結
陸さんの鼻をすする音が聞こえました。
泣いておられるようでした。
恐怖している、と散々言っておられましたが、この涙は後悔の涙のように感じました。
「それから僕は、『陸』と名乗り始めました。僕の名前と、りっくすの名前はりく、という音が共通していたからです。
僕は陸として生きることにしました。彼への贖罪の気持ちからでした。
陸、と呼ばれると、僕の中にりっくすを感じます。
りっくすはお菓子が好きでしたから、ときどきお菓子を食べます、僕は甘いものは苦手なんですけど。
思えば、初めからこうして生きれば良かったんです。僕とりっくす、と区別するのではなく、共に生きれば良かった」
「家族は、僕の名前を呼びます。僕の幸せを考えてくれます。僕はそれが辛いんです。だから、家を継ぐのは待ってもらって、家を出て行きました。自分探しの旅にでると言い残して。
僕は幸せになるべきじゃないんですよ。あれから、なにをやるにも不幸な目にばかり合います。きっとりっくすの呪いなんです。
りっくすは僕の不幸を望んでいる……僕が不幸である限り、りっくすは笑ってくれるんでしょう。それなら、いいかなって思ったりもしました。
でも、僕は疲れたんです。もう疲れた……。いくら僕が陸として生きても、不幸になっても、りっくすの笑い声は聞こえてきません。僕のやってることは無意味なんでしょうか。僕には贖罪はできないんでしょうか。
僕は幸せになってはいけないんでしょうか……」
そこまで語ると、陸さんは声を詰まらせました。鼻をすする音だけ聞こえました。
わたしは、ふすまに開いていた細い穴からハンカチを差し出しました。
「あ、ありがとうございます……」
陸さんは弱々しく受け取られました。
鼻をかむ音がやんでから、わたしはゆっくり口を開きました。
「陸さんは、幸せになることを怖れていらっしゃるのですね。でも、幸せになることは罪ではありません。
りっくすさんと同様に、あなたにも幸せになる権利はあるはずです」
ぐすぐすと、鼻の音が聞こえます。
「確かに、陸さんはまちがえたかもしれません。だけど、りっくすさんだっていっぱい間違えた。間違えない人なんていません。
これから、まちがえないよう努力すればいいんじゃないでしょうか」
陸さんはうなだれて、口を閉ざしていました。わたしは、ひとりで続けました。
「わたしは、呪いなんて存在しないとおもいます。他人を呪いで不幸にすることはできません。不幸になる呪いをかけることができるのは、自分だけです。
陸さんは、ご自分で呪いをかけられているのではないですか?」
黙ったままの陸さんに問いかけます。
「目の前にある幸せに、あえて手を出さずに、不幸ばかり手にとっているのではないですか?
りっくすさんへの贖罪のために。それは、りっくすさんの呪いではなく、あなた自身がかけた呪いです。
あなたが望めば、幸せは案外簡単に手に入るのではないですか?」
陸さんはうなだれたままでした。しばらくぐすぐすと鼻を鳴らしたのち、ぽつりとこぼしました。
「あなたの言われることはわかります。僕は自分で不幸になろうとしてるだけかもしれない。
……でも、やっぱり呪いはあると思います。僕ほんとについてないんですよ、尋常じゃないくらい」
自嘲ぎみに、あははと笑いました。
とても悲しそうな笑いでした。わたしの月並みの言葉は、彼を傷つけただけなのでしょうか。少し後悔しました。
でもわたしは、これだけは言いたくて、自然と口を開いていました。
「呪いがあるというのなら、祈りもきっと届きますね」
「わたしは、陸さんの幸せを祈ります。受け取ってくださいますか」
陸さんは頭を上げました。しばらく無言でわたしを見ていましたが、ふっと微笑まれたのがわかりました。
「……ありがとうございます……」
わたしは、今更ながら我に返り、あわて始めました。
「すみません、聞くだけだと言ったのに……わたし、失礼なこと、申し上げませんでしたか」
「いいえ、ぜんぜん! なんだか、少し心が軽くなりました。ありがとうございます」
陸さんはぶんぶんと首を振ると、そう仰いました。今までにくらべて明るい声だったので、ほっとしました。
「話はこれでおしまいです……聞いてくださって本当にありがとうございます」
「……じゃあ、その、そろそろ失礼します」
向こうが立ち上がられましたので、わたしも立ち上がりました。そして、最後に一言申し上げました。神主さまが、この部屋で、最後にいうのだと仰られていた言葉です。
「あなたは赦されました。神のご加護があらんことを」