展開
身体が動かない。言葉が凍り付く。世界から、音が消えていく。ただ一つ、彼女の声だけを残して。
「……ごめんなさい、アオイ」
震える声で、サキが言った。
「……どうして」
胸が溢れて、涙がぽろっと落ちた。
「初めてあの店であなたの姿を見た時、一目で惹かれた。それからずっと、あなたの事が好きだった」
「う、そ」
「これが嘘だったら、どんなに楽だったか。……なんてね。最初は自分でも信じられなかったわ」
彼女は自嘲的な笑みを浮かべた。
「あなたが倒れた時、心臓が潰れるかと思うくらい苦しかったわ。病院のベットに寝ているあなたを見て、キスしたい衝動と必死に闘った」
サキはとうに空になったグラスを持ち上げ、そっと片手で弄ぶ。それは元々、私の癖だった。いつの間にか彼女に移っていたらしい。
ああそうか、ヒントはそこら中にあったのか。
「今朝だって、バカみたいにいつものカフェに行って。アオイに会いたいと思った瞬間、本当に現れるんだもの。びっくりした」
……私だって、びっくりしたよ。
「今日一日、あなたが愛おしくて仕方無かった。かわいくはしゃいで、にこにこ笑って。ああ、本当に私はこの子が大好きなんだって、今更ながらに気付かされたわ」
真摯な想いをぶつけられて、知らず顔が赤らむ。こんな素敵な事があっていいの? 本当は全部、夢じゃないの?
「もう一度言う。アオイ、愛してるわ。この想いを伝えられた事に悔いは無い。だから大丈夫、安心してふってくれていいわ」
いつしか、サキの目は赤く潤む。押し殺した嗚咽が喉の奥で震えていた。
……え、ちょっと待って。ふられること前提?
それは無いでしょ。
「ねえ、サキ」
「……はい」
もはや完全にしゃくり上げながら、サキは顔を上げる。そんな彼女の涙に濡れた頬をつかんで、やや強引に口付けた。
「……え、」
今度は、サキが固まる番だった。
驚きのあまり、涙が止まっている。こぼれ落ちそうな目を大きく見開いて、サキは微動だにしなくなった。
「ああもう、どうして勝手に話して勝手に泣いちゃうの。私だって好きだっつーの」
「うそ」
「冗談で、こんな事すると思う?」
私はサキの顔をつかんだまま、今までの気持ちを洗いざらいぶちまけた。
私もまた、サキを一目見て好きになった事。そんな自分に戸惑いながら、彼女との交友を深めた事。
サキの嗚咽が、次第に大きくなっていく。気付けばいつしかその中に、私の泣き声も混じっていた。
「遠回りしてきたのね、私たち」
「本当に。……大好きだよ、サキ」
返事を待たず、私は彼女の唇に二度目のキスを落とす。私たちは幸せに咽びながら、うっとりと想いを確かめ合った。
緊張が解けてリミッターが外れたかのように、私たちはしたたか飲んで酔っ払った。日付が変わる少し前に店を出ると、外には雨が降っていた。
「降り出したわね」
「うん」
意味も無く声を潜めて言葉を交わす。このささやかな声を聞いていられるのは、一番近くにいる私だけだ。
「送って行くわ。アオイ一人じゃ心配」
「む、また子供扱いする」
「そうじゃないわ。あなたと、もっと一緒にいたいだけ」
「……分かった、よー」
サキのセリフは相変わらずまっすぐで、聞いているこっちが赤面してしまう。
来た時と同じように、手を繋いで一緒に帰った。違うのは繋ぎ方で、指をしっかりと絡めるようにして握り合う。せっかく繋いだこの手を、もう二度と離すものか。何があっても、この手を離さないでね。
「着いたよ」
雨の中歩いて、私の家に着いた時には二人ともずぶ濡れになっていた。
「上がってって。着替えた方がいいよ」
「そう? ありがとう」
鍵を開けて、サキを部屋に上げる。
「お邪魔します」
「こっちこっち。冷えたでしょ、シャワー浴びといて。この服、洗濯しとくね」
「どうもありがとう」
そう言って脱衣所に入ると、サキはいきなり服を脱ぎ始めた。
「うわあっ!」
「え、どうしたの」
サキはきょとんとした表情で私を見ている。私がうろたえる意味が、本気で理解できないらしい。
「待って脱がないで、ちょっと待って!」
「脱がないと、シャワーを浴びられないわ」
そう言ってサキは、再びシャツのボタンを外しにかかった。シャツの下に、黒いキャミソールが透けている。私はたまらず、脱衣所を飛び出した。
「もうバカ、待ってって!」
「バカとは何よ」
サキの不満げな声と共に、濡れた衣擦れの音が聞こえる。心臓が、乱れたペースで早鐘を打つ。
「もしかしてアオイ、照れてる?」
「だっ、て……サキは、恥ずかしくないの?」
「いえ、別に」
ああもう、また泣きそうだ。好きな人の裸なんて、緊張するに決まっている。
サキは、そうじゃないの?
「……聞き方、変えるわ。アオイは見たくないの? 私の身体」
「な、えっと」
「照れとか、恥ずかしさとか抜きにして。私なら、見たいわ。アオイの身体」
わたし、は……。いいや、私だって。
がらり、と、脱衣所の引き戸が開く。私は俯いて、何も言わず目を伏せる。
「アオイ」
飛び切り優しい声で、サキが私を呼ぶ。
この声はずるい。
胸が熱くなって、私は顔を上げた。潤んだ視界に、サキの白い身体が映った。
「アオイ、見て。もっとちゃんと、あなたに私を見てほしい」
「サキ」
涙が頬を伝う。今日はよく泣く日だ。サキは剥き出しの腕を伸ばして、私を抱き締めた。
「ごめんね、アオイ。泣かないで」
あやすように髪を撫でて、サキは私の額にマリア様みたいなキスを一つくれた。それだけでもう、息が詰まるくらい幸せだった。
「サキ、離して」
「アオイ?」
「見たいの。見せて、お願い」
「アオイ……」
サキがふっと微笑んだのが、気配で分かった。彼女はゆっくりと腕を解き、一歩下がる。
「見せるほど、大したものじゃないけれど」
「そんな事、無い」
人形のようにすらりと伸びた手足。均整の取れた身体付き。ミルク色の滑らかな肌。ああ、なんてきれいなんだろう!
「……アオイ、怒らないでね」
「サキ?」
不意に、サキは私のTシャツに手を掛けた。
どくん。心臓が揺れる。
「嫌なら、抵抗してね」
私の弱い、あの柔らかな声で低く囁かれる。
やっぱり、サキはずるい。
そんな声で言われて、抵抗できるわけ、ない。私はサキの肩にきゅっとしがみ付いて、緊張に耐えた。
サキがふっと笑う。
「それ、答えって事で良いのかしら」
サキは焦らすようにゆっくりと、私の服を脱がせていった。
「……サ、キ」
「しっ、黙ってて」
涙声の私を制する声は、あくまで低く甘い。
脱がすなら早く脱がせて、空いたその手で私を抱き締めてほしい。あなたが先に火を付けた渇望は、このままもう二度と収まりそうにないの。
結局、その晩私たちがシャワーを浴びる事は無かった。
私たちはまた、夢を見ずに眠った。その夜そのものが、まるで夢のようだった。
目が覚めた時、隣に好きな人がいる嬉しさを初めて知った。幸せすぎて怖いという感情を、生まれて初めて実感した。
「……アオイ」
「サキ。起きた?」
「ええ、おはよう」
「おはよ」
眠たげな顔をして、交わす言葉が愛おしい。
「シャワー、先に浴びちゃって」
「いいの?」
「もちろん」
「ありがとう。じゃあ、借りるわ」
サキはするりとベッドを出ると、私の額に軽く口付けてにこっと笑った。一糸纏わぬその姿はひどく無防備で、不思議といやらしさは感じられなかった。
浴室に向かうサキを見送ると、私もまたベッドを抜け出した。
脱ぎ捨てられた服を集め、サキの分も合わせて洗濯機に入れる。ケトルにお湯を沸かしながらトーストを焼き、スクランブルエッグを作る。沸騰したお湯でコーヒーとアイスティーを淹れたら、二人分の朝食の完成だ。
まるで計ったかのような完璧なタイミングで、サキはやってきた。私の部屋着を着た彼女が、無性に愛おしい。
「シャワーありがとう。わ、いい匂い」
「サキもいい匂いだよ。これ、そっちに運んでくれる?」
「ええ。テーブルでいいかしら」
「ありがと。さ、もう座っちゃって」
向かい合って席に付き、顔を見合わせて手を合わせる。
「いただきます」
「いただきます」
コーヒーを一口飲む。サキはフォークを手にし、スクランブルエッグを一口食べた。
「あ、おいしい」
「ほんと? やったね」
私はにっと笑った。
「今度、サキの料理も食べたいな」
「ええ、次は私の家に来て」
やがて朝食を食べ終えると、私たちはまた手を合わせてごちそうさまを言った。
皿洗いを申し出たサキに後片付けを任せて、私はシャワーを浴びに行った。
シャワーを終えてリビングに戻ると、ソファに腰掛けた彼女がぱっと振り向いた。
「あら、アオイ。髪を乾かさなくちゃ」
「えーっ、めんどくさいなあ」
するとサキは、私の髪を一筋すくって言った。
「駄目よ、ちゃんと乾かさなくちゃ。せっかくきれいな髪なんだから、傷んだらもったいないわよ」
「うー……」
「ほら、ドライヤーを持ってきて」
「はーい」
洗面所からドライヤーを持ってくると、サキは自分の足元を指さした。
「ここに座って。乾かしてあげる」
そう言って、足元のカーペットを指差した。
「わーい!」
サキに髪を触られるのは大好きだ。私は大喜びで、サキの元にすっ飛んでいった。
「サキサキ、早く! 早く!」
両方の掌でだんだんと床を叩く。
「はいはい」
サキは笑って、私の身体を引き寄せた。柔らかな感触を伴って、背中が彼女の膝に当たる。
ドライヤーの温風が、サキの優しい手と共に髪を撫でた。想像以上に心地良いその感覚に、私は目を閉じてにこーっと笑った。
「アオイ、かわいい。顔が溶けてるわ」
「だって、すっごく気持ちいいんだもん。私、これ大好き」
サキは微笑んで、
「私もアオイの髪、大好きよ。赤ちゃんみたいに柔らかいのよね。いい匂いがするし」
「それは今、シャワー浴びたから」
「違うの」
彼女は首を振って、
「私も今日は同じシャンプーなのに、アオイみたいな匂いにはならないわ。アオイはもっと温かい、お日様みたいな匂いがするの」
「そうなんだ」
自分でも気付かなかったけれど、言われてみればサキにもサキの匂いがある。
フローラルのような、シトラスのような。爽やかで涼やかな香りだ。
「んんーっ、…」
おもむろに私は、サキのお腹に顔を埋めた。
「なあに、どうしたの」
「この匂いは、私だけのもの!」
ぎゅっと抱きついて、サキの匂いを胸いっぱい吸い込む。サキはドライヤーを止めて脇に置き、私の背中に片腕を回した。空いた片腕で私の髪を撫でながら、優しい声で囁く。
「この匂いも、私だけのものよ。私の、小さなお日様なんだから」
カーテンの隙間からこぼれた陽光が、私たち二人を柔らかく包み込む。満ち足りた日曜日は、まだ始まったばかり。