一度死した者の役目
すっかり夜に包まれた自室のベッドの上で永遠は目を覚ました。
車の立てる消魂しい轟音も、飛び交う悲鳴もない、静寂の空間。
暗闇の中にかざした右腕は傷一つなく綺麗なままだった。
それどころか全身のどこにも痛みはない。
上半身を起こし、ぼんやりした頭で永遠は考える。
確か私は車に撥ねられて。
そして、死んだはずなのに。
でも事実、こうして無傷のまま生きている。
「あれは……夢?」
「――夢ではありませんよ」
返ってきた言葉。
永遠が窓際に目を向けると、そこに座っていたのは燕尾服に仮面をつけた男の姿。
夕方に公園で出会った男だった。
「あなたは……」
月明かりに照らされた仮面が笑う。
「やあやあお嬢さん。夕方ぶりですね。まさかこれほど早くに再会するとは、流石の私も思いもしませんでしたよ」
再び永遠の前に現れた不思議な男。この男が何故永遠の部屋にいるのか。それを咎める気は、今の永遠には起こらなかった。
それ以上に気になることが彼女にはあったから。
「今言っていたことって、どういう意味ですか。夢じゃないって」
「言葉通りの意味ですよ」
窓際から下り、男はベッドの傍らに立つ。
「木崎永遠さん。数時間前、確かに貴女は死んだのです。車に轢かれ、脳漿や内臓に血液、あらゆるものを撒き散らしながら無惨な死を遂げた。そのときの感覚、今でも薄らと覚えているでしょう?」
ねばりとした男の薄気味悪い声音に凄惨な映像と血生臭さを呼び覚まされて、思わず永遠は口許に手を当てて嘔吐いた。
「これは申し訳ありません」と、まるで楽しそうに言うと男は続ける。
「ですが永遠さん、貴女は生き返った。更に言えば、この私が生き返らせたのです」
「あなたが私を……?」
信じられるはずもなかった。
死んだ人間を生き返らせるなど、それこそ人の域を超えた芸当だ。そんなこと、神でもなければできたことではない。
「言ったじゃないですか。私の仕事は困った人間の話を聞き、ときには奇跡紛いの仕業をやってのけることだと。あのとき私は貴女に訊ねた。生きたいのかと。そして貴女は言った。生きたいと。だからそうした。それだけです」
語る男は喜々としていたが、何を喜んでいるのか永遠には分かりかねた。
押し黙る永遠。
男の話。それは実に受け入れ難い事実だ。
けれど永遠の中には事故の記憶が存在し、なおかつ今ここに無傷で存在している。
そして男の風貌。まるで普通とはかけ離れた格好、言動。そこには、奇妙ではありながら確かに漂う説得力があった。
単に不審な人間……ということではないのかもしれない。
男の言葉は真実なのではないかと、永遠は思い始めていた。
「あなたは一体、何者なんですか」
永遠の問い。
仮面の奥、その上っ面とそっくりの瞳で永遠を見つめて男は言った。
「私は《ジョーカー》。ただの道化師ですよ」
それは単なる名乗りか。
或いはただの人間であることに対する否定だったのか。
永遠は、それ以上訊ねはしなかった。
「さて」
再び窓際に腰掛ける仮面の男――ジョーカー。
「そろそろ御暇しようとは思うのですが、最後にもう少しだけお話を」
ジョーカーの人差し指が永遠の胸元を指した。
「そのネックレス――名を《フェイタルオーナメント》と言うのですが。それは肌身離さず持っておくことをお勧め致します」
視線を落とした永遠の胸元にはスペードマークにAと描かれたネックレスが月の光を受けて静かに煌めいていた。
「綺麗……でもどうして」
「今後永遠さんにはやって頂くことがありますから。その為に必要なのです」
「やること……?」
「既に承諾は頂きましたよ。それにこれは対価です。仕事、と言ったでしょう。私もボランティアで人を生き返らせているわけではないので。いわば相応の報酬を頂戴するというわけです。なに、内容については自ずと理解できるでしょう。今まで通りに生きようとしていれば自ずと、ね」
ジョーカーは去り際の癖なのかハットのつばに手をかける。
「明日は休日だ。まずはこの世に生を繋ぎ止めた喜びを精一杯に享受すると良い。時が来れば再びお目にかかりましょう。では」
「待って!」
立ち去ろうとしたジョーカーを呼び止める永遠。
はて、とジョーカーは永遠に目をやる。
当の永遠といえば、まだ頭の中は整理できてなどいなかった。当然だ。まるで空想の世界だと錯覚させるような出来事が自身に降りかかったのである。ファンタジーに夢見る中学二年生の少女にだってすんなり受け入れられた話ではなかった。
それでも永遠は。
目の前の不可思議な男に言いたかったのだ。
「生き返らせてくれて、ありがとう」
予想外の言葉だったらしい。ジョーカーは驚いていた。
そしてやがて、愉しげに笑いを零した。
「そんな言葉を言われたのは初めてだ」
言って、ジョーカーは背中から窓の外に落ちていった。
部屋は二階。びっくりした永遠はすぐさま窓から身を乗り出したが、既にジョーカーの姿はなくなっていたのだった。
それから一晩が明けた朝。
時計の針が九時を回った頃に、祖母に見送られて永遠は自宅を出た。
いつもと同じ休日。
お気に入りの私服に身を包み、スペードのネックレス――ジョーカーが言うにはフェイタルオーナメントと呼ぶらしい――をつけて。
永遠は行きつけの書店へと向かう。
すっきりと晴れ渡った青空と同じように永遠の心は軽快だった。
今日の空も、街並みも、全ての景色さえ本来なら見ること叶わなかったものだと思うと、歩き慣れた道だって永遠の瞳にはまばゆく映ったのだ。
まさに生き返った喜び享受する永遠の姿がそこにはあった。
歩を進めるうちに赤信号に引っかかって足を止めた永遠。
そこは昨日の夕暮、永遠が一度命を落とした場所だった。
生き返った今になって考えてみれば、赤信号の横断歩道に飛び出して車に撥ねられたなんてとんだ自業自得だと永遠は思った。もしも自分が万能の神だったなら、そんな恥ずかしい死に方をした人間を生き返らせなど絶対にしないだろうとも。
でもどうしてそんなことになったんだっけ、と永遠は考える。
そうだ。自分は逃げていたのだ。死体を前に血塗れの斧を握っていたあの転校生から。
叶世久遠。彼女もまた、今このときにここ市街を歩いているのだろうか。
出遭ってしまったらどうしよう。
永遠の中に少しばかりの恐怖と焦りが募った。
「おーい永遠っ!」
「とわちゃーん!」
横断歩道の向こう側から二つの声。
「瑛奈ちゃん、穂香ちゃんっ」
幼馴染であり親友である二人が永遠に向かって手を振っていた。
その信号を青に変えた横断歩道を小走りで渡り、永遠は二人の元に駆け寄った。
「二人してどうしたの?」
「クラブの練習に行こうとしてたらちょうどそこで穂香と会ってさ」
「わたしは塾に行く途中だったの」
「そうなんだ。二人とも毎日凄いなあ」
「そういう永遠こそ本屋にでも行こうとしてたんでしょ~!」
「ど、どうして分かったの?」言い当てられて驚く永遠。
「休みの度に行ってるじゃん。永遠だって凄いよ。一体、月に何冊読んでんのさ」
「ふふ。とわちゃんはファンタジー小説が大好きだもんね。可愛いなあ」
「そ、そんなことっ」
なんだか恥ずかしくて顔を赤くした永遠に抱きつく瑛奈。
「でもたまには永遠の大好きな小説のキャラクターみたいに外を走り回らなきゃ、ただのもやしっ子になっちゃうよ。まあ、年中お天道様の下にいるあたしからしたら永遠の真っ白でもちもちなお肌は羨ましくてしょうがないんだけどねー」
「で、でも瑛奈ちゃんの言う通りだし、私も休みの日に少しは運動したりしよう、かな」
「本当? だったら今からでも一緒にグラウンドに行くかい。あたしが言えばコーチも笑顔で首を縦に振ってくれること間違いなしだからさ。共にトラックを駆け回り、青春の汗を流そうぜい」
「あ、け、けどやっぱり真っ黒に日焼けしちゃうのはちょっと……」
「なにをー! つーことはなんだい永遠、つまりあたしみたいな真っ黒焦げはごめんだってそう言うのかこんにゃろー!」
「ち、違うよ! そもそも瑛奈ちゃんはそんなに日焼けしてないじゃない! あ、あははっ、もうくすぐるのはやめ……っ、あはははっ」
「あんたみたいな美肌少女に言われるとなおさらむかつくからやめたげなーい! おりゃおりゃおりゃー!」
脇腹のくすぐりに悶え笑う永遠と、意地悪に笑う瑛奈。その様子を微笑ましそうに穂香は眺めていた。
やがて瑛奈の手が止まっていく。
そしてその顔は、永遠を見つめながら、穏やかな笑みを湛えた。
「でもよかった。元気が戻ったみたいで」
永遠は顔を上げて瑛奈を見る。
もう一度、瑛奈は優しく微笑んだ。
「昨日帰るときはだいぶ落ち込んでたからさ。事故に遭いやしないかって、心配だったんだぞ」
――――――。
その言葉を聞いた永遠の瞳から、すっと。
一筋の涙が零れた。
「え、ちょ、どうしたのさ永遠! なんで泣いてんの!?」
「どこか具合でも悪いの? とわちゃん」
永遠は首を横に振り、狼狽する二人に笑顔を見せる。
「違うの。また二人に会えたのが、とても嬉しくて」
そうだ。もしもジョーカーの力で生き返ることがなかったならば、もうこの二人を見ることも、声を聞くことも、触れ合うこともできなかったのだ。
奇跡が為した再会に涙を我慢できる永遠ではなかった。
事実を知る由もない瑛奈と穂香はおかしそうにお腹を抱える。
「そりゃ会えるに決まってるよ、とわちゃん」
「それとも永遠は、休みの間あたし達に会えないのがそんなに寂しかったのかなー?」
瑛奈の茶化した言葉も永遠には嬉しくて、一緒に笑いながら頷いた。
そっと瑛奈の手が永遠の頭に乗せられる。
「もーそんなにあたし達のことが大好きな永遠のことをあんまり放っておくわけにはいかないなー。今度クラブが休みのときには目一杯遊ぼうよ」
瑛奈のウインク。
「うんっ」と永遠は笑顔で頷いた。
「そのときはわたしも一緒に」
「うん! 穂香ちゃんも一緒に三人で遊ぼうね。絶対、約束だよ!」
そうして約束を交わし、永遠は手を振り合いながら二人と別れたのだった。
その後は終始にこにこして書店に向かった永遠。
特にお目当ての本があったわけでもなく店内をうろうろとした彼女だったが、店を後にしたときにはしっかりと本の入った袋を抱えていた。
知らない作家の作品だったが、表紙に描かれた幻想的なイラストに惹かれて購入。いわゆる表紙買いだった。
来た道をてくてくと永遠は辿る。
「面白そうな本も見つかったし、今日はいい日だなあ」
ついついそんな独り言を漏らしてしまうくらいに永遠は上機嫌だった。
早く本の世界に没頭したい。祖母の作る美味しいお昼ご飯が食べたい。
どれもこれもが生きているが故に享受できる幸せであり、それらが永遠には至極待ち遠しかった。
だからこそ真っ直ぐ家に帰るはずだった。
寄り道なんてするはずはなかった。
それなのに。
いつの間にか、永遠の足は止まっていた。
「なに……あれ」
それは永遠の目の前にあった。
――ヒトの形をした闇。
それ以外に形容できない異形の何かが、人の波に紛れこんでいたのだ。
おぞましいその姿は永遠の背筋に嫌な汗を伝わせるとともに、一つの違和感を彼女に覚えさせた。
どうして誰も気にしないの。
人ではない何かが街の中を闊歩しているというのに、周囲の人々は微塵も騒ぐ様子を見せてはいなかった。
まるで視界に映ってはいないかのように。いや、まるでそれが自分達と同じ人間だと思っているかのように。
人紛いの何かはだらしなく街の中を歩いていく。
それを、どうしてだろうか。
永遠は追っていた。
彼女自身分からなかった。でも、追わなくてはならないような気がしたのだ。
自宅方向を外れ、どんどん街から離れていく。
一定の距離を保ち、物陰に隠れながら、永遠はお世辞にも上手だとは言えない尾行を続けた。
どれだけの距離を歩いたのか。既に周囲に背の高い建物はなく、やりたい放題に伸びきった雑草たちと目の前には古くて短いトンネルがあるばかりになっていた。
通行人は一人もいない。異形と永遠を除いては。
一体どこへ向かっているんだろう。
そう思いながらも異形の後を追ってトンネルへ入ってしばらくだった。
真っ黒なそれが動きを止めたのだ。
ドクン、と永遠の心臓が跳ねた。
そこで永遠は自分の不用意さに気がついた。
身を隠す場所がない。
ぬるり。異形の顔が振り向き、目と思しき何かが永遠を捉える。
「――あなた、さっきから私のことつけてますよね」
予想外だった。異形が言葉を話したのだ。
どうしたものか、永遠は迷った。
やがて恐怖を押し殺し、必死で平静を保ちつつ口を開く。
「いや、あの、わ、私はただこっちに用事があって」
「嘘よ。あなたはずっと私の様子を窺っていたもの。ときどき身を隠しながらね。私、気づいていたんだから」
異形の言葉は平坦で、冷たくて、永遠に有無を言わせなかった。
「でもよかった」
異形の口らしきものが大きく三日月を模る。
永遠は身を震わせた。恐ろしかった。
だってそうだ。
永遠の尾行に気づいていながらここまで何の行動も起こさなかったということは。
それでいてここに至って行動を起こしたということは。
まんまとここへ誘き出されたということなのだから。
「私、とってもお腹が減ってたの」
異形の身体が蠢き、裂け、形を変えていく。
永遠は戦慄した。
まるで脱皮のようにして姿形を変えたそれは。
異様に手足が長く、けれども屈強な体躯。肉を剥き出しにしたような気色の悪い皮膚の色。およそこの世に生きる何とも似つかぬ醜悪な顔つき。二本脚で立つこと以外には人らしさの一片もない、完全な化け物へと変貌を遂げていたのだ。
化け物の飢えた眼が永遠の姿を映す。
永遠は既に理解した。
もしも化け物から見た自分を他に喩えるなら。
蜘蛛にとっての蝶。
猫にとっての鼠。
狼にとっての山羊。
自分は相手にとって捕食対象だ。
牙を剥き、永遠へ飛びかかる化け物。
「きゃあっ!」
咄嗟に走ってその場を逃げようとした永遠は偶然にも躓き、結果として怪物の鋭利な爪に裂かれることを免れた。
身体を起こし、尻餅をついたまま後ずさる永遠の視界に映ったのは、彼女の代わりに化け物の爪を食らい、まるでシャベルを入れられた泥のように抉られたコンクリート壁。
あんなものを人間が食らって生きていられるはずがない。
爪の一本でも掠れば、途端に皮膚は裂け、そこからあらゆる内臓を吐き出すに決まっている。
慄くあまり立ち上がることすら叶わない永遠へ、ただ本能のままに肉を、相手の生命を欲した眼差しが向けられる。
「……あ……ああ……!」
安易な尾行を後悔することすら永遠は忘れていた。
為す術などない。
生きて逃れる未来などない。
ただただ目の前の圧倒的な存在に弄ばれるがまま、惨たらしく喰い尽される他にはないと、永遠はそう思った――。
「――おやおや、自らの意思でそれを追うとは見上げたものだ」
もう聞き慣れた男の声。
「フェイタルオーナメントを手に取るのです」
考えるより先に、永遠は声に従った。
スペードマークの飾りを握り締め、引き千切る。
刹那、薄暗かったトンネルの中を光が駆け抜けた。
思わず瞼を閉じていた永遠が、瞳を開けると。
――そこには漆黒のロリータ衣装を身に纏い、鈍色に煌めく両刃剣で化け物の腕を堰き止める自身の姿があった。
剣を振るって化け物を薙ぎ払い、改めて永遠は自分を凝視する。
違和感のある首元をさすると、スペードマークにAと描かれた首輪が巻かれていた。
「な、なんなのこれ……!」
アニメに登場する美少女戦士よろしく変身してしまった自分に混乱する永遠の後ろには、いつの間にか燕尾服の男がいつもと同じ仮面をつけて立っていた。
「説明は後ほど致しましょう。まずは目の前の《イマーゴ》を倒さないと」
「イマーゴ……ってあの化け物のこと?」
「ええ」
対峙する化け物――イマーゴに再び視線を戻す永遠。
もう言葉を話さない怪物は、腹の奥に響くほどの低い唸りを上げて永遠を睨みつけていた。
「無理無理! 絶対に無理だよ! 運動もろくにできない私なんかが、あんなのに絶対敵いっこないよ!」
目に涙を浮かべて永遠は首を横に振る。
得体の知れない怪物を相手に戦えと言われたのだ。中学生の女の子としては当然の反応であった。
「大丈夫ですよ」
ジョーカーは言った。
「今の貴女は、あの程度のイマーゴなら片手で倒せるほどに強い。そもそも貴女の肉体は殆ど不死も同然なのですから」
自信に満ちたジョーカーの言葉だったが、
「そんなこと言ったって信じられないよ……!」
そう易々と信じられたものではなかった。
しかし、腹を空かせた化け物が眼前の獲物に心の準備を整わせるための時間を与えるはずはない。
咆哮し、牙を剥き、爪を立てて迫りくる。
「ほら来ましたよ。ひとまず相手をしてあげると良い」
弱音を吐いている暇など永遠にはなかった。
風切る轟音を立てながら振り下ろされる腕をかわさなくては。
だがしかし。
あれ……でもなんか。
違和感を覚えたときには、永遠の身体は行動に移っていた。
しゃがみ込みながら身体をスライドさせて化け物の腕をかわす。
そしてそのまま、永遠は両刃剣を振り上げた。
「オオオオオオオ……ォォォ……!!」
悶え、呻くイマーゴ。
その傍らに、ぼとり、と。元は化け物の腕であり、今はただの肉塊となったそれが転がった。
飛び退いたイマーゴと自身の剣を交互に見る永遠は驚愕する。
キャッチボールもまともにできなかったような自分が人間離れした動きをする化け物の攻撃を必要最小限の動きでかわし、その上で相手の腕をも斬り落としてみせたのだから。
まさか、本当に。
「私、強くなってる……?」
「理解して頂けましたか。さて、次が来ますよ」
ジョーカーの言葉を受けた永遠は再びイマーゴを見据える。
その双眸に、もはや怯えはなかった。
右腕を失った怪物は怒り狂ったように唾液を撒き散らしながら永遠目がけて猛進し。
今度は永遠からもイマーゴへ迫る。
そのまま巨体の懐へ潜り込んだ永遠は、全ての攻撃をかわし、または両刃剣の腹で受け流しながら。
斬る。斬る。斬る。斬る。斬る――――――!!
あっという間にその四肢を切断してしまった。
無様に地面に転がった化け物はなおも諦めずに強靭な顎をもって永遠の足を喰い千切らんとするが、それを永遠は宙高く身を翻して華麗にかわし。
着地するのと同時にまた走り出す。
目標の手前、再び宙へ舞った永遠は。
「でええあああああああああああああああああっ!!」
落下による力をも加えて、咆哮する怪物の脳天に剣先を突き立てた。
真っ赤な血飛沫と一緒に、耳を塞ぎたくなるほどにおぞましい断末魔が轟く。
そしてトンネルは静けさを取り戻し、やがて永遠の呼吸ばかりが暗がりを漂った。
異形の生物は、息絶えた。
しばらく呼吸を整えて、永遠は死体の頭から両刃剣を抜き取る。
可愛らしい衣装は血に塗れ、顔にはいくつもの血飛沫が斑点を創っていた。
……ぱちぱちぱち。
顔を拭い死体を見下ろす永遠に歩み寄るジョーカーが、舞台に賛辞を贈る観客のように手を叩いた。
「素晴らしかったですよ永遠さん。初めてイマーゴを相手にしてそれだけ戦えれば充分です。貴女には素質を感じる」
けれど、そんな褒め言葉など今の永遠にはどうでもよかった。
「ねえ、ジョーカー。この怪物は一体なんなの。それに私のこの格好は」
永遠の隣に立ち、死体を見下ろしてジョーカーは言う。
「それの名は《イマーゴ》。人の命を喰らう化け物ですよ」
「……人の命を喰らう、化け物」
「そう。人に為り済まし、人の中に紛れ、人を捕食する狡猾な生き物。まさにパンドラの匣(、、、、、、)から放たれた災いが如き存在。それがイマーゴです」
永遠は思い出す。
この化け物は最初、街にいた。それでいて誰もそれを気に留めなかったのは、やはりイマーゴのことが人間に見えていたからなのだ。
しかし自分は違った。自分にはイマーゴを人間だと認識できなかった。否、化け物を化け物だと認識できたのだ。それは何故だ。
答えは続くジョーカーの言葉にあった。
「そしてその災いを駆逐する役目を負う存在が《ソリテュード》。永遠さん、貴女だ」
「私、が……!」
「ええ」と、ニヤついた仮面は頷いた。
「昨晩お伝えした永遠さんにやって頂くこととは、それすなわちイマーゴの駆逐だったのです。その為のネックレス。そして、その為の姿だ」
ジョーカーに指をさされ、永遠は自身の衣装へ目を落とす。
それはやはり、多量の血に汚れていた。
「これから、こんな戦いをずっと……」
永遠は戸惑った。
先ほどの戦いだって、思い返してみれば死と隣合わせだった。がむしゃらにやって、結果として幸運にもイマーゴを倒すことはできたが、そんな幸運がいつまでも続くとは限らないのだ。
命懸けの戦いを強いられて、素直に首を縦に振ることは永遠にはできなかった。
「なに、心配する必要はありません」
永遠の心を見透かしたようなジョーカーの言葉。
「先刻お伝えした通り貴女は強い。その身体能力については御自身で体感されたでしょう。加えてこれもお伝えしましたが、ソリテュードの肉体はほぼ(、、)不死だ。普通の人間であれば即死レベルの傷を負ったとしても、永遠さんにとっては致命傷と為り得ません」
それは、確かに聞いた。
嘘のような話だが、実際に嘘のような話が目の前で何度も起きているし、ジョーカーの言葉にも今のところ虚言はない。その点を鑑みれば、信じるに値するのだろうと永遠は思った。
「それに、こうは思いませんか」
そう言われて、永遠は隣に立つ長身の男を見上げる。
「一度は失った命。それを再び手にしたのみならず、今度は大切な存在を守るために使える。これはとても幸せなことなのだと」
大切な存在。
永遠にとって大切な存在とは。
祖母、瑛奈、穂香。
彼女らは普通の人間。イマーゴに抗う力を持たない、普通の人間。
そんな彼女らを、今の自分なら守ってあげられる。
「……そうだね」
永遠は、受け入れた。
「あなたの言う通りかもしれない。本当なら死んだはずの私がみんなを守れる存在になれるなんて、それはきっと私にとっても嬉しいことだよ」
そのときの永遠は決めたのだ。
「確かに怖いけど、私、これから頑張って戦っていきたい……かも」
ソリテュードとして、イマーゴと戦う運命を受け入れることを。
ジョーカーは仮面の奥で満足げに。その表情を仮面と同じにしていた。
数拍置いて、ジョーカーは一歩前に出る。
「もう一つお教えしておくならば、イマーゴとの戦いは決して永遠さんを危険に晒すばかりではありません」
「どういうこと?」
「イマーゴの死体に剣を翳して下さい」
首を傾げる永遠に対してジョーカーは自分に従うよう促す。
よく分からないまま永遠は斬り刻まれた死体へ剣を向けた。
すると。
イマーゴの身体は瞬く間に霧状へと形を変え、両刃剣の鍔に埋め込まれた宝石へと吸い込まれていったではないか。
永遠達の眼前には、もう肉片の一つも、血液の一滴すらイマーゴの痕跡を残してはいなかった。
ただ一枚、宙に浮かぶカードを除いては。
「これは……」
「手に取ってみると良い」
言われたように手に取ってみると、それは。
「トランプ?」
クラブマークに2と描かれたプレイングカード。
一般的なものと比較して、少女の絵が描かれた以外には何ら変哲のないカードだった。
「一見ただのトランプのように見えますが、我々はそれを特別に《アニマカルタ》と呼んでいます」
「アニマカルタ……」
なんだか呼びにくい名前だなと、永遠は思った。
「稀にイマーゴが落とすのです。集めていれば、きっと良いことが起きますよ」
そう言ってジョーカーはシルクハットのつばを下げた。
「それでは私はここで失礼致します。永遠さん、貴女が無事にソリテュードとしての責務を全うできることを願っていますよ。では」
永遠がカードから視線を離したときには、既にジョーカーの姿はどこにもなかった。
相変わらず神出鬼没で不思議な男だと、永遠は思う。
一人きりになったトンネルの中、永遠はもう一度カード――アニマカルタを眺めてみた。
「綺麗な絵」
意図せず呟きが零れる。
アニマカルタの中央に描かれた少女は瞳を閉じ、また花束を抱える姿が実に可憐だった。
「でもなんだか、悲しそう」
よく見れば絵に描かれた少女の頬には一筋の涙が伝っていた。そしてその手に抱かれた花々は生気を失ったように萎れ、または死して枯れてしまっていたのだ。
それでもその幻想的な美しさに永遠は見惚れていた。
そのときだった。
かつん。
暗く、薄汚れた筒の中に足音が一つ響いた。
永遠はいまだロリータ衣装に身を包んだまま。それどころか、おまけに刃物まで握り締めてしまっている。
通報でもされたらどうしよう、などと考えながら目を向けると。
立っていたのは一般人ではなかった。
「……叶世、さん」
無表情で佇む叶世久遠の姿がそこにはあった。
反射的に肩をビクつかせ、だがしかし永遠は気がついた。
昨日、路地裏で見た久遠の恰好が特殊だったことに。
まるで今の自分みたいに一般性を逸した服装をしていたことに。
加えて、自分と同じように武器を持っていたことに。
「そうか」
永遠は自身の中で立てた仮説をもう半ば確信へと変えていた。
「叶世さんも、なんだね……!」
表情に笑顔を咲かせ、永遠は久遠へ駆け寄る。
注視してみれば、やはり久遠の首にはクラブマークの首飾りがかけられていた。
「やっぱり。叶世さんもソリテュードだったんだ」
永遠は嬉しかった。
早速仲間が見つかったことが。
同時に永遠は安堵した。
久遠が人殺しではなかったことに。
「その、昨日はごめんね。私、てっきり叶世さんが人を殺しちゃったのかと思って……そしたら怖くなって逃げちゃったの」
頭を下げる永遠。
久遠は、数秒の間を沈黙していた。
そして静かに口を開く。
「あなた、ソリテュードになったのね」
永遠は笑顔で首を縦に振った。
「実はそうなんだ。つい昨日なったばかりで、イマーゴと戦ったのもさっきが初めてだったんだけど」
久遠は、永遠の手に握られたアニマカルタを一瞥し、しかし何も言わなかった。
永遠の口は止まらない。
「その、さ。叶世さんが友達を作らなかったのって自分がソリテュードだったから、でしょう。そりゃそうだよね、あんなに怖いのと戦わなくちゃいけなんだから。友達を危険な目に遭わせちゃうかもしれないもんね」
久遠の言動に理解を示しながら、「でも」と永遠は続けた。
「私、ソリテュードになったよ。叶世さんと同じソリテュードに。だからこれからは一緒にイマーゴと戦っていこうよ。二人で戦えばきっともっと安全にイマーゴを倒せるようになるよ」
きゅっと手を握り締めて。
「だから私と――」
私と友達になって。そう言うはずだった。
しかし、それを遮って久遠の言葉。
「私は誰とも関わりを持たない。そう言ったでしょ」
そこで永遠の口が動きを止める。
久遠の瞳は、相変わらず冷めていた。
「それはソリテュード同士でも同じこと。私は、誰とも組む気はない」
「ど、どうして」
「第一、ソリテュード同士で協力関係を築くなんてあり得たことじゃないわ」
言い放ち、久遠は踵を返す。
このまま行かせたくない。永遠は思った。
「そんなことないよ! 命懸けであの悪い怪物達と戦わなくちゃいけないんだよ。一緒に戦った方がいいに決まってるよ」
ぴた、と足を止めて。
面倒臭そうに久遠は顔を永遠に向けた。
「あなたは何か勘違いしている」
そして平坦な声調のまま。
とても淡白に。
さも他人事であるかのように彼女は言った。
「ソリテュード(わたしたち)は正義のヒーローなんかじゃない。血に塗れ続ける宿命を背負った、醜く孤独な存在でしかないのよ」
そうして永遠に背を向け、今度こそ久遠は立ち止まらなかった。
「だから私達は、仲間なんてものを求めはしない」
最後に残った久遠の言葉が、彼女の消えたトンネルに、永遠の頭の中に、いつまでも木霊する。
取り残された永遠は、やがて小さく声を漏らした。
「……そんなことないよ」
永遠の心は、まだ諦めてはいなかった。
まだ久遠を一人にしようとは思えていなかった。
「だって叶世さんの目、とっても寂しそうなんだもん」
それに。
「だって私は、叶世さんと――」
永遠の小さな拳は、ぎゅっと強く握られていた。




