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忘却姉さん  作者: 白沼俊
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第四章「あの日の出会い」4話

「どこだ、どこに行った」


 大きめの通りを走っていた。清潔感のあるマンションや道路の上には、既にトラの姿はない。


「まあ焦るな」


 奇妙な模様の書かれた白い紙を眺め、ネルさんは前方を見あげた。


「あっちだ」


 ネルさんに先導され、おれたちはさらに走る。引き止められると思ったのに、彼女はトラを追うのに協力してくれていた。


 ネルさんが立ち止まる。


「あそこが怪しい」


 言われて、指差された先を見る。


 広大な星空を背にしてどっしりと構える大きな建物。水色っぽい壁に赤い十字――そこは町の総合病院だった。


「まさか、あの中に」


「いや」


 ネルさんは紙をかざし、少しずつ上へずらしていく。途中でぴたりと止めた。


「屋上だ」


 ごくりと唾を飲み、視線を上にあげる。ここからは姿が見えなかった。


「坊主。くれぐれも無茶だけはしてくれるなよ」


「どうして協力してくれるんですか? ついさっきまでは反対してたのに」


 マナさんが聞いた。


「今だって反対さ。だがまあせっかくの好機だ。この際、いっそやれるだけやって失敗したほうが諦めもつくんじゃねえかと思ってな。アタシがいないうちに動き回られるよか、よっぽど安心できる」


「失敗前提なんすね」


「当然だ。このアタシにできなくて、どうして坊主にやれるってんだい」


 言われようはともかく、ネルさんがいてくれるなら心強い。


「さあ、無駄話はしまいだ。――行くぞ」




 総合病院の屋上。その一歩手前。


 まぶたを閉じ、呼吸を整える。


 この先に、藍色のトラがいる――。


 重いドアを開け放し、吹きこんだ風に目を閉じた。


「人を魅了する力……だと」


 しゃがれた声がした。


 目を開ける。視界に冷えきったコンクリートが広がる。


 一人、白髪の老人が立っていた。


 高いフェンスに囲まれた屋上の真ん中で、青いチェックのパジャマに身を包んだ老人が、しわだらけの顔を苦しげにゆがめる。


 マナさんは飛び出そうとして、途中で身を固めた。


 理由はすぐに分かった。


 ――トラがいた。


 藍色の――ツヤツヤとした毛並みをした、ゾウのように巨大なトラが、大きな夜空を背景に白髪の老人を見下ろしていた。


 フェンスのてっぺんに四本の足をまとめて座る姿は、重さをまるで感じさせず、それが単なる獣でないことを悠然と示していた。


 老人に目を向ける。彼はうつろな目でトラを見上げた。


「まずい! 意思を流し込まれてやがる!」


 ネルさんが叫ぶ。


 人を魅了する力――さっき彼はそう呟いた。顔を歪めたのはその後だ。


 あれは、体の痛みではなく、内なる葛藤に苦しんで――。


 おれが気づくのと同時に、老人が声をあげた。


「頼む! わしに……魅了の力を!」


「だめ!」


 マナさんが老人に飛びかかる。


「んがっ」


 老人はマナさんに気づきもせず、そのため、体当たりをもろに食らうこととなった。


 勢い余って二人とも転倒する。


「いたた……やりすぎちゃった」


 倒れた老人の上で起き上がり、マナさんは頭を擦った。


 仕方がない。加減なんてする暇はなかった。今、ちょっとした怪我なんかよりもずっと恐ろしいことが起きようとしていたのだから。


 マナさんは知っている。その胸を蝕む後悔を。


 マナさんは知っている。その、凍えるほどの孤独を。


 忌まわしい忘却の呪いが、たった今老人にかけられようとしていたのだ。


 口の中で、ぎりぎりと歯がなった。


「……なっ、なんじゃ、お前さんたちはっ」


 正気を取り戻したらしい老人は、目を白黒させてマナさんやおれたちを見比べる。


 おれの目は藍色のトラにのみ向けられていた。


「おい……何のつもりか知らねえけどな」


 これから交渉をする相手だ。穏やかな態度で向かわねばならないことくらい、おれだって分かっている。


 けれど、どうしても我慢ならなかった。


「おまえの呪いは罰なんかじゃない。幼稚で身勝手な正義に皆を巻きこんでるだけだ!」


 フェンスの上の巨体を睨みつける。緑色の瞳が禍々しくきらめいた。


 藍色のトラは気だるげに腰をあげる。


 おれたちを襲うか? ……いや、こいつは。


 トラの四肢が、フェンスの上で力強く曲げられる。


 ここを去る気か!


「まて!」


 叫んだ時には、トラは大空へ跳びあがっていた。




 トラの消えた空を、おれは呆然と見つめる。


 あいつ――おれたちのことなんて見てもいなかった。老人が正気を取り戻して興味をなくしただけだ。要するにあのトラはおれたちを舐めきっていた。


「あのトラ野郎、アタシの前で人様を呪おうってか」


 背後に立っていたネルさんが、重く低い声でつぶやく。


 その声に不穏な気配を感じ、おれは振り返った。


「ネル……さん?」


「――舐めた真似してくれたな」


 その瞬間。


 ネルさんの全身から白く光る熱風が吹きつけた。


 その眩しさに目を細めた一瞬のうちに、彼女は姿を消していた。


「な……何が、起きたんだ?」


「北村くん、ぼうっとしてないで!」


 その声にぼんやりと振り向く。マナさんはあまり驚いたふうではなかった。


「わたしたちも追いましょ! ともかく、トラが飛んでったほうに!」


「あ……ああ」


「北村くん! しっかり!」


 なおも曖昧な返事をするおれに、マナさんはじれったそうに足踏みした。


「北村くん、聞いて。わたし、別にあのトラのことを憎んでるわけじゃないの」


「……マナさん?」


「でも、わたしの他にも同じ呪いをかけられてる人がいるんだって思ったら」


 そこまで言われて、ようやくおれははっとした。


「そうだな。これ以上、好き勝手させるわけにはいかない」


 そのためにも、こんなところで呆けているわけにはいかない。


 おれたちは頷き合い、病院を飛び出した。




 携帯が鳴ったのはその直後のこと。


 ネルさんからだった。


「ネルさん! 今どこに」


「トラを結界に閉じ込めた」


 突然の報告に、一瞬理解が追いつかなかった。


「ほ、本当ですか!」


「だが、悪いな。ちと坊主の協力が必要になりそうだ。あのトラ野郎、この三年のうちに予想以上に力をつけていやがった。ああクソッ、怪異ってのはどうしていつもこうなんだ」


 電話の向こうで悲鳴みたいに高い音がした。鉄のひしゃげるような、耳にひびく大きな音。


「大丈夫ですかっ」


「いや、悪い、今のはアタシだ。それより――トラの野郎を閉じ込めることはなんとかできてる。だがそれでせいいっぱいだ。閉じ込めているうちはアタシも動けそうにない。だから――トラの捕獲を、坊主に頼みたい」


 高い空からの月明りを、いっしゅん、流れる雲が遮る。


 おれが――あの巨大なトラを。


「どうだい。やってくれるか」


 流れていく影のあと、再び月に照らされる。


 固く握った拳は、微かに震えていた。


「――もちろんです」


「よし、上等だ! 今からいう場所に来い。そこに藍色のトラがいる」


 ネルさんから向かうべき場所を聞いたあと、おれは電話を切った。


「北村くん、今の」


「ああ。トラを結界に閉じ込めたらしい」


「……トラを」


 マナさんは緊張につばを飲み、俯く。


 三年前、彼女はたくさんのものを失った。家族、友達、普通の生活――当たり前の幸せを打ち壊された。


 確かに彼女は過ちを犯した。けれど、心の弱ったところに甘い誘惑を持ちかけられたら、きっと誰だって間違えてしまう。それに取り返しのつかないことをしたわけではないのだ。これから一生背負わなければならないような罪には、どうしても思えない。


 だからおれは、幻のように儚げな――けれど確かに目の前に存在する――おれの大切な人を救いたい。


 改めて、胸に手を当て自身の決意を確かめた時。


 背後から、強烈な北風が吹きぬける。


 瞬間、おれの目が遠くの人影をとらえた。


「あれは――」


 電気のような衝撃が、脳天からつま先へ突き抜ける。


 軽くカーブを描いた道の先に、豪速でペダルを回す影があった。


 叩きつける暴風を物ともせず、学ラン姿の大男が向かってくる。


 その背中からは竹刀袋が飛び出していた。


「なんで、あいつがこんなところに」


 般若のように顔をゆがませた大男――荒川剛が、すぐそばを自転車で走り抜けていった。




「どうしたの?」


「いや……」


 放心していたおれに、マナさんがきょとんとした視線を向ける。


「早く行きましょう。トラがいるんでしょ?」


 おれは頷き、目的地へ歩き出す。


 そうだ、今はあんなやつどうでもいい。いようがいまいが関係のないことだ。


 目的の場所はそう遠くない。十分もかからないはずだ。走るべきかと思ったけれど、既に酷使された足は鉛のように重い。これ以上疲弊しては、いざというとき大事を避けられなくなる。しっかり息を整え、できうる限り万全の状態でいこう。


 これが、最後になるのだから。


 そう、最後。呪いが解けたにしろ解けなかったにしろ、マナさんといられるのは今日で最後になる。おれが彼女といっしょにいるのは、忘却の呪いを解くためなのだから。その最大のチャンスが今ならば、それを逃してなお食い下がったところでできることなど何もあるまい。


「こんな時になんだけどさ」


「なあに?」


 そう、だからこそ。こんな時だからこそ、聞いておきたいことがあった。


「ずっと聞きたかったんだけど、さっき、怪異に追われる前、電車のなかで……」


「あちゃー。やっぱり、ばれてた?」


 顔をほのかに赤くして、マナさんは困ったように笑った。


 おれが聞いたのは火の玉に襲われる直前のことだ。電車が揺れてよろめいたマナさんの腕をおれは掴んでしまった。二メートルルールというものがありながら。


 きっとマナさんは激怒する。そう覚悟したのだけれど、恐る恐る彼女の様子をうかがうと――マナさんの顔が真っ赤に染めあがっていたのだった。


「あーあ。まだダメだったのに」


 観念するように言って、マナさんはため息をついた。


「わたしね、呪いのことが全部終わるまでは、気持ちを知られたくなかったの。なのに北村くんがあんな――キスなんかするから」


 また頬を赤らめて、熱っぽい瞳を揺るがせる。


「知られたくないって……それは、つまり」


「そうよ」


 マナさんはおれの前に飛び出すと、おれの頬を両手で覆い、ぐっと引き寄せた。


「北村くんが好きってこと」


 そういって彼女は、おれの唇にキスをした。




「どうして」


 口づけの戸惑いから立ち直ると、まずおれは、疑問を口にした。


「どうして、気持ちを隠そうとなんて」


 恥ずかしくて言えなかった、というのとは違うはずだ。なぜなら。


「さっき、呪いのことが終わるまでは知られたくなかった、って言ったよな」


「それは」


 すっと、マナさんは手を離す。


 足を速めおれより三歩先へ出る。


「あんまり言いたくないわ。卑怯な気がするから」


 後ろ歩きで彼女は微笑んだ。


「でも、今だったら話せるかも」


 鮮やかな赤い瞳がわずかに俯き、薄い唇がそっと開く。


「もし――もしも、わたしにかかった呪いが解けなかったとして。そうしたら、どんなに頑張っても、いつかは必ずあなたに忘れられる時がくる。その時こんなに幸せだったら、別れがいっそう辛くなるでしょ? だからせめて、ただのお友達のままでいたかったのよ」


 青白い街灯がゆっくりと流れ、マナさんを照らしては去り、去っては照らす。


 おれは前に進み出てその手を取った。


「呪いが解けなくても、マナさんを一人になんてしない」


 マナさんはしばらくおれを見つめ返していたけれど、やがて、くすりと笑った。


 手の上に、温かい感触が重なる。


「ありがとう」


 細くやわらかな指が、おれの手をぎゅっとつかむ。おれもそっと、それに応えた。


 マナさんはあどけないようでいて艶やかな、静かな笑みをたたえる。


「一人でいると、時々、心が空っぽになったような気分になるの。その瞬間、誰の心の中にもわたしはいなくて、わたしの周りにも誰もいなくて……誰かに触れたくてたまらないのに、そんなことを頼める人なんているはずもない。ネル店長にだって言えなかった。でも、今は――」


 微かにうるんだ瞳がおれをとらえる。


「今ならはっきり言える。わたし、北村くんと出会えてよかった」


「――おれだって」


 決意を新たに、改めて前方を見据える。藍色のトラは目前だ。何としてでも忘却の呪いを解かせ、マナさんを孤独から救いだす。


 おれたちは互いの手を握り、指を絡ませ、トラの待つ方角へ踏み出した。


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