる。マナよ」


「マナ……さん。って呼べばいいか?」


「ご自由に」


 隣に座りなおし、マナさんは唇をとがらせた。


「もう。最後なのに」


「え?」


 目を見張るおれに、彼女はにやにやとした笑みを見せる。


「ねえ、キスしましょ」


「はあっ?」


 ベンチから転げ落ちそうになった。


「い、いきなり過ぎるだろ!」


「イヤ?」


「い、イヤっていうか……あ、あんたこそ、いいの」


「ここだけの話、わたしたち、もう二回もキスしてるのよ」


「はあっ?」


「ああでも、最初の一回はカウントに入んないかしら」


 ここでおれはようやく気づく。


 おれたち、もしかして付き合っていたのか?


 おれが少女を好きだったことはおおよそ分かっていたけれど、まさか。


「ほら、早く早く。思春期の男の子なら初対面でもキスしたいもんでしょ? ね?」


 激しい偏見だ!


 けど、確かにこの子となら、おれも――。


「おねがい。これで最後だから」


「――最後、って」


 それ以上問うことはできなかった。


 唇を重ねられてしまったから。


 深く、深く。口のなかに、彼女が入りこんでくる。


 背中に両手を回され、おれも無意識に彼女を抱きしめていた。




 キスなんて初めてなのに、おれはごく当たり前のことのようにそれを受けいれていた。マナさんの「最後」という言葉に気を取られていたせいかもしれない。


 最後――二度も彼女はそういった。


 マナさんはこのキスを、最後の思い出にしようとしている。それくらいはおれにも分かった。


 唇が離れ、うすく糸を引く。


 淡くうるんだ目を細め、マナさんは微笑んだ。


「北村くん。大好きよ」


 彼女は人を嫌うタイプじゃない。孤独を愛する人でもない。


「ありがとう。会えてうれしかったわ」


 それなのに、独りぼっちになろうとしている。


 人を好きになれる、寂しさを知る女の子が。


 おれは、膝の上で拳を握りしめる。


「行くな」


 腰をあげかけていたマナさんの動きがぴたりと止まった。


「……ねえ」


「ああ」


「今けっこういいムードだったと思うんだけど!」


「そうだな」


「別れるタイミングとしては最高じゃなかった?」


「別れる時点で最高じゃない」


「――どうして?」


「そんなの決まって…」


「今の北村くんは、わたしと一緒にいたいだなんて思えないでしょ。初対面も同然なんだから」


「キスしといて何いってんの」


「それは別腹よ」


 滅茶苦茶な。


 ぶらぶらと動くマナさんのスニーカーを目で追い、頬をかく。


「……思えるよ」


 静かながらはっきりと答えた。


「マナさんのこと、す……き、だから」


「……え?」


「好きだからっ」


 言ってしまった。


 恐る恐る隣を窺うと、マナさんは真っ赤な顔で目を丸くしていた。


 それを隠そうと頬を覆ったりきょろきょろと別のほうへ顔を逸らそうとするけれど、からまわって余計に赤くなっていく。


 そんな様子を見ていると、こっちまで熱くなってくる。


「で、でも。北村くんはわたしのこと忘れて…」


「一目惚れしたんだ」


 おれは言った。


「それにさっきも言っただろ。記憶はなくても寂しいとは感じてたんだよ。今までのことがなかったことになったわけじゃない」


 マナさんの手を握る。西日が彼女の横顔をあざやかに照らした。


「マナさんと一緒にいたい」


 ふしぎな感覚だ。


 事情をちゃんと知ったのも、彼女を好きになったのも、彼女の気持ちを知ったのも、たった今のことなのに。


 それなのに、あまりにも重大な決断を前にして、おれは思うのだ。


 とっくに覚悟はできていたと。


「呪いを解く方法はもうないのかもしれないし、これから一生あんたを忘れない、なんて約束もできない。正直、どうやったって無理だと思う。けど――」


 じんわりと胸が温かい。


 自然とこぼれる笑みのままに、言った。


「これから何回忘れたって、おれはまたマナさんを好きになるよ。それだけは、自信をもって言える」




 けれど。


「――ダメ。それでもダメなの」


 マナさんの意思は固く、揺るがなかった。


 日の傾いた空は夜の帳を下ろしつつある。彼女の瞳は、暗くなった東側に向けられていた。


「わたしは、北村くんの人生を台無しにしたくない」


 涙をこらえるように顔を固くし、苦しげに声を絞り出す。


「台無しなんて、そんなわけ…」


「それじゃあ、北村くんは、子ども、欲しくない?」


「こ、子ども? いきなり何を」


「もちろん、意味のあるはなしよ」


 少し間をおいて、言いたいことを察する。


「――欲しいよ。いつかは」


「そう。ありがとう、ちゃんと答えてくれて」


 こんなところで嘘なんてついていたら、それこそ一緒にはいられない。


「でも――わたしが子どもを生んだら、世の中から見て、その子はだれの子ってことになるのかしらね」


 西日が厚い雲に隠れ、マナさんの表情がわからなくなる。


「それに、こんな呪いがあったんじゃ、まともに子どもは育てられない。気持ちでどうにかできる問題じゃないの。もし北村くんが必死に頑張ってくれても、その子にはきっと、たくさん辛い思いをさせることになる。


 だからわたしは、子どもは生まない」


 マナさんの声は淡々としていた。何もかもを受け入れ切ってしまったように。


「子どものことだけじゃないわ。わたしたちには、一生をかけてお互いを知っていくっていうことができない。わたしばっかりがあなたを知るようになっちゃう。みんなみたいにじっくりと時間をかけて、今よりもっと好きになるってことができないのよ。


 結婚だってできないんだから、家族にも心配かけることになるわ。あなた自身、わたしのことを忘れてるときは独りぼっちと同じだしね。それどころか、最後の最後にはなにも残らない。わたしがいなくなったとき、あなたは奪われた時間だけを呆然と見つめることになる」


 雲が去り、西日が再び顔をだす。


 やがて見えたマナさんの笑みは、ぞっとするほど穏やかだった。


「北村くんにそんな思い、して欲しくないのよ」


「……おれは」


「あなたなら、これからもっと素敵な人と出会えるわ。時間をかけて愛を深めて、祝福された結婚をして、いっしょにふたりの子どもを育てて――。わたしと一緒に生きるっていうのは、そういう、ごく当たり前の幸せを奪われるってことよ。


 だからごめんなさい。北村くんにどう思われても、わたしはもう、あなたとはいられない。北村くんの人生を台無しにしたくないから」


 その声に皮肉めいた調子はなく、むしろまっすぐな決意を感じさせた。


 やがて太陽は沈み、その余韻だけが空にのこされる。


 マナさんの、透きとおるような白い肌を見つめる。


 うすぐらい景色のなかで、彼女はよりいっそう儚げで、今にも折れてしまいそうだった。


 人生を台無しにしたくない。彼女はそういう。


 だったら――マナさんはどうなるんだ。


 たった一人で、これからの一生を生きていくのか?


 そんなの、耐えられるわけがない。


 あふれだしそうな言葉を飲み込み、深く息を吐く。


「少し時間をくれないか」


「……ダメよ」


「少しでいいんだ。考えがある」


 そんなセリフは予想していなかったらしい。マナさんは目を見張り、無言で先をうながす。


「マナさんと一緒にいられる方法を思いついた」


 もう呪いを解くことはできないのかもしれない。けれどそれが、マナさんを一人きりにしていい理由にはならないはずだ。


 だから決めた。


 どんな手を使ってでもマナさんを一人にはしないと。


 たとえそれが、誇ることのできない悪行なのだとしても。


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