昔の約束を今、果たそう
まったくホラー要素がなくなってしまいました
毎年、父方の田舎に遊びに行っていた。
物心つく前から。
学校に行くようになってからは、夏休みの大半はそこで過ごした。
僕の夏の思い出は、田舎でできた友人たちと共用していた。
父はあまり里帰りをしたがらなかった。
実家を嫌っていたわけではなかったようだが、僕を泊まらせるために帰る度に祖父から言われる愚痴に閉口していたのは確かだ。
確かに、開口一番に、
「なあ、そろそろ父さんのあとを継いでくれよ」
では、父もうんざりしていただろう。
けれど、そんな話は、当時の僕には関係のないことだった。
夏休みに入ると両親に連れてきてもらい、祖父母への挨拶もそこそこに遊びに出ていたものだ。
山に入ればセミやトンボを追い回し、カブトムシを捕まえた。
青々とした稲が広がる田んぼの畦道を、地元の友だちと駆け回り、坂を下った先の浅い河で水遊びをするのが日課だった。
毎日毎日、午前中に友だちとそれぞれの宿題を済ませ、外で遊び、夕方に別れて、祖父母とともに夕食を食べる。
祖父と風呂に入り、テレビを観ているうちに、疲れて眠る。
楽しい日々だった。
僕が広美と初めて会ったのは、小学二年の夏休みだった。
彼女は春に転校してきたのだと、友だちが教えてくれた。
そう、僕に友だちが一人増えたのだ。
ただ、彼女は一緒に駆け回ることができなかった。
激しい運動ができなかったそうだ。
田舎に越してきたのも、静養の必要があったからだという。
だから虫とりも、川遊びも、広美は見ているだけだった。
毎年の夏休み。
年を重ねるごとに、僕たちは互いを意識していった。
友人たちも、僕と広美の気持ちに、薄々は気づいていたようだ。
子供っぽい仲介だったが、六年の夏休みの半分は、二人で過ごすように計らってくれた。
そして、小学生最後の夏休み最終日、僕は広美と約束をした。
「僕、おじいちゃんのあとを継ごうと思うんだ。そのために絵の勉強をがんばる。それで、大人になったら僕が、広美に似合う柄の着物を作るよ。それが君の花嫁衣装だ。いいよね?」
恥ずかしげに笑って頷いた広美を、まだ覚えている。
中学生になってからも、僕は夏休みを田舎で過ごした。
祖父の家は、反物の絵付けをする小さな工場を営んでいる。
職人は僅か三人だったが、注文が途切れることはなく、経営が苦しかったことは一度もなかった。
父があとを継ごうとしなかったのは、どうやら絵心がないことを自覚していたかららしい。
隔世遺伝、とでも言えばいいのか、絵心は僕が受け継いだ。
そのため、中学時代の夏休みは、職人たちの側で絵付けの修行に励んだ。
そして、毎日夕方に広美が会いに来る。
祖父母が満面の笑みで彼女を迎え入れるのが日課だった。
けれど、別れは突然、訪れた。
高校に上がり、夏休みを心待ちにしていた六月、広美が死んだと知らされたのだ。
夏休み以外、会うことはできなかったが、僕たちは頻繁に連絡を取り合っていた。
だから、時おり具合が悪くなることもあったし、入院したという電話を受けたことも何度かあった。
そのたびに見舞いに行こうとした僕を止めたのは、他ならぬ広美だった。
「大したことじゃないの。ちょっと風邪をこじらせただけだから」
「今回は検査入院だから、すぐに家に帰れるのよ」
もしかしたら、僕を心配させないために無理をしていたのかもしれない。
彼女の死は、突然だったそうだ。
夜中に発作を起こして、そのまま意識が戻らなかったという。
僕は、夏休み以外に初めて、田舎に行った。
「おじいちゃん。僕、大学を卒業するまでもう、ここには来ない。一人前になってあとを継ぐまで待ってて」
葬儀のあと、僕は一日泣いた。
そして、決心した。
広美のために、着物を作ろう。
と。
小学生の、幼い口約束だった。
けれど、毎年少しずつ育んでいった想いであり、確かな約束だった。
僕は、君のために花嫁衣装を作るよ……。
大学を卒業したあと、僕は別の絵付け師の元で本格的に修行をし、そこで、結婚をした。
妻と一人息子を連れて祖父のいる田舎に移ったのは、三十を過ぎてからだった。
彼女は、黙ってついてきてくれた。
祖父の工場で、僕が最初に絵付けをしたのは広美のための反物だ。
淡い桃地に白一筋の流線、仄かに滲む紫の花手鞠が二つだけのシンプルなそれを、着物にしてくれたのは祖母だった。
「広美。戻ってきたよ。今、君の家に着物を届けてきたところだ」
山の中腹にある彼女の墓に、花を添えた。
「ごめん。結婚の約束を破ってしまったね。これからはずっと、ここにいるよ。毎日、君に会いにくるから。いつかは許してくれ」
寺の回りの木々が、穏やかになびいていた。
それから毎日、僕は広美の墓に話しかけた。
一輪の花を添えて。
最初は、昔の思い出を話して過ごした。
それから、夏休み以外の僕の生活を広美に聞かせた。
毎日、話は成長していった。
そんな僕を、妻はどういう思いで見ていただろう。
嫌な顔一つせず、彼女は毎日、広美のために庭に咲く花を一輪手渡して、送り出してくれた。
ある日、僕は工場で倒れた。
このところなんとなく体がだるかったのだが、夏バテだろうと軽く考えていたのだ。
入院していた約一週間の間、広美の墓には、妻が自ら手折った花が毎日飾られていたそうだ。
退院したあとも、僕は毎日、広美に会いに行った。
墓に供える花を手渡してくれる妻の表情から、僕は自分が永くないことを悟った。
初めて広美と知り合って、もう六十年は経つ。
工場は祖父から僕、そして今は息子が継いでいる。
今日も、広美に話しかけた。
「僕は、妻に充分な幸せをあげられなかった。君も、約束を守れなかった僕を恨んでいるかもしれないね」
寺の回りの木々が、穏やかに揺れる。
ふと、隣を見ると、桃地の生地に、白一本の流線が見えた。
紫の花手鞠が二つ。
「……広美……?」
十六才のまま時を止めた広美は、はにかんだ微笑みで僕に手を差し出していた。
『私の結婚衣装だもの。約束を今、果たしましょう』
「でも……。僕はもう、いい年のおじいちゃんだよ?」
『いいえ。ほら、見て』
と、広美の指が、墓を指し示す。
鏡のように磨きあげられた黒い墓に、僕の姿がぼんやりと映る。
そこには、高校に上がった頃の僕がいた。
「ああ……。そうか。これなら君と結婚できる」
『あなたのおじいさまとおばあさまが待っているわ。行きましょう』
僕は、広美の手をとって、上へ……
昇って行った。