一時的な協力関係
「永遠ちゃんったらよく食べるわねえ。やっと成長期がきたのかしら」
休日の明けた朝。
木崎家の食卓には感心する祖母の姿があった。
そして祖母の向かいには頬一杯にご飯を含んで咀嚼しつつ、なおも香ばしく焼けた鮭の切り身に箸を伸ばさんとする永遠の姿。
ぱくりと鮭を口の中へ放り込み、咀嚼の後に胃の中へ落し込んでから永遠は口を開いた。
「元気をつけなきゃいけないから。だから沢山食べてるんだ」
言い終えるのと同時に、永遠は祖母特製の味噌汁を啜る。
「そうなの。なにか頑張らなきゃならないことでもできたのかい」
祖母の問いに永遠は強く頷いた。
休みの間ずっと考えた。
自分はどうしたいのか。
彼女にどうして欲しいのか。
そして永遠は心を決めたのだ。
「頑張らなきゃいけないことと、頑張りたいこと。ふたつ見つけたの」
学校にて。
いつもの三人組をなして昨日見たテレビの感想の言い合いっこなど、他愛もない話に花を咲かせながら、永遠は待っていた。
一人。また一人とクラスメイトが入室する。
その様子を眺めながら、そしてお喋りを続けながら、永遠は待っていた。
HRの開始を告げる鐘の音が校内に鳴り渡る寸でのところで、彼女は現れた。
つんと取り澄ました顔で、無感情に、あえて言うのならつまらなそうに、彼女は教室へ入ってきた。
ちらと目をやったとしても、誰も話しかけはしない。当然だ。彼女がそう望んだのだから。いじめなどではなく、周囲の人間が気後れしているのだ。
昨日までは永遠もそうだった。
だがもう決めたのだ。気怖じすることはなかった。
無愛想な彼女、叶世久遠を前に永遠は笑顔で言った。
「おはよう。叶世さん」
「…………」
目の前の久遠は、返事を返さなかった。
分かっていた。
それでよかった。
これはあくまで永遠にとっての決意の表明だったのだから。
だからこその、笑顔であった。
午前中、一限と二限は体育の授業。
グラウンドの中、いかつい体格をした体育教師の前に永遠達を含めた多くの生徒が集まっていた。
「なんか永遠、いつもと雰囲気違わない?」
瑛奈が言った。
「そうかな?」
「だってめちゃくちゃ機嫌よさそうじゃん。いつもなら溜息つきながら憂鬱な顔してるのにさ」
「本当だね。今日のとわちゃん、まるで瑛奈ちゃんみたいにわくわくした顔してるよ」
穂香まで言うのだから確かに顔つきが違ったのだろうと永遠は思う。
実際に永遠の心情は今までと違っていた。
本来の木崎永遠は運動音痴でドジっ気の多い、いわばニブチンだった。故に体育の授業は、彼女にとっては公開処刑場以外の何物でもなく、時間割に体育の文字を見る度に永遠は頭の上に漬物石を置いたような気分を抱かずにはいられなかったのだ。
しかし今となっては人間を凌駕したと言っても過言ではないほどの身体能力を身につけた永遠だ。従来のように憂鬱を覚える必要がなくなっていた、というわけである。
もちろん、正直に理由を話すわけにはいかない。
「えと、今日の体育は楽しみだっていうかなんていうか……はは」
ろくに嘘をついたことがない人間の虚言とは、実に脆いものだ。
「そうなんだ。あれ、でも今日って確か百メートル走のタイム測定じゃなかったっけ。とわちゃん、走るのが一番苦手だったよね」
穂香の言葉であっさりと永遠の嘘は砕け散る。
「いや、えっと、その」
あわあわする永遠の肩を白い歯を見せて笑う瑛奈が抱き寄せた。
「なんだい永遠、やっとあんたも走ることに興味を持ってくれたのかね。それは陸上競技を愛する者として嬉しく思わずにはいられないな」
陸上クラブに通い、毎日のようにきつい練習に打ち込むほどに、そして県内で有名な陸上選手として名を馳せるほどに陸上競技のことが大好きな瑛奈だ。永遠がテレビか何かの影響で少しでも陸上に興味を抱いてくれたと思ったのだろう。
「そ、そうなんだ。実はちょっとね」
助かったと永遠は思った。
やっとこ乗り切れたところで、体育教師が笛を鳴らす。
「それじゃ最初にストレッチから入るぞー。各自二人組でペアを作れー」
教師の指示に従って生徒達がうろうろとペアを探し始める中、永遠達は三人で顔を合わせる。
「二人組かよー。どうしよっか」と瑛奈。
「一人余っちゃうね」
穂香の言葉に「もう三人組でもよくない?」などと瑛奈が返すところ、永遠は遠慮気味に口を開いた。
「私のことは気にしないで。瑛奈ちゃんと穂香ちゃんの二人でペアを組むといいよ」
「なに言ってんの。永遠が余り者になることないって。大丈夫、三人で組んだって怒られたりしないよ」
「本当に大丈夫だから。気にしないで」
「そ、そう? ならいいんだけどさ」
笑顔で言う友人に無理強いはできない。
少し心配そうな顔をしながらも瑛奈は手を引いた。
「ごめんね」
胸元で手を合わせて謝り、永遠は瑛奈達の元を離れる。
誰にパートナーをお願いするかは決めていた。
というより、最初からこうするつもりだったのだ。
相手を求める生徒がひしめく中、そうではないはずの一人の元へ永遠は真っ直ぐ向かう。
予想に違わず、彼女は無愛想に立っていた。
誰もが躊躇い、見て見ぬ振りをする彼女に。
迷わず永遠は声をかけた。
「私とペアを組んでくれないかな、叶世さん」
差し伸べられた永遠の手を、久遠は無言で見つめた。
しばらくして、今度は永遠の目を見る。
「どういうつもりなの」
野良猫のように警戒する久遠に、永遠は笑顔を向けた。
「私はただ、叶世さんとペアを組みたいだけだよ」
久遠はじっと永遠を見つめ、表情を変えない。
敵意紛いの眼差しを止めない久遠に、永遠はもう一言。
「私と組んでくれないんだったら叶世さん、先生と組まなきゃいけなくなっちゃうよ」
ちら、と久遠の瞳が教師へ向く。
むちむちのTシャツ姿で既に汗だくの中年を映した久遠の瞳が、僅かに歪みを見せた。
やがて久遠がぽつりと言った。
「ストレッチ、早く済ませてしまいましょう」
流石の久遠にも、それはこらえようのないものだった。
差し伸べた手を取ってはもらえなかったけれど。
「うん!」
やった。
内心でガッツポーズを決めながら、永遠は久遠とペアを組んだのだった。
体育を終えてからも、永遠は積極的に久遠に話しかけるよう努めた。
「叶世さん、一緒に行こう?」
「…………」
移動教室の際には誘いをかけ。
「叶世さん、この問題分かった?」
「…………」
授業中にも極力話しかけ。
「叶世さん、あのね」
「…………」
空いた時間には他愛もない会話を試みて。
いくら無視されようとも。いくら冷たい目を向けられようとも。いくら避けられてしまおうとも。
折れずに永遠は久遠とのコミュニケーションを取ろうと励んだのだった。
そして昼休み。
叶世久遠は一人、中庭の木陰に腰を下ろしていた。
屋上に行くのは止めておいたのだ。
行けばきっと、あの子がいるだろうから。
吹き抜ける風に髪を靡かせる久遠は、少しだけ困惑していた。
初めて会った日も。
その次だって。
今日すらも。
あれほど拒み続けたというのに。
それなのに、どうして彼女は自分のことを放っておこうとしないのだ。
「……木崎、永遠」
不意に声が唇から漏れた。
「あっ、ここにいたんだ」
今朝からずっと久遠の近くにあった声。
永遠だった。
ずっと久遠のことを探していたのだ。
久遠と昼食を共にするために。
「隣、いいかな」
永遠の問いを受けた久遠は、しばらくの間を空けて。
目を合わすことはなく、小さく答えた。
「勝手にすればいい」
久遠にはもう、永遠からの逃亡を続けることが面倒になっていた。
しかし、そうだとしても。
永遠にとっては初めて久遠に受け入れられたことに他ならなかった。
顔を綻ばせる永遠。
「ありがとう、叶世さん」
久遠の隣に腰を下ろして弁当を開きながら永遠は、涼しい風が吹いて気持ちのいい場所だと思った。
「いい場所だね、ここ。この間は屋上にも来てたし、叶世さんは穴場を探すのが上手なんだね」
久遠は答えない。
別にわざと無視したわけじゃない。この木陰には、永遠から身を隠そうとして偶然にも身を落ち着けただけだった。故に久遠は返す言葉を持たなかったのだ。
無言のまま口許を留守にしておくのも何なので、久遠は持っていたゼリー飲料に口をつける。
それを見た永遠は不思議に思った。
「叶世さんのお昼ご飯って、それだけ?」
やはり永遠に目を向けず、久遠は答える。
「本来ソリテュードに食事は必要ない。周囲の人間から不審に思われないための行動に過ぎないのだから、この程度の食事で問題ないわ」
「そんなことないよ。食べなくても死なないからって食事が必要ないってことはないよ。美味しいご飯は心を豊かにするって、おばあちゃんが言ってた。だからそんなものばかり食べてちゃだめだよ、叶世さん」
「不要な気遣いよ。私がどんな食事をとろうと、あなたには関係な……」
首を捻ると、久遠の前にはだし巻き卵が差し出されていた。
「食べて」
「どうして私が」
「いいから食べて。美味しいから」
永遠には、箸を引っ込める気はない。
隣に座ることを許した時点でほとんど折れていた久遠。
……ぱくり。
やがて久遠は、仕方なしに目の前のだし巻き卵を口に含んだ。
――――。
「――おいしい……!」
それは不覚にも、本当に無意識のうちに零した言葉だった。
永遠の顔には、満面の笑みが咲いていた。
「でしょ。うちのおばあちゃんのだし巻き卵は最高なんだ」
ハッとして、久遠は顔を逸らす。
そんな久遠の様子が普通の可愛い女の子で、永遠は思わずクス、と声を漏らした。
咀嚼し終えたものを飲み込み、落ち着いて。
「どうして」
久遠は言う。
「どうしてあなたは私に構うの」
もはや久遠にとっては謎だった。
「あれだけ拒絶したのに。普通だったらあんなに酷い態度を取られた相手と、それでも関わりを持とうだなんて思うはずがないわ。なのに、どうしてあなたは今だってこうして私に近寄ってくるのよ」
困惑を隠せず、混乱を隠せず、久遠の声は無感情ではなくなっていた。
平静を崩した久遠を見て目を丸くした永遠だったが、ほどなくして箸を置くと久遠に優しく微笑みかけた。
「放っておけないんだよ、やっぱり」
永遠は続ける。
「この前叶世さんは怒ったよね。私達には似てるところなんて一つもないって。でもやっぱり似てると思うの。叶世さんは似てる、昔の私に。本当は独りぼっちなんて嫌なのに、それでも独りになっちゃってた昔の私に。だから放っておけないんだよ」
「勝手な決めつけで勝手に親近感を覚えて、それで無駄に関わってこようとするなんて。そういうの……自分勝手なお節介って言うのよ」
「かもしれない。でもね、友達なんて要らないって、仲間なんて要らないって、自分は孤独な存在なんだって言ってるときの叶世さんの目、とても悲しそうなんだよ」
まさか自分がそんな感情を表に出すはずがないと、無意識に久遠は目元に手を伸ばす。
「だからその目を見てるとね、本当は独りでいるのは嫌なんだって、そう言ってるように見えちゃうんだ。って、これも勝手な決めつけだね。ごめん」
申し訳なさそうに眉を下げる永遠。
沈黙し言葉を聞く久遠にもう一言、「でもさ」と永遠は続けた。
「色々と理由はあるけど。あるんだけど、ね。でも、結局私はただ叶世さんと友達になりたいんだって、それが一番の理由なんだって私はそう思う」
そこまで言い終えて。
告白でもしているみたいな気分になり、はにかんだ永遠は頬を赤らめた。
「――――――っ」
何も言わずに永遠を見ていた久遠だったが、幾許もなくしてまたあらぬ方向へと顔を向ける。
やっぱり、そんなにすぐに心を開いてはくれないか。
分かってはいたけど、少し寂しく思った永遠。
これ以上、強引な真似はよそう。
そう思い、再び箸を取ろうとしたときだった。
「最近、この宇水で多発している失踪事件は知っているわよね」と、久遠が言った。
急にどうしたんだろう。
そう思いながらも「うん、知ってるよ。毎日のようにニュースでやってるよね」と、永遠は頷いた。
ゼリー飲料を口許に寄せながら久遠は話を続ける。
「あなたもソリテュードなら薄々気づいていたとは思うけれど、あの事件の大半はイマーゴが原因よ」
「やっぱり、そうなんだ」
それぞれが独立した失踪として考えるにも、または同一人物の手による拉致事件として考えるにも不可思議な連続失踪事件。
そして人間に認知されずして人を喰らう異形の化け物、イマーゴ。
いくらソリテュードとして経験の浅い永遠と言えど、それらが無関係だとは思ってはいなかった。
「けれど単に不幸な一般人がイマーゴに捕食された、そういう話で終わらせるにはここ最近の被害者の数は多すぎる」
「どういうこと?」
「この町にいるソリテュードは私とあなただけじゃない。数多くのソリテュード達が各々にイマーゴの駆逐を行っている。つまり、イマーゴの奴らにしてみれば少しでも表へ姿を現せば即狩られてしまう、そんな状況なの」
意外とソリテュード側が優位な情勢にあるらしい。
もっと私達とイマーゴは拮抗しているのだと、永遠は感じていた。
そして、その違和感こそ久遠の話の核心。
「だから、おかしい。この短期間にこれほど多くの犠牲者が出ている状況は不自然でしかない」
イマーゴが姿を現したとなれば数多のソリテュード達が黙ってはいない。
ところがイマーゴによる犠牲者は異常な速度で増えていく。
永遠の中に浮かぶ一つの可能性。
「それってつまり」
久遠は小さく顎を引いた。
「並のソリテュードでは敵わない強力なイマーゴが、この町には潜んでいる」
「強力な、イマーゴ……」永遠は久遠の言葉を反芻する。
先日自分が相手をしたイマーゴですらとてもおぞましい姿をしていた。巨大で屈強な体躯、鋭利な牙、長く伸びた爪。
並のソリテュードでは敵わないということは、あれを遥かに上回る強さを持ったイマーゴだというのか。
どれほど恐ろしい姿をしているのか永遠には見当もつかず、ただただ肌の粟立つような気持ちを覚えるばかりだった。
「でも、どうしてそんな話を私に?」
永遠の疑問。
確かに情報はありがたい。
しかし何故、しかも突然にこの話を自分にしたのだ。
先ほど自分が告白紛いの恥ずかしい台詞を吐き続けたものだから、真面目な話で雰囲気を正そうとしたのかと、永遠は推測していた。
久遠の声がか細く漏れる。
「そいつを倒すまで」
「え?」
久遠の真意が読めず、永遠は首を傾げた。
少しムッとした表情を作りながらも、微かに頬を染めて、久遠はぎゅっとゼリー飲料を一気に飲み干した後に言う。
「そいつを倒すまでに限っては、あなたと共闘関係を結んでも構わない」
それはすなわち。
永遠と久遠、二人が手を組むことについての久遠自身からの提案だった。
いつも寡黙で冷静な久遠が、今は落ち着きをなくしてそわそわする。
「嫌だというのなら別に断っても構わない。私には本来、仲間なんて必要ないのだから」
驚いた顔の永遠。
しかしそれもすぐに向日葵のような笑顔に変わる。
「断るだなんて、そんなことあるはずがないよ! 組む! 組むに決まってるよ、叶世さん!」
身を乗り出し、永遠は久遠の手を掴んで包み込む。
「これから一緒に頑張ろう。そして二人でその強力なイマーゴをやっつけよう。だって今から私達は仲間なんだから。ね、叶世さんっ」
押し倒さんばかりにぐいぐいと迫る永遠に流石の久遠もたじろぐ。
「あ、あくまで一時的な関係。一人では難しいと判断したからあなたを利用することに決めただけ。決してあなたを仲間だと完全に認めたわけじゃない」
「いい」
本音だった。
利用されるにしても何にしても、共闘を許されるということはつまり。
久遠から永遠に対して、確かにゼロではない信用が生まれたことを表すのだから。
だから。
「それでもいいんだよ」
そう言った永遠の笑顔は温かくて。眩しくて。
久遠は何も言えなくなった。
永遠はといえば、あまりの嬉しさにその後は大はしゃぎで、
「じゃあ、はい。お近づきのしるしにだし巻き卵をもう一つどうぞっ」
「いらない」
「どーぞっ」
「いらない」
「そんなこと言わずに。どーぞっ」
「強情。しつこい」
そんなやりとりをいつまでも続けるのだった。
一見辛辣な台詞も、語気に棘がなくなっているのを永遠は感じていた。
ほんの少しでも久遠と仲良くなることができた。
そう思えて。感じられて。
昼食の間ずっと永遠は笑顔を咲かせていたのであった。
とにもかくにも。
こうして永遠と久遠は、一時的に協力関係を築くに至った。




