ミイラのある家(ノンフィクション)
ノンフィクションの青春小節です。
ミイラのある家 林田廣伸
あらすじ
1964年4月、僕は中学一年生になった。僕らは団塊世代のちょっと後の世代だが、それでも生徒の人数は多く、クラスは10クラスもあって、いつもひしめきあっていた。
T君とは、1年9組で一緒になった。T君と僕は勉強もスポーツもダメで、クラスの劣等生だった。ある日、T君は「僕んちにこない?僕んちミイラがあるんだ」と僕を誘った。
僕は半信半疑だったが、行ってみる事にした。T君の家は中学校から歩いて10分位の所だった。T君の家と家を取り巻く環境は、非日常で不思議だった。果たして・・・・本当にミイラは在った。ミイラだけではない。アマゾンの干首や大きな振り子、そして骨で組まれた巨大な恐竜まであったのだ。
余りにも面白かったので、僕は次の日もT君の家に行ってしまった。そこにはビックリする事が待ち受けていた。怖くてドキドキしたけど、思春期の気持ちをくすぐる冒険でもあった。僕らはやっとの思いでその危機を脱出する。痩せていつも青い顔をしているT君が、満面の笑みを浮かべた。
それから53年後の今日、僕はその事を確かめようとT君の家が在った所に行ってみる。頭の中に残る記憶は本当の出来事だったのだろうか。それとも夢であったのだろうか。
ミイラのある家
1
1964年4月、僕は中学生になった。
既製服だが真新しい、黒の詰め襟学生服を僕は初めて着た。黒革ベルトの腕時計と万年筆も買ってもらった。腕時計をはめ、万年筆を学生服の胸ポケットに差し、小学生の時とは全く違う気分になり、僕はウキウキしていたが、同時にとてつもなく広い場所に投げ出されるような気分でもあった。
僕らは団塊世代のちょっと後の世代だが、それでも生徒の人数はとても多かった。小学生の時のクラスは4クラスだったが、僕が通う公立中学校では1学年10クラスもあって、その1クラスには50人もの生徒がいて、いつも、ひしめき合っていた。
T君とは、新しいクラス1年9組で一緒になった。
T君の髪は五分刈りで、目は細く少しつり上がっていて、血色は悪く、黄色がくすんだような顔色だった。体も細く、学生服の詰め襟がブカブカしていて、4月だというのにうっすらと鼻もたらしていた。
T君は僕の前に座っていた。休み時間になると、僅かな時間を惜しんで、みんな狭い校庭に遊びに出て行く。男の子はゴムボールを使った野球や、ドッジボールなどをして遊んでいたが、僕は球技がまったくダメで、だいたいは自分の机で漫画のような絵を描いて過ごしていた。T君も外には遊びに行かず、自分の席にいた。
どちらから声をかけたかは忘れてしまったが、T君と自然と話すようになった。話すようになったけど、興に乗って話すことも、すごく打ち解けて話すこともなかった。どんな話をしていたのだろう? 考えてみると、僕らはまだまだ子どもで、はっきりした自我もなければ、相手をどう知っていくかなどということは、全く考えていなかった。
そんな時を過ごし、5月、6月と経つとクラスの雰囲気も落ち着いてきて、友だち付き合いも輪が広がるようになり、そして、付き合い方も少し深くなったりしてくる。趣味の話をしたりする別のグループもできて、僕もクラスの中で何人かの友だちと付き合うようになっていた。
当時の中学校の机は木の机で、幅80セントメートル程の小さな机だった。小学校の机は長机で2人で使う物だから、その机の境界線をナイフで削ってその凹みを赤鉛筆でなぞって、陣地権を主張した。それを考えると中学校の机は個人使用に設計されたもので、少し大人扱いをされているような気分でもあった。そして、教室内の机の配置だが、机は独立してはいるものの、その机を左右に付けて使っていた。つまり、お隣さんが居るわけだ。教室はその2人ずつの島がずーっと並んだ状態だった。
さて、ここで中学生の関心ごとは、誰と並ぶのか?という事だ。生徒に選択権はなく、そのクラスの担任教員が決めていたように思う。男女比は大雑把に言って、3対2だった。圧倒的に男子が多いわけだが、中学生になると色気づく奴がいて、ある奴は好きな女の子と並びたいと公言していたが、そんなに都合良く行くはずがなく、そいつは男同士で並ばされた。
何しろ50人もいるクラスで、男女比3対2なのだから、20人の男子は20人の女子と並ぶ事ができるが、後の10人の男子は男同士で並んだ。
僕の隣は幸いな事にWさんという女の子だった。もちろん僕はWさんとも話をした。雰囲気が僕の好きなタイプでちょっぴり好きになった。でも中学生にとっての異性はぎこちないもので、コミュニケーションは難しかった。いや、難しいと言うより何も交流がないに等しかった。
僕の前がT君の席だったが、その隣には男子のY君が居た。男同士で並んでいたわけだ。T君とY君はよく後ろを向いて、つまり僕の方に向いてたわいのない話をよくした。
Y君は僕と違って秀才だった。この公立中学校は優秀な中学校らしく、東京近隣の千葉県や茨城県などからの越境入学者が多かった。Y君は茨城県の取手から常磐線で片道一時間半もかけて通学していた。きっと取手では成績は一番で、腕試し、いや、頭試しのつもりで、この公立中学校に通う事にしたのだろう。僕はそのまま上がって行っただけで、勉学に関する意識は極めて低かった。
Y君は勉強だけではなく、校長先生と将棋を指したり、唄も上手かった。そうそう5月に社会科見学があって、バス移動の中でY君は唄を歌い、それが中学生としてはマセた唄、バーブ佐竹の「女心の唄」を唄ったのだが、成績優秀だから先生には怒られなかった。僕もバーブ佐竹の「女心の唄」を知っていて上手くじゃないけど唄えたけど、僕が唄ったら、きっと先生から怒られるだろうなと思いながらバスの中のY君の唄を聴いていた。
Y君はそんなヤツだったが、嫌なヤツではなかった。とてもいいヤツだった。
こんな事があった。
それは英語の授業だった。
先生は新任の若い美しい女性の先生だった。ある時、先生が真っ赤なスーツを着て来て、中学校の先生は違うもんだと僕は思った。
教科書は緑の表紙のJACK AND BETTY だった。僕はローマ字が書ける程度で、英語はチンプンカンプンで最初の構文、This is a pen. を何回も唱えて覚えた。ここまでは良かったが、この疑問文、Is this a pen? になると、僕の頭の中にはThis is a pen.がしっかり入っているので、どうしてもIs this is a pen? とisを入れなければ言えなくなってしまった。
美しい英語の先生に当てられ、立って英語を話すのだが、何回やっても、Is this is a pen?と言ってしまう。周りの生徒は僕が出来ない事に喜んで、笑い声と共に教室がざわついてくる。美しい英語の先生は、
「なに可笑しいの?静かにしなさい!」
と注意をして、
「落ち着いて、ゆっくりやってごらんなさい」
と促した。僕は五回目にやっとIs this a pen? と言えた。しかし、クラスの中では劣等生というレッテルが貼られた。残酷なもので、学力のレベルによってクラスの順列は決まり、ほぼ、その順列に従ってクラスが運営されているようなものだった。だが、この頃の僕は鈍くて、劣等生のレッテルを貼られている事すら分からなかった。
T君も英語が出来なかった。T君はローマ字も苦手で、アルファベットで組み合わされた単語をどうやって発音したらいいか分からなかった。
英語の授業が少し進んだ頃、T君は美しい先生に当てられ、教科書のある構文を読むように言われた。当てられたので席を立ってはみたものの、顔を赤くしているだけだった。僕はT君の後ろに座っていたので、T君の後ろ姿を見る事になるのだが、T君の耳が見る見る赤くなっていくのが分かった。
するとT君の通路を挟んで横にいた奴が、小さな声で、でもT君に聞こえるような声で
「ラブミー テンダー、」
とエルビス・プレスリーが歌って大ヒットした歌を教えた。T君はそれを疑いもせずそのまま言う。そいつは続けて、
「ラブ ミィ スィート」
T君はそれもそのまま言う。そして続けて、
「ネバー レット ミィ ゴー」
「ネバー レット ミィ ゴー」とT君。
教室は爆笑の渦となった。T君の隣にいたY君は笑いをこらえて下を向いていたが、我慢出来ずに笑った。
僕は、全く可笑しいとは思わなかった。ただ、下を向いて事が過ぎて行くのをじっと待った。
美しい英語の先生は、T君の横でごちょごちょ言っている奴を見つけ、
「そこ、何言っているの! いい加減な事言って!許しませんよ!」
と言ったが、ラブミー テンダーを教えた奴を、それ以上に怒る事はしなかった。
T君のスピーキングはこれで終わり、着席した。
何事も無かったように、授業は続けられていった。
梅雨になり湿気を含んだ空気が校舎の隅々まで漂い、僕の座っている木の椅子や机も重く感じられた。もう何日も雨が降り続いていて、休み時間も校庭で遊ぶ生徒は無く、みんな教室の中に居て思い思いにおしゃべりをしているものだから、教室は湿気と共に、中学生の体から発散される植物の青い芽のような匂いが混じり、少し息苦しく感じ、僕はフッと小さく溜息をついた。
英語の授業の一件以来、僕とT君はまた少し親密になったように感じていた。
「ねえ、なんか面白いことない?」
と、前の席に座っているT君に聞こえるように、大きめの声で話した。T君は振り向き、
僕だけに聞こえる小さな声で、
「今度、僕んちにこない?」
と言って、それからしばらく間を置いて、
「僕んち、ミイラがあるんだ、おいでよ約束だよ」
と言って、細い目で僕の目を見て、そして、すぐに視線を逸らした。
T君の家に行ったのは、それから数日後の事だった。
正確な日にちは忘れたが、平日だった。
平日はいつも6時間授業で、終わるのは午後3時だったけど、その日は何か学校の都合で昼の給食を食べて下校となった。
帰り支度をしながら、T君は僕の方に振り向き、
「今日、うちに来ない?」
「あぁ、いいの?・・・・ミイラ、本当にあるの?」
T君は僕の耳近くに顔を寄せ、僕だけに聞こえる声で、
「本当だよ!本当にあるんだ!見せてあげるよ!」
と小さな声に力を込めて話した。
「ミイラってあのエジプトか何かのミイラだよね?」
「うーん、エジプトか何かは分からないけど、ほんもののミイラだよ1」
「・・・それって、人間のミイラ?・・・動物のミイラ?」
僕の声は少し大きくなって、言った。
「し〜っ!・・・・・。小さな声でね・・・・・。人間のミイラだよ」
とT君は誰にも聞かれたくないようで、いちだんと声を落として言った。
僕はT君の言う事を信じていたのだろうか?
よく考えてみれば家にミイラがある分けはない。ある分けはないのだろうが、そこが中学生で、半分位本当だと思っていたのかもしれない。それよりも、とてつもなく面白い事があるような気がして僕はT君の家に行く事にしたのだ。
「ねぇ、Y君は誘わないの?」
と僕が言うと、T君は少し考えて、
「君にだけ見せたいんだ」と言った。
その日は午後から雨も上がった。
T君は僕より半歩前を歩きながら、ちょっと得意そうだった。
「近いんだ。10分ちょっと位」
学校の外に出ると、湿った空気が6月の鈍い日差しを受けて少しずつ蒸発していて、もや〜としていていた。その中を、僕らは折り畳んだ傘を振り回しながら歩いた。
広めの車道に出た。
「ここをずっーと真っすぐさ」
車道は国鉄の線路と平行していているのだが、車道は高くなった所にあり、線路は低くなっている。線路は単線ではなく、何十本もの線路があり、電車が行き来していた。だから線路側は広大な敷地となっていて、視界を遮るものはなく広々とした空間に、ぽっ、と鈍い輝く太陽があった。
重厚な建物の柵伝いに歩いて行くと、雑草が生い茂った一画があり、そこにモルタルで作られた平屋の小さな一軒家があった。
「ここだよ。ここが僕んちさ」
T君はそう言って、建物の柵から続いている扉を開けた。
薄茶色のモルタルの家は、こぢんまりとした家で、窓枠は木で出来ていて、日に焼けた薄い生地のカーテンが引いてあって、中の様子ははっきりとは分からなかった。
薄茶色のモルタルの壁の下部分には、雨の泥の跳ね返しが沁みていて、元気のない紫陽花が壁にもたれるように咲いていた。
僕は柵の中に入って、T君の開けた柵を閉めた。柵はしっかりとした鉄で出来ていて、黒いペンキが塗ってあったように思う。その柵の取手は、摩耗していてペンキが剥げて錆びていた。しかし、柵は立派な柵で、平屋の家とはどこか不釣り合いな感じがした。
「今からミイラを見に行くけど、この奥の僕んちにミイラがあるんだよ」
T君はそう言って、小さなモルタルの平屋の先にある建物に目をやった。この平屋は重厚な建物の裏庭に位置していた。
その建物は、たいそう威厳があった。壁には煉瓦が埋め込まれていたが、普通の赤い煉瓦ではなく、茶色で特注品のような煉瓦だった。古そうな建物ではあるが、単に古いのではなく歴史を感じる物で、きっと名のある人が設計した建物だろう事は、中学生の僕でも分かった。
「カバン置いて行こうか?」
とT君は言って、ポケットから鍵を出し、モルタルの家の玄関ドアを開けた。
当時の中学生男子のカバンは、荒い白地のズックで出来た肩から斜め掛けするカバンを使っていた。教科書を学校に置いておく事は許されず、かなりの数の教科書とノートが入っていたのでズックカバンは重かった。
「今、誰もいないんだ」
そう言ってT君は狭い玄関のあがり口にカバンを投げるように置き、僕のカバンも置くように促した。そしてT君は玄関ドアを閉め、鍵をかけながら、
「あっちの家には、ちょっとした入り方があるんだ」
と言って建物の方に歩いて行く。僕は後ろから付いて行くのだが、その場所はモルタルの家の庭のようではあるが、建物の敷地内でもあった。梅雨に濡れた雑草が生い茂り、手入れが行き届いていない庭と建物は、違う世界のように感じた。
庭を通りながら、ぼーっとして少し遅れた僕に、
「こっち、こっち!」とT君は手招きした。
「この階段を降りるんだ」
その階段は建物の地下に通じる外階段になっている。灰色のざらっとした打ちっぱなしのコンクリートの外階段は雨に濡れて黒ずんでいた。
僕らは数十段の階段を降り、濃い目の茶色のペンキが塗ってある木のドアを開けて、建物の地下に入った。すると、どうだろう! この香しい匂いは!
ハンバーグソースの匂いと、香ばしく焼いたトーストの匂いと、入れたてのコーヒーの香が混じったような、とてつもなく食欲をそそる香りがして来た。
昼の給食を食べていたけど、僕の奥歯からは唾が出て来るのが自分でも分かった。そんな僕の顔を見てT君は、いつもの小さい声で、
「ここレストランなんだよ。ここを通るとお金がかからないのさ」
少しずつ状況が分かってきた。あ〜ぁ、ここは確かにレストランだ!
僕は何故だか少し後ろめたさを感じながら、そーっと見回した。
半地下になっているレストランの窓には、梅雨空の鈍い光が差し込んでいて、その淡いモノトーンの中で、いくつかのテーブルを挟んで何人かの人が食事をしていた。
カチャカチャとした食器の擦れる音の間に、低い声の会話が聞こえる。
「ここは早く抜けるといいんだ!」
T君は、僕の学生服の袖を軽く引っ張りながらそう言って、レストランの入口に向かって行く。そうか。裏口より入って、入口に抜けて行くわけだ。僕はようやく分かった。
入口には白いワイシャツに黒の蝶ネクタイをした人が一人いたが、僕らは目を合わせないようにして一目散に通過した。
地下レストランの入口から抜けると、広い空間があり、素焼きのタイルで出来た床から繫がるように伸びる立派な階段があった。T君はその階段に進んで行く。
階段は地下から天空に何処までも続いているようだった。
僕は見上げた。この建物はいったい何階建てなんだろうか?
四角柱の空間を取り囲むように何処までも伸びていく階段。その階段の手すりは美しく削り出された木材で出来ていて、ニス塗装が施されていた。
僕はその手すりにもたれながら、階段に取り囲まれる空間に目をやると、不思議な物があることに気が付いた。それは銀色に輝く、いかにも重そうな直径30センチメートル程の球体が、おそらくこの建物の最上階より金属の太いワイヤーでこの地下の真下までつり下げられていた。
そして、この重そうな球体は、音も無く、静かに、ゆっくりと動いていた。球体は床上10センチメートル程のところを動いているのだが、その下の床は太陽の炎のようなデザインで美術品のように加工され、南北を表す英文イニシャルS、N、の文字が炎の部分に埋め込まれていた。イニシャルは真鍮で出来ていて、力の無い日差しに鈍く光っていた。
重そうな球体は、その石細工の床の上をある軌跡を保って、静かに動いている。
僕は、その軌跡を目で追ってみて、少し神秘的な気持ちになった。
「これ、何?」
と、僕の前で階段を上るT君に聞いた。
「あっ、これ、うーん、・・・・・僕もよく分からないんだ」
そう言ってT君はどんどん階段を上って行く。そして、同じように階段を上っている僕に振り返って、
「ミイラは2階にあるんだ。早く行こう!」
2
2階に上がってみて、初めてこの建物の全貌が見えてきた。建物は3階まであって、階段を中心に4つの方向に部屋が広がっている。階段の天井はとてつもなく高い吹き抜けになっていて、その吹き抜けは大きなドーム型で、美しい幾何学模様の彫刻が施されていた。ドームのてっぺんには正円型のステンドグラスが埋め込まれている。そしてそのドームの屋根の下には四つの方向に窓があり、その窓もそれぞれ美しい半円状のステンドグラスになっていた。ステンドグラスは梅雨の弱い光を一生懸命取り込もうとしているように感じられた。
T君は、2階にある幾つかの部屋の中から一つの部屋を選び、迷わず入って行く。部屋に扉は無いのだが、入るなり空気ががらりと変わった。吹き抜けのドームのステンドグラスから差し込む外光はもう全く届かず、ワット数の少ない蛍光灯の薄暗い光の中にその部屋はあった。微かにカビとナフタリンの匂いがした。
暗い所に目が慣れてくると、そこにはたくさんの動物の剥製が展示してあるのが分かった。大きな熊や鹿、犬や狐などの剥製が暗い蛍光灯に映し出されていた。
T君はそれらを説明する事無く、どんどん進んで行く。
暗い部屋の中に一部分外光が射す所があり、そこにそれはあった。
古い展示ケース中にあった。横長の展示ケースの中に仰向けで寝ていた。身長140センチメートル程であろうか、小さいと思った。僕は顔を見た。頭髪はなくツルッとした頭にしっかりと閉じられた瞼があった。鼻の穴は崩れ、歯もずいぶんと抜け落ちていた。首筋は筋張っていて、全体に人型の茶褐色の木彫のようだとも思った。気持ち悪くも、怖くも無かったが、ただずっと見続けてはいけない気がした。
確かにミイラは在ったのだ。
その時、T君が何と言ったか、どんな表情だったかは思い出せないのだが、これほど見せたかったミイラなのに、自慢する様子はなかったように思う。きっと何も話さなかったし、お互いの顔も見なかったのだろう。そして、そこに随分と長く居たような気もするし、一瞬だったような気もする。
もう、目的は達せられたのだ。
僕は 何だかほっとして、ミイラの周りの展示物を見渡した。
すると柱の下の展示ケースの中に吊るされているものに目が止まった。
T君に恐る恐る聞いた。
「あれ、なあに」
「あぁ、あれ、あれは干し首だよ」
僕は勇気を持って近づいて行った。
それは拳程に小さくなった人間の頭首であった。
皮膚の色はどす黒く、真っ黒い髪の毛がたくさん生えていた。
ミイラには何の説明文もなかったのに、これには[アマゾンの干し首]と説明文が添えてあった。
僕はT君の目を見て言った。
「これ、ミイラより怖いよ。何でこんなに頭が小さいの?」
T君は少しニヤニヤしながら、
「あぁ、頭蓋骨を抜き出して、乾かすんだよ。こっちのほうが、おもしろかった?」
と言った。
展示室は続いていたが、後のものは、もうどうでもよくなってしまって、僕は部屋を出て、ステンドグラスの輝きのある階段口の広い空間に戻った。
2階の階段の手すりから一階を見下ろすと、そこに建物の玄関があるのが分かった。その玄関の広い空間に、大きな恐竜の骨で組んだ模型が展示してあった。僕はうれしくなって階段を駆け下り、恐竜の骨に近づいて行った。
近づくと見上げるように大きな恐竜だった。恐竜の骨はそれぞれのパーツをうまく繋ぎ合わせ、一体化した恐竜になっていた。
後から着いて来たT君に向かって、僕は言った。
「君んち、すごいね!ミイラだけじゃなく、恐竜もいるんだ!」
────────
僕は次の日も、T君の家を訪ねた。
実は僕は寝坊してしまった。はっきりとした時間は分からなかったけど、かなり遅くなっていた。大胆にも僕は中学校に登校せず、自然と足がT君の家に向かってしまったのだった。
重厚な建物の方ではなく、平屋の家を尋ねた。
平屋の家の玄関ドアは木の板を張合わせたドアで、濃い緑色にペンキで塗ってあったが随分とペンキが剥がれ木地が見えていた。ドアには小さな菱形のガラス窓が付いていて、そこから覗こうとすれば中の様子が見えたが、僕が覗く前にT君は、僕が来た事が分かってドアを開けた。
「やぁ、待っていたよ!」
とT君が言ったので、えっ、待っていたんだ! と僕は心の中で思った。
T君は科学者や研究者が着るような真っ白な上っ張りを着ていて、僕を招き入れながら、
「今日はこちらでミイラが見れるよ!」と言った。続けて、
「今日はたくさんのミイラがあるんだ! 時間もあるからゆっくり見ていっていいよ」
と平屋の家の中に僕を案内した。
平屋の家は外から見ると小ぢんまりとした家だが、中に入ると不思議に広く、長い廊下を進んで行くと茶色い木のドアがあった。T君は真鍮で出来たドアノブに手をかけ、少し勿体ぶって、
「さあ、ここにミイラがあるんだ!気持ちの準備はいいかい!」
と言って、力強くドアを開けた。
そこは二十畳程の洋風の居間のようであり、そこに横長の展示ケースが幾つも並べられていた。展示ケースは古めかしいガラス張りのケースだった。上部は濃い茶色の木枠がガラス板を包むように組んであり、下部は同じ茶色の長い木の四脚で出来ていた。
そのケースの中にミイラは仰向けで寝ていた。
僕は冷静だった。この際よく観察しようと思うぐらい、冷静だった。まず、ケースの数を数えてみた。ケースは一列に4つずつ3列、12体あった。ケースの大きさは皆な同じだったが、中に入っているミイラの大きさはそれぞれ違っていた。ミイラの色も茶褐色もあれば黄色みがかった茶色もあった。小さい子供のようなミイラもあったが、男女の違いは分からなかった。皆な一様に仰向けで寝ていた。T君はそのケースとケースの間を、まるで病院の院長回診のような仕草で回って僕に見せるのだが、これと言った説明はなく、何だかちょっと偉そうにしているT君が可笑しかった。
僕らの回診が終わった頃、僕らを目がけて飛んで来る浮遊物体があった。その浮遊物体はT君と僕の間を一度すり抜け、また旋回して戻ってきた。その時、僕はその浮遊物体が何であるかが分かった。
アマゾンの干し首だった! 昨日の干し首の目はつぶっていたが、この干し首の目は大きく見開いてギラギラしていた。その目が僕の目を捉え、はっきりとした意志を持って僕に目がけて飛んで来た。僕はビックリした。とても怖くなって頭を抱えミイラの展示ケースの下にしゃがみ込んだ。抱えた頭の隙間から恐る恐る横目で見ると、浮遊するアマゾンの干し首は1つではなかった。正確には数えられないが20やそこらありそうだった。アマゾンの干し首軍団がビュンビュンと浮遊していて、僕の体にコツコツと当たる。怖くてたまらない!
そうだ、T君はどうしているだろう?
T君を探すと、T君は頭を抱えながらも、居間のドアに向かっていた。T君は僕を見て、
「さぁ、こっち!」
と言って、居間のドアを開けて走って行くので、僕も走って部屋から逃げた。
長い廊下をT君と僕は全速で走るが、幾つものアマゾンの干し首軍団は容赦なく追って来る。T君と僕は懸命に走るが、その廊下は走れば走るほど、増々長くなってなかなか玄関ドアにたどり着かない。
僕はここでふと、[あぁ、これは夢かも知れない]
とは思うのだが、夢は覚めず、覚めなければそれが現実のように続いて行く。
もどかしく走ってはいたが、やっと玄関ドアが見えて来た!
重く絡む脚に力を込めて走って、やっと玄関ドアの真鍮のノブにT君と同時に手が届いた。玄関ドアのノブに僕らの手が重なって、2人で思いっきり引いてドアを開け、家の外に出た。
T君は昨日と同じに建物の地下に向かった。地下の外階段を下りて、食堂の裏扉、つまり、濃い目の茶色のペンキが塗ってある木のドアを開けて入って行く。僕も続けて入って行ったが、振り返ると、もうアマゾンの干し首軍団が近くまで追いついて来ている。
僕は心の中で、
「わっ、失敗した! 出た時に玄関ドアを締めればよかった!」
と思ったが、もう遅かった。アマゾンの干し首軍団は続々と僕らを追って来る。どうも数も増えているようだ。
建物の地下食堂は、昼食時らしく混んでいて、たくさんの人が思い思いに食事をしていた。その中を僕らと、僕らを追うアマゾンの干し首軍団が通過するので、食堂の中は大混乱になった。アマゾンの干し首軍団は、僕らを追うだけではなく、食堂のテーブルにあるスープを舐めたり、お客をからかったり悪さをした。
僕らは、地下から1階への階段を駆け上がり、正面玄関から逃げようと思い、正面玄関に展示してある大きな恐竜の骨で組んだ模型に向かった。僕らが恐竜の足下の骨に到着し、恐竜を見上げると、恐竜の頭がガクンと動いた。
恐竜は頭を上げ、骨と骨が擦れるような乾いた声を発し、体を大きく揺すった。最初はぎこちなかったが、直ぐに恐竜は慣れて来て、ガツンガツンと動き出した。手を動かし、背骨を動かし、足を動かし、しっぽをビューンと強く動かし、正面玄関の出入り口を塞ぐ格好になってしまった。
絶体絶命の僕とT君は顔を見合わせた。顔を見合わせたら、無言で同じ次の行動をする事が不思議と確認でき、また、一目散に地下に戻って行った。
僕らが向かった先は、この建物の最上階より金属の太いワイヤーで地下までつり下げられている金属の球体だった。ゆっくり動いている巨大な振り子を使う。それが、僕とT君が決断した最後の脱出方法だった。
僕とT君は振り子の玉である直径30センチメートル程の球体を見つけるや否や、二人同時にその球体に飛び乗った。すると球体は見る見る大きくなり、銀色に輝く地球になって僕らを乗せて、宇宙に飛び出した!
地球に乗った僕らが見下ろすと、下の方ではアマゾンの干し首軍団と恐竜の骨の模型が口惜しそうに、そして所在なさそうにウロウロしている。
僕とT君は最高に嬉しくなった。僕は、いつもは鼻をたらした青白い顔のT君が、それはそれは嬉しそうに笑っている顔を見ていたら、また、2倍に嬉しくなって、寝床の中で笑っている自分に半分気が付いていながら、もう少し、この楽しさを持続させたいと思ってまた寝た。
3
2017年4月、この話の1964年から53年という歳月が経過している。
その時に中学生だった僕は、65歳になっていた。
僕は今、母校の中学校の校門の前にいる。53年前の話を書くにあたって、微かな記憶が本当にそうであったか確かめようと思ったのだ。
まず、ここから歩いてT君の家に行ってみる事にした。1人で歩いて行くのだが、タイムスリップしてT君と一緒という想像をして歩いてみた。
この辺は大きな公園内という括りであり、緑も多く、古い建物もそのまま残ってはいるのだが、それでも半世紀の経過は街並を変えていた。道幅は広くなり、道には植栽もあり、昔に比べ随分と美しく手を加えられているのだが、それがかえって記憶の中で生きている街の面影とは違っている事が確認できた。それでも寺の門や古い建築物、そして建築物を取り囲む塀などは昔のままで、それらがポイントとなり、少しずつ記憶が呼び戻されるようだった。
T君の平屋の小さな家は無かった。
平屋の家のあった所は建物の裏庭にあたり、今は、荷物などを搬入搬出する通用口となっていた。その通用口の門は閉ざされている。出来れば中に入ってもう少し確かめたかった。僕はその前を行ったり来たりして様子を見ていた。よく見ると、建物の壁に案内板が付いていて、夜の天体観望公開とあった。何やら天体観望の公開日程が細かい文字で案内版に書いてあった。そうか、ここは普段は通用口だけど、天体観望に適切な季節になると、この通用門が開かれ天体観望が公開されるわけか。
しばらくすると宅配便の車が止まり、通用門が開いたので、僕は天体観望案内板を見るという口実を勝手に作り、中に入ってしまった。怪しまれてはいけないので、通用口を行き来していた職員らしき女性に、天体観望はいつ公開されるのか、どのように申し込めばいいのかと、質問してみた。口実ではあったが、興味もあった。どうやら火星や土星などの太陽系の惑星を天体望遠鏡で観る事が出来るらしい。僕は質問しながら、何故、天体観測でなく天体観望かを考えていた。観測というと何かデータを取ったりその成果が必要だが、天体観望はただ観るだけが目的ということかな、などと思ったが、その事は質問しなかった。
こうして中に入る事が出来たので、僕は辺りをよく眺めてみた。雑草が生えていたところはきれいに舗装され雑草一本無い。しかし、建物の地下に通じる階段はそのままあった。
その階段があるという事は、ここに平屋があった事は間違いない! と僕は心の中で確信した。僕は前のように地下に通じる階段を下りて、レストランに行きたくなったが、そんな行動をとったら怪しまれるだろう事は予測できた。だいいち、地下にはレストランがある気配がなかったのだ。
仕方なく通用口から出て、建物の右側を回って、正面玄関から入る事にした。
右側を回って行くと、屋外にある大きな大きなシロナガスクジラの模型に出くわす。この模型に付いている解説書の看板を見ると、[シロナガスクジラが海面で深呼吸を終えて急速に深く潜ろうとしているところです。]と書いてあった。
「あぁ、これは昔のままだ!」と僕は思い、美しいオブジェでもあるシロナガスクジラをそっと撫でて正面玄関に向かった。
今、僕はこの建物の正面の顔と向き合っている。このように意識して向き合うのは初めてだと思った。何と美しい建築物であろうか。
賢明な読者の皆さんは、もうすでにここが何処か分かっていらっしゃると思う。
ここは国立科学博物館。
T君の家であった、上野にある国立科学博物館である。
もちろんその事に気が付かなかった訳ではない。T君に、「僕の家に来ない!」と誘われ、この建物に入った時から分かっていた。
ミイラを見せてもらって、その夜に夢を見て、翌日、T君と学校で会ったけど、僕らはこれらの事に関して何も話さなかった。T君の家の事も話さなかった。どうして何も話さなかったのだろう? そして、何故、今になってこの事が僕は気になるのだろうか?
T君とはその後、だんだんと疎遠になっていった。たいした理由はなかった。
次の年、1965年4月には学年が上がり、僕は中学2年生になった。クラス替えがあり、また、新しいクラスの友だちができた。何と言っても10クラスもあるので、友だちの出会いは無限のように思われた。
僕はこの中学2年生であるものに夢中になる。それは、ザ・ビートルズだ。血が踊った。お袋にねだって、やっと一番安いエレキ・ギターを買ってもらった。嬉しかった。何にも分からないのにバンドを組んだ。集まって練習するのだが、どうやって練習すればいいのかも分からなかった。当時はエレキ・ギターの教則本なんて無かったのだ。でも、少しずつ分かってきて、ギターのコードを一生懸命に覚え、皆でやる楽しみが分かって来た。そんな事をやっていたら僕の周りには4、5人の親しい友だちがいた。
そこにはT君はいなかった。T君はエレキ・ギターなんかには興味ないと勝手に思って誘いもしなかった。僕の中学2年生時代の友人関係は満ち足りてしまって、T君の事はすっかり忘れてしまった。この時期の日々の変化はスピード感があった。どうしていいか分からない思春期の成長と時間が繫がって、どんどん時は進んで行った。ミイラの事も忘れていった。
65歳の僕は国立科学博物館の正面玄関に向かったのだが、正面玄関は現在使われていなかった。正面玄関の下、つまり正面の地下入口より入場できるようになっていた。
この建物は、1930年(昭和5年)に建設竣工された。現在は日本館という名称で主に常設展示を行っている。この日本館に隣接して1999年(平成11年)に別館として建設竣工された地球館は主に企画展を行っている。
日本館は太平洋戦争の東京空襲により損傷があったが、どうにか戦火を逃れた。その後、何度かの補修工事が行われ、現在も美しい姿で存在している。
僕は入場券を買い、日本館の地下入口より入場した。
真っ先に向かったのは、建物の最上階より金属の太いワイヤーでこの地下の真下までつり下げられている球体だった。53年前と変わらずに球体は音も立てず、スピードを保って動いている。これは「フーコーの振り子」と言うものだと分かったのは、後になってからだった。フーコーの振り子とは、地球が自転している事を証明した装置。物理学者レオン・フーコーが、1851年にパリのパンテオンで公開実験を行い、地球が自転している事を証明した。フーコーの振り子とはレオン・フーコーの名前から取ったもの。
太いワイヤーで吊り下げられた重い球体が描く軌跡は、可憐な花びらのようである。1日、24時間で1回りして花を完成する。この1回りが地球の1回りを証明している。つまり吊り下げられた球体が動いている分けではなく、地球が回って軌跡を描いているのだ。
このフーコーの振り子は、アメリカやフランス、日本のいくつかの科学館で観る事が出来るが、何処にでもあるものではない事が分かった。僕は変わる事のないフーコーの振り子の軌跡を暫く目で追った。時が宇宙の歯車で正確に刻まれている不思議を感じながら。
僕はフーコーの振り子がある地下から、1階に上がって行った。一階には現在閉鎖されている正面玄関がある。この玄関は美しい。10数段の外階段を上り、2本の太い柱の先に玄関がある。ここから入場したらどんなに気分がいいか、何故、閉鎖されているのか、僕はあれこれ考えてしまった。きっと入場者の管理がこの正面玄関では広すぎて難しいのだろう。残念だなぁと思いながら、僕は建物の中から正面玄関に向かった。
正面玄関に進んで行くと、大理石の床で出来た大きな広間がある。僕はガラーンとした広い空間を歩いてみた。歩いていたら、そこに立っていらした何かの係であろうと女性と目が合った。彼女は僕に向かって不思議な事を言った。
「ここ広いでしょ。ここには昔、大きな恐竜の骨の模型があったんですよ」
僕の年齢を予測して、しかも僕が昔の博物館の情景を懐かしく思っている事を分かって言った言葉のように思われた。この女性はどうやら僕と同じ世代のようだった。僕は共通する空気を感じた。
「あぁ、そうでした。ここにあったんですね。恐竜はティラノサウルスでしたよね?」
「いいえ。恐竜の骨の模型は二つあって、一つはタルボサウルス、もう一つはマイアサウラです」
「えっ、何ておっしゃいました?」
僕は慌てて手帳を出し、その恐竜の名前を書き取った。
「僕はティラノサウルスとばっかり思い込んでいましたよ。もっとも恐竜には詳しくなくて、ティラノサウルスとトリケラトプスしか知らないんですけどね」
僕らを襲った恐竜たちは、今、ここに居なかった。
恐竜に思いを馳せると同時に、僕は2階にあったミイラが今、どうなって居るのかとても知りたかった。ミイラがどうなって居るのかを知る事が、今日この博物館に来た一番の目的でもあった。
「あの〜、質問していいですか・・・・。昔、2階にミイラがありましたよね。ご存知ですか?」
「えぇ、ありましたね。知っていますよ。そんなに大きくないミイラでしたね」
「仰向けで寝ていましたよね?」
「えぇ、仰向けで寝ていました」
「何処のミイラかご存知ですか?」
「さぁ、何処のでしょう? はっきりとは分かっていなかったと思います。」
そうか、あの時T君に聞いても答えてくれなかったし、ミイラについての解説書のようなものもなかったのは、はっきりとした身元が分かっているミイラではなかったわけだ。僕はこの係の女性への信頼感が増々高まって、次の質問をした。
「今も2階にミイラはあるのですか?」
「はい。ミイラはありますが、昔に展示していたそのミイラではありません。今、展示してあるのは江戸時代の日本人女性のミイラです。最近発掘されたものです。ミイラはいくつかあるんですよ」
そうなんだ。あの時のミイラに会う事はできないんだ。僕はとても残念そうな顔をしていたのだろう。係の女性は僕の気持ちを察したかのように、楽しそうな表情で次の事を言った。
「昔、ミイラの近くに干し首がありましたでしょ!」
僕はビックリした。どうして干し首の事を知っているのだろうか? いや、知っているだろう。この博物館に何10年も拘わっていらっしゃるわけで、知識も記憶もたくさん蓄積されていると思う。しかし、不思議なのは、何故、僕に干し首の話題を投げかけたのかという事だ。僕は興奮して答えた。
「ありました! ありました! アマゾンの干し首ですよね!」
「そう、アマゾンの干し首!」
「今も展示されているんですか?」
「いいえ、展示されていません」
「どうしてなんですか?」
「博物館で展示するのにふさわしくないと判断したのでしょうね」
そうか。アマゾンの干し首は科学博物館の展示にふさわしくない・・・。そうだろうなと僕は思った。
その昔、アマゾン川流域に多数の部族があった。いくつかの部族は好戦的で、風習として他部族の首狩りを実践していたそうだ。犠牲者の頭部から頭蓋骨を抜き取り、熱湯で茹で、その後、乾燥させ、拳程の小さな干し首にする。部族間での残酷な風習としてお互いが所有していた干し首であるが、当時世界中にこの干し首の好事家がいて、取引され流失したようだ。
53年前に、夢の中で僕らを襲ったアマゾンの干し首たち。干し首に会う事はできなかったけど、係の女性との会話で、当時の事がリアルに頭に浮かんできた。僕が今ここに来て、T君との想い出を辿る事が前もって仕組まれているかのように、係の女性は対応してくれた。不思議な余韻が残った。
僕は2階に行って、ざっと展示物を見回した。江戸時代のミイラは棺桶に入った状態のもので、昔のミイラとは全く違うものである事が確認できた。現在の展示室は明るく、動物の剥製や昆虫の標本はきれいで、カビ臭く、おどろおどろしい昔の剥製や標本とは違っていた。
最後にもう一度、地下のフーコーの振り子の所に行ってみる事にした。
僕は振り子の球体をもう一度、観たかったのだ。
53年前、T君に誘われここに来た事。
ここに来た、その次の日に見た夢の事。
そして、今、ここに来て、こうして振り子を眺めている事。
その全部が夢のようであり、その全部が現実のようであるとも思った。
フーコーの球体が地球になり、その地球に乗って何処かに脱出した僕たち。
真っ白な上っ張りを着て、僕の隣で満面の笑みを見せたT君の顔が、僕の頭いっぱいに
蘇ってきた。
おわり
お読みいただきありがとうございました。