再開
カーテンから漏れる朝日に目を覚ます。
「あれ、サキ?」
両の腕でしっかり抱きしめていたはずの彼女は姿を消していて、私の身体はシーツでくるりと巻かれていた。
立ち上がってシャツを羽織り、顔を洗いに洗面所へ向かう。
「……あれ、」
ダイニングのテーブルの上に、一枚のメモが置かれていた。
メモには、サキらしい端正な文字でこうあった。
『講義の準備のために、家に戻ります。黙って出て行ってごめんなさい。よく眠っていたから起こすのも悪いと思ったの。もし時間があれば、夕方にいつものカフェで』
そして末尾に、バツ印が三つ。
なんだか、少しくすぐったい。寝起きに会えなかった寂しさはもちろんあるけれど、それ以上にこの手紙に浮かれている私がいた。この短い文章の中に、いかにもな恋人らしさが滲み出している。
ともあれ、学校に行く準備をしなくては。今日は私もサキと同じ、二講目からの受講になっている。手紙をサイドボードの引き出しにしまい、軽い足取りで洗面所に移動する。
「……!」
さすがに、これは予想外だった。
覗いた鏡の端に、キスマーク。よく見ると、その下には口紅でメッセージが書いてある。
「Have a nice day, my sweet!」
このくらいの英語は、私にも分かる。ベタなセリフに、ベタなシチュエーション。きっと、自分でも苦笑しながらこれを書いたのだろう。一人残された私を寂しがらせまいと、こんなサプライズを仕込んでいくサキが微笑ましかった。鏡を見るたびにやけながら、顔を洗って歯を磨く。
私の素敵な一日は、予想外のルージュの伝言ですでに始まったのだ。
二講の心理学を受けた後、三講目をサボって街に出た。こんな風の気持ち良い日に、数学の講義なんて受けるものではない。前のレポートは評価が良かったし、今日ぐらいはサボっても問題無いだろう。
その日は季節外れに涼しく、街ゆく人はみな浮き足立っていた。六月の爽やかな風を受けて、私はまた一歩踏み出す。
その時。道路の向こう側に、懐かしい後ろ姿を見付けた。かつて私が、誰よりも多くの時間を共有した相手。考える間も無く、私はその背中に向けて呼びかけていた。
「おーい、カズキっ!」
彼はすぐ振り向いた。息を呑む音が、こちらにまで聞こえてくる。相手の驚いた顔ににやっと笑いながら、渋滞した車の間をすり抜けて駆け寄る。
ねえ、サキ。
私がこの時カズキと再会していなかったら、一体どうなっていたんだろうね。
少なくとも、あなたたち二人をあそこまで傷付けなくて済んだのかな?
今さら何を思っても、もう遅い。あの時すでに、運命の歯車は残酷にも、音を立てて軋み出していたのだ。
私とカズキは、昔から兄弟みたいに仲が良かった。じゃあ付き合えば、と友達に言われて、じゃあ付き合うか、というノリでくっついた。付き合いだしてからも二人の関係は大して変わらず、変わったといえばお互いの呼び方くらいだ。
これ、なんか違くね? 先に言い出したのは、カズキの方だった。やっぱそう思う? 私もそう言って、卒業と同時に別れた。二年近く付き合って、私たちは手一つ繋がなかった。
そんな私たちだから、再会してまたすぐに親友に戻るのは難しくなかった。むしろ当然の帰結だと言える。
最新の連絡先を交換して、私たちは別れた。
「うーん……」
なんとなくカフェを出ちゃったけど、この後のデートどうしよう。適当に時間を潰して、もう一度戻ろうか。そんな事を考えていると、不意にポケットの携帯が震え出した。
直感で分かった。サキだ。
私の勘はよく当たる。案の定、サキからのメッセージが届いていた。
「ごめんなさい。急に代講が入って、今日は行けそうにないわ」
「アオイさえ良ければ、」
そこで、メッセージは一度途切れる。長文を打っているのだろう。やがて表示された内容に、私は目を剥いた。
「私の部屋で待っていてくれないかしら。住所を下に書くわ」
ばくばくと揺れる心臓を抑えつつ、返信を打つ。
「え、いいの?」
「いいわよ。むしろ来てほしい」
「行くーっ!」
「何なら泊まるといいわ。ついでに、着替えもいくつか持ってきたら?」
「そうする!」
「決まりね。オートロックの番号と部屋の鍵は、あなたの部屋の枕の下にあるわよ」
マジっすか。さすがサキさん、抜かり無い。そうと決まれば、一旦部屋に戻ろう。
荷物をまとめて部屋を飛び出し、送られた住所に向かって歩き出す。真新しいスペアキーとロックナンバーのメモは、しっかりとポケットに収めた。
「えっと、この番地なら駅向こうだよね」
私の家から、歩いて十五分といった所か。ただし、途中に踏み切りや信号が多いので、実際はもう少し掛かるだろう。
「のんびり、行こう」
なんと言っても、今日は良い日だ。焦らず進めば、きっとまた何か良い事があるだろう。
やがて見えてきた彼女の住居を前に、私は若干入るのを躊躇した。
いやまあ、オートロックって聞いた時点で、ある程度は予想してたよ。だけど駅前の高層マンション一人で住んでる大学生って、色々どうなのよ。
いつまでもそこに突っ立ってい訳にも行かないので、覚悟を決めて玄関に踏み込む。自動ドア付きのエントランスに気後れしながら、こわごわオートロックを解除した。
エレベーターに乗って、七階のボタンを押す。……うわっ、ここ十五階まであるよ。しかも七階って結構じゃん。
エレベーターを降りて、絨毯を敷き詰めた廊下を歩く。南に面した角に、その部屋はあった。これまた恐る恐る、鍵を鍵穴に差し込んで回す。かしゃりと小気味良い音を立てて、鍵は開いた。
扉を押し開け、中に入る。
一歩入った瞬間、シトラスの香りが微かに鼻孔をくすぐった。
「……あ、サキの匂い」
間違い無く、ここはサキの部屋だ。その事実を知っただけで、無条件に落ち着ける。
モノクロを基調とした、シンプルな部屋だった。アイスブルーのカーテンと、赤い革張りのソファがアクセントになっている。
「……とりあえず、座るか」
おっかなびっくりソファに近付いて、そっと腰を下ろす。うん、最高。こんなに座り心地の良いソファは初めてだ。全身に入っていた力が一気に抜け、私はつい目を閉じた。
かたん、とシンクから水が落ちる音で目を覚ました。どうやら、ソファに座ったまま眠ってしまっていたらしい。
サキ?
音のした方に顔をやると、キッチンで何やら作業する後ろ姿が目に入った。
そっと立ち上がったつもりだったけれど、気配を悟られたらしい。サキはくるりと振り向くと、にっこり笑って手招きをした。
私もにっこり笑い、何も言わず駆け寄った。ボタンを三つ外したブラウスの胸元に飛び込んで、がっちり抱きつく。サキは抱き返してくれた。くすっと笑う声が、真上から降ってくる。
「おかえり」
「おはよう」
ちぐはぐな挨拶に、また笑う。
「何か作ってたの?」
「ロールキャベツ。チーズ入りのやつよ」
「おいしいやつだね」
「好き?」
「大好き」
私は手伝いを買って出た。二人で料理をする事に、そろそろ慣れつつある。
「はい、並べて」
「はーい」
いつもと違うキッチンから、いつもと違うテーブルへ。洒落た形のお皿を置くときも、少し緊張した。この部屋にも、このお皿にも、そのうち慣れていくのかな。
食事の時間は、実に色々な事を話した。サキの手紙にはしゃいだ事、三講目をサボった事、そして何より、カズキと再開した事。
「元彼?」
「そ。っても、実質友達かな。手も繋がなかったし」
「純情だったのね」
「んー、違う。何と言うか、お互いをそういう風に見てなかったんだよね、結局。だからこそ、また友達に戻れたんだと思う」
「なるほど」
サキは笑って、
「……でも、変ね。普通恋人の元彼って聞いたら、少しくらい動揺しそうなものなのに」
「ほんと。でもさ、私たちの場合キリなくない? 男の人に嫉妬すればいいのか、女の人に嫉妬すればいいのか」
「言われてみれば、そうね」
サキはまた笑った。
「それにしても、そのカズキさん? 一度、私も会ってみたいわ」
「いいね。今度、三人で会おっか」
そこで、はたと気付いた。そう言えば私、カズキにサキの事言ってない。新しい恋人が女の子だって知って、カズキは受け入れてくれるかな?
カズキを信用していない訳じゃない。だけどこういうのは、生理的なものもあるから簡単じゃない。
全ての人に、自分たちを受け入れろと言う訳じゃない。どのみち、百パーセントの人と分かり合えるはずはないんだから。それでも私の大事な人には、私の事をちゃんと理解してほしい。できたら受け入れてほしい。
それにどの道、逃げてばかりは性に合わないんだ。カズキは私にとって、とても大切な人だ。だからこそ、とことんぶつかってみよう。