休日
十時頃に散歩に出掛けた。洗濯したての服はまだ乾いていなかったので、私の服の中からサイズの合いそうなものをサキに貸した。
「アオイ」
「ん、どしたの?」
「似合うかしら。変じゃない?」
少し頬を赤らめてそわそわしているサキに、無言で親指を立てる。
オーバーサイズのパーカーに、ショートパンツ。髪は緩く編み込んで、キャップを被せてみた。いつもと違ってカジュアルな出で立ちの彼女にときめいたけれど、パンツのウエストが少し緩くてちょっと複雑な気分だ。身長、サキの方が高いのにな。
「おそろいだね」
そう言って、私は笑う。今日の私の服装は、パーカーにジーンズ。下ろしっぱなしの髪にキャップを被れば、一目で分かるおそろいコーデの完成だ。
「嬉しい」
そう言って、サキはにこっと笑った。紅潮した頬が美しい。私はサキの頭をぽんと撫でると、言った。
「さ、行こっか」
どちらからともなく、いつものカフェに向かう。穏やかな陽光が心地良い日だった。昨晩の雨の名残がまだ残っていて、アスファルトは黒く濡れていた。少し密度の濃い空気を吸い込めば、懐かしいような匂いが胸を満たす。
「んー、雨の匂い。私、この匂い好きだなあ」
「私もよ。だけど、一番好きなのはね……」
不意にキャップを奪われた。私が顔を上げるより早くサキは身体を屈め、私の髪に軽く口付ける。
離れ際に手の甲で頬を撫ぜ、そのまま私の手に指を絡めた。
「お日様の匂い?」
「ええ」
サキは目を細めて、優しく笑った。私はにっと笑い返し、繋がれた指先を握り返す。
「アオイ」
名前を呼ばれて振り向けば、彼女の顔がふいと近付く。
キスされる、と思った。
わ、こんな街中で、……思わず目を閉じれば、その瞼に唇が落とされる。ぽかんと目を見開いた私の頭に、さっき奪われたキャップが載せられた。
「今は、これだけ」
期待させちゃったかしら、といたずらっぽく笑う。
頬がかっと熱くなった。
「……もう、バカ。こんな所で何すんの」
「だってアオイが、キスしたそうな顔をしたから」
「してないよっ!」
「あら残念、わたしはしたかったわ」
からりと笑って、サキは足を速める。私は無言でその背中をバンバン叩いた。もう、なんなの。なんでそんな事照れずに言えるの。
恨みがましい目線を前方に送れば、サキの頬もまた赤く染まっていた。俯きがちに私の手を引く、彼女の手もまた熱っぽい。
なんだこの人、かわいいじゃん。自分で言って照れてるじゃん。
とはいえ私自身、真っ赤な顔のままだ。だからもう少しの間だけ、振り向かないで、サキ。
朝早くという事もあり、喫茶店は空いていた。いつもの窓際席に向かいながら、さりげなく繋いだ手をほどく。
この夜があまりにも幸せで、忘れかけていたのだ。私たち二人は、世間から見れば異質な組み合わせであるという事を。
席に着いて、コーヒーとアイスティーを注文する。運ばれてきたお冷やに口を付けながら、サキは言った。
「危ない所だったわね」
「ほんと。バレたら面倒だもん」
店内に人気は無いが、それだけに目立つ行動をすれば人目に付きやすい。もし万が一、知り合いに会いでもしたら中々厄介な事になる。
とはいえ。
「……ふふ、なんかいいね」
「どうしたの、アオイ?」
唐突ににやつき出した私を、サキが不審そうに見やる。
「いや、人目を忍ぶ恋って感じ。こういうの、ドキドキするよねー」
「……全く」
私の能天気な言葉に、サキは苦笑した。
思えば、この恋に悲愴感なんて最初から無かった。例えば今日のこの時みたいに、世間と自分たちとの間に多少のズレを感じたとしたって、それさえもきっと楽しめる。
そう。あなたとなら、ね。
コーヒーカップをくるりと回す。すると、サキもまた私を真似てグラスを回した。
「ふふ」
「へへ」
顔を見合わせ、気の抜けた笑いを漏らし合う。
カップをもう一度回して、コーヒーを一口飲んだ。ふわりと広がる芳香に目を細めれば、向かいから伸ばされた手に頬をつままれた。
「何すんの」
「別に。かわいいなーと思って」
「……意味分かんない」
「いいのよ」
サキの指先は私の頬を撫で、額に一旦上がってから耳を伝って顎に降りてくる。
しばらくぼんやりしてその行為を受け入れていた私は、突然ある事に気付いた。
頬に額。耳を伝って首筋、さらに顎の付け根。
……これは、サキが私にするキスの順番だ。
この次は両のまぶた。両目を閉じたら、最後は唇。
顔が熱い。顔を上げられない。
「どうしたの、アオイ」
私をいつも惑わせる、あの低い声でサキが言った。恐る恐る顔を上げると、笑顔のサキと目が合った。彼女はくすっと笑い、手元のアイスティーをごくっと飲んだ。
ごくり、と生唾を飲み込む。
汗をかいたグラスに、絡み付く白い指。あの指が、私のあちこちに触れたんだ。
昨夜、彼女は私のどこにキスした?
唇に軽く触れた後は、肩口を伝ってさらに下へ。頭のてっぺんからつま先まで全て口づけられ、私はようやく解放される。
「ねえアオイ、どうしたのー?」
いつもは決してしない、間延びした甘い喋り方。まとわりつくようにして耳朶を打たれ、背筋がぞくっと震えた。
だめだ。もう我慢できない。
「……サキ、店を出よう」
「……え、アオイ?」
困惑するアオイをそのままに、コーヒーを飲み干して席を立った。会計を済まして店を出る。慌てて後を追ってきたサキの手を引き、人気の無い路地に連れ込んだ。
「アオイ、どうしたの。もしかして怒ってる?」
当惑するサキの身体を壁に押し付け、荒々しく唇を奪った。
「っん、……」
「……」
やがて唇同士が離れると、サキは息を弾ませながら濡れた目で私を見た。
その目が好きだ、と私は思う。
上気した頬には、先ほどまでの余裕など残っていない。そこにあるのは豹変した私への驚愕や怯え、そして隠しきれない情欲のかけら。
ああ、かわいいなあ。
視線を合わせたまま、もう一度口づける。彼女の震えが密着した身体に伝わってくる。
愛おしくて仕方無い。
昨日も今日も、先に火を点けたのはサキの方だ。だからこそ今日は、絶対に優しくなんてしてあげないからね。
彼女の背中に手をやると、応えるように身体が軽く跳ねた。薄暗い路地裏に、太陽が照りつけていく。