第六章「幻」2話
二月に入った、最初の日曜日。
おれは夢路家に来ていた。あるものの味見をするために。
「はい、できたよ~」
リビングのソファで待っていると、チェック柄のエプロンをつけたにいなが、手のひらほどの大きさのチョコをもってやってくる。
そう。バレンタイン用のチョコレートである。
「これ、本当に試作か?」
「そ、そうだよ~。上手くできてるでしょ~」
なめらかに光るハート型のチョコを見下ろす。白い皿に乗ったそれは、シンプルながらきれいで美味しそうだった。
先日いきなりチョコレートの味見を頼まれたときは何事かと思ったけれど、なるほどこれは――このしっかりとしたハートの形は、そういうことか。
「ちなみに誰に渡すつもりなんだ?」
「そ、それは言えないよ!」
この反応は、やはり。
ともあれ味見。見た限りでは完璧な仕上がりだが、甘すぎるか苦すぎるということもある。せっかく練習台になったからには、偽りのない感想を言わせてもらおう。
「けど、なんか悪いな。ここまでちゃんとしてると」
「ちゃんとしてなきゃ味見にならないよ~」
それもそうか。
皿を持ち、チョコをそのまま手でつかむ。
それを口に運ぼうとしたときだった。
ほんの一瞬、視界の端。
窓の外を何かが横切った。
……人影?
チョコを置き、外に目をやる。
「今のは」
レースのカーテン越しというのもあって確信はできないけれど、子どもが入ったというには大きすぎる影だった。
「なあ、にいな。今の」
「そんな……」
ガチャリと、皿に添えられたフォークが音を立てる。
にいながテーブルに手をついていた。
「ど、どうしたっ」
「……家にまで来るなんて」
震える声で、たった一言。
その顔からはすっかり血の気が引いていた。
おれは目を剥いて窓に駆け寄り、カーテンを手の甲でどけ、顔を外に出す。
庭には誰も見当たらなかった。
「ちょっと、外見てくる」
そういって振り返ると、にいなの顔色が変わった。
目を見張り、呆気に取られているような。
なにか変なこと言ったか? と首をかしげ、何かを見ているらしいことに気づく。
にいなの視線を追おうとすると、視界の端を白い霧のようなものが通りすぎた。
一瞬だった。
それはテーブルの真上、にいなのそばで圧縮され、人のような形をとる。
「なに、これ」
にいなが声をもらす。
それは――そこにいたのは。
人のような形をして、けれども紙切れのようにうすっぺらい――まさしく、あの日夜の学校で見た『白い影』だった。
見られた。
にいなに見られてしまった。
彼女にだけは怪異と関わってほしくなかったのに。
ならばせめて、この日をにいなのトラウマにさせないよう守り抜かなければ。
「くそっ、なんでおれたちを」
何度も後ろを振り返りながらアスファルトの道を走る。
にいなの手を引くおれの後ろに、白い影はぴたりとくっついてきていた。今は人の形を取らず布切れのようにひらひらと宙を泳いでいる。
影は明らかにおれたちを、いや、にいなのことを狙っていた。
どういうつもりか知らないけれど、にいなを渡すわけにはいかない。
ぐっと奥歯をかみ、覚悟を決める。
「にいな、手を離すぞ」
「う、うんっ」
ジーンズのポケットに手を入れる。
小さな球の感触に安堵し、しっかりと握った。
「いい加減しつこい!」
きびすを返し、影に向けそれを突き出す。
青いスーパーボール。触れるだけで怪異を吸いこむ呪いの道具。この前暴走の呪いにかかったことをネルさんに話したら、もしもの時のためにと渡してくれたのだ。
白い影がぴったりうしろにくっついていた、いまなら。
「さあ、おとなしく中に入れ! 化け物!」
しかし。
スーパーボールに触れる直前、ぎりぎりのところで影は霧となり、おれたちにぶつかることなく通り過ぎた。
「なっ……!」
はっとして影のほうへ向き直り、球をかまえて睨みを利かせる。
白い影は再び布の形をとり、ふわふわと宙に浮かんだ。突っ込んではこず、間合いをたもったまま動こうとしない。
にらみ合いの時間がつづく。にいなも固唾をのんでその場の様子をうかがっていた。
どれほど経っただろうか。
先に動きを見せたのは影のほうだった。ふいにふわりと飛びのいて、そのまま風にのって流れ去った。
一応周囲をうかがってから、ほっとひと息。
「諦めてくれたか」
白昼の住宅街でもお構いなしに襲ってくるとは。通行人がいなかったのは幸いだ。
……それにしても。
今の反応、まちがいない。あの影、球のことを明らかに知っていた。
やっぱりあいつ、学校で捕まえた白い影なんだ。
「ね、ねえ秀一、今のって」
青ざめた顔でにいながきく。
「ああ……説明するよ」
理由はわからないけれどにいなは狙われている。分かるだけのことは話してやるべきだろう。
「けどその前に、電話だけさせてくれ」
まずはネルさんに事情を教えてもらわないと説明どころじゃない。何せ、おれ自身事態を呑み込めていないのだ。
そばにある民家の塀に背をあずける。にいなが無言でうなずくのを確認して携帯をだした。
「……ァ」
「ん? 何か言ったか」
にいなは答えない。じっと黙って虚空を見上げるばかり。
その目はあまりにも虚ろで、まるで植物のようだった。
「おい、にいな?」
「……」
やがてぶつぶつと、意味のないつぶやきを繰り返しはじめる。
「にいな!」
肩をゆすっても反応がない。
そこでようやく気がついた。
自分たちが真っ白な霧に包まれていたことに。
ふいに霧が晴れ、視界が広がる。
雲の重たく垂れこめた空が、にいなのふわふわとした髪ごしに見えた。
「あ……あぁ」
おれはにいなにのしかかられ、首を強く絞められていた。
「この……!」
青いスーパーボールを握りこむ。それをにいなのうでに当てた。
「にいなから出ていけ!」
「カ……エエ」
けれど、効果はなかった。直接当てなければダメなのか。
――返せ。
頭に思考が流れこんでくる。
「なんの……ことだ」
「カエセエエエエ!」
なんとかして引きはがさなければ。
前に熊田という体育教師が体をのっとられたとき、荒川は殴って気絶させていた。
けど、それはダメだ。それだけはできない。
にいなに手をあげるくらいなら、おれは死んだほうがマシだ。
首を絞める手にさらなる力が加えられる。いよいよ息ができなくなった。
――返せ……返せ!
このためだったのだろうか。白い影がにいなを狙ったのは。
では、おれのせいで?
「――頼む」
そっと、痛めつけないようににいなの腕をつかむ。
「おれはどうなってもいい。だから、にいなにだけは、傷をつけないでやってくれ」
絞り出すようにおれは言う。哀願といってもいいほど必死に。
すると、初めて反応があった。
「ウウウ……」
首から手がはなれ、空気が肺に流れこむ。咳きこんだおれの上から立ちあがり、にいなはゆっくりと手をあげる。
それから――自らの首を絞めた。
「やめろ!」
おれは考えるより先につかみかかる。彼女の首から無理やりに手を引き剥がす。
「わかった、返す。教えてくれ、おれは何を返せばいいんだ」
にいなは――白い影は答えない。うまく答えられないのか、それとも自分で考えろとでもいうのか。
彼女はとうとう声をあげるのをやめた。おれを突き飛ばし、ふらりと身を翻す。
「まてっ、どこへ…」
にいなへ手を伸ばす。けれど前には出られなかった。
誰かにフードを引っぱられたのだ。
中学生くらいの見知らぬ少年たちが、無表情におれを見上げていた。
ひとり、ふたり、三人……あの怪異は人を操ることができる。それも、何人も同時に。知ってはいたけれど、さっきまで人通りがなかったから油断した。
三人がかりで、それも本気の力でしがみつかれ、たまらず転倒する。
「おい、まて! 何の真似だ!」
影はにいなの体を乗っ取ったまま悠然と歩み去っていく。おれはその背中を、地に伏したまま見ていることしかできなかった。
少し経つと少年たちは気を失った。すぐに目覚めるだろうと、そばの家の茂みにおいていく。
悪いが、今は何よりにいなが心配だ。
息の乱れとともに、鉛のようになった足の重さを感じる。いくら探し回ってもにいなの姿は見つからなかった。
膝に手をつき周囲を見回す。平屋の住宅、小さな公園、雑木林、三階建てのアパート……。
北から冷たい風が吹いてきて、そちらに足を向ける。
再び駆け出ししばらく行くと河川敷にでた。
そこへ続く石階段を見下ろす。見慣れた背中を見つけた。
彼女はゆっくりと振り返り、うつろな瞳をこちらに向ける。
「にいな!」
駆け出そうとするおれの前に二人の男が立ちふさがる。影にあやつられているのだろう。
彼らの奥、階段の先でにいなの体は川へと向かう。
あいつ、なにを――。
「まさか」
にいなを溺死させようというのか?
「やめろっ、やめてくれっ」
男たちの間を抜け、階段を駆け下りる。
しかし下までたどり着く前に背後から飛びかかられ、そのまま彼らともども石の階段を転がり落ちた。
痛みに呻きながら、必死に顔をあげる。
すぐ目の前ににいながいるのに、上から押さえつけられて身動きできない。
「教えてくれっ。おれはどうすればいいっ」
にいなは振り向かなかった。
川へ歩み寄り、あと一歩のところで立ちどまる。
「頼む、にいなを殺さないでくれっ。できることなら何でもする。だから――」
最後の一歩が踏みだされる。
そのとき。
背後の階段から、身軽な足音がした。
直後、すぐそばを駆け抜ける影。
目を見開く。
今まさに、にいなのつま先が川に触れた、そのとき。
「夢路ちゃん!」
飛び出した手がにいなの腕をつかんだ。
こんな偶然があるものなのか。
「おい北村、こりゃ一体どういう状況だっ?」
今までにないほど息を乱し、声を裏返して西村はいった。
一瞬の静寂。影にとっても予想外だったのか、にいなの動きがとまった。
だがそれもほんの二、三秒のこと。すぐに獣のように暴れはじめた。
「夢路ちゃん! どうしたってんだよ!」
にいなは答えず西村を突きとばす。
ふらりと体が離れたとき、西村の手がにいなの服をつかんでいた。
にいなの足がつるりと地面をすべる。
西村と二人そろって転倒した。
「すっ、すまねえ! ……お? おーい、夢路ちゃーん?」
西村が肩をゆさぶる。反応はない。
これは、もしかすると……。
腕に力をいれ、起き上がってみる。背中に乗った男たちは抵抗なく地面をころがった。
「夢路ちゃん? おい、夢路ちゃんっ? き、北村! 夢路ちゃんがっ」
おろおろと助けを求める西村をよそに、にいなの体を注視する。
案の定、胸から白い影が浮きだした。
「ひいいっ? な、なんだあっ?」
「今だ!」
すかさず飛び出す。もちろん青いスーパーボールは持ってきていた。
「今度こそ!」
球を、前へ――。
瞬間、真っ白な光が視界を埋め尽くした。
「や、やった! つかまえた!」
と、よろこんだのも束の間。
死に物狂いで駆け出したため足が止まらなかった。
「あっ」
「おん?」
ついでに西村を巻き添えにして、おれは川へと突っ込んだ。
それから十数分後、夢路家にて。
「クソォ! なんで男二人で風呂に入んなきゃならねえんだ!」
「風邪引くよりはマシだろ」
おれと西村はカチコチに冷えた体を温めるため、夢路家の浴室にお邪魔していた。
湯船からゆらゆらと湯気が立ちのぼる。西村がシャワーを浴びる傍ら、おれは湯船へ。
熱いお湯につかると全身の緊張が一気にほぐれた。
「ったく酷い目に遭ったぜ。つーかよ北村、あの白いのはなんだったんだ?」
「あとで話す」
どうせにいなにも説明するのだから一緒でいいだろう。
幸い、にいなの体に傷はなかった。あのあと一分もせずに目を覚まし、ずぶ濡れになったおれたちを見て大騒ぎした。
あとでネルさんから聞いたところによれば、あの白い影は学校でつかまえた個体ではなかった。けれど無関係でもないという。
人を操る怪異――自由気ままに形を変える白い影には仲間がいたのだ。正確には分身、同一の存在だということだが。それが学校に身をひそめていた。
ネルさんの見解では、片割れを取り戻すためにおれを脅す機会を窺っていたというところらしい。
つまりにいなには何の罪もない。
つかまえた影は呪いの力を搾り取り、害のない状態にしてから解放するとのことだ。少なくとも、人に危害を加えるような異常な状態ではなくせるらしい。
ともかく今度こそ、白い影とはおさらばだ。
湯を手ですくい顔にかける。うすいピンクの壁を見上げた。
「西村……さっきはたすかった。ありがとう」
「礼を言われるまでもねえ。夢路ちゃんのピンチにぼくが駆けつけないわけにゃあいかねえさ」
西村はぐっと親指をたてる。いつもはふざけてばかりいるけれど、これで結構頼りになるやつなのだ。
「にしても、えらくいいタイミングだったな」
西村はこの家からさほど近くに住んでいるわけじゃない。あの河川敷を通りかかるなんて滅多にないはずだった。
「ああ、さっきのか? べつに偶然とかじゃないぜ。今朝からずっと見回りしてたからな、この家の近くで」
「見回り?」
「あっ、勘違いすんなよ! ちゃんと夢路ちゃんの許可もらってやってたんだからな!」
そういうと何故だかうそ臭いが、いくら西村でも黙ってそんな真似はしないだろう。
けれど何故見回りなんて。
疑問が顔に出ていたのか、西村は続けていった。
「ストーカーの野郎が家にまで来たらやべえだろ? だからもしものためにな」
「……ストーカー?」
「ん?」
「ストーカーって、なんだよ」
「……は?」
西村の手からシャワーのヘッドが落ちる。
「お前まさか、知らねえのかっ? 最近夢路ちゃんをつけ回してるやつの話だぞっ?」
「……聞いてない」
何も聞かされていない。おれの前ではそんなこと、一言も話さなかった。
「……そうか。なるほどな」
西村は足元を流れる湯に視線を落とし、どこか哀れむように呟いた。
そのあと西村から、ストーカー騒ぎの件について簡単に聞かせてもらった。
誰かに見られている気がするとにいなが感じたのは、おれが学校を休んでいた週のこと。それからすぐ、誰かに後をつけられていると確信するようになったという。
その週の土曜、ついに一人でいるところを真っ白な服に身をつつんだ人影に追われ、いよいよまずいということでにいなのほうから周囲に相談をしたらしい。
それで西村は犯行がエスカレートする前に犯人を捕まえようと動き出したのだった。
ストーカー……そんな話、おれは全く聞いていない。もしそれが事実なら、どうしてにいなは何も――。
この前のにいなの寝不足も、おそらくこの件のためだ。気づいてやれる機会は、きっといくらでもあった。それなのに――。
すっかり打ちのめされたような思いで、おれは一足先に風呂を上がった。
ストーブで暖められたリビングをのぞく。レースのカーテンがかかった窓のそばににいなの背中はあった。
「……西村から聞いた」
何のことか言わずともにいなは察したようだった。こちらには顔を向けずに小さく俯く。
「そのことなら、もう平気だよ」
にいなはいった。
「さっきの白い影ね、わたしを追いかけてきた人影にそっくりだったんだ、前見たときも真っ白だったし。お化けに追われてたなんてびっくりだよ」
努めて明るい声を出そうとしているのがわかって、胸がちくりと痛んだ。
「結局秀一に助けられちゃったね」
「いや、それは」
おれのせいで巻き込んでしまったことで――。
「あとでお化けのこと、聞かせてね」
そう言うとにいなは踵を返し、リビングから立ち去ってしまった。
西村はまだ上がってこない。おれは一人リビングに立ち尽くす。
ふと、テーブルの上からチョコレートがなくなっていることに気づいた。
さっと部屋を見回す。よく見ると、ゴミ箱によごれのないキッチンペーパーが乱雑に突っ込まれていた。
イヤな予感がした。
見えたのは紙だけだ。けれど何故か、この下に何か隠されているような気がしてならなかった。
つばを飲み、白い紙をつかみだす。その下をのぞきこんで、おれは固まった。
ハート型の――にいなのつくったチョコレートが、ゴミ箱のなかで砕けていた。