プロローグ「忘れ去られた出会い」
始まりは、いわゆる一目惚れだった。多分、そのはずだ。
けれどおれは、彼女に初めて会った日のことを覚えていない。それは誰にも、どうしようもないことだった。
少女が立っていた。
閑静な住宅街。青白い電灯に照らされた小道。
その傍の公園。木々に囲まれた池のそばに彼女はいた。
真っ白なドレスに身をつつんだ少女は、何をするでもなくじっと空を見上げていた。肩へと流れる黒髪が、風が起こる度さらさらと揺れる。
その手に握られているのは、フルートだろうか。白いドレスに銀色のフルート。大きな家のお嬢様かもしれない。近所でそれらしい家を見たことはなかったけれど。
電灯でゆらゆらと光る水面が、少女の横顔を青白く照らす。
そのとき初めて、闇にきらめく瞳の色に気がついた。
赤い色をしたその瞳は、光に透かしたガラス玉のように明るく澄んでいて、言葉を失うほどに鮮やかだった。
幻でも見ているのかと思うくらい、その少女は儚げで――。
はっとして目をこする。少女のまとう雰囲気は、人らしくないというか、どこか現実ばなれしていた。奥ぶたえのあどけない顔立ちが、かえってそれを引き立てる。
少女はたった一人だった。すべてを拒絶しているとか、寂しさに苦しみあえいでいるとか、そんな感じは一切ない。ただ自然にそこにいる。
それが、痛いほどの孤独を感じさせた。
もう十時半になる。こんな夜おそく、寒空の下に少女がたったひとり。何をするでもなく、帰りたいという素振りも見せず、まるで、一人でいることが当たり前であるかのように――。
「あのさ」
ガマンできなかった。
公園に足を踏み入れ、池のすぐ近くまで歩み出る。
「なに、してんの」
セリフはなんでもよかった。ただ声をかけられればそれで。
明るくきらめく鮮血色の瞳が、ゆっくりとおれを捉える。
少女はうっすらと笑みをたたえ、小首をかしげた。肩に乗っていた黒髪がさらりとこぼれる。
「空を見てたの」
女の子にしては少し低めの、芯の通った声をしていた。見た目の印象とはうらはらに、力強くはっきりとした声だ。なんとなく気が強そうな印象もうける。
おれはちらりと頭上に目を向けた。
「こんな曇ってんのに?」
「そうね。なんにも面白くなかったわ」
「……そんなとこに突っ立ってたら、風邪ひくんじゃないの」
「心配してくれたのね。ありがと」
「べつに」
素直な笑みを向けられて、思わず目をそらす。くすりと笑われた。
何故だろうか。それだけで胸がくすぐったいような気分になる。
それにさっきから、やけに顔が熱い。
「ねえ。これあげる」
「フルート? いらねえよ、こんなの」
「それともうひとつね。ちょっと待ってて」
「おい、ひとの話を」
そして少女は白いドレスに手をかけて、上へ持ち上げ――。
「って! あっ、あんたっ、何脱ぎだしてんだよ!」
「もうこんなのいらないから」
「そういう問題じゃないだろ!」
「あら、いけない。脱いだら家まで着るものがなくなっちゃうわね」
真顔でそんなことをつぶやく彼女に、開いた口が塞がらなかった。
「まあいいわ。フルートだけでも受け取って」
「だからいらねえって」
「いいから」
少女は構わずフルートを握らせ、得意げに鼻を鳴らした。
「間接キス、しちゃってもいいわよ」
「するかそんなことっ」
なんなんだこいつは。やっぱり話しかけるんじゃなかった。
……だけど。
なんだろう。今手を取られたとき――彼女の冷えきった手に触れて、何故だかとても。
「それじゃあわたし、帰るから」
そうか、おれは――。
「待った」
口をついて出たことばに自分で驚きながら、少女をまっすぐに見すえる。
「何かしら」
やっぱりそうだ。顔を見て声をきく、たったそれだけで、心臓がいたいくらいに脈打ってしまう。
「名前、聞かせてくれるか」
やっとのことでおれはいった。
どうしてか少女はむっとして、顔をそむける。
「どうでもいいでしょ、なまえなんて。言ったって意味ないし」
「は?」
「どうせすぐ忘れちゃうから」
「忘れ……? なっ、名前くらいおぼえられるっての!」
「だといいけれどね」
なんだか急に不機嫌になったような。女の子ってのは本当によくわからない。
「……マナよ」
それでも少女はこたえてくれた。
マナ、か。彼女の雰囲気には合っているかもしれない。
「じゃあ、苗字は?」
「捨てた」
「は?」
「苗字は、捨てたわ」
意味がわからなかった。
もしや、家出したとかそういうことだろうか。家を捨ててやった、みたいな意味で。
「これで満足でしょ? もう行くから」
「待った、あともうひとつだけ」
うんざりしたように振りかえるマナに、おれはこっそりと唾をのむ。
「ひとつだけ、伝えておきたいことがあるっていうか」
先に弁解しておくが、これはナンパじゃない。普段のおれは知らない女の子に声をかけたりはしない。今回は特別だ。
そう、特別。彼女は特別だった。
少女から痛いほどに感じた孤独。彼女をひとりにしてはいけない。そう思ったから声をかけた。けれどこのままでは――。
激しく高鳴る心臓を意識して、じぶんの気持ちをたしかめる。
おれは少女に――マナに一目惚れしていた。
彼女をひとりにしたくないというのなら、やるべきことは決まっている。できることはひとつしかない。
「マナ……さん。おれ、あんたが――」
「ごめんなさい」
しずかな声でさえぎられて、目をみはる。
「聞きたくない」
これ以上とないくらいの、はっきりとした拒絶だった。
さらさらとした髪を揺らし、マナは身をひるがえす。
少女の背中が去っていく。公園をはなれ、夜の闇に溶けていく。
その様子を、呆然と眺めることしかできなかった。
「え?」
おれ、振られたのか?
告白すらさせてもらえずに?
それからしばらく、おれはその場に立ちつくしていた。
そして。
「……あれ?」
頬を濡らす熱を拭い、おれは眉をあげた。
「なんでおれ、泣いてるんだ?」
おれは、たった今前にしていた少女のことを、きれいさっぱり忘れていた。