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忘却姉さん  作者: 白沼俊
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第五章「消失」

 目的の場所が見えてくる。


 工事中の道路橋。線路をまたぐための橋の上にトラはいる。


 幸い、今日の工事作業は終わっているらしい。人は見当たらなかった。


 立入禁止のフェンスを乗り越え、鉄骨の橋を駆ける。


 橋はまだ完成していない。真ん中の辺りで真っ二つに分かれていた。


「……北村くん」


「ああ」


 おれたちの視線の先――巨大な溝をはさんだ反対側に、ゾウのように大きな、藍色の体毛をしたトラの姿があった。


「よう、さっきぶりだな」


 おれは呼び掛ける。


「結界から出たいなら、振り返って、おれと話をしろ」


 数秒の沈黙。


 風の音だけが流れる静寂の中、おれはただ、トラが動くのを待っていた。


 やがて。トラの前足が、わずかに右に引く。


 大きな体がゆっくりと振り向き、怪しく光る緑色の瞳がおれを捉えた。


 しかし――。


 次の瞬間、信じられないことが起きた。


 トラの頭が力なく横に滑る。


 首の上を、ゆっくりと。


 そして――堂々とした体から、頭のみが分離し、落ちる。


「……は?」


 理解できなかった。何故トラの首が落ちるのか。


 何故、わずかにも動こうとしないのか。


 瞳から輝きが失われるのを、おれはただ、呆然と見ていることしかできなかった。


「遅かったな、北村」


 トラの陰から、竹刀を持った大男が現れる。


「これは、一体――」


「この獣は私が屠った」


「…………」


 力が抜けて、うまく声が出ない。


「おい、女」


 腹に響く、地鳴りのように低い声で荒川は言った。


「聞いているのか。お前だ、北村の傍にいる女」


 マナさんもおれも、言葉を返せない。


「お前、写真で見たことがあるぞ。ネルのところで世話になっているという、トラの呪いにかかった女だな? この場に結界が張られるのが見えたときは何事かと思ったが、なるほど、そうまでしてでもトラを捕まえたい理由があったのだな。わざわざお前が出張ってきたところを見ると、呪いを解いてもらおうとでも考えていたわけか。全く、浅はかな」


 荒川の言葉は、右から左へと流れていくばかりで、おれの意識には届かない。


「この獣が人間を呪うときの手順は知っている。お前、呪いの力を利用して、人の心を操ったのだろう。お前のような人間には罰が下ってしかるべきだ。お前は初めから、呪われて孤独になる運命だったんだ」


 荒川は竹刀を袋にしまい、踵を返すと、最後に一言言い捨てた。


「大人しく、神の怒りを受けいれろ」




 藍色のトラは、やがて激しく燃え消滅した。灰すら残さず、跡形もなく。


 忘却の呪いを打ち消す術は永遠に失われた。マナさんはもう、一生、呪われたままだ。


「ま、今までどおりに生活すればいいってだけの話じゃない! 気楽なもんよ!」


 帰り道、ネルさんの乗せてくれた車のなかでマナさんは、しきりに明るい言葉を口にした。おれは曖昧に頷くばかりだった。


「北村くんには、これからたくさん迷惑をかけちゃうかもしれないけど」


「気にするなよ、そんなこと」


 ネルさんはおれの住むアパートの近くで車を止めてくれた。


「今日は……せっかく色々と協力していただいたのに、すいませんでした」


「いや、こっちのセリフだ。……悪かったな、肝心なところで」


 重たい空気が車内を満たす。罪悪感と無力感で体を押しつぶされそうになる。


「もう! 二人とも! 謝るのはなし!」


 沈黙を吹き飛ばすのは、またしてもマナさんだった。


「じゃあ店長、また! ありがとうございました!」


 マナさんと一緒に頭を下げ、車を降りる。


 去っていく車が見えなくなるまで、マナさんは元気よく手を振っていた。


 住宅街を歩き出す。冷えきった風に肌がぴりついた。


「荒川くんのこと、怒らないであげて」


 ひどく穏やかにマナさんは言った。


「元々はわたしが呪いを解こうとしてるなんて知らなかったんだし、それに、わたしたちがあのトラとちゃんと交渉できたとも限らないんだから」


 暗く寂しげな道に、街灯の青白い光が落ちる。


 こんな時なのに夜空は、白々しいくらいによく晴れていた。


「こんなことで、なんて言ったら北村くんにはわるいけど……わたし、今日のことで、ちっとも絶望なんかしちゃいないのよ。だって」


 透きとおった赤い瞳がきらめき、太陽のような笑みが弾ける。


「北村くんがいるもの!」


 おれはぱちくりと瞬きをして、ふっと笑う。


「……そうだな」


 手を、優しく、慎重につなぎ合わせる。


「ずっと一緒だ」


 けれど、おれは思ってしまうのだ。


 やっぱりどこか、無理をしているんじゃないかと。




 その心の揺れが、呼び寄せてしまったのだろうか。


 手を繋いだおれたちの上で、街灯が音を立てて弾けた。


「何っ?」


 前後の街灯も次々と弾け、視界が暗闇に呑まれていく。


 そして。


「これは――なんの冗談だ」


 道の先、暗闇の中に浮かび上がったのは、トラの姿をした怪異だった。


 藍色のトラとは似ても似つかない、猫のように小さな、けれども禍々しい化け物。


 どろどろとした黄土色の体を発光させて、唯一あのトラを想起させる緑色の瞳で、ぎろりとおれを睨む。


「……いるの? 怪異が」


 マナさんの手が、かすかにふるえた。


「北村くん、行きましょ」


「……」


 つないだ手を離し、おれは一歩進みでる。


「いい加減にしろよ」


 さらに一歩、また一歩。


「なんなんだよ、お前ら」


 肩をいからせ、目を剥いて。


「何が罰だ、何が神の怒りだ。人の痛みも分からない化け物の分際で!」


「北村くん、だめ!」


 頭に血が昇って何も聞こえない。音がない。


 気づくと、駆けだしていた。


「お前らなんか、いなくなれ」


 小さなトラを蹴り飛ばそうと足を踏みだす。けれどそれは届かなかった。


 トラに足が触れる寸前、見えない壁に弾かれて、体を大きく跳ねとばされた。


 体が宙に浮きあがり、視界が真っ逆さまになる。


 怯えるマナさんが目に入ったけれど、目は合わせられなかった。


 その後のことは、よく覚えていない。




 宙に浮いているような感覚だった。


「やめて……目を覚まして」


 遠くから声がする。水の外から聞こえてくるような――。


 水の中? どうしておれはそんなところに。


 いや違う、ここは。


「北村くん……やめて……やめて!」


 声が急に大きくなって、はっと目を開ける。


 おれは夜道に立っていた。目の前には息を乱したマナさん。


「い、今、なにが……」


 混乱する頭を押さえ、必死に記憶を探る。


 確かおれは、黄土色のトラを見て、勝手に逆上してしまって、それから。


「何やってんだ、おれ……」


 自分に呆れてため息がもれた。怪異相手とはいえ八つ当たりをするなんて。


 で、それから……。


「よかった、正気に戻ったのね」


「は?」


 マナさんの言葉でようやく気づいた。


 おれの手が彼女の腕と肩をつかみ、強く壁に押さえつけていることに。


「そ、そこです!」


 振り向くと、カートを引いた老婦人が恐怖にひきつった顔でおれを指差していた。


 その隣には警官。


「おい君、何をやっているんだ!」


「逃げるわよ」


「えっ?」


 手を引かれ、道に飛び出す。


「こら、待ちなさい!」


 民家の庭に駆け込んで、その奥の道路へ抜ける。


 この辺りは民家と民家があまり密集していない。身を隠しながら逃げるのは難しかった。全力で走るしかない。


「ああもう! 今日は走ってばっかり!」


「おれは……何を」


 それからしばらく逃走劇が続いた。


「君たち……いい加減に……!」


「しつこいわねあの人……これがおまわりさんの意地ってやつかしら……」


 どうにかこうにか公園の茂みに身をひそめて、警官の目をやり過ごす。乱れた息を抑えるのが一苦労だった。


「行った……?」


「……みたいだな」


「そこか!」


 張り上げられた声に肩が跳ねる。しくじった。


 靴と砂がこすれる足音が近づいてくる。こちらへ、まっすぐに。


「ど、どうすんのよ。完全にばれてるじゃない」


 口を押え、息を殺す。ぎりぎりまで耐えれば、もしかしたら。


 しかし警官が茂みに分け入り、望みも薄まっていく。


「出てきなさい。あそこで何をしていたんだ」


 もうだめかと思った、その時。


「なっ、なんだっ?」


 警官が声をあげる。


 ぶわりと目の前に闇が広がり、おれとマナさんを飲み込んだ。




「あー、びっくりした。でも、別に逃げる必要なかったわね。わたしがうまく言えばよかったんだし」


 おれの住むアパートの一室。四畳半の畳の部屋に座り込み、マナさんは大きく息をついた。


「ところで、きみは」


 おれたちを助けてくれたのは佐野だった。以前おれをさらった時に使った黒い布で包んでくれたのだ。


 まだ腕を吊り片目のガーゼも取れていないけれど、退院はできたらしい。


「わたし? マナよ。北村くんの……恋人?」


「恋! へ、へえ。そうなんですか」


 佐野はどぎまぎと部屋を見回し、気まずそうに咳払いした。


「で、どうして警察になんて追われてたんですか?」


「そうだ、それだよ。おれは……何をしたんだ」


 さっきの――老婦人の怯えた視線。あんなものを向けられる筋合いはない、はずなのだけど。


「まあ、そのことはいいじゃない! そう、おでんよおでん! 昨日北村くんが作ってくれたのがあるでしょ? もうお腹がすいちゃって」


「マナさん」


 強く、おれは遮った。


「おれはマナさんを……襲ったのか?」


「えっ?」


 佐野がぎょっとする。


 目を覚ましたとき、何故かおれはマナさんを壁に押さえつけていた。あれはどう見ても、マナさんに襲い掛かっているようにしか――。


「それはまあ、そうなんだけど」


 あくまでも軽い口調で、マナさんは認めた。


 ふらりと足の力が抜け、おれは尻もちをつく。


「おれ、なんてことを」


「でも意識はなかったんでしょう? じゃあきっと怪異に操られてたのよ。白い影が学校の先生を暴れさせた時と同じ。北村くんは悪くないわ」


「悪いだろ。悪いに決まってる。怪異相手とはいえ八つ当たりをして……そのせいで、マナさんにも迷惑をかけて。……最低じゃないか」


 今はおれがマナさんを元気付けなくちゃいけないのに。


「もういいじゃない、そんなことは。過ぎたことなんだし」


「けど」


「いいのいいの! はい、この話はおしまい!」


 罪悪感でふらふらになりながら、おれは曖昧に頷いた。


「あの……なんとなく事情もわかったんで、ぼく、そろそろ帰っても」


 言いながら佐野は、肩かけかばんを手に腰をあげる。


「ああ。さっきは助かったよ」


「そうね。ありがと!」


「いえ、そんな」


 照れ笑いを浮かべると、佐野はかるくパーマのかかった髪をしきりにいじりながら頭を下げた。


 佐野は踵を返し、玄関へ向かう。おれたちも見送るために立ちあがった。


 そしてそれは、突然に起きる。


 おれは、佐野の肩へと手を伸ばしていた。




 畳の穏やかな匂いがする。


「これは――まずいですね」


 上から声がした。


 佐野とマナさんが話しているようだった。


 どうしたことか体が動かない。黒い布に縛られているのだと気づくまで数秒かかった。


「何がどうなってんの」


「北村くん。正気に戻ったのね」


 そのセリフ、さっきも聞いたような。


「……まさか」


「そうです。君、また暴れだしたんですよ」


「な……」


「君は『暴走の呪い』にかかっています」


「暴走の……呪い?」


「我を忘れて暴れ出してしまう呪いです。タイミングにも頻度にも規則性がなくて、できることといったら、こうやって体を縛り付けることくらいです」


「待て。待てよ」


 淡々と事実を告げる佐野に、おれは強引に顔をあげた。


「おれはあのトラにちょっと近づいただけだ。意思を流し込まれてもない。ほんの一瞬で呪いなんてかけられるわけが…」


「かけられますよ」


 マナさんに目を向けると、力なく首を振られる。


 現実を受け止められなかった。


 自分が呪いに、しかも周囲の人を傷つけかねないような呪いにかかってしまったなんて、受け入れられるわけがなかった。


「そうそう、分かるとは思いますけど、その呪いのせいで警察の厄介になったって人もいるみたいですから、正気でいるうちに縛っておいたほうがいいですよ。じゃ、話も済んだことだし、ぼくは怖いので帰らせてもらいますね」


「え、ちょっと、佐野くんっ?」


 取り乱すマナさんを無視して、佐野は黒い布を引き上げた。肩かけ鞄を手に、改めて玄関へ向かう。


「それじゃあ、お邪魔しました」


 鉄製のドアの閉まる音が、やけに大きく耳に響いた。




「薄情者!」


 佐野の消えた玄関をマナさんが睨んだ。


「でも暴走の呪いだなんて。どうしたら」


 あたふたと部屋を回り始めるマナさんを、おれは無感情に見あげる。腰をあげる気にはなれなかった。


「どうしよう……やっぱりヒモとハサミが必要よね」


 いつの間に場所を知ったのか、彼女は梱包用のヒモを棚から見つけだして頷いた。タンスの上に置いてあったハサミで長さを整える。


「これで足りるかしら。うーん」


 おれは座りこんだまま目を伏せる。


「……マナさん。アパートから出て行ってくれないか」


 マナさんはきょとんとした顔をして、ハサミを落とした。


「ちょっと、何言ってるのよ。そんなことしたら」


「分かってて言ってるんだ」


「ふざけないで! こんなときに寝ぼけてるの?」


 落としたハサミで再びヒモを切り、おれの前にしゃがみ込む。


「とりあえず、北村くんには悪いけど体を縛らせてもらうわね。とりあえずそれで凌ぎましょう」


「凌ぐ? いつまでだよ。これから一生か? そんなこと、できるわけないだろ」


「……待って。北村くん、あなた何か」


「これはおれ一人の問題だ。マナさんを危険に晒すわけにはいかない。大事な人に、迷惑はかけたくないんだ」


 マナさんを傷つけたくない。もしもまた襲いかかって大怪我でもさせてしまおうものなら――おれはきっと、おれ自身を殺してしまう。


「だから、悪い」


 マナさんを押しのけ、玄関に向かう。


「ちょっと、待ってよ!」


 戸惑う彼女を振り返り、おれは薄く笑った。


「あんたとは、もう、これっきりだ」


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