第六章「幻」3話
翌日。月曜の朝。
目覚ましのけたたましい音で目を覚ます。
ベルの音を止めようとして、顔がひきつった。
体が重い。
のどの痛みと体の重さ、異様な眠気に悪い予感がする。
体温を計ってみると、三十八度を超えていた。
ネルさんと学校に連絡を入れると、おれはとりあえず、寝た。
寝ていれば楽になるだろう、というおれの見込みは甘かった。
昼前にようやく身を起こすと、朝より頭が重く感じて、喉の痛みも強烈になっていた。
慌てて水を飲み、何か消化にいいものをと冷蔵庫を覗く。ひとまず市販の風邪薬を飲みたい。もちろん病院には行きたいが、そのための気力が足りない。
けれど家にあったのはどれも調理の必要なものばかりだった。
「……コンビニ」
ぼそりと呟き、ふらりと座り込む。だめだ、動けそうにない。
……寝よう。
外の景色が赤らんできたころ。
「……ま、まずい」
おれは完全に動けなくなっていた。
立ち上がろうとすると頭がくらくらとして意識が抜けそうになる。
ずっと安静にしているのに、症状はよくなるどころか悪化する一方だ。熱というのがこうもタチの悪いものだとは。久しぶりのことで忘れていた。
携帯が鳴った。
つけっぱなしだった充電ケーブルを外し、電話に出る。
「秀一~?」
にいなののんびりとした声が耳をくすぐった。
「ああ、どうした」
「熱出ちゃったんだってね。調子はどう? ダメそう?」
「だ……」
つられて正直に答えるところだった。
「だいじょうぶ」
「ごはんとか部屋にある? もしよかったら何か買っていくよ~」
「いや、いいよ。風邪移すと悪いから」
まだなんとか、自分で買いに行ける。ぎりぎり大丈夫だ。
「ごめんね。わたしのせいだよね」
「……なんで」
「昨日川に落ちちゃったから」
「かもしれないけど、なんでそれがにいなのせいになるんだ」
白い影のせいだというなら分かるけれど。
「とにかく平気だから。ありがとな」
返事を聞く前に通話を切った。
さて。すぐにごはんを買いに――。
そう決めたはずなのに。
なぜかおれはまた、布団の上に倒れていた。
チャイムの音がした。つぎに、ドアをノックする音。
「秀一~、来たよ~」
電話から三十分ほど後。玄関のほうからにいなの声がきこえた。
動けずにいるとまたチャイム。おれを呼ぶ声。
なんとか布団から起きあがり、ふらふらと玄関に向かう。どうやらまだ動けるらしい自分にほっとして、声を振り絞った。
「馬鹿、帰れよ。風邪移っちまうだろ」
つい強い口調になってしまった。
答えがない。
「にいな? 聞こえてんだろ?」
気持ちはありがたいけれど、風邪を移すのだけは絶対にごめんだった。
「にいな、たのむ。来てくれたのはうれしいけど」
やはり返事がない。のぞき穴に目を当てると、そとににいなの姿はなかった。
帰った……のか?
釈然としない思いで布団へ引き返す。そしてそのまま倒れこもうとして、おれは目を疑った。
窓の外に、にいながいた。
窓ががらりと開き、枠を乗り越えてくる。
「お、お前どっから……」
布団の上に押し倒される。馬乗りになったにいなの頬を、涙が伝った。
「にいな……?」
「馬鹿は秀一だよ! 人の気も知らないで!」
弾かれたような叫びに絶句する。
「馬鹿だよ、秀一は」
呆然としていると、おでこに手を当てられた。
「大丈夫って言ってたよね。なのにどうしたの、この熱」
「これは」
「電話で声聞いてすぐに分かったよ。苦しいの我慢して話してるんだなって。どうしてつらいって言ってくれないの?」
「別に、このくらい」
「こんなときに気なんか使わないでよ! お願いだから……ちょっとくらい、わたしに頼ってよ」
「けどお前に風邪が……」
そこで、言葉に詰まった。
どうしてにいなが泣いているのか、気づいたから。
昨日――にいなに頼ってもらえなかったと知ったとき、おれが抱いた気持ち。それと同じものを、にいなも感じているんだ。きっと、今まで何度も。おれなんかよりもたくさん、苦しい思いをしてきた。
おれがさせてきた。
「……聞いてもいいか」
すすり泣くにいなにおれは問う。すでに分かり切ったことを。
「昨日の白い影のこと、おれに話してくれなかったのは、なんでだったんだ」
にいなは答えない。
「おれのせいか?」
にいなは答えなかった。
否定しなかった。
気づいてしまえば簡単なことだ。どんなに辛いときにも頼ってくれない、相談もしてくれない。自分で解決することが正義であるかのように振る舞う。そんなやつに、どうして助けを求められるだろう。
誰にも迷惑をかけず、誰の力も借りず、たった一人、地に足つけて生きていく。そんな立派な男になってやる――六年前に生まれたその信念のために、あろうことかおれは、一番大事な家族を傷つけ、あげく突き放していた。
自分ではそれを誇りにすら思っていたのだから救いようがない。
人の気も知らないで、とはよく言ったもんだ。
どんな顔をすればいいのかわからない。だからおれは、何も考えず、自然なままの表情でにいなを見上げた。
「……にいな。メシ、作ってくれないか」
引っかかっていることがある。
この数日、色んな場所、色んな場面で違和感を覚えていた。
道を歩いているとき、家で食事を作っているとき、スーパーで買いものをしているとき。それから、布団の中で眠りにつくとき。
変わりのない日々を過ごすなかで、今まで覚えたことのない感情を抱くようになっていた。
寂しい、と。
いやに静かで、何をするにももの足りない。常に音楽でも聴いていないとやっていられないような。
カフェで働いている時もそうだ。こちらは寂しいというより、もっと具体的な感覚。いつもより一人、人が少ない。はっきりと明確に、そう感じていた。
おれの生活の中から、「誰か」が一人欠けてしまった。おれはそう考えている。
その「誰か」に謝らなくちゃいけない。そんな気がしていた。
けれどそれがどこの誰であるのか、おれには全く見当もつかない。
ひんやりと濡れたタオルがひたいに触れる。
ゆっくりと目を開けると、そばに座っていたにいなが穏やかな笑みを浮かべた。
「気分はどう?」
にいなの温かな声で、自然と笑みがこぼれる。
「だいぶ楽になった」
「本当? よかった」
「けど、もう十時か。帰ったほうがいいんじゃないか」
「平気。今日は泊まることにしたんだ~」
「明日も学校だろ。教科書とかどうすんの」
「そこは、いったん家に戻ってから行けば大丈夫ですよ」
「何もそこまでしてもらわなくても」
「わたしがそうしたいんです~」
おれの頭を撫でてにいなは微笑む。照れくさいけれど、心地よかった。
にいなはやがて、のんびりとした調子で鼻歌を歌いだした。おれの額に乗せたタオルを取り、プラスチックの桶に張った水に浸す。それを絞って、再び乗せてくれた。
おれは静かに身を起こす。
「にいな。今日は――いや、今まで、悪かった」
「その話はもういいよ~」
「昨日のチョコレートだって、食べてやれなくて」
「そ、そういえばそんなものも作ってたね。すっかり忘れてたよ~」
「……見たんだ、ゴミ箱に捨ててあったチョコレート」
「えっ?」
「隠さなくていい。怒ってたなら、そう言ってほしい」
目を大きく開いて、にいなは両手をふった。
「ち、違うよ! あれは、怒ってたとかそういうのじゃなくて」
「じゃあ」
「急に、自分のやってることが虚しくなっちゃったというか、その……」
「虚しく? どうして」
「とにかく! 気にしないで、ほんとうに」
おれは瞬きして、にいなの顔をまじまじと見つめる。くりくりと丸っこい目が困ったように逸らされる。
嘘はついていないようだけれど、虚しいというのは一体。
「そ、それより!」
にいなはたまりかねたように手を叩いた。
「秀一は、好きな人とかいたりするの?」
話題を変えるのはいいが、何故そんな話になるのか。
「……さあな」
「あ、やっぱりいるんだね~」
だからなんで分かるんだよ。
「誰かなあ? クラスの人、だったりして」
「知らない」
「え~」
おれには確かに、好いている人がいる。
もちろん理子先輩のことだ。
前に告白してあえなく撃沈したわけだが、それで気持ちが消えてくれるわけもなく。
けれどそのあと先輩と再会して、本当は先輩もおれを好きでいてくれたことがわかって、それで――。
待て。おかしい。
「秀一? どうしたの?」
どうもこうもない。
おれはどうして、先輩を振ってしまったんだ?
「お~い」
今でも先輩のことは好きだ。付き合うことを躊躇う必要なんてどこにもなかったはずなのに。
あの時おれは、少しも迷わなかった。それだけは覚えている。それがどうしてかと問われると、上手く答えられなかった。
ただ一つ言えるのは、決してネガティブな感情はなかったということ。ひたすらにまっすぐな思いから、おれは先輩を振った。
まるでかけがえのない「誰か」を想って、その気持ちに恥じない行いをするかのように。
「ほら、だめだよ~」
背中に手を回されて、思考が途切れる。
「な、なに」
「眠いならちゃんと横にならなくちゃ」
そっと寝かされる。濡れタオルも忘れずに。
起き上がる理由もないので、天井を見つめて再び考え込む。
顔も名前も知らない「誰か」。それについては一つ、思い当たることがある。
藍色のトラの「忘却の呪い」だ。
以前おれは、トラのかけるその呪いに心の底から憤り、トラ探しに乗り出した。結局最後は荒川がトラの首を切り落とす形で決着がついたわけだけれど、気になるのは、帰りの車内がお通夜のように静まり返っていたことだ。憎むべきトラをめでたく消し去ったというのに。
もしかするとおれたちは、トラを説得して、「誰か」の呪いを解いてもらおうとしていたのではないか? そう考えるとあの空気も頷ける。
おれがトラに憤ったのだってそもそも、呪いにかかった「誰か」を目の当たりにしたからなのだと思う。知りもしない人のために怒れるほど、おれはお人好しじゃない。
つまりおれは、「トラに呪われた人たち」のためではなく、たった一人の「誰か」のために動いたのではないだろうか。
となれば、胸に引っかかった違和感の正体は明らかだ。
分かったことは二つ。
おれは「誰か」を忘れている。
そしてその「誰か」は、おれにとって、きっととても大切な人だということだ。
木々に囲まれたログハウスのカフェを見上げる。久しぶりのアルバイトである。
ドアを開けると、カウンターに田原が一人。
「どうも」
その声は相変わらず無愛想だけれど、それはそれで安心感があった。
「迷惑かけたな」
「いえ、別に」
ネルさんの話では、おれが休んだ代わりに田原が入ってくれたらしい。トラの時といい田原には頭が上がらない。
店内を見るとテーブル席にお客さんが三人いた。
そのうちの一人――高校生くらいの少女が、カチャリとカップを置き、席を立つ。
明るく透きとおった赤い瞳が印象的な、華奢で、肌の白い、流れるような黒髪をした少女だった。
白いコートを羽織った彼女は、田原にお金を渡して店を出ていく。
そのすれ違いざま、おれに一瞥をくれた。
「熱、下がったのね」
「――え?」
女の子にしては少し低めの、芯の通った――それでいて、どこか甘い気配のする声をしていた。
少女は、大きく開いたドアの外へと消えた。
そのドアが、自らゆっくりと閉まっていく。
「あの子――」
壁にかかった時計に視線を走らせる。まだ時間には余裕がある。
おれは迷わなかった。
「すいません」
店を飛びだし、少女の背中に声をかける。
つよい風が吹き、彼女の長い髪がさらさらとゆれた。
少女が振りかえる。
後ろで手を組み、小首を傾げて、赤い瞳を妖しく細める。
「――何かしら」
一瞬、言葉を失った。その仕草があまりにも艶やかだったから。
ごくりと唾を飲み、おれは言った。
「前に会ったこと、ありませんか」
この質問に意味はない。声をかけられればそれでよかった。
彼女がおれのことを知っているのは、さっきの囁きで分かっている。大事なのは、ここで彼女と話をすることだ。
けれど彼女は、さらりと簡単に言ってのける。
「いいえ。あなたのことなんか知らないわ」
その声は、驚くほどに冷たく淡々としていた。
「さよなら」
くるりと踵をかえし、軽やかな足取りで、少女はおれに手を振った。