第三章「探し人との出会い」5話
「ひさしぶりだねえ、佐野ちゃんよぉ」
縛り上げられた佐野をよどんだ瞳で見おろし、ネルさんはにたりと笑う。
おれが佐野のことを連絡すると、彼女は三十分ほどで駆けつけた。
すらりとした見た目からは想像しがたい、ドスの利いた太い声。荒川とはまた異質な、得体の知れない迫力がある。
佐野はがくがくと小刻みに震え、縛られたまま壁際まで逃げた。角材が崩れて頭に当たってもお構いないだ。
「よ、寄らないでくださいっ」
「おいおい、そりゃないだろうよ。せっかくの再会だってのに。なあ? 坊主」
「はあ」
「ところで、そこの嬢ちゃんはなんだい」
「は?」
覚えていないのか? じゃあ、店の時はどうして――。
「北村くんの友達です。気にしないでください」
「そうかい、なら気にしない」
さっさと本題に入りたいらしい。佐野の前でどっかりとあぐらを掻いて、短い金髪をかきあげた。
「さて、佐野ちゃん。話は全部聞かせてもらった。京子のときに懲りてくれたと思ったんだがねえ。いやあ、残念だ」
穏便に済ますつもりはない。そう彼女は言った。見ているこっちまで寿命が縮みそうだ。
「そんな佐野ちゃんにひとつ命令させてもらおうか。いいか? 頼みじゃない、命令だ」
命令?
尋問するのだろうか。聞きだすべきことはいくつもあった。
けれどネルさんの命令は、「質問に答えろ」というものではなかった。
「そこの坊主にかけた呪いを解け。今すぐだ」
気づくと、ネルさんの肩に手を置いていた。
「ちょっと待った」
「おう、なんだい」
「なんだいじゃないでしょう。さっき店で聞いた時は、呪いが解かれた前例はないって言ったじゃないですか」
「そのことかい」
面倒くさそうに、ぽりぽりと頭を掻く。
「言い方が分かりにくかったな。さっきのはあくまでも、怪異に呪いをかけられた場合の話さ。人間からかけられた場合で言えば、前例はいくらでもある」
「何か違うんですか」
「大違いさ」
ネルさんは言い切った。
「いいかい。呪いを解くには必ず、呪いをかけたやつの協力が必要になる。こいつさえその気になりゃ坊主にかかった呪いを解くことはできるんだ。実際、今の京子には呪われた痕跡すら残っちゃいない」
「そう……なんですか」
「人間の例に照らしゃ、怪異からの呪いも怪異の協力さえあれば解けるはずさ――だが、やつらの協力を得るなんざはっきり言って不可能だ。話の通じるやつらじゃねえのさ」
「そんなことより!」
マナさんが声をあげる。肩をいからせ、さらさらとした黒髪を揺らして佐野に迫る。
「早く北村くんの呪いを解いて!」
「ひいいっ」
今にも胸ぐらを掴まんばかり気迫に、愚かな青年は悲鳴を上げる。
おれも呪いは解いて欲しい。できることならなるべく早く。いつまでもこんな小心者の言いなりなんてごめんだ。
だがどうしてだろう。どうにもおれはついていない。
「いま、呪いといったか」
これほど間の悪いことがあるだろうか。
ネルさんでさえ、額に手を当て嘆息する。
「そうか、ここは学校の近くだった」
ボロ小屋のガタガタになった引き戸の傍に、学ラン姿の大男が立っていた。その肩からは竹刀袋。
荒川剛だ。
殺気全開の目つきで、一歩二歩と佐野に近づく。
その前でマナさんが両腕を広げた。
「待って」
「何の真似だ」
「これから呪いを解いてもらおうってところなの。邪魔しないで」
「なら、さっさとしろ」
拳を鳴らして低く言う。
誰がどう見ても、呪いが解けた瞬間に殴りかかろうとしていた。
「た、助けてっ」
これでは佐野が協力してくれない。そう思ったが、そこは荒川。さらなる脅しをかけにいった。
「さっさと呪いを解け。さもないと殴る」
「と、解いても殴るんですよねっ」
「解かなければ全力だ」
「ひっ」
「さあ、北村にかけた呪いを解いてみろ」
般若のように顔を皺くちゃに歪める荒川は、もはや人間の皮を被った怪異としか思えなかった。
「あ、あの……も、申し上げにくいんですけど」
「なんだ、はっきり言え」
「それが、その」
「言え!」
「はいっ」
青を通り過ぎて真っ白になった佐野は、一思いに殺せとばかりに言い放った。
「その呪い、解けないんですっ」
狭いボロ小屋が、一瞬静まり返る。
「しまった、そういうことかい」
ネルさんが再び額に手を当てる。おれたちにとってそれは、佐野の言葉が嘘でないと証明されたようなものだった。
「どういうことよ、それ!」
「理由を言え」
「は、はい。誓いの札でかけた呪いは、厳密には、ぼくの手でかけたわけじゃないので……ぼくでも、解けないんです」
言い終えるにつれ声がしぼんでいく。
開いた口が塞がらなかった。
こんなアホみたいなやつに一生逆らえないってのか……?
「そうか。事情は分かった」
「……はい」
「なら、初めからそう言え」
荒川はその強靭な腕を振りあげる。
そのあと佐野がどうなったかは、言うまでもない。
*
誓いの札は、ちぎることも燃やすこともできないらしい。呪いの力で守られているからだそうだ。
「ならばこれは、私が預かっておく」
そう言って荒川が持ち帰ってしまった。
気を失った佐野はネルさんが車にのせて連れ去り、おれとマナさんは置いてけぼり。車内が散らかっていなければ乗せてもらえたらしいのだが。
おれたちはとりあえずカフェへ向かう。こっちは電車だ。
道中、マナさんは終始無言だった。声をかけてもきつく睨まれるだけ。どうやら相当怒っているらしい。
最寄りの駅までつくと、そこからは徒歩。二十分ほどかかる。
建物も人気もない田舎道を二人きりであるく。ドキドキしてもいいはずなのに、今そんな余裕はない。
辺りはもう暗い。日が落ちてからの冷え込みはいつも急激だった。
「コート、いるか」
ブレザー姿ではさすがに堪えるかと思い、恐る恐る声をかける。
ようやく頭が冷えたのか、マナさんはむっとしたまま首を振った。
「いらない」
「でも寒いだろ」
「寒いけど、いらない」
そこでマナさんが足を止める。
「ねえ、さっきのこと、反省した?」
さっきのこと――間違いなく、おれが死にかけたことだろう。
ここは素直にいこう。
「いや」
パシン、と高い音がなる。
思い切りビンタされてしまった。冷えた頬には強烈だ。
「そういう正直なところ、わたし好きよ」
「だったら叩くなよ」
またむっとして、マナさんはそっぽを向いた。
「だって、本当に怖かったんだから。もしあのまま北村くんが死んじゃってたら、わたし――」
「……悪かったよ」
「もういいわ。あなたのこと、ちょっとだけ分かった気がするし」
マナさんはおれをちらと見て、くすりと笑った。
「な、なに」
「手のかかる子どもみたいだなあ、って思ったの」
「なっ……! ど、どこがっ」
「自覚のないところも含めてね」
まさか、そんなはずは。立派な大人になるために日々精進しているおれが……。
本気で頭を抱えるおれに、マナさんは遠慮なく吹きだした。
「おう、マナちゃん。と、坊主」
「どうも」
「こんばんは!」
カフェにいくと、ネルさんは恰幅のいい女性客にコーヒーを出しているところだった。佐野を病院に連れていったはずなのだけれど、おれたちより早いとはどういうことだ。
田原の姿はない。帰ったのだろうか。
ところでネルさん、お客さんの前ではきちんと髪を整え、シャツの上にエプロンまで着けている。……似合わない。
「というか、どうしてマナさんのことが分かるんですか?」
「なんだ聞いてないのかい。別に大したことじゃないさ。ちょっと待ってな」
ネルさんは奥へと引っ込んだ。おれたちはカウンター席に座る。
一分もせずに戻ってきて、彼女は水色のキャンパスノートを開いてみせた。
「これにマナちゃんのことがたっぷりと書いてあんだ。忘却の呪いのこと、ここで働いてること、性格やら経歴やら、細かくぎっしりとな。可愛い顔写真つきさ」
「あらまあ本当」
なるほど。言われてみると単純だ。
「だからマナさんが働けるんですか」
「まあこんなノート、呪いを知ってる人間でもなきゃ捨てちまうだろうがね」
そういえば、一人とはいえお客さんがいる時に呪い呪い言っていいのだろうか。
と思ったけれど、女性客は特に気にしたふうでもなくコーヒーをすすっていた。
カウンター席に座っておいて何も飲まないのも悪い気がして、おれはコーヒーを一杯頼む。マナさんはココア。
マナさんの元へ来たココアには生クリームがたっぷりとかかっていて、おれは横目にぎょっとした。
飲みものもやってきたところで、マナさんがおれにささやく。
「今度こそアルバイトのはなしよね」
「違う、呪いの話だ」
気を失った佐野から呪いのことを聞きだせたとは思えないけれど、それとは別に相談がある。
ネルさんがぼそりと口をはさんだ。
「バイトなら雇ってやってもいいぞ」
「いやだから……え?」
「ちょうど今月、数少ないバイトの一人がやめるんだ。社会人になるってんでな」
おれはカップにかけていた指を引っ込める。
「面接とかいいんですか?」
「使えなきゃすぐ辞めさせるさ。それでもいいなら雇ってやる」
ネルさんの生気のないよどんだ瞳が、今ばかりは清らかな聖水のように澄みきって見えた。
「よ、よろしくお願いします!」
席を立ち、できるかぎり丁寧に頭を下げる。そういうのはいいと手を振られて、素直に座り直す。
さて、では呪いの話を。
「よかったわね。ってことはわたしあなたの先輩?」
「よろしくな先輩。で、今話したいのはそのことじゃなくて」
「ちょっと、あいさつがおざなりよ」
「……」
あんたのことで相談しようとしてるってのに。
じれったく思っていると、ネルさんがカウンターの謎のビンをいじりながらいった。
「トラの話だろう?」
どきりとする。どうせ話すつもりだったけれど、なんだか秘密を暴かれた気分だ。
「坊主テメエ、マナちゃんにかかった呪いを怪異に解いてもらおうって腹づもりなんだろう。例の藍色のトラに頼み込んで協力してもらおうと考えてるわけだ」
「少しでも望みがあるならかけてみるべきです。今できることがそれしかないなら」
「無理だ。言ったろう、話の通じるやつらじゃねえんだ」
「だけど」
「そもそも呪いをかけられたあと、マナちゃんはトラに会ったことがあんのかい?」
マナさんは小さく首を振る。
「いいえ、一度も」
「だろうな。あいつらは同じ人間の前にそう何度も現れたりしない。会おうと思って会えるやつらじゃねえのさ、怪異ってのは」
「ネルさんでも探し出すことはできないんですか」
「そりゃあまあ、情報さえ入りゃ不可能ってこともないだろうがねえ。せめて最近どこそこで見かけたって話でもなけりゃあなあ」
「目撃情報、ですか」
聞き込みでもしたら意外と出てきたりしないだろうか。
コーヒーをすする。猫舌のおれにはちょうどいい温度になっていた。
「あの」
いつからいたのだろう。カウンターの奥、ネルさんの背後で、小動物のような女の子がむすっとした顔で立っていた。
「おう京子、帰るのかい」
敵の様子を窺うような警戒心まるだしの上目遣いをよこし、田原京子は首を振る。
「そうではなくて。いえ、帰りはしますけど」
彼女はカフェのシャツを着ている。そういえばマナさんに学校の制服を貸したままだ。
それに気づいた様子はなく、少女の視線はやがてネルさんへと向けられた。
そして彼女が告げる。あまりにも都合のいい、嘘のような言葉を。
相も変わらぬぶっきらぼうな調子で、彼女は言うのだった。
「藍色のトラなら、この前会いましたよ」