熟睡日和
十一月の午後の空は薄雲に覆われ、弱々しい太陽の温もりは地上にまで届かない。街路樹の下に広がる紅葉の絨毯が、秋の終わりを告げていた。
車の運転席から見える街中には、手を繋いだカップルや談笑する若者のグループ、買い物袋を提げた家族連れなど、たくさんの人が行き交っている。それもそのはず、今日は祝日だ。カレンダーでは日付が赤字で主張する日。
それなのに、私は朝から上司に呼び出されて会社へ出勤し、どうにかこうにか片付けてようやく解放されたところだ。
元々ギリギリの人数だったうえに、ようやく仕事を覚えてきたと思った新人が急に辞めたせいもあり、そのしわ寄せで、ここひと月ほど残業や休日出勤が増えていた。
まあ今日は午前中で済んだだけマシかもしれない。
仕事が済んだといっても、今から急に呼び出して会える彼氏がいるわけでもない。友人も、誘いを直前でキャンセルした手前、今さら時間ができたと言うのは身勝手な気がする。おとなしく帰ってのんびりしよう。
赤信号で車を止めると、目の前の横断歩道を一人で歩く少年が目に入ってきた。小学校低学年くらいだろうか、紺色のダッフルコートが良く似合うあどけない顔つきの普通の少年だが、目に留まったのは、自分の背丈ほどもある大きなくまのぬいぐるみを抱えていたからだ。いや、あの形はぬいぐるみというより、たぶん抱き枕だ。
抱き枕を抱えた少年は軽い足取りで道路を渡り切ると、近くの大きな建物へと入っていった。
何の建物だろう。あの抱き枕は何のために?
どうも少年の抱き枕が気になったので、車を駐車場に止め、その建物に入ってみることにした。
◇
入口をくぐると、中から暖かい空気と一緒に子供たちの声が飛び出してきた。もしかしてここは児童館か何かだったのだろうか。だとすると場違いな所へ来てしまったかもしれない。
でもすぐにそれは勘違いだと分かった。
『全国一斉、熟睡プラ寝たリウムの日』
自動ドア横の大きな立て看板にはそう書いてある。どうやらここはプラネタリウムらしい。そして今日は、プラネタリウムで寝ようという催しが開催されているようだ。なるほど、それであの抱き枕。
館内はプラネタリウムを見に来た人々で賑わっていた。小さな子供を連れた親子が多いが、カップルや、友人同士だろう若い女性グループもちらほら見える。
プラネタリウムなんていつ振りだろう。もしかしたら小学生の時以来かもしれない。抱き枕の謎も解けたので帰ってしまってもいいのだが、せっかくなので見ていくことにした。どうせ他に予定があるわけでもない。
列を作って開場を待っていた客たちは、中に入ると思い思いの座席に腰を下ろした。グループ客の隣になるのは少し気まずい。そう思って人の少ない場所を探して会場を見回していたら、端の方に見覚えのある姿を発見した。抱き枕の少年だ。
なんとなく引き寄せられるようにそちらへ向かい、一人で座っている少年の一つ空けた隣に腰を下ろした。座席に背中を預けると、上を見やすいように背もたれが倒れる。脱いだコートを隣の空いた席にでも置こうかと横を向いたところで、目に入った少年の姿に驚いた。パジャマだ。さっきは気付かなかったが、少年はコートの下にパジャマを着ていたらしい。
さらに彼はリュックの中からブランケットを取り出し、寝る態勢は万全だ。
そこまで本腰を入れるなら自宅のベッドで寝ればいいのに。
いや、そんなことを言うのは無粋か。
少年のようにはいかないけれど、少しでも快適さを上げようと、マフラーを畳んで枕にし、コートをブランケット代わりに膝に掛ける。
うん、結構いい感じ。これでスーツじゃなくてジャージとかだったらもっとリラックスできるんだけど。
居心地の良い寝床が出来上がった頃、ぼんやりと灯っていた明かりが完全に消え、ドームの中は真っ暗になった。投影が始まるようだ。
『みなさんこんにちは。今日は「全国一斉、熟睡プラ寝たリウムの日」ということで、プラネタリウムの星の下で寝てもらおう、というイベントになっています。最初に十分ほど今夜の星空の解説をして、その後は何も喋りません。ゆっくり眠っていただければと思います』
マイク越しに、落ち着いた年配らしい男性解説員の声が挨拶と催しの趣旨説明を行う。それが終わると、ドームに映し出された空に一つ二つと星が見え始め、どんどん増えると、あっという間に暗闇は小さな光に埋め尽くされた。
すごい。綺麗。
子供みたいな感想しか浮かばない。でも心から、そう思う。
いつも生活している街の上に、こんなに綺麗な星空が広がっていたなんて。
そういえば、大人になってからは仕事に追われ、ゆっくり夜空を見上げることも無くなった。私が気付いていなかっただけなのかもしれない。
『みなさん、北極星がどこにあるか分かりますか? 北極星は北斗七星のひしゃくの先を辿っていくと見つかります。こぐま座のしっぽの先のこの星です』
解説員の説明は丁寧で、私のような無知な人間でも分かりやすい。ただ、ゆっくりとした静かな話し方が会場内の暗さ、暖かさと相まって眠りを誘い、だんだんとまぶたが重くなってきた。
目を閉じれば星は見えない。でも相変わらず解説は続いているから、今自分が星空の下にいるのが分かる。解説員の声に混じってかすかに聞こえる小さな寝息は、あの可愛らしい少年だろうか。くまの抱き枕を抱いて眠る姿を想像すると、微笑ましい。
すうすうと規則正しいやわらかな寝息と解説の声が、次第に遠くなっていく。
◇
……苦しい。息が、できない。
「ぐ、うっ……ぶはっ!?」
酸素を求めて荒い息をしながら周囲を見ると、薄暗いドームの天井にはもう星は見えなかった。
『では、眠れた、という方は手を上げてください』
解説員がアンケートを取っている。投影は終了したらしい。
いつの間に眠っていたのだろう。解説の途中から記憶が無いということは、かなり最初の方から寝ていたようだ。
それにしてもさっきの息苦しさは何だったのか。目を開けた時にあの少年が近くにいたような気がするけど……。
そう思ってちらっと少年に目をやると、彼は抱き枕を両手に抱いて大きなあくびをしていた。特に変わった様子は無い。気のせいだろうか。
アンケートも終わって室内が明るくなり、観客たちが出口へと向かう。みんな背伸びをしたり目をこすったり、まだ半分夢心地といった風情だ。
「あんなおっきないびき、みんなにめーわくだよ」
私も帰ろうと立ち上がってコートを羽織っているところに、可愛らしい声が聞こえた。声の方を向くと、抱き枕の少年がこちらを見ていた。周りの他の人に話しかけているようには見えないから、私に言っているのだろう。
「えっと、いびき?」
「うん。すごくうるさかったから、こうやって」
少年はそう言って、指で鼻をつまむ仕草をした。まさか、あの時の息苦しさって。
「もしかして、私、いびき、かいて……?」
少年は少しきまり悪そうに、こくりと頷いた。
いやいやいや、ちょっと待って、こんな所でいびきとかありえないでしょ。こんな公衆の面前で。
恥ずかしさで顔が熱くなる。
周りの人たちにいびきをかいているのが私だってバレただろうか。いや、でもあの暗さだし、きっと大丈夫。大丈夫と思いたい。
「あの、いつもおつかれさまです。おしごとがんばってください」
「え?」
パニックになって固まっている私に、少年がまた意外なことを言う。混乱して一瞬言葉の意味が分からなかったが、初対面の子供に言われるようなことではない気がする。
「え、おねえさん、はたらいてる人じゃないの?」
少年は私の着ているスーツを見て言っているようだ。
「一応働いてるけど」
「今日は、きんろーかんしゃの日だよ」
勤労感謝の日。
そういえば、十一月二十三日の祝日はそんな日だったっけ。特に何かする習慣も無いから、全く意識していなかった。
「それじゃ、さようならっ」
言いたいことを言って満足したようで、少年は出口へ駆けていった。少年の肩口から覗く抱き枕のくまが揺れて、手を振っているように見えた。
◇
外に出ると、空はすでに薄暗くなっていた。日が落ちると、今日が終わるという感じがする。だから冬の一日は短い。
今日ももう終わる。
半日は仕事だったのに、とても充実した休日を過ごしたような気分だ。プラネタリウムで寝たのが良かったのかもしれない。それに、可愛い少年からの思いがけない労いの言葉も。自分の子供にあんなことを言われたら、仕事も頑張れるに違いない。
子供、欲しいなあ。でもその前に相手を見つけないと。
「おねえさん、だって」
少年の言葉を思い出す。あれくらいの子供がいてもおかしくない年齢なのに「おねえさん」と呼ばれるとは思わなかった。私もまだイケるかな。
でも、いびき……。いや、それはもう忘れよう。忘れた。私はいびきなんてかいていない。うん。
駐車場から車を発進させ、今度こそ家路につく。
暗くなった空には雲がかかっていて、星は見えそうにない。
プラネタリウムで星空を全然見なかったのは、やっぱり少しもったいない気がした。
まあそのうち休みになったらゆっくり星を見に来ればいい。
楽しみもできたし、それまでまたお仕事頑張るとしましょうか。
筆者は日本プラ寝たリウム学会とは関係ありません。
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