第7章 あなたの隣にいたい(8)
「着替えが必要だね。ちょっと待って、メイドの夜着を借りて……」
「ま、待って!」
シャノンは、立ち上がろうとするジェリーの袖をつかんで引きとめた。ジェリーは穏やかな水面のような瞳をわずかに見開き、不思議そうに小首をかしげる。
「どうかした?」
「いえ、あの……」
もしも、ザカライアの使用人が「女神の使徒」の一員だとしたら。魔法騎士である自分が姿を見せるのは、得策ではない気がした。
「こんなことをお願いできる立場じゃないのはわかってるけど……わたしがここにいることは、他の人には秘密にしてもらえたら……」
すると、ジェリーは瞬きを数回繰り返してから、思いついたように言った。
「シャノンは、家出少女なの?」
「……う、うん?」
シャノンは曖昧にうなずいた。
ジェリーの発想が斜め上だったことよりも、名前で呼ばれたことがなんだか新鮮で、お腹の奥がくすぐったい。
「いいよ、秘密にしてあげる」
「ありがとう、ジェリー……じゃなかった。ええと……ジーン」
「ジェリーって、誰?」
薄青の瞳の中で、蝋燭の灯りが揺れる。
「シャノンの恋人?」
「えっ、あっ、あの……」
咄嗟に答えられず、シャノンは手の中の腕輪を握りしめた。
「好きな人?」
「…………」
無言で、こくりとうなずく。
「そんなに、おれに似てるの?」
似ているどころか、本人である。
「どんな人? 聞かせてよ」
平坦だったジェリーの口調が、どことなく弾んで聞こえるのは気のせいだろうか。
「ええと……素直で、優しくて、まっすぐで、頭の回転が速くて、それから……ところかまわず『好きです』って言ってくる人……?」
記憶がないとはいえ、本人を前にして言うのはとてつもなく恥ずかしい。
「なんか暑苦しい人だね。大丈夫? 鬱陶しくない?」
「……ぷっ」
真面目な顔で聞いてくる姿がおかしくて、思わず笑ってしまった。
「そんなことないわ。素敵な人よ」
自分でも驚くほど素直に、想いを口にしていた。
「シャノンは、そのジェリーって人を探して家出したの?」
「えっ」
「もしかして、駆け落ち?」
「い、や、そういうわけじゃ……」
本当のことを話すわけにもいかないし、どう説明したらいいものか。
ふと、ジェリーの視線がシャノンの膝の上に向けられた。
「その腕輪……」
「これは、彼に会えたら渡すつもりで……」
シャノンはペアの腕輪を持ち上げたが、ジェリーはそうじゃないと言うふうに視線を揺らした。
「きみが着けている腕輪。それ、どうしたの?」
シャノンは、はっと目をみはった。
「おれの腕輪と同じ……ずっと前になくした」
ジェリーが、そっとシャノンの手首に触れた。細い三日月のような銀の腕輪を指先で撫でる。
「……違う。なくしたんじゃない。どうしたんだっけ……?」
誰へともなく、ジェリーは唇を薄く開いてつぶやく。
彼が呪文のように言葉を重ねるごとに、シャノンの鼓動が速く、強くなっていく。
「そうだ、女の子……。腕輪を、あの子にあげたんだ」
ジェリーの大きな手が、シャノンの両手を持っていたふたつの腕輪ごと包み込む。
「髪も瞳の色も、きみと同じ、春の花の色で……」
シャノンの心臓が、どくどくと跳ねる。
ジェリーの呼吸が浅く、小刻みになっていく。
「シャノン……きみなの?」
吸い込まれそうに深く澄んだ薄青の瞳が、問いかけてくる。
シャノンは、小さくうなずいた。
ジェリーの瞳の虹彩が、星空のように光を散らした。
「ずっと、気になってた。あの後、無事に家まで帰れたかな。またどこかで襲われていないかな。元気でいるかなって……ずっと」
瞼が熱い。喉の奥も、刺すように熱いものがこみあげて、視界が揺れる。
目尻に盛り上がった涙の雫が、シャノンの頬を伝い落ちる。
「やっと会えた」
この時、初めてジェリーが微笑んだ。
「ジェリー……」
唇からこぼれ落ちた呼びかけに、ジェリーは目を瞬かせる。
「違うよ、シャノン。おれの名前は……」
ジェリーの唇の動きが止まった。
じり、と音を立てて燭台の炎が揺れる。
「…………」
まるで夢から醒めたかのように、彼は瞬きを繰り返した。
「せん……ぱい?」
「…………っ」
言葉が出なかった。
「どうして、泣いてるんですか?」
「ジェリー……」
「はい」
「ほんとに……ジェリー?」
そこにいたのは、道に迷った子犬のように薄青の瞳をきょとんと丸く見開いている、後輩のあどけない姿。
「え、あの、先輩? ほんと、なんで? おれ、また何か変なこと言いました? また泣かせました!?」
「…………っ」
ジェリーだ。
わたしの知っている、ジェリー。
シャノンは嗚咽を漏らしながら、ジェリーの胸に額を預けた。
「あの……先輩」
覚えのある手のひらが、シャノンの髪をおずおずと撫でる。
「泣かないで……?」
「ごめん……」
温かい。
安心したせいか、涙が止まらなかった。
「ところで、ここ……殿下のお屋敷じゃない……ですよね?」
ジェリーは、室内をぐるりと見渡しながら言った。
「でも、なんだろう。どこかで見たことがあるような、ないような……」
そこまで言って、髪を撫でてくるジェリーの手がぴくりとわなないた。
「先輩、おれから離れないでください」
声が硬い。シャノンは反射的に顔を上げ、手の甲で頬の涙をぬぐった。
ジェリーは眉を寄せ、虚空に向かって呼びかけた。
「出てこい、ザカライア」
その声に応えるように燭台の炎が、ゴウッと勢いよく燃え上がった。
テーブルを挟んだ向かいに、人影が現れる。
「やあ、ジーン。いや、今はジェリーと呼ぶべきかい?」
「好きにしろ。記憶はすべて戻った」
ジェリーは、シャノンを背後にかばいながら腰を浮かせた。
闇をこごらせたような人影はやがて、緑がかった金髪と若草色の瞳をした青年の姿をとった。
ふとした違和感を覚え、シャノンは目をこらした。
「身体が、透けてる……?」
「思念体です、先輩」
よく見ると、ザカライアの両脚は床からわずかに浮いていた。
「ボクの肉体は今、王宮に拘束されているからね。愛すべき仲間たちを王太子が捕縛するまでは、このままってわけさ」
ザカライアは両の手のひらを天井に向けて、肩をすくめた。
「たとえ思念体でも、厳重に結界が張られた王宮から抜け出すだなんて……」
王族とゆかりのない、市井の魔法使いにできるはずがない。
すると、ザカライアはシャノンに不敵な笑みを向けた。
「女神のお導きだよ。魔法騎士のお嬢さん」
「ザカライア、まさか……」
シャノンの目の前で、ジェリーが息をのんだ。
「察しがいいね。さすが、ボクのジーンだ」
ザカライアは目を細め、愉悦の笑みを浮かべた。
「キミをよみがえらせ、ボクを導いた女神シェヴンの魂のかけら。ボクは、彼女の依り代になったのさ」
「なんてバカなことを……」
声を震わせるジェリーに向けて、ザカライアはさらにこう言った。
「新しいシルクレアを創るのに、これ以上ない選択だとは思わないかい、ジーン? ボクが新しい女神シェヴンに、キミが新しい『はじまりの魔法使い』――つまりは王になる」
シャノンは、背筋に寒気が走るのを感じた。
「でも、この女神の魂は不完全だ。所詮はかけらだからね」
ザカライアの眼差しが、ジェリーの背後にいるシャノンに向けられる。
「本当なら、新月の夜が『儀式』に最も適してるんだけど。この際、贅沢は言っていられないか」
「ザカライア、何を……?」
「部品がもうひとつ必要なんだよ、ジーン」
ザカライアは、形の良い唇をゆがめて笑った。
次の瞬間、ザカライアの姿が視界から消えた。
「キミの持つ魂のかけら、もらうよ」
シャノンの背後で、ザカライアが囁いた。
視界の端で、針のように細く鋭利なものが光った。
背中。左。何か、熱いものが。突き立てられて。
「あ……っ?」
目の前が、赤黒く染まった。
「先輩!!」
どこか、とても遠いところで、ジェリーの泣く声が聞こえた気がした。




