動悸
家に着いてすぐ、シャワーを浴びたいと思った。サキのせいで火照った身体は汗ばんで、シャツを肌にまとわり付かせている。身体を冷やす前に、早く脱いでしまおう。
脱衣所でシャツとジーンズを脱ぎ捨て、替えの下着を用意する。
ぱさり。
脱いだ服のポケットから、何かが落ちる。
「ん?」
どう見ても見覚えの無いそれは、何やら折り畳んだ紙切れで。
「何だろう?」
開いて見てみると、そこには几帳面な字体でこうあった。
「生きてる? 家に着いたら電話して」
サキだ。……かっと身体が熱くなる。いつの間に、こんな物。
走り書きされた090から始まる番号を目に焼き付けながら、携帯電話を探しにリビングへ向かった。
半裸のままバッグを漁り、シルバーのスマートフォンをつかみ出す。色気も何もあったもんじゃない。仮にも好きな人に電話を掛けるってのに、これは女子としてどうだろう?
ま、いっか。
ロック画面を解除しようと、キーナンバーをタップする。指先が少し震えてうまくいかず、二回やり直した。
ようやくたどり着いたホーム画面で、電話のアプリを起動する。どこか聞き慣れない呼び出し音。誰かと携帯で電話するのなんて、考えてみれば久し振りだ。
ワンコールで、受話器を取る音。ちょっと待って、まだ心の準備が!
「……もしもし、アオイ?」
唐突に耳元に響いた声に、鼓動が高まる。
「遅かったじゃない。こっちから掛けようにも、私はあなたの番号を知らないし」
「しょうがないじゃん、気付かなかったんだもん。何もこっそり入れる事無いのに」
「あら、アオイ好きでしょ。ああいうサプライズみたいな事」
いやまあ、好きだけど。サプライズしすぎて心臓止まるかと思ったよ。
彼女は笑う。受話器越しに聞く彼女の声はいつもより大人びていて、少しくすぐったい。
「それはそうと、具合はどう?」
「悪くないけど、ちょっと疲れたなあ」
「早く休みなさい。汗だけは流しておくのよ」
「はいはい、ママ」
「馬鹿言ってないで……」
「はいはい。ってか今、まさに入ろうとしてた」
「あら、そうだったの」
「うん。おかげで今私、下着姿ですから」
「……」
「……」
「……え、マジ?」
「オフコース。えっ何、引いた?」
「ドン引きよ。服くらい着なさいよ」
「えー。だってさ、一秒でも早くサキと話したかったんだもん」
軽口の中に、本音を混ぜ込む。
「バカ」
彼女の声が、笑っていた。
「とにかく、早くお風呂に」
「入ります。じゃあね」
「あ、待って。あなたの番号も教えて」
電話口で、何やらごそごそ音がする。メモ用紙でも探しているのだろう。
「はいはい。じゃ、いくよ」
そらで覚えている十一桁の番号を、何度かに分けて唱える。サキはそれを復唱しながら、手元のメモにそれを書き留めた。ペンが走るさらさらという音が、かすかに聞こえてくる。
「はい、ありがとう」
「うん。じゃあ、またね」
「ええ、また明日」
いささか拍子抜けするほどにあっさりと、通話は途切れた。
「……はあ」
全身からどっと力が抜ける。そのまま床に座り込もうとして、自分の格好を思い出した。半裸で携帯電話を握り締めて嘆息する女子大生。恋する乙女としては落第点だ。
「とりあえず、シャワー浴びよう」
私はひとりごちて、再び浴室へ向かった。
熱めのシャワーをさっと浴びると、緊張にこわばっていた身体が一気にほぐれた。泡立てたシャンプーで髪を洗い、トリートメントを馴染ませながら手早く身体を洗う。最後に頭からシャワーを浴びると、私は浴室を出た。
髪を乾かすのも面倒で、部屋着に着替えるなりベッドに直行する。どさっとベッドに倒れ込むと、急激に眠気が押し寄せた。それまで自覚は無かったものの、私は相当疲れているらしい。
最近の寝不足も相まって、私はすぐ眠りに落ちた。
夢の一つも見ずにぐっすり眠り、気が付くと朝になっていた。
今日は土曜日、休日だ。さて、何をして過ごそう。
「……とりあえず、コーヒー飲みたいな」
時計を見ると、七時を回った所だった。少し早いけど、あのカフェなら開いている。ラフなTシャツに着替えて顔を洗い、財布と携帯を手に家を出た。
日差しの気持ちいい、夏の初めの朝だった。五月も半ばを過ぎて、匂やかな風に私は目を細める。
やがてカフェに着くと、私は空調の効いた店内を素早く見渡した。
いつもの席、空いてるかな、って……え?
「あら、おはよう」
「なんでいるんですか」
おかげで目が覚めました。
「何となく、朝早く目が覚めたものだから。それに、ここに来たらアオイに会える気がして」
「おう」
くそ、不覚にもときめいた。
「私が休日暇してるって、なんで分かったの。エスパー? 心読んだ?」
「バカ。病み上がりのあなたが、朝から予定を詰め込んでいるなんて誰も思わないわよ。かと言ってアオイは、一日中家でじっとしているタイプじゃないでしょう」
なるほど。
……それにしても、もう少しマシな格好をしてきたら良かった。
「……ねえ、アオイ」
「なーに?」
「せっかく朝早く会えたんだし、今日は私とデートしない?」
……はい?
「ちょうど買い物に行きたいと思ってたの。アオイと一緒なら、きっと楽しいわ」
うわマジで? どうしよう、すごく嬉しい。
「あ、でも私こんな服だった」
「別にいいじゃない。十分かわいいわよ」
「えー、ダサくない?」
「大丈夫。アオイがかわいいから」
なんですと!?
「……サキ、今日頭大丈夫?」
「失礼な」
「さっきから、やたら口説いてくるじゃん」
「あら、バレた? 正面切って口説いたら、付き合ってくれるのかしら」
「なっ……」
やられた。やっぱり、彼女の方が一枚上手である。
「ちょっと待っててね、これ飲んじゃうから」
「えー、本当に行くの?」
「もちろん」
彼女はちょっと笑って、言った。
「大丈夫よ、お姫様。完璧にエスコートしてみせるわ」
休日とあって人通りの多い商店街を、あてもなくぶらぶら歩く。気になった店には即座に飛び込んで、雑貨屋や服屋をたくさん冷やかした。
「ねえねえ、あのシャツ良くない?」
「アオイに似合いそうね。入って見てみましょうか」
どうしよう、すごく楽しい。
私たちは案外趣味が合っていて、特にサキはセンスが良かった。彼女が選んだ服は全て、完全に私の好みのものばかりだった。
「サキはさ、スカートとか履かないの?」
「似合わないもの」
「そんな事無いよ。ほら、これとかどうよ」
そう言って差し出したのは、タイトな黒のミニスカート。
「短いわね」
「このぐらいが良いんだよ。サキは脚きれいなんだからさ」
せっかくスタイル良いんだし、ね。私がこれ履くと、残念な感じになるんだもん。
「アオイこそどうなのよ。ワンピースとか着てほしいわ」
「やだよ、似合わないって」
「似合わなかったら勧めないわ。ちょっと待ってて」
そう言ってサキは、店の奥へと消えた。
やがて戻ってきたサキは、珍しく興奮していた。
「ほら見て、どうよこれ」
差し出されたそのワンピースを、受け取って広げてみる。
一目で気に入った。
淡いオレンジ色をした、膝丈の花柄ワンピース。袖口は同系色のレースでできており、胸元のリボンがアクセントになっていた。
「かわいいね」
「素敵でしょ。絶対、アオイに似合うわ」
「似合うかな」
「似合うわ。私が保証する」
彼女は大きく頷いた。
「……分かった。じゃあサキもそのスカート買ってよ。で、今度それ着て遊びに行こう」
「良いわね。その時はアオイもそれ着て来てね」
心が弾む。ごく自然に次の約束をしているのが嬉しかった。
会計を済ませて、店を出る。
「次、どこ行く?」
「少し疲れたわね。どこかでお茶にしない?」
「いいね」
近くの喫茶店に向かう道のりで、目に飛び込んできたのは映画のポスターだった。最近話題のラブコメディ。
「サキ」
「なあに?」
「私、映画見たい!」
「映画?」
私はポスターを指差して、言った。
「これ、前から気になってたんだよね」
「ラブコメね」
「うん。嫌い?」
「嫌いじゃないわ」
「じゃあ、行こうよ!」
目を輝かせてなおも訴える私に、彼女はふっと笑って頷いた。
映画館はやはり混んでいた。
「空席、あるかな」
「あったわ。ほらここ」
「あ、本当だ」
うまい具合に、真ん中の席が二つ空いていた。
チケットを買って、劇場に向かう。
「飲み物は?」
「アイスティー」
「私もそれにしよっと。はい、サキの分」
「ありがと」
「あ、待って。ポップコーン買いたい」
「はいはい」
「私、キャラメル味が良いな。サキもそれでいい?」
「ええ」
Lサイズを一つ買って、小走りにサキの後を追う。
「お待たせ。行こっか」
「ええ」
私たちは顔を見合わせ、にこっと笑った。
映画は面白かった。隣でサキがくすくす笑っている。
触れそうで触れない距離の肩先。微かに伝わる体温がもどかしい。暗闇の中でポップコーンに手を伸ばすと、ちょうど同じタイミングで伸ばしたサキの手に触れた。
「あ、ごめん」
小声で言って、さっと手を引こうとした。
その瞬間、サキの指先が私の手を包み込む。息を呑んでサキの顔を見ると、彼女は何食わぬ顔をして画面に見入っている。
……なんだ、またいつものおふざけか。
私は気にせず、再び画面に視線を戻す。映画はやっぱり面白かったけど、それからはあまり集中できなかった。
繋がれた手をあえてそのままに、映画館を出た。
「映画、面白かったね」
「ええ、予想外に良かったわ」
弾む会話とは裏腹に、二人とも手の事には触れない。
涼しい風が、半袖のTシャツから覗いた素肌を撫ぜる。もう日中はだいぶ暖かいけれど、夕方はやはり少し冷える。
「寒くない? 羽織って」
そう言って彼女はカーディガンを脱ぎ、私の肩に掛けてくれた。
「ありがと。サキは寒くないの?」
「大丈夫」
そしてサキはまた、手を繋ぎ直した。
「……」
「……」
奇妙な間が開く。これって、何か言った方が良いのかな?
「ふふ、百面相」
突然、サキが笑い出した。
「やっぱり、アオイは面白いわね。反応がかわいいわ」
「……もうっ、からかわないでよ」
良かった。やっぱり、ただのおふざけだったんだよね。
「ねえ、アオイ」
「んー?」
「これから飲みに行かない? 行きつけのバーが近くにあるんだけど」
「いいね」
一も二もなく、私は同意した。私だってまだ、彼女と一緒にいたい。
「決まりね。ほら、こっち」
サキはそう言って、私の手を引いて歩き出す。羽織ったカーディガンが揺れて、不意にふわりと彼女の香りに包まれた。
そのバーは、細い路地の片隅にあった。
地下へと続く階段を降りると、黒く重い木の扉が姿を現わす。
「隠れ家みたい。どきどきするね」
「こういう店は初めて?」
「うん。お酒自体、あんまり飲まないし」
「そう」
彼女は言いながら、扉を押し開ける。密度の濃い空気が、一気に流れ出した。奥の方で、サックスとピアノがジャズを奏でている。
「わ、すごく大人っぽい。っていうか私、浮いてない?」
「誰も見ちゃいないわ、大丈夫よ」
サキは窓際のテーブル席に座り、バーデンダーに声を掛けた。
「私はいつもの。彼女には、何か飲みやすいものを」
何と言うか、すごく慣れている感じだ。
程なくして運ばれてきたグラスを手に取って、かちっとぶつけ合う。
「乾杯」
「乾杯」
半ば恐る恐る、口を付けてみた。甘い果実の味がふわっと広がる。
「あ、おいしい」
「でしょ?」
彼女は満足そうに言った。
「あ、アオイ赤くなってる。もう酔った?」
「うーん、あんまり強くないんだよね」
「かわいい」
サキはにーっと笑った。あなたの方がかわいいです。
……何て言うか、サキも酔ってるのかな? いや、今日は元々変だったなあ。
「……あ、この曲」
ふと、サキの視線が宙に浮く。
それは流行歌のメドレーで、少し前までテレビでよく耳にしたものばかりだった。
「……ねえ、サキ。ちょっとおかしな事言っても良い?」
サキはこちらを向いて、くすっと笑った。
「そういうの、大好きよ」
私は手元のグラスをぐっと飲み干して、言った。
「サキ、愛してる!」
けらけら笑って、酔っ払いの戯言を必死に装う。お願い、この気持ちに気付かないで。これは私の、酔いに任せた自己満足だ。
サキは笑顔を浮かべたまま、グラスの中身を一口飲んだ。
「ねえ、もっとおかしな事言っても良い?」
私は頷いた。
ふわり。
彼女の顔が、テーブル越しに近付く。
「……え、」
唇をかすめる、強い酒の味。酔いそうな香気にくらりとして初めて、私はサキにキスされた事を知った。
彼女は寂しげに微笑んで言った。
「私も愛してるわ、アオイ」