第四章「あの日の出会い」1話
うすい糸のような湯気を上げるカップを見下ろし、マナさんは唇をわなわなと震わせる。
その顔は、温かい店内にもかかわらず青ざめていた。
「おかしい……こんなのおかしいわ!」
清々しい快晴の今日は日曜日。おれとマナさんは昨日に続けてログハウスのカフェに足を運んでいた。
「三年やってるわたしより美味しいってどういうことよ!」
テーブルに手をついて悔しがるマナさんに憐みの視線を送る。
おれたちは店の奥、コーヒー豆の袋がたくさん積まれた一室で、おれが淹れたコーヒーを啜っていた。
「マナさんが一から教えてくれたおかげじゃないか」
「そうだけど、そうなんだけど!」
せっかくいい豆を使っても正しいコーヒーの淹れ方が分からなくては意味がないと、小一時間ほど前から懇切丁寧なご指導を賜っていた。きちんと淹れられるようになって初めて、豆の違いが出てくるようになるからだ。
豆を挽くところからお湯の注ぎ方までやさしくしっかり説明してくれた。
元々淹れ方は知っていたのだけれど。
夢路おじさんが大のコーヒー狂いで、中学の頃半ば強制的に教わったのだ。先輩風を吹かせたがるマナさんを見たら言い出せなかった。
おれは熱いコーヒーを恐る恐る啜り、ほっと息をつく。
「で、ネルさんはどこに行ったんだ。バイトの契約書もらいたいってのに」
「きっと誰かの依頼を受けてるのよ。専門家として」
「――専門家、ね」
だったらおれたちの依頼も受けて欲しかったものだ。お金なら、ちゃんと払ってみせるから。
「まだ怒ってるの? 昨日のこと」
「さあな」
怒ってはいない。失望していた。
藍色のトラなら、この前会いましたよ――田原は昨日そう言った。
トラは彼女に呪いの力を与えようとしたという。皆の愛情を一身に引き受けるための力、すなわち人の心を惑わす魅了の力を。
けれど彼女は断った。曰く、「別に人に好かれたいとは思わないので」と。
田原の話はともかくとして、トラの目撃証言は手に入ったのである。ネルさんがその気になればトラを探し出すことは不可能ではなかった。
それだというのに、あの人は――。
*
「イヤだね」
制服を返された田原が去った後、改めてトラを探して欲しいと切り出したおれに、ネルさんは即答した。
「なっ……どうしてですか!」
「無駄と分かってることに手間なんざかけられるか」
「そんな、試してもいないのに」
「試したさ、一度はな」
「え……?」
予想外の言葉だった。マナさんも驚いたように顔を上げる。
「言っただろう。目撃証言さえありゃ探し出すのは不可能じゃない。それはマナちゃんが呪われてすぐの頃にも言えたことだ。だが――」
交渉は失敗に終わった――。
「あいつはダメだ、あのトラはとりわけタチがわるい。人間ってものをはなっから毛嫌いしてやがる」
「どうして」
「理由なんてねえのさ。生まれた瞬間から既に人間を憎んでいる、あれはそういう類の現象だ」
ネルさんが言い終えると、しばし沈黙が流れた。その間に残りのお客さんがカフェを後にする。
人間を毛嫌いする怪異……。
手元のカップを手にとり、冷めてしまった残り少しのコーヒーを喉に流し込む。
「でも……他に、マナさんにかかった呪いを解く方法は見つかってないんですよね」
「他に、じゃない。一つも存在しねえんだ」
「ネルさん!」
カウンターに手を叩きつけたおれを、鈍く濁った碧眼が無感情に見据える。
「この話は終いだ。それとな、間違ってもテメエでトラに近づこうとなんてするんじゃねえぞ。他の怪異ならまだしも、あれは危険すぎる。下手に話しかけでもしようものなら、余計な呪いをかけられかねない」
その後おれがどれだけしつこく食い下がってもネルさんの意思を変えることはできなかった。マナさんを救うたった一つの方法が見つかったのに、人に頼るしかできない自分がひたすらに恥ずかしかった。
*
夜。
どさりと重たい荷物をおいて、ようやく一息つく。
「ごめんなさいね、手伝ってもらっちゃって」
「別に、これくらい」
六畳間の畳の部屋に、大量の衣類と雑貨品の入った旅行鞄が運び込まれる。マナさんの住むアパートからもってきたものだ。
「……こっちの部屋でよかったの。ここ、ちょっと汚いだろ」
日に焼けて微かに黄ばんだ壁を見やって、おれは言う。
「何言ってるの、こんな掃除も行き届いてるのに。まあ、あそこも中々いいところだけどね。あの部屋店長が選んでくれたのよ」
旅行鞄を開きながらマナさんは得意げにいう。……下着を出すときは一声かけてくれないか。
「店長はね、独りぼっちになったわたしに居場所を与えてくれた人なの。ほんと、お世話になりっぱなし。店長がいてくれなかったらどうなっちゃってたのかしら」
「ネルさんとは昔から?」
「初めて会ったのは呪いにかかった後のことよ。忘却の呪いのことは知ってたみたいでね、神隠しの騒ぎが起きたときに、わたしのことを探し出してくれたの。随分酷い顔をしてたからすぐに分かった、って言われちゃった」
藍色のトラを見たことがあるかい? ――公園のベンチに座りこんでいたマナさんに、ネルさんはそう問いかけたという。
恥ずかしそうに漏らすマナさんは、けれど、曇りのない笑みを浮かべていた。
おれは少し、考えを改めなくてはならない。
青く澱んだ瞳を見て警戒心を働かせていたけれど、ネルさんは信用すべき人だった。マナさんを救ってくれた人だ。
けれど、だったら尚更依頼を受けて欲しかった。そう思ってしまう自分がいるのもまた、否定しようのない事実であった。
翌朝。
「起きて起きて! 学校の時間よ! ほら外見て、もう朝、すごい朝! ジリリリリリリリ!」
目覚ましをかけずゆっくり眠っていたら、いきなり襖を開けられ叩き起こされた。
「いいんだよ……どうせ学校には行けないだろ」
いくら何でもマナさんを引き連れたまま授業を受けるわけにはいくまい。
「でも行くの! 北村くんが留年になってもわたしには責任とれないんだから!」
「大丈夫だって」
「何がよ!」
「……おやすみ」
「こらぁ!」
それからしばらく学校へ行けとどやされつづけ、あげく服を剥かれて制服に着替えさせられるまでに至った。隣室の人には朝から迷惑をかけてしまった。
で、二時間後。
おれとマナさんは町の総合病院に来ていた。
「北村くんって頑固なのね」
「まだ言うか」
ぷいとマナさんはそっぽを向く。
ここにはある人に会うためやってきた。聞きたいことがあるのだ。
病室のスライドドアを開けると、一つだけ置かれたベッドに腕を吊った天然パーマの青年が座っていた。
白い壁に白い天井、真っ白なシーツ。窓際には白い花まで飾られ、室内は清潔感にあふれている。
目を合わせると、彼の顔からみるみるうちに血の気が引いた。
「よう、佐野。個室とはいいご身分だな」
「なっ、なんで君がっ」
おれの後ろからひょっこりと顔を出したマナさんには目もくれず、座ったまま一心不乱に後ろへ下がる。そのまま落ちた。
ベッドの奥を覗くと、佐野はわざとらしいくらいにがたがたと震えていた。
「き、君には会うなって言われてるんですっ。こ、今度こそ殺される……!」
「おれから会いに来たんなら問題ないだろ」
「い、いいから帰って……いえ、帰らなくていいです」
「……どっち」
「帰らなくていいですっ。君に命令したことが知られたら何されるか分からないんですよっ」
誓いの札の呪いか――『佐野の言葉には逆らわない』とおれは書いたのだった。
半べそをかきながらベッドへ這い上がった佐野は、腕を吊り、片目にはガーゼを貼られ、頭は包帯で巻かれていた。酷い怪我だ。
荒川のやつ、いい加減独房にぶちこんだほうがいいんじゃないか?
「っていうか、その人は誰ですか」
佐野は今さら気づいたようにマナさんを指差した。
「わたし? 気にしないで」
「はあ……」
「それより聞きたいことがある。この後、用事は?」
「ないですけど……」
いかにも帰って欲しそうな顔色。気にはしない。
佐野には十分な貸しがある。ちょっと助言をもらうくらいなら罰は当たらないだろう。
「か、怪異の協力を得るなんて無謀ですよっ」
おれの相談を受けて、佐野は開口一番にそう言った。
「けど他に方法はないんだよな」
「ないのよね?」
「……と、思います」
おれとマナさんに詰め寄られ、佐野は気まずげに俯いた。
「専門家たちの間では、呪いと人が関わるようになってから少なくとも数百年は経つと言われてるんですけど……。それだけの時間、他の方法が見つかってないってことは、呪いを解くにはやっぱり、呪いをかけた者に協力してもらうしかないんだと思います」
「だったら決まりだな。それしかないならやってみるしかない」
おれは言った。
「……で、佐野には怪異を探し出す方法を教えて欲しいんだけど」
佐野はベッドの上に正座して、居心地悪そうに身を縮めた。
「で、でも。あの……それは、ネルに怒られるかもしれないので……」
「ネルさんには無理やり吐かされたって言えばいい」
「わたしからもそう言っておくから」
「そう、ですか……? いやでも……」
少し迷ったようだけれど、やがて佐野は頷いた。
「わかりました。じゃあ――怪異を見る方法を教えますね」
それから六時間ほど経った頃。夕方より少し手前。
「あいよ、確かに」
ネルさんの経営するカフェにて。
受け取った契約書をひらひらと揺らし、ネルさんは背中で言った。
「これから、よろしくお願いします」
「おう、気をつけて帰んな」
熱心にファイルを読みこむ彼女を残し、おれとマナさんはその場を辞した。
これで明後日からバイトができる。学校は行けなくてもあの店に行くのは問題ない。マナさんには「わたしはどうかと思うけどね!」と言われてしまったが。
帰り道。
「ばれてなかったよな」
「どうかしら。店長結構鋭いから」
駅へと向かう田舎道の途中、おれは何度もカフェのほうを振り返っていた。
おれたちは、ネルさんに内緒でトラ探しを始めていた。
「なんにしても、道のりは険しそうだな」
「そうね、まさか怪異を見る鍛錬から始めることになるなんて」
実はまだ、トラ探し自体はできていなかった。
怪異と遭遇するためには、そもそも目的の怪異を見られるようにしておかなくては話にならない。怪異は自然や街中のいたるところに存在しているが、おれたちにはそのほとんどを目にすることができないのだ。もしかすると藍色のトラとも気づかずすれ違っていたかもしれないわけである。
だからまず始めたのが、いつどんな時でも怪異を見られるようになる鍛錬であった。
その方法とは、呪いの墨で文字を書かれた札をじっと見つめ続けるというものなのだが……。
「本当にこんなんで見えるようになるのか?」
「でも、いまは佐野くんを信じるしかないわ」
「あいつを信じる、か……」
なんだか急に不安になってきた。
前から人が歩いてきて、いったん話を中断する。
肘に白いバッグをかけた上品な雰囲気の女性だった。ハイヒールがコツコツと特徴的な音を立てる。
カフェのお客さんだろうか。落ち着いた桜色の、シンプルですっきりとしたコートを着こなしていた。ゆるやかな巻き髪に見覚えがあって、おれはちらりと目を向けた。
足をとめる。
「北村くん?」
肩に下げたカバンが、ずるりと肘まで落ちる。
――目が合った。
時間が止まった気がした。
「あれ。きみ――どうして」
「……理子先輩」
彼女は何気ない仕草で近寄り、ふふ、と上品に笑ってみせる。
「久しぶりだね。そちらは、もしかして彼女さんかな?」
理子先輩が小首を傾げると、ふわりと花の香りが舞う。
「……友達です」
「マナって呼んで。よろしくね!」
「理子です。よろしくね」
いきなり握手する二人。おれはそそくさと歩き出した。
「じゃあ、おれたちは…」
「あ、待って」
花の香りに呼び止められる。そうなっては振り返るしかない。
「ねえ、秀一くん。あの時のこと、まだ覚えてる?」
「――あの時?」
それは、つまり。
おれが答えられずにいると、理子先輩はどこか寂しそうに微笑んだ。
「ごめん、やっぱり何でもないや。それじゃあね」
彼女のほうも意外にあっさり去っていく。
ほっとするようで、名残惜しい気もした。
「どういう関係?」
小さくなっていく背中を見送りながら、マナさんが聞く。
「前のバイト先の先輩」
「それだけ、じゃないみたいね」
おれは頭をかいて、短く息をついた。
「そうだな」
こういうときはあっさり、何でもないことのように話してしまうのが一番いい。
あれは先月のことだったろうか。バイト先のファミレスが閉店してしまうことを知ったおれは、焦りに焦って――。
「告白したんだ。で、振られた」
「ふうん。なるほどね」
淡白な反応。けど、そのほうがありがたい。
ふと思う。理子先輩にはこれだけ気まずくなっていたのに、どうしてマナさんとはこんなにも普通に話せるのだろう。
……答えは明快。あからさまに避けられてしまったからだ。思えば彼女には随分迷惑をかけてしまった。
さっきの先輩は前みたいに気楽に話しかけてくれた。きっとそう努めてくれたのだ。だったらおれもそれにならうべきだろうか。気を使ってくれているのなら、おれのほうから蒸し返すわけにもいかない。
彼女がカフェに行くのなら、また会うことがあるかもしれない。そのときは笑顔くらい作ってみせよう。