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【E》te-r-na《L】  作者: 夜方宵
1/12

木崎永遠が死んだ日の出来事

――少女はその日、××と出会った。















 ――ひとすじ。


カーテンの隙間から差し込む日差しが、添い寝するぬいぐるみ達と一緒に木崎永遠(きさきとわ)の寝顔を照らし上げた。


「んん……」


 十四歳になる年頃の少女にはおよそ似つかわしくないしかめ面が浮かぶ。

理由は勉強机の上に置かれた分厚い文庫本だった。夢の世界へと旅立つより前、午前一時を過ぎるまで彼女は数十万字の活字が織り成す世界を駆け巡っていたのだ。


 夜更かしは美容の敵とは言ったものだが、睡眠より読書。美肌よりも読書。そんな性格が毎朝生み出す、はしたない顔だった。とはいえ、それでもぴちぴちの中学二年生だ。その中でも特に幼げな外見をした永遠の肌は朝日を弾き返すほどに瑞々しいもち肌で、その顔立ちは誰もが思わず抱きしめたくなるほどに可愛らしかった。


 ぼんやりと永遠が目を開けたところに、がちゃり。


「あら永遠ちゃん。ちょうどお目覚めかい。おはよう。朝ご飯、できてるよ」


 ドアを開けた祖母が言った。


 眠気の拭えぬ朝にぴったりの柔和な声音が永遠に欠伸を促す。


「おばあちゃん、おはよう。今すぐ行きます」


 吐息混じりの返事に祖母は優しく、にこり。


 そっとドアを閉じた。


 笑顔一つ残してリビングに戻った祖母を見送ってすぐ、永遠はくりっとした大きな瞳に被さり気味だった瞼を擦りながら伸びをして。


「んー……っ。よしっ!」


元気にベッドから起き上がった。





「いただきます」


 祖母と一緒に合掌してから永遠は箸を取る。


こうやって朝晩の食事を家族で共にすることが木崎家では習慣となっていた。


 ……家族、といっても永遠にある家族は祖母ばかり。


 永遠は正真正銘に普通の人間であり、したがって当然に父親がいれば母親だっているし、部屋の隅に飾られた写真には永遠と一緒に笑顔で写る若い男女が見える。


 ただ、それに写る永遠はとても幼かった。


 そして永遠の記憶にある両親は今日に至ってもまだ写真のままだ。


 永遠の両親は、彼女が幼少の頃に事故で他界している。故に木崎家の人間は永遠と祖母の二人であった。


「んっ、美味しい。やっぱりおばあちゃんの作るだし巻き卵が私一番好きだよ。甘くてとろとろで。おばあちゃんは天才だね」


 しかし、永遠は自分を別段不幸だとも思わず、また孤独だとも思ってはいない。優しい祖母から目一杯の愛情を受けて育った彼女は、そしてかつて優しい友人達に巡り合った彼女は、今の自分に充分な幸福を感じていた。


「もう永遠ちゃんったら。毎回褒めるのはよしておくれよ。その度にばあちゃん、恥ずかしいじゃないか」


 頬をちょっぴり赤く染める祖母が可愛らしくて、永遠は笑った。


 いつものように、楽しい朝食。


 そこへテレビからニュースが流れ込む。


「――ここ最近、多数の行方不明者が発生していることが問題に挙がっている宇水市(うすいし)ですが、また新たに二名の行方が分からなくなっていることが判明しました――」


 永遠の顔が吸い込まれるようにテレビの方へ向く。祖母までが眉間に皺を寄せて画面を見つめていた。


 それもそのはず。宇水とは今彼女らの足がつく所、その地域、市の名前に他ならなかったのだから。


 何度目に見たかも分からない同じ報道。だがしかし画面に出る失踪者の名前は、永遠が過去に見たものとは確かに違っていた。


「――一連の失踪について警察は同じ事件とみて捜査を進めていますが、未だ詳しい情報は得られていないとのことです――」


 そこで失踪事件についての報道は終わりを告げ、既に画面上には新しいニュースが流れ始める。


「みんな攫われていたりするのかしら。こわいわねえ……」


 祖母が頬に手を当てて呟く。


「この町でこんなに恐ろしいことなんて一度だってあったことはないんだけどねえ。永遠ちゃんのお友達はみんな無事なのかい」


「うん。穂香ちゃんも瑛奈ちゃんも元気だよ。昨日の夜だって二人とは連絡とってたし」


 ここ宇水市は都会と呼べるほど発展した場所ではない。ぐるりと周囲を見渡せば山の一つや二つは視界に入るし、人口だって五万人に満たない、その程度の小さな市だ。


 だからこそニュースに出るような事件が起こることなんて殆どないし、知った人間に失踪者は出ていないし、幾度となくテレビ上で宇水市の名を目にした今でも永遠はどこか他人事のように感じていた。


「永遠ちゃん、学校に行くときやお家へ帰ってくるときは気をつけるんだよ」


 しかし、永遠とは違って祖母は随分と報道に不安を煽られているらしい。


 年齢の割に若々しい肌に皺が増えて一気に老け込む祖母の顔。


 彼女を心配させまいと、永遠は笑顔で頷いた。


「うん、わかってる。学校が終わったらちゃんと寄り道せずに帰ってくるから」


 そんな会話から幾つ時計の針が進んだだろうか。木崎家の中にはドタドタと騒々しい足音が満ちていた。


「もう永遠ちゃんったら。支度は整ったのかい」


「うん! やっと宿題のプリント見つかったよ」


 家を出る直前になって課題が見当たらないことに気がついた永遠は今の今まで家中を走り回っていたのだ。結局はといえば、昨晩読み耽っていた文庫本に栞の代わりとして挟み込まれていたのであった。


 おかげで普段よりも十分以上の遅れが出ていた。


「急がなきゃ学校に遅刻しちゃうよ」と永遠。


「はい永遠ちゃん。お弁当」


「ありがとう、おばあちゃん」


 学校指定の革靴へ強引に踵を押し込みながら弁当の入った手提げを受け取ると、振り向きざまにドアノブに手をかけようとして足をもつれさせる永遠。


「もう。そんな様子じゃばあちゃん、人攫いよりも車やバイクの方がよっぽどこわいよ」


 祖母の溜息。


「ちゃんと信号見て、交通事故に気をつけて行ってくるんだよ」


「分かってるって。それじゃ行ってきます」


 開けたドアの向こうから注ぐ朝日を浴びた、それこそ向日葵のような笑顔を祖母に向けて、永遠は元気に家を飛び出した。





 宇水の中で最も発展した、市の中心とも呼べる場所に永遠の通っている宇水中学校はある。山や田畑の多い宇水も、そこだけはちょっとばかし高い建物が建ち並んでいて、まるで都会のような雰囲気が漂っている。


 ようやく学校付近まで来た永遠は、市で一番の大きな道路に面したビル街を走っていた。


 もうチャイムが鳴るまで時間はない。


 その証拠だとでも言わんばかりに、周囲には、永遠以外に宇水中の制服を着た学生は見当たらなかった。


 このままだと女子である自分一人、早朝から廊下に立たされてしまうかもしれない。


 そう思うと永遠の中に焦りが募った。


「うう。まずいなあ」


 何か策はないものか。


 必死に頭を捻った永遠は一つ思いつく。


 この先の細い路地を抜ければ学校までの距離をぐっと縮めることができるじゃないか。


 実際、永遠には過去に何度かその近道を使った経験があった。


 けれど、今朝のニュースにあった通り最近はお世辞にも治安が良いとは言えない宇水市だ。祖母ほどに報道を真に受けていない永遠でも、人通りが皆無に近い路地裏へ飛び込むのには多少の躊躇いを覚えずにはいられなかった。


「仕方ないよね」


 結局は近道に頼ることにした永遠。今の彼女にとっては考えたところでやはり廊下に立たされることの方がより危機であった。


 決めたとあらば迷っている暇はない。


 今まで以上に速度を上げて、路地裏へめがけて。


 そのときだった。


 ぬっと。路地裏から人影が一つ現れたのだ。


 急に止まれるはずもなく、永遠は人影に衝突して弾かれた。


「いたたた……」


 思いきりアスファルトに打ちつけたお尻をさすりながら、ハッとして顔を上げる永遠。


 ぶつかった相手に謝らないと。


 そう思いながら向けた視線の先にあったのは。


 ――非常に可愛らしい女の子の姿だった。


 艶やかに色めく烏羽色の髪。その黒糸に彩られた小さな顔には、とても長く、けれど羽毛のように軽やかな睫毛が被さった二重の瞳や、筋の通った高い鼻、そして濡れたように光る小振りの柔らかそうな唇が飾られていて、思わず溜息をつきたくなるほどに整った造りだった。背丈から察するに年は自分と同じくらい。だけどどこか寒気を感じるくらいに落ち着いた雰囲気を纏っていて、本当にお人形みたいな子だなと、永遠は感じた。


 思わず見惚れているうちに、永遠の眼前には手が差し出されていた。


 戸惑いつつも手を借りて立ち上がる。


「あ、あの、ごめんなさい。大丈夫ですか」


 妙な緊張に声が上擦ってしまって、永遠は顔を赤くした。


 ところが、少女は何の反応も見せない。


 しばしの静寂の後、一言。


「この路地へは入らない方がいいわ」


 それだけ告げて。少女は行ってしまった。


 思いのほか冷淡な対応に何もできないまま、永遠は少女の背中を見送る。


 少女の姿が見えなくなった後。


 ……なんだか不思議な子だったな。


 そう思う永遠。


 でも。


 それ以上に永遠の印象に残っていたのは、少女がとても冷たくてどこか寂しそうな瞳をしていた、ということだった。


 やがて遠くには、HRの開始を告げるチャイムの音が鳴り響こうとしていた。





「ふう」


 額に汗を滲ませて、永遠はだらしなく机に抱きついていた。


 まだ肩で息をする永遠の顔には、しかし、それでも安堵が見てとれる。


「よかったね、とわちゃん」


 声が一つ。


「いっつもチャイムと一緒に教室に入ってくる先生が今日に限ってまだ来ないなんてね」


 違う声がもう一つ。


 それらの言う通り、見事永遠は廊下に立たずに済んだのだ。


「穂香ちゃん、瑛奈ちゃん」と、顔を上げた永遠は笑ってみせる。


 おっとりとした風貌、口調の御木本穂香(みきもとほのか)と、ポニーテールと焼けた肌に活発な印象を受ける里理瑛奈(さとりえいな)。共に小学校に通っていた頃からの永遠の友人である。


「ほんとにラッキーだったよ。校門前でチャイムが鳴ったときは半分諦めちゃってたけど、実は今日って幸運な日なのかも」


「本当に幸運な日だったらそもそも遅刻しそうになったりしないと思うけどね」


 と言ったのは瑛奈。


 言われて永遠は思い出す。


「そう言えば宿題のプリントが見つからなくて家を出るのが遅れちゃったんだった」


「ほらね」


 瑛奈は得意げな顔で八重歯が見えるくらいに笑って、


「つまり今日の永遠の運勢は最悪なのさあ」


「えー。そんなの嫌だよお」


「もう瑛奈ちゃん。あんまりとわちゃんに意地悪なこと言ったらだめだよ」


 ハの字に眉を下げる永遠の頭を優しく撫でながら、穂香は瑛奈を諭した。


「冗談だって。ごめんごめん」


「むー」


 手を合わせてウインクする瑛奈に対して永遠はぷくっと頬を膨らませる。


 けれど、瑛奈の笑顔につられて永遠も穂香もすぐに笑ってしまうのだった。


 ひとしきり笑い終えた頃に、がらがらと教室のドアが音を立てた。


「遅れてごめんなさい。はい、すぐにホームルームを始めるから皆席に着いて」


 担任教師の入室。


「ようやくおでましか」


「それじゃまた後でね、とわちゃん」


 瑛奈と穂香の二人は各々の席へ戻っていった。


 生徒らの着席後、日直の号令に従って礼を行い、そしてHRが始まる。


「皆さんおはようございます。突然ですが、今日は皆さんに新しいクラスメイトを紹介したいと思います」


 つまり、このクラスに転校生がくるということ。


 なるほど、それで先生は教室へ来るのが遅くなったに違いない。だとしたらピンチを救ってくれた転校生に感謝しておかないと。なんて永遠は思った。


叶世(かなせ)さん。入って」


 先生に促されて、叶世と呼ばれた転校生が入ってくる。


 どよめく室内。男女関係なく、誰もがその転校生の可憐な容姿に対して感嘆の言葉を漏らす。


 ところが、永遠の反応だけは他の生徒と違っていた。


 永遠が感じていたのは、偶然に対する驚き。


 黒板の前に立ち、ぺこりと頭を下げた彼女は。


叶世久遠(かなせくおん)です」


 紛れもなく、近道の入口で永遠が衝突した少女だったのだ。


 まさか転校生だったなんて。


そんな思いで永遠は転校生――叶世久遠を見つめる。


「…………………」


 久遠は……それ以上何も言わなかった。


 無言で佇む彼女の無愛想さが教室の空気を冷ましていく。


 気を遣ったのか、慌てて先生が口を開いた。


「叶世さんはご家庭の都合で最近この宇水に引っ越してきたばかりなの。慣れない土地での生活に不安を感じることも多いでしょうから、皆さんがしっかり支えてあげて下さいね」


 先生の言葉で転校生の紹介は終わりを見た。


 それから最後にもう一度頭を下げて、指示された席に着くまでの間、久遠の顔は一貫して無表情だった。


 生徒達からの「よろしくね」だとか、そういった言葉も全部無視して。


 一切を撥ね退けるような彼女の態度を見て、永遠は。


 きゅっと胸が締まるような、そんな気持ちを少しだけ感じていた。





 不安にも似た永遠の感情は、さらに膨らみを増すことになった。


 それは一限目の授業が終わってから。


 永遠は穂香、瑛奈と三人でお喋りをしていた。


「しっかしとんだ美人さんが来なさったもんだねえ」と瑛奈。


「あんなに可愛い子、わたし初めて見たよ」


 穂香は次の授業に使う教科書を抱えながら頷いた。


「永遠なんか口開けたまんま転校生に見惚れちゃってたもんね」


「え。え? 口開けたまま!?」


 瑛奈に言われて、永遠は咄嗟に口許を手で隠す。


「うん。もーあんな熱烈に見つめちゃってさ。ひょっとして永遠にはそっちの気があったりするのかなあ?」


「な、ないよそんなの! 変なこと言わないでよ瑛奈ちゃん!」


 ぽん。瑛奈は永遠の肩に両手を置いて、


「大丈夫だって。どんなことがあったって、あたし達はずっと親友だから」


「だから違うってばー!」


 そこでやっと「こーら。瑛奈ちゃん」と穂香の制止が入った。


 永遠の頭を撫でる瑛奈を確認しつつ、穂香は話を戻す。


「それにしても叶世さん、本当にどこか雰囲気が違うよね。大人びているというかなんというか。すっごく都会な所から引っ越してきたのかな」


「いやいや」


 瑛奈は右手をぶんぶんと左右に振った。


「あれは大人びているんじゃなくてさ」


 瑛奈の指差す先、久遠の席へ永遠と穂香は目を向ける。


 そこには席に座る久遠を囲む大勢のクラスメイトの姿。転校生の編入においては恒例行事とも言うべきか、いわゆる質問責めの最中だった。


「ねえどこから引っ越してきたのー?」「めちゃくちゃ綺麗だよね叶世さん」「ひょっとしてどこかの雑誌でモデルやってたりするー?」


 女子達の問いに久遠は答えない。


 淡々と教科書を揃えると、無言のまま立ち上がりドアへ向かう。


「あ、そうだ叶世さん。次の移動教室、場所分かんないでしょ。私達と一緒に行こうよ」


 健気にもまだ会話を試みる女生徒へ、とうとう久遠の顔が向いた。


 その唇から放たれたのは辛辣な一言。


「目障りよ」


 しん、と。教室が静まりかえる。


「先生の言葉なんて気にしなくていいから。私は誰とも関わりを持とうだなんて思わない。興味がないのよ、そういうの」


 酷く冷めた眼差しが呆然と立ち尽くす生徒らを見渡す。


「だから、今後私には話しかけないで頂戴」


 そう言い放ち、叶世久遠は教室を後にした。


 拒絶の宣言。


 まるで通夜のように重い静寂が満ちる教室。


 その中、瑛奈が苦笑を浮かべる。


「孤高の一匹狼、という奴ですわ」


「す、凄い人だね……叶世さん」


 穂香は何と言ったら良いか分からないようだった。


 永遠は、言葉の一言も出さなかった。出せなかった。


「さ、あたし達も移動しよ。急がないと遅れちゃうよ」


 そう言った瑛奈が机から教科書を引っ張りだしてもなお、永遠は久遠が出ていったドアの辺りをぼーっと眺めていた。


「とわちゃん?」と穂香が永遠の顔を覗く。


「あ、ご、ごめん。今すぐ準備するよ」


 我に返り、永遠はあわあわと机の中を弄り始める。


「もーなにやってんの永遠。はやくっ」


「ごめん、瑛奈ちゃん」


 笑顔で瑛奈と穂香の後ろにつく永遠。


 しかし、それからも久遠に対する気がかりが消えることはなかった。


それはまるで見えない蜘蛛の糸のようにもやもやと永遠の心にまとわりつくのだった。





 昼休み。


 永遠、穂香、瑛奈の三人は弁当を持って屋上に出た。


 大抵の学校では封鎖されている屋上だが、宇水中では全生徒に対し開放されている。生徒らの手によって毎日清掃も行われており、したがって大変清潔で、見晴らしの良さとも相まって、そこは実に清々しい空間となっている。


 空高く昇った太陽から注ぐ日の光を仰ぎ、瑛奈がにかりと笑う。


「んーやっぱり屋上は気持ちがいいね。それに今日は他に人もいないし。貸し切りって最高じゃん」


 いつもなら複数のグループがちらほらと見えるのだが、今日に限っては永遠達以外に人の姿はなかった。


 並んでベンチに腰掛け、他愛もない会話に花を咲かせながら弁当をつつく。


 だがしかし、永遠だけはその表情に笑顔がなかった。


 ただぼーっと。まさに心ここにあらず。


 そこへ、ひょい。瑛奈の顔がどアップで永遠の視界に入り込む。


「もー話聞いてる? 永遠」


「あ……ごめん」と、謝る永遠。


 彼女の耳には、今の今までただ一つの言葉も聞こえてはいなかった。


 しゅんと顔を下げる永遠を心配そうに見つめながら溜息をつく瑛奈の傍ら、穂香が問う。


「そんなに叶世さんのことが気になるの?」


 いかにも。


 自分の頭の中を一発で言い当てられてしまっては誤魔化しようもない。


 こくり、と。永遠は小さく頷いた。


 永遠はずっと考えていたのだ。


「私思ってて。叶世さんと仲良くなれないかなって」


「まあ」と驚く穂香。


「永遠あんた本気で言ってんの!?」


 瑛奈に至っては危うく弁当箱を床にひっくり返すところであった。


「今朝の見たでしょ。あいつ言ってたじゃん。人と関わることに興味ないって。だから自分には話しかけるなってさ。そういう奴にはさ、無理にこっちから関わろうとしなくたっていいと思うよ」


「そうなんだけど」


 確かにそうだ。瑛奈の言うことは正しい。


 だけど永遠の中には、それだけのことで話を終わらせたくない思いがあった。


「でもなんだか放っておけない気がして。それに叶世さんが言ってたこと、私には本気で言ってたようには見えなかったの」


 そう思う理由は。


「叶世さんってきっと、昔の私に似てる」


「昔の永遠に似てる……?」瑛奈と穂香の二人は一緒に首を傾げる。


「うん。似てるよ。瑛奈ちゃんと穂香ちゃんが友達になってくれる前の私に」


 それは小学校に入って間もない頃。


 当時、両親を亡くしたショックから立ち直ることができずにいた永遠は、今よりも随分と寡黙で人との関わりを持てない暗い女の子だった。


 さらに同級生から見れば、父も母もいないという家庭事情を持つ永遠はそれだけで自らとは異質である。


 親もいないし、根暗な子。


 小さな子供にとっては、たったそれっぽっちでも避けるに充分な要素だった。いじめの対象とするに充分な要素だった。


 つらく孤独な日々だった。


 そんな永遠を救ったのが穂香と瑛奈であった。


 いじめられていた永遠を守り、さらには友人として手を差し伸べたのだ。


 当時のことを永遠は少しだって忘れてはいない。


 だからこそ。


「あのとき二人が私に手を差し伸べてくれたように、私も叶世さんのことを独りぼっちにしたくないんだ」


 永遠の言葉を聞き終えた穂香と瑛奈は顔を合わせる。


 そしてやがて微笑んだ。


「優しいね、永遠は」


「うん。優しいよ、とわちゃんは」


「永遠のそういうところ、あたし大好きだよ」


「うん。わたしも」


「瑛奈ちゃん、穂香ちゃん……」


 友の言葉ほど嬉しく、心強く、背中を押してくれるものはない。


 長らく曇り気味だった永遠の表情に光がともった。


 ちょうどそのとき。


 かちゃ、きぃー、と。少しばかり錆ついた屋上のドアが音を立てた。


 どうやら誰か来たようだ。


 何の気なしに目をやった永遠は、思わず声を漏らしそうになった。


 小さなコンビニ袋を提げてやってきたのは、他でもない叶世久遠だったのだ。


「グッドタイミングじゃない、永遠」


 瑛奈のウインクを受けて、永遠は微笑む。


「うん。行ってくる」


 立ち上がった永遠は、自分達とは正反対の方にあるベンチに向かおうとする久遠へと駆け寄った。


「あの、叶世さん!」


 久遠の双眸が興味なさげに永遠を見る。


 思わずたじろぐ永遠だったが、ぐっとこらえて笑顔を崩さない。


「あ、あのね、お昼食べに来たん、だよね。だったら、その、一緒に……どうかな」


 一拍置いた後。


 久遠は淡々と言葉を吐き出す。


「話しかけないで、そう言ったわよね。それともあのとき、あなたは教室にいなかったのかしら」


「いや、いなかったわけじゃ……ないんだけど」


「なら何故。私のお願いを聞いて、それでも話しかけてくる理由はなんなの」


「その、私、叶世さんと仲良くなれないかなって思って。それで」


「私はあなたと仲良くしたいなんてこれっぽっちも思っていないわ」


 久遠の瞳が少しだけ鋭さを増した。


「友達なんてもの、私には必要ない」


「そ、そんなことないよ!」


 反射的に永遠は否定した。


 しまった。そう思いながらも続ける。


「友達がいないなんて、独りぼっちだなんて、そんなのつらいに決まってるよ」


 久遠の表情は、変わらない。


「あなたにとってはそうでも私にとってはそうじゃない。あなたの勝手な価値観を、自分勝手に他人へ押しつけるのは止めて頂戴。そういうの、大嫌いなの」


 そこで会話を断ち切り、久遠は永遠に背を向ける。


 なんとか呼び止めたい。永遠は思った。


「放っておけないの!」


 そして言った。


「叶世さんって、その、昔の私に似てると思うから」


 ぴたりと。久遠がその動きを止める。


「似てる……?」


 ぎり、と。久遠は歯を食い縛った。


 そして振り返った久遠が初めて見せた感情は。


「ふざけたことを言わないで」


 背筋も凍るような、冷たい怒り。


 怯える永遠に久遠は言う。


「私とあなたは違う。何もかもが。似ているところなんて、ただの一つもない」


「か、叶世さ」


「もう二度と、私に構わないで」


 それからの久遠は決して永遠の方を向いてはくれず、屋上を出ていった。


 伸ばしかけた永遠の手が、虚しく空気を掴む。


 何が彼女にあんな顔をさせてしまったのか、永遠には分からなかった。


 ただただ永遠は、久遠の消えていった方を見つめ立ち尽くすばかりだった。





 放課後を迎え、三人揃って昇降口を出た先は既に薄く橙を帯び始めていた。


「あんまり落ち込んじゃダメだよ、とわちゃん」


 穂香が言った。


「そうだよ。あいつ、叶世久遠は本物のソロプレイヤーだったって、そういうことさ」


「うん……」


 瑛奈達の慰めは嬉しかった。


 けれども、屋上で見た久遠の顔が、聞いた言葉が、永遠の頭を離れない。


 悩ましくて顔が上がらない。


 ふっと息を吐いた瑛奈の両手が永遠の両頬を包んだ。


「ほら顔上げて。下向いたまま歩いてちゃ危ないでしょ」


 視線を上げれば、永遠の眼前には瑛奈の笑顔。


 そうだ。いつまでも暗い顔をしていては目の前の友達に心配をかけてしまう。

 永遠は笑った。


「うん。もう大丈夫」


「よし」


 瑛奈も、にこり。


「それじゃあたしクラブがあるから行くね」


「わたしもこれから塾に行かなきゃ。またね、とわちゃん」


 校門を出たところで永遠と二人の進行方向は真逆になる。


「うん。またね」


 手を振り合いながら永遠は穂香や瑛奈と別れた。


 てくてくと、永遠は一人帰路に就く。


 帰り道を辿るうちにやがてまた俯き気味になっていく永遠。


 ふと永遠の目に小さな公園が映った。


 街中にあるくせに古びた遊具がいくつか置いてあるだけ。人の一人もいない寂れた場所だった。


 ひとけのない空間。今の自分にはちょうどいいと、永遠は思った。


 ふらりと立ち入って、永遠は二つ並んだブランコの片方に腰掛けた。


 夕日に染まる空を眺めながら、久遠の拒絶を思い出す。


 友達なんて必要ない。そんな言葉、永遠は今でも信じられなかった。でも、似ていると言われたことに対して見せたあの怒りは、紛れもなく本物だったと永遠は思う。


 久遠の背景にあるものを、彼女の心にある何かを、永遠は想像することができなかった。


「……叶世さん」


 それは独り言。


 ただ空気に溶かしたはずだった。



「――何かお困りですか?」



 聞いたことのない声。


 永遠が隣を見やると、見知らぬ男がブランコに腰掛けていた。


 この公園には誰もいなかった。誰かがやってきた気配もなかった。だというのに、一体いつの間にこの男は自分の隣に現れたのだと、永遠は混乱した。


 しかし。それよりも永遠の目を引いたのは男性の姿。


 燕尾服にシルクハット。まるでマジシャンのような格好は、地方の街中にはとても似つかないものだった。


 そして何より、男は仮面をつけていたのだ。


 薄気味悪い笑顔の彫り込まれたそれは、素顔が見えないこととも相まって永遠におどろおどろしい印象を与えた。


「誰ですか、あなた」


「怪しい者ではありませんよ」


「……説得力ないです」


「説得力がない? ああこの格好のことですか。いわゆる制服という奴ですよ。貴女が着ていらっしゃるブレザーやスカートと一緒。私にとっての仕事着です

 永遠としてはすぐにでも携帯電話を取り出して1を二回に0を一回押してやりたい気分だったが、乱暴をされては困るので様子を窺うことにした。


「一体私になんの用があるんですか」


「いやなに。ずっと上の空でぼーっとされていたものですから。御相談でもあればお受けしようとお声かけした次第ですよ」


「知らない人にする相談なんて、ないです」


「まあまあそう言わず。実は私、占い師のような、或いは手品師のような仕事をしているのですよ。困った人のお話を聞いた上で複数の選択肢を提示してあげたり、場合によっては奇跡紛いの仕業で手伝ってあげたりする、そんな仕事をね。だからこそこのように奇抜な格好をしているというわけです。仕事柄、普通の人間よりも幾分ましな相談相手になってあげられる自信はありますよ」


 穏やかでいて、けれどぞわりと永遠の耳にまとわりつく声。きっと仮面の奥は笑っているに違いないと永遠は思った。


 しかし何故だろう。こんなに嘘臭い男に、今の永遠は話をしてみようと思ったのだ。きっと気まぐれだった。


「……仲良くしたい人がいるんです。でもその人に友達なんていらないって、人との関わりなんか必要ないって言われちゃって。そんな人、本当にいるのかなって」


 ほんの気まぐれからの相談を思いのほか男は真剣に聞いているようだった。


 うむ、と男は小さく唸る。


「自ら孤独を望む人間ですか。いないとは言い切れませんね」


「でも彼女は、彼女の目はとても寂しそうで、とても本気でそう思っているようには見えなかったんです」


 男の指が自身の仮面をなぞった。


「だったら孤独にならざるを得ないのかもしれない」


「孤独にならざるを、得ない?」


 永遠には男の言葉がいまいち理解できなかった。


 男は頷き、続ける。


「例えばその彼女には特別な事情があるのです。関わった人間を不幸にしてしまいかねない事情が。だから友達なんて作れない。人との関わりなんて持てないのですよ」


「そんな事情なんて……」


「ない、とは言い切れないでしょう。この世には数え切れない数の人間が存在している。その一人一人を囲む環境は確かに異なるものであり、したがってその一人一人が抱える事情もまた確かに異なるものであるのですから、その中の一つ、つまり貴女の言う彼女が、貴女に想像し得ない程の問題を有していたとしても、それを決してあり得ないことだとは言えるはずがない」


 なんとなく納得できそうな気はする。


 だがしかし、永遠は分からない。


 孤独にならざるを得ない状況とは、自分と関わった人間を不幸にする事情とは一体なんだ。そのような理由が一体どこから生まれるというのだ。


 仮に男の言う通りだったとして。


「それじゃ私はどうすれば」


 自分にできることなどあるのか。そう永遠は思った。


 からん。永遠の隣のブランコが音を立てた。男が立ち上がったのだ。


「結局貴女にできることは二つでしょう」


 見上げた男の仮面に刻まれたにへら顔は、夕日を浴びてより深くなっていた。


「孤独な彼女を孤独にしたまま見捨てるか、はたまた自身を不幸に貶めてでも彼女の側に寄り添うか。その二択です」


「なんか極端、ですね」


「あくまで推測を元に導き出した結論。例え話のようなものですから」


 そう言って男は一つ前に出る。


「さて。それでは私は行くとしましょう。上手く御相談に乗れたでしょうか」


 訊ねられ、永遠は気がついた。


 こんな怪しい人間を相手に意外とまともな相談ができていたことに。そしていくらか気持ちが軽くなっているということに。


「はい。少しだけ……楽になりました。ありがとうございました」


 永遠は素直に感謝した。


「それは良かった。では失礼します。またいつか、貴女が困っている時にはお話を聞きましょう」


 シルクハットのつばを下げ直し、不思議な装いの男はその場を後にした。


 遂に男が何者かは分からなかったし、分かろうとも思わなかった永遠だったが、きっと悪い人間ではないのだろうと、そう感じていた。


 とはいえ別れ際の男の言葉、まるで再会があるとでもいった台詞で、それはちょっと遠慮したいなと思う永遠だった。


 やがて永遠も腰を上げ、寂れた公園を出て、再び帰路を辿り始める。


 いつの間にか街中には、遊び帰りと思しき学生服の中にくたびれたスーツ姿が交じるようになっていた。


 永遠は考える。


 明日以降、再び久遠と会ったとき彼女にどう接するべきか。


 そもそも接触を持つべきか。


 彼女に言われた通り、今後関わることを避けるべきなのか。


 そうしたとして、それで本当に良いのだろうか。


 色々なことが永遠の頭を駆け巡る。


「私は……」


 漏れる呟き。


 そのときだった。


 永遠の目の前に一つの人影が見えたのだ。


「叶世さん……!」


 間違いなかった。


 永遠の前方、幾多の人々の向こうには確かに叶世久遠の姿があった。


 人々の流れを離れ、久遠の姿は細い路地へと消えていく。


 無意識のうちに永遠は駆け出す。


 人の合間を縫って、細く暗い路地へとその身を向かわせる。


 すなわち、永遠は久遠の後を追っていた。


 やっぱり久遠を放っておくことはできない。


 もう一度彼女と話をしたい。


 そしてなりたい。友達に。


 これが永遠の答えだった。


 随分と追いかけた。息が上がるほど。


この先の角を曲がればきっと久遠がいる。


 何があっても呼び止める。


 そう決意して、永遠は角の向こうへと走った――。



 ――そこには、赤黒い何かが立っていた。



 佇む何かが永遠を向く。


 ……久遠だった。


 叶世久遠の凍てついた双眸が無感情に永遠を見据えていた。


 さっきまで学校の制服を着ていたはずの彼女は、奇妙な衣装に身を包んでいた。そしてその細い首にはクラブマークにJと描かれた首輪が嵌っていた。


 けれど衣装についての感想なんて抱く余裕は、永遠にはなかった。


 衣装は汚れていたのだ。赤黒いそれを浴びて。


 彼女の顔も汚れていたのだ。赤黒いそれを浴びて。


 その手には真っ赤に染まった斧が握られていた。


 そして傍らには。


 ビルの壁に凭れかかる、頭のない真っ黒な(、、、、)死体。


「ひ……っ……!!」


 一目で永遠は理解した。


 目の前に立つ彼女が、人を殺した。


 息が詰まる。悲鳴なんて上げられたものではなかった。


 腰が抜けそうになるのを必死にこらえて、永遠はその場から逃げだした。


 暗い路地を抜け、人混みに何度もぶつかりながら、永遠は逃げる。


 人殺しだった。


 人殺しだった。


 人殺しだった。


 人殺しだった。


 叶世久遠は人殺しだった。


 彼女と友達になりたかった永遠など、もうあるはずもなかった。


 ただ恐怖。彼女が自分を追ってくるのではないかという恐怖が永遠の心臓を締めつける。


 がむしゃらに駆けながら、永遠は思い出す。


 ――最近、多数の行方不明者が発生していることが問題に挙がっている宇水市ですが。


 ――叶世さんはご家庭の都合で最近この宇水に引っ越してきたばかりなの。


 永遠は疑わなかった。


 叶世久遠こそが、連続失踪事件の犯人に違いない。


 今までの失踪者は全て、彼女がさっきのように殺害したのだ。


 だとすればやはり自分は危ない。


 なにしろ彼女の犯行現場を目撃してしまったのだから。


 口封じに殺されることなど、想像するに容易かった。


 泣きながら永遠は走った。


 嫌だ。死にたくない。自分はまだ死にたくない。


 その一心で永遠は逃げ続けた。


 永遠の視界にはもう何も映っていなかった。


 否、目に映るものを理解できなくなっていた。


 正常な判断力を失っていたのだ。


 結果として。


 人の塊を押しのけて。


 永遠は赤信号の横断歩道へと飛び出した。



「え」



 言うまでもなく、そこには車の群れ。


 鳴り響くクラクション。


 轟くブレーキ音。


 そのどれもが、既に永遠に対する死の宣告だった。


 痛みなんて感じる暇もない。


 ぐにゃり、と歪み。潰れ。砕けていく身体。


 やがて人としての形を保てなくなり、薄桃色の肉片と、紅色の体液を撒き散らす。


 優しい祖母の、友の笑顔が走馬灯のように脳裏を駆け巡る。


 死にたくない。


 抗えないと知りながらも。


 死にたくない。


 消えゆく意識の中でそう叫びながら。


 自身の紅と数多の悲鳴に染まり上がった夕暮の街中で、木崎永遠は僅か十四年ばかりの生涯に終止符を打った――。

















 声が聞こえた。


 ――死にたくないのですか。

 

 ……誰?


 ――死にたくないのですか。


 ……死にたくない。


 死にたくない!


 ――やがて孤独(、、)になりゆく運命を背負うのだとしても。


 ――それでも貴女は生きたいですか。


 たとえどんな未来が待ち受けていても。


 その未来で、もう一度みんなに会えるというのなら。


 私は、生きたい……!


 ――よろしい。


 ――ならば生きたいという貴女の願い、叶えて差し上げましょう。



 その声は、実に愉しげに笑っていた。






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