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レオナルドの恋

作者: 日南田 魚王

 

 もう十二月二十三日だった。藤田鼎は冷たくなる指先に冬の冷気を感じながら、研究生達の帰った後の部屋の後片付けをしていた。

 板張りの床には木炭やパステルの粉末が落ちていて、藤田はそれを丁寧に箒で履きながら、時折冷たくなる指に自分の息をかけては手を擦った。

 聖誕祭を迎えると、この島洋画研究所を亡くなった島先生から引き継いで既に十年がすぎるのだなと思いながら、彼は聖母子像が模られたステンドグラス越しに夕暮れの空を見た。

 このステンドグラスは友人の作家から、研究所の開所祝いに貰ったものだった。

 藤田はこのステンドグラスを見ていると、今でも先生と二人研究所でワインを飲みながら夜を明かしたことが、二十年過ぎてもまだ最近のことのように思われた。先生はいつもデッサンが終わると緊張した神経を解くため、藤田をこのステンドグラスの部屋に呼んで、ワインを飲んだ。

 先生はワインを飲むととても陽気でいつも自分が欧州の美術館で見てきた古今の名画の話をした。藤田はそうした先生の話の中からひとりの画家として作品に対する深い洞察と観察力に満たされた意見を聞いては、ゆくゆくは自分も先生のように素晴らしい画家になりたいと思った。

 そんな先生も十年前の冬、聖誕祭の直後にこの世を去った。先生は亡くなる前、奥様を自分の枕元に呼び、数多くの研究生の中から藤田を指名して、この研究所を譲ることを遺言として残した。その為藤田は、三十歳そこらでこの研究所の所長として今日まで洋画研究所をひとりで切り盛りしていた。

 藤田は今年の聖誕祭は関東の友人達と東京で過ごす予定にしていた。久々に関西を出て、大都会の東京で聖誕祭を過ごすのも悪くはないと考え、東京に向かうことにしていた。髪にも少しだけ白いものが混じり始め、もう四十半ばを越えようとしていた。

 色んなことがあったなと、藤田は思った。

 神戸から大阪に出てきて島先生の洋画研究所を訪れた頃には、まだ多くの絵画研究所がこの付近には在ったが、今ではその多くは大阪の都市開発のため消えた。

 唯一、この煉瓦造りのアールヌーボ調の研究所だけが今も取り壊されず残っていた。

 しかしこの研究所も既に古くなっており、一週間前に市の役人が訪れ、新年にはこの建物を取り壊すことになったことを告げた。

 時代がそう決めることに、藤田は反対をしなかったが、ただやはり心の中では思い出のあるこの研究所の建物がなくなるのは寂しく感じていた。

 部屋の掃除を終えた藤田は明かりを付けると、外にある書庫から古びたガスストーブを運んできた。運ぶ途中、イーゼルに掛けられた赤いビロード生地に触れた。

 藤田はガスストーブを下ろすと少しだけずれた生地を丁寧に元に戻し、ガスストーブを抱えて部屋に入った。

 部屋に入るとガスストーブを焚き椅子を引き寄せて冷たくなった手をかざした。ガスの匂いが部屋に広がり、そしてゆっくりと指先が温まってゆくのを感じた。

 夕暮れ時の大阪に、本格的な寒い冬が来ているのを感じた。

 暫くの間、背を丸めてガスストーブに手をかざしていると、研究所の入口の扉を叩く音が聞こえた。

 藤田は音の鳴る方を振り返ると研究所の入口の扉の磨ガラス越しに人影が見えるのが分かった。

 研究生の誰かが忘れ物でもしたのかと思い、藤田は立ち上がり扉に近づくとゆっくりと扉を開けた。

 そこに青いフロックコートを着た若い娘が立っていた。

 二十歳そこらのその若い娘は藤田を見ると静かに頭を下げてお辞儀をした。

(誰だろう)

 藤田は見覚えのない娘の顔を見て、すこし戸惑った表情をした。

 その娘はそんな藤田の表情を見ながら、突然訪れてすいません、と小さく言った。そして彼女は藤田の目を真っ直ぐに見て言った。

「こちらに島悌二郎という方はいらっしゃいますか?」

 藤田は娘が先生の名前を言うのを聞いて、どこかの新聞か雑誌の取材かと思った。時折、この中之島の界隈で活躍した芸術家を定期的に取り上げる新聞社や出版社、また論文を書く目的で訪れる美術大学の生徒が居て、そうした訪問が少なくないことを藤田は知っていた。

 しかし、その場合は事前に研究所へ問い合わせがあるものだったから、こうした不意の訪問は稀だった。

 藤田は柔らかな口調で、娘に言った。「亡くなった島先生の取材ですか。何分もう遅い時間なので、もしよければ日時を改めてお伺い頂ければ嬉しいのですが」

 そう言うと娘は目を開いて驚いた表情で藤田の顔を見た。その娘の表情を見た藤田は、取材ではないなと思った。取材なら先生が亡くなったことは知っていて当然だと思ったからだ。

 そして沈黙して俯く娘を見て、藤田は言った。

「取材とは違うようですね」

「違います」

 娘は俯いたまま藤田に即答した。

「それでは、どういったご要件ですか?」

 藤田は、少し背を丸め、娘の話を聞こうとした。

 遠くに聖歌隊の歌声が響いていた。


 藤田は若い娘を研究所の中に入れるとガスストーブの前に椅子を置いて座らせた。

 そして自分は奥の部屋に行きカップに紅茶を入れた。茶葉の香りが室内に漂いだすと、藤田はカップをソーサーに乗せて、それを手に持ち椅子に座る娘の前に来てそっと差し出した。

 娘はそれを両手で受け取ると、静かに藤田の方を見てカップを唇へと運んだ。

 そして

「二十年前のクリスマスの日にちらに来た私の母について知りたくて訪ねて来ました」

 と、言った。

 娘は自分の名前を木村里沙と名乗った。

 藤田は冷えた指をガスストーブの前に差し出すと指を擦り、息をかけ、そしてまた指をガスストーブの前に差し出した。

 そして静かに黙ったまま先程娘が話したことを思い出していた。

(木村・・)

 娘は藤田に二十年前の聖誕祭の夜に訪れた或る女性のことを話した。

 その女性の訪問は藤田がこの研究所に通い始めた頃、ちょうど雪の降る聖誕祭の夜に起きた出来事だった。

 藤田は実はその女性のことを決して誰にも話をせず秘密のままずっと二十年近く心に閉まって生きていた。

 二十年前のその女性の訪問と、いや正確にはその女性の訪問後に自分に起きた出来事は当時の若い藤田を悩ませ、彼をとてもつらい人生の暗い谷底に落とした。

 藤田は懊悩する日々の中でその事を記憶の底に沈めて誰にも話さなかったが、とうとう或る人物、そう島先生に沈み行く夕暮れの時のデッサン室の中で打ち明けた。

 話を聞きながら沈痛の表情をしていた先生はやがて黙って煙草を吹かして藤田の目をじっと見た後、肩を叩いて「一人の人間としてやるべきことをするように」とだけ言った。

 その後、藤田はそのことを先生と自分だけの秘密として静かにそっと心の中に潜ませ、そして先生は亡くなるまでそのことを誰にも話さなかった。

 それを突然訪れた見ず知らずの娘がその女性のことを口にしたとき、藤田は一瞬動くことができなかった。

 ただ強張った表情で娘を見て、そうですかと言っただけだった。

 藤田の横で娘はカップから登る湯気に頬を温めながら、薄く瞼を閉じながらカップに注がれた紅茶の中に映る自分を見ていた。

 その薄く閉ざされた瞼と睫毛から見えるその瞳と娘の表情を見ながら、藤田は二十年前の雪の降った聖誕祭の晩のことを思い出しはじめた。


 藤田は先生とガスストーブの前で淡いシャンパンの香りに酔いながらルネサンス絵画の事や先生の欧州旅行のことで談笑していた。

 話は先生が若い頃、友人の画家である滝先生とイタリアで絵画を学んだことや、ルーブル美術館で模写をしていると素晴らしい模写のため、贋作の疑いがかけられそうになり、美術館の職員に模写の中断をさせられ追い出されたこと等とても愉快で楽しい話だった。

 ちょうど時計の針が真夜中の午前零時を差す頃、外は吹雪き始め、雪がガラスの窓を叩きつける音が聞こえるくらいになった。

「先生、外は大雪ですね」

 藤田はそう言うとグラスにまたシャンパンを注ぎ、ぐいと喉に流し込んだ。

「そうだな、これほどの雪が大阪に降るのは久しぶりじゃないだろうか」

 先生はそう言うと椅子に手をついて後ろを振り返った。

「藤田君、今扉を叩く音がしなかったかな」

 藤田は先生の言葉を聞いて、玄関の方に耳を澄ましたが何も聞こえなかった。

「いえ、先生何も聞こえないようですが」

 藤田は先生に向かってそう言うと、ボトルを先生のグラスの方に持ってゆきシャンパンを注ごうとした。

 先生は手のひらを出して、それを待つようにと仕草を見せ、耳を澄ませた。

 雪の降る音が二人の静寂の中に響き、雪が落ちる音の中に微かだが扉を叩く音がした。

「先生、確かに聞こえました」

 藤田は席を立つと扉へ向かいそして磨ガラスの向こうに見える人影を確認した。

(こんな時間に誰だろう)と藤田はそう思いながら扉のノブをゆっくりと回した。

 開かれた扉から吹雪が入り込み、冷たい風と冷気が入ってきた。

 そして人影が開かれた扉の隙間から伸びてきて、やがて藤田の足元から瞳までその先が伸びてきた。

 若い娘がそこに立っていた。薄い青色のカーディガンを羽織って手袋もしていていないむき出しの小さな手を口元で合わせ藤田を見ていた。

 藤田は驚いて、声を出した。先生もその声を聞いて扉の方に走り寄ってきた。

「君、どうしたのかね?」

 先生は娘を見てそう言うと、娘を部屋の中に入れた。

 藤田は娘が部屋に入ると扉を閉めた。

 先生は急いで娘をガスストーブの前まで連れてゆき椅子に座らせると服に残る雪を払いながら、藤田君、デッサン室にある毛布をもって来てくれないか、と言った。

 藤田は急いでデッサン室へ行き毛布を取って、戻って来た。そしてそれを娘に渡すと今度はお湯を沸かすため別の部屋へと向かった。

 ガスをひねりお湯を沸かすと、白いカップを食器棚から取り出し、そこに林檎茶の粉末を入れた。入れながら藤田は今ここを訪れた娘は自分が知っている人物ではないと思った。

 そしてガスストーブの前で濡れた髪を乾かしている娘の後ろ姿を見た。

 ガスストーブのオレンジの明かりが肩まで伸びた長い髪に反射していた。

 その髪を見ながら藤田はコップにこぼれるぐらいまで林檎茶を注ぎ、ゆっくり歩いて娘に近づくと、そっと娘の前に差し出した。

 娘はそれを両手で受け取ると、頭を下げてありがとうございます、と言った。

 先生は娘から少し離れたところに腰掛け、ゆっくりと煙草を口に咥えるとマッチを擦って火を付けた。

 藤田も椅子に腰掛けると、黙って娘が唇へと運んだコップから昇る湯気を見つめていた。

 無言の静謐な時間が過ぎた。

 娘は林檎茶を飲み終えると、カップをスカートの膝の上に載せた。先生は静かに娘の方を見て言った。

「お嬢さん、私は画家の島悌二郎と言います。出身は会津です。今自分の記憶を探っていたのですがね、どうも君という人物が出てこない。ましてやここの研究生として訪れている女性のひとりでも無いようだ。お名前をお伺いしても宜しいかな」

 先生が話し終えると、娘はこくりと頷いて話しだした。

「私は木村しずと言います。突然こんな夜半に訪れてしまい、ご迷惑をお掛けして申し訳ありません。私は長崎の平戸の出身で、大阪には恋人を訪ねてきました」

 先生は消えかかった煙草を灰皿で消すと、また新しく煙草を口に咥えた。娘は話を続けた。

「恋人と私は今月結婚する予定でした。しかし平戸にいる私のもとに秋の頃から手紙がこなくなり、心配になった私は昨晩電車を乗り継ぎ大阪に来たのです」

 藤田は娘のうなじが震えているのが分かった。それが細い肩に伝わると、娘の涙と嗚咽が混じる声が聞こえた。

「私は彼の職場に行きました。その職場に着くと、そこには何もありませんでした。私は近所に住む方々に話を聞きました。そこで知ったのです。恋人はこの工場のガスパイプから漏れた爆発事故で亡くなってしまっていたのです」

 藤田は娘の言葉を静かに黙って聞いていた。先生の言葉が娘の話の後に続いた。

「ああ、それなら知っているよ。確か港の方にある塗料工場の爆発事故だね。多くの方が亡くなったと聞いています。その中の一人に、君、しずさんの恋人がいたのだね」

「そうです」

 娘は両手で顔を覆いながら、言った。窓を外の吹雪く風が激しく叩いた。

「それで、あなたはどうされたのですか」

 藤田は娘に言った。

 娘は顔を上げると藤田の顔を見た。

 藤田も涙で濡れる娘の顔を見た。

 白い一重の瞼の黒い睫毛の下に涙で濡れた瞳が、藤田を見ていた。

「恋人の遺体は既に荼毘に付され、私はその事故で生き残られた方に連絡をとり恋人の葬られている寺に向かい、遺骨を受け取りました。そして途方に暮れながら遺骨を抱え大阪の街を歩きました。私は遺骨をもって長崎の平戸に帰ろうと思い駅に向かいました。しかし駅にゆくと自分の財布がありません。私が街を歩いている間に、不注意で財布をどこかに落としてしまった様なのです。私はそれで着ていた外套を急いで質屋にいれて金銭にしましたが、それでも平戸まで帰る電車賃には足りませんでした。それで物乞いをするように道行く人々にお金を貸していただけないかとお願いしたのですが、誰も手を貸してくれる人はいませんでした。嗚呼、今日は聖誕祭の夜だというのに、私には神の加護が無いようでした」

 娘は二人に向かい一気に話をすると、黙って俯いた。

 藤田は気の毒だと思いながら、静かに俯く娘を見ていた。先生は煙草からゆっくりと煙を吐くと、静かに娘を見ていた。先生の目が、画家としての観察力を増してきているのが藤田には分かった。

 先生の薄く瞼を閉じた黒い瞳に、娘の姿が映し出されていた。そして先生の視線が娘の胸元に光る何かを見つけた。先生は立ち上がると娘に言った。

「しずさん、私は画家です。ちょうど飲みだしたシャンパンが身体から抜け始めて頭が冴え始めたとこです。宜しい、お金をお渡ししましょう。いえ、貸すのではありませんよ。あなたに私達がこれから描くデッサンのモデルになって頂きましょう。その代金として平戸までの足りない電車賃をお支払いしましょう」

 先生は確かにいま私達と言ったな、と藤田は思い先生を見た。

 先生は藤田を見て素早く片目をつぶり藤田に合図を送ると娘を見た。驚いて顔を上げる娘が、二人を交互に見た。そして言った。

「私、何でもやります。平戸に戻り、恋人の遺骨に美しい故郷の街をそして海を見せてやりたいです。お願いします。モデルをさせてください」

 先生はそう言うと娘の髪を優しく触わり、頷いた。

「では、あなたの髪が乾いてから始めましょう。そこにいる若い青年は藤田鼎君といいます。彼と一緒にあなたを描かせていただきます。そう、もしできればお願いがあります」

 先生はそう言うと娘の首元から胸元に指を差し出して言った。

「あなたのその胸元に隠れている銀のロザリオも一緒に描かせてください。それは平戸の由緒ある教会の洗礼を受けた方が身に付けるものですからね」

 そう言うと娘は、胸元に隠れているロザリオをゆっくりと取り出した。そして、ガスストーブの明かりに照らした。ロザリオがオレンジの明かりに反射して輝いた。

「洗礼名をお伺いしてもいいですか」

 先生は娘に言った。娘は先生に向かって言った。

「マリアといいます」

(マリア・・聖母マリアか)藤田は心の中で呟いた。

 聖誕祭の日に訪れる人がいればもっとも尊い客人であることは間違いなかった。

 藤田は彼女をじっと見つめた。彼女の横顔は憂いを帯びて美しかった。そして切れ長の薄い瞼の下から見える瞳が先生を見つめていた。

 先生は煙草を灰皿に押し付けて、火を消した。そして言った。

「しずさん、もう髪が乾いたようだね。では、藤田君始めようか、しずさん、いえ、聖誕祭に訪れた各人、聖母マリアのデッサンを」


 娘のカップをソーサーに戻す音がした。その音で藤田はガスストーブに手をかざしながら昔の記憶の中から自分が戻ってくるのが分かった。

 娘の方を見ると、彼は微笑んだ。

 遠くで歌っていた聖歌隊の声がはっきりと聞こえてきた。街を歩きながら歌っているのだと、藤田は思った。

(明日は聖誕祭なのだ)

 藤田は改めて思った。

 娘はその日訪れた木村しずの娘で木村里沙と言った。入口で娘は藤田にそう言った。娘は物思いから覚めた藤田を見て話し始めた。

「母がこちらを訪れた時、既にお腹の中に子供を身篭っていました。母はあの日モデルをさせていただいた翌日、島先生と一人の青年に見送られ大阪を発って平戸へと向かいました。その青年のことを母はあまり詳しく知らないようでした」

 藤田は静かにステンドグラスを見つめて娘の話を聞いていた。

「そして故郷で母は子供を産みました」

 藤田は静かに聞いていた。

「その子供は、私の兄です」

 藤田はゆっくりと娘の方を向いた。藤田の少し緊張した顔が、娘にも分かった。

 二人は向き合った。

 娘の何か心の奥に秘めた純粋な気持ちを押し付けるような視線が藤田の心を照らしていた。

 藤田に何かを言わそうとするその視線を避けるように藤田は大きく息をすると、ゆっくりと椅子から立ち上がった。娘は言った。

「今日、私は自分の父を探しに島先生に会いに来ました。母は島先生が全てを知っていると言っていました。だからここに来ました」

「そうか・・そうだったのだね・・・、しずさん、君のお母さんは・・その後元気にしているのですか」

 娘は静かに「母は昨年の春、亡くなりました。」と、言った。

 そして母のことを知っているのですか、と藤田に言った。

 藤田はそれを聞くと視線を天井に向けて、手を強く握り締めた。

「島先生と一緒にあなたのお母さんを見送った青年は僕のことです」と、言った。

 娘は険しい表情の藤田を見ながら話を続けた。

「平戸に戻った母は兄を産んだ後、幼い兄を育てながら時折実家の旅館の仕事を手伝い、また日曜日には教会へと行きました。そんな或る夏の日、平戸を訪れた青年がいたのです。その青年は母の実家に一月あまり滞在して、そして平戸を離れました」

 藤田は表情を変えずに黙って聞いていた。何も言わず、ガスストーブの明かりを見ていた。

「その青年は平戸の風景を描くために訪れて、そして母と恋に落ちたのです。故郷に戻った母の心は、愛する恋人を失ったという事実に大きく傷ついていました。とてもつらく苦しい心の日々にその青年は現れ、沢山の楽しい話をして、やがて母の心を恋という薬で癒してくれました。私は母が亡くなった後、遺産の中に母の日記を見つけました。そしてそのころのことが書かれていたところを見つけました。そこには、娘の私がみても分かるぐらい、母・・いえ、一人の女性の苦しみが恋の喜びへと日々変化していく心が言葉で綴られていました」

 聖歌が部屋の中にまで聞こえてきた。アヴェマリアだと、藤田は天井を見ながら思った。娘の声がアヴェマリアと溶け込んでゆく。

「しかしその青年は母の所を去り、母はそこに残りました。そして私は生まれたのです。母の或る日の日記にはこう書いてありました」

(8月30日、彼は、私に再び会う為に遥かな天国からやってきました、しかし私達の天国には悲しい現実があって、私達の恋が完成され神の祝福を受ける為の席は悲しくも用意をされてはいませんでした。でも私達は幸福でした。お互いに神の洗礼を受けたものだから、遠く離れたところでも生きていけるのです。その青年は苦しむ私を助けてくれました。主よ、私はそれ以上何を望めばいいのでしょう)

「母は恋人を亡くした若い未婚の女性そして青年は将来を夢見る画家、そんな二人が別れを告げた恋は、それは夏の短い時間の中の儚い恋でした。まるでピカソの青の時代のように漂う物悲しい色彩に彩られた恋・・。その青年はいまどこにいるのでしょう。私はその青年に会いに来たのです。母はその後、修道院に入りました。私は叔母のところに預けられそしてそこで成長しました。その青年は誰なのでしょう。その後のその青年は幸せなのでしょうか」

 藤田は目を娘に向けた。そしてもうこれ以上何も言うことはないという表情をして、娘の方を見た。娘は涙を溜めながら藤田に言った。

「あなたがその時の青年・・私の父・・・藤田鼎ですね」

 藤田は暫く無言でいたがやがて、そうです、と言った。そして自分の娘を見た。

「お母さん、いえ、しずは去年亡くなったのだね。弔いにも行けず、申し訳無い」

 藤田は深々と頭を下げた。理沙は頭を下げる父の姿を見て微笑んだ。

「とんでもない、私はあなたの、言えお父さんの援助のおかげでこうして関西の大学にまで行けるようになりました。とても感謝しているのです」

 理沙は藤田に言った。

 藤田はその援助ができるのも実は先生が自分をこの研究所の所長に指名してくれたことで経済的に自立ができたからだと理解していた。

 先生は何も言わずに暗に自分を援護してくれたのだった。

 藤田は先生の死後、より一層先生の自分に対する優しさと人間としての尊敬を強く抱き、感謝した。

 理沙はポケットからそっと銀色のロザリオを藤田に差し出した。そのロザリオには“マリア”とそして“レオナルド”と彫られていた。

 藤田は頭を下げたまま、静かに涙が頬を伝うままにした。

 藤田は涙が床に落ちると、頭を上げ理沙を見てそのロザリオと娘の手を共に握ると、もう一度天井を見た。

 天井は薄暗いままだったが、何故かそこにルネサンスの頃のミケランジェロが描いたシスティーナ礼拝堂の天井画が見えた。

 無数の天使が見えた。

 藤田は天井画に描かれている天使の姿を見つめながら、声を絞るように言った。「レオナルドは僕の洗礼名で、このロザリオは僕達の叶わなかった恋の記念に、いつまでも彼女の側に僕がいる様に願って文字を彫ったものです」


 理沙が去った時、藤田は娘に明日の聖誕祭の日にここに来るように言った。

 藤田には娘に渡すものがあった。

 藤田は研究所の書庫に向かった。そこにイーゼルの上に赤いビロード地の布に被されている画布が在った。

 藤田はその布を被せたまま、イーゼルごとガスストーブの部屋に持ってきた。そして別の部屋からパレットを持ってきてそこに油絵具を乗せると、ゆっくりと筆先を油につけて筆をなじませた。

 藤田はビロード地の布をゆっくりと取ると、画布にまず青色をつけた。そしてそのあとに赤色、そして黄色と次々に色を付けていった。ふと、島先生の言葉が響いた。

「藤田君、私の友人の滝君が云うには、画家は必ず誰かの存在が必要なのだそうだ。画家が本当に画家になるには、才能だけではなれない。勿論才能も技術もとても大事なことだが線を描き、色彩を画布に放つだけでは本当の画家になれない。画家には自分以外の人間の存在が必ず必要だ。画家も一人の人間なのだ。人間が人間に出会い互いに影響される。そしてその存在に対して向き合うことではじめて自分が何故絵を描こうとするのかという、理由を見つけることが出来る。それが画家には必要で、それを人生の中で見つけることが出来る運命の下にある者が画家になれるのだ、とね。どうだろう、概ね間違い無いだろう」

 そして先生の笑い声が響いた。

 藤田は絵を描きなが、その言葉が響いて先生の笑い声が聞こえたとき、自分も微笑んだのに気づいた。微笑んだ後、やがて画布からゆっくりと筆を離し、一枚の絵が完成した。


 聖誕祭の日の午後、理沙は研究所を若者と一緒に訪れた。藤田は二人を見ると微笑んで部屋の中に入れた。

 そこには何も載っていないイーゼルが在った。

 そして理沙と話をしたガスストーブの前に二人を座らせると、奥の部屋から薄いリネンの生地を掛けたものをイーゼルに置いた。

 二人はそれを静かに見ていた。丁度冬の午後の陽光がステンドグラスからそのイーゼルに向かって降り注ぎ始めた。

 藤田はゆっくりと慎重に優しくリネン地を外した。

 ふたりの前に若い女性の肖像画が現れた。

 理沙は手を口に当てると、驚いてその絵を見ていた。若者もその絵を黙って見ていた、やがて言った。

「先生、これは理沙ですね」そして藤田の方を見た。

 藤田は若者の目を見て、頷いた。

 理沙は絵を見た感動のために、暫く声が出なかったがやがて少しずつ涙を頬に流し始めた。

 なんという優しさなのだろう、愛おしさ、娘の成長を祈る声、そして娘の純粋さ誠実に信じている心が絵から溢れ出ており、それを理沙は感じていた。

 若者はそんな里沙の肩を優しく抱くと、良かったねと呟いた。

「僕は平戸を去った翌年、しずから君が生まれたことを聞いた。その時、僕はどれ程喜んだことか・・、しかし僕は君に会うことはできなかった。色んな事情が僕としずには有ったからね。だけど里沙、僕は君が小学生になるまでしずから定期的に君の写真を貰いそして写真を手にしながら静かに君を思ってこの絵に少しずつ筆を入れていった。しかし、僕としずの関係は今大人になった君なら分かるようにとても社会的に正しい席を得るようなものでは無かったから、その写真のやり取りも僕のほうからしずに手紙は不要だと、言った。それが今後のお互いの為に良い事だと判断したからだ。そしてしずは修道院に入り神と向き合い、僕は絵と向き合うように生きた。それでも僕は君の事を考えない日々は無かった」

 言葉の途切れに無言の頷きがあった。

「日々、僕はこの画布に向って絵を描いた。この絵は最初の頃は少女だった君の絵だったが、塗り重ねていくうちにやがて大人の女性の絵に変わっていった。僕は君がきっと美しい娘になっているだろうと、願いをこめて描き続けた。しかし最後の一筆を入れる勇気がなかなか出来なくて、書庫にしまっていた。その一筆を入れてしまうと僕と君との繋がりが完全に切れるような気がしてね・・。でも君に昨日会えたとき、やっと最後の一筆を入れることができると感じた。そしてこの絵は出来上がった」

 藤田は理沙に向かって続けていった。

「この絵を貰っていただけるだろうか。何もできなかった僕の、君へのせめてもの聖誕祭の贈り物として、そして今日という君たち若い二人の記念日に」


 藤田は二人が去った後の部屋にひとり残った。

 東京へ向かう時間が近づいていた。

 イーゼルには一枚の絵が置かれたままだった。

 二人は絵を持ち帰らなかった。いや、また正月に来るからそのとき持って帰るとのことだった。

 藤田はそれを聞くと微笑んで、じゃまた正月に会いましょう、と言った。

 若い恋人の日にこんな過去の重い思いのある絵が側にあるのは邪魔になると思った。

 だって今日は恋人たちだけの特別な日なのだから。

 藤田は部屋の明かりを消し、戸棚に置いていた東京行の新幹線の切符をポケットに入れると、扉の鍵を締めようとしたが、急に思い出したように再び絵の元に走り寄って急いで筆を取り、何かを右隅に書いた。

 藤田はそれを書き入れると、静かに扉を閉めた。

 ステンドグラスの七色の明かりがその絵を照らし最後に書かれた部分が、遠くからもはっきり見えた。

 そう、そこには“レオナルド”と書かれていた。


















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