弱点
「アオイ」
私を呼ぶ声に振り向くと、彼女がいた。はやる心を抑え、平静を装った返事をする。
「なんだ、サキか」
「ご挨拶ね。なんだはないでしょ」
彼女はわざとらしく顔をしかめて見せながら、私の正面に腰を下ろす。
「はいはい、本日もお綺麗で」
「それはどうも」
彼女はちょっと頭を下げて笑って見せた。初めて声を掛けられてから一週間。私たちは毎日のようにこうして向かい合って座り、いつしか軽口をも叩き合うようになった。
それでもやはり、慣れないものがある。
「……アオイ、何飲んでるの?」
不意に彼女が顔を寄せてきて、心臓が止まりそうになる。声が震えないよう注意して、慎重に答えた。
「ブレンド」
「ブラックで?」
「そう」
「アオイ、いつもそれよね。もうすぐ六月だけど、アイスコーヒーは飲まないの?」
気付いてたのか。案外細かい所まで見られている事を知って、意味も無く頬が赤らむ。
「……うん。いつも長居するから、冷房で冷えちゃうんだよね」
「ああ、なるほど」
「サキは、アイスティーが好きだよね」
「ええ」
彼女はふっと笑って、私の髪に手を伸ばす。優しい指先にすっと撫ぜられて、心臓が思い切り跳ね上がる。あまりの事に、うわあっと叫び出すのをすんでの所でこらえた。
「なっ、何すんの!」
「アオイって、髪きれいよね。ちょっと猫っ毛で、柔らかくって。この茶髪、生まれつきでしょ?」
アイスティーに少し似てるわねと、彼女は言った。
指先は私の髪を軽く梳いてから、一房持ち上げる。光に透かして覗き込む顔をさり気なく避けて、私は言った。
「サキの方が、きれいだよ」
「そんな事無いわ。私のは真っ直ぐなだけだわ」
髪の毛だけじゃないよ。そう言おうとして、慌てて言葉を飲み込む。どういう事か聞かれて、上手く答える自信が無い。
だって、ほら。西日に染まる白い頬も、繊細な睫毛も、すらりと美しい指先も。彼女の全てが、私を惹きつけてやまない。
「変な子」
くすっと笑って、今度は頬に触れる。触られた所が徐々に熱くなる。指先は輪郭をなぞって、耳元をかすめる。たまらず身体を引いた。とてもじゃないけど、心臓がもちそうにない。恨みを込めた視線を送ると、彼女はにこにこと笑った。
う、こいつ楽しんでる……。
「もう、なんなの!」
「アオイは面白いわね。からかい甲斐がある」
「ほんとにやめてよ……」
人の気も知らないで。思わず肩の力が抜ける。いや、知られても困るんだけど。
「アオイといると、なんだか落ち着くわ。今までの友達にはいなかったタイプね」
その言葉を聞いて、胸が淡く痛む。分かってはいても、少し切ない。彼女の中で、私は友達以上の何物でもないのだ。
ごめんね、サキ。私はどうしても、あなたを友達と思えない。友達じゃ満足できないの。そのくせそれを打ち明ける勇気も無い私を、どうか許して。せめてもう少しの間だけでも、あなたのそばにいたいから。
次の日の朝、私は必死に眠気と闘いながら一限目の講義を受けていた。
昨日の夜は、中々寝付けなかった。彼女に触れられた顔がいつまでも熱を帯び、目を閉じる度にあの微笑が脳裏をよぎった。ようやく眠りについても、見るのは彼女の夢ばかり。結局私はよく眠れず、浅い眠りを繰り返していた。
かくん、と頭が前に傾く。
髪が乱れて耳に掛かる。彼女がアイスティーに似ていると言った、私の髪が。
たったそれだけの事でも昨日の事が思い出されて、私はぱっと飛び起きた。前の席の人が怪訝な顔をして振り向いた。
……重症だ。自分でも、どうかしてると思う。
彼女に会いたい。彼女に触れたい。彼女と話しながら、いつものようにコーヒーを飲みたい。
彼女の事を、もっと知りたい。考えてみれば、私はまだ彼女の連絡先すら知らないのだ。知っているのは名前と、飲み物の好みだけ。
一度気持を自覚したら落ちるのは急速で、この想いはもはや抑え切れないほどに大きくなっていた。
午後になると私はまた、いつものようにカフェへと向かう。
じんわりと暑苦しい日だった。薄手のブラウスが汗で背中に張り付いて気持ち悪い。一歩歩くごとに息が切れ、胃がキリッと痛んだ。寝不足も手伝ってか、頭がぼうっとする。早く店に着けばいい。冷房の効いた窓際席に座れば、少しはましになるだろう。
半ば足を引きずるようにして、ようやく店にたどり着く。いつもの席に彼女はもういて、私の姿を一目見るなり顔色を変えた。
「どうしたの。ひどい顔してるわ」
「いつもです」
「バカ言わないで。とにかく座りなさい」
冗談めかして笑って見せても、あっさり流される。素直に従って腰を下ろすと、テーブル越しに彼女の手が伸びてくる。
「うわ、サキの手冷たい」
「あなたが熱いのよ。凄い熱よ、自覚無いの?」
「マジで? サキがきれいすぎて、ドキドキしすぎちゃった感じ?」
「バカ」
割とマジなんですが。
「とにかく、もう黙ってて。家まで送るから、今日はもう帰りなさい」
「え、やだよ」
せっかく、彼女に会いたい一心でここに来たのに。縋るように視線をやるが、彼女は厳しい顔をしてそれを撥ねつけた。
「ダメ。異論は認めないわ」
「でも……」
うなだれた私に、彼女は少し口調を和らげて言う。
「コーヒーはいつでも飲めるし、私たちだっていつでも会えるでしょ?」
「…うん」
「ここで待ってて。タクシーを捕まえてくるわ」
私の頭をポンと撫でて、彼女は席を立った。少し足早に去っていく後ろ姿がきれいだった。
緊張の糸がふいと切れて、私は意識を失った。
あれ、ここどこ?
見慣れない天井に混乱する。確か私、あの店で寝ちゃって……そうだ、サキはどこ?
身体を起こそうとしたがうまくいかず、固いベッドがぎしっと軋む。腕に繋がった点滴の管に気付く。ああなるほど、ここ病院だ。
物音を聞きつけて、サキがすっとんできた。
「アオイっ!」
「……サキ」
「ああよかった、心配したのよ。私が戻ったら、いきなり倒れてるんだもの」
「大げさな。ちょっと寝ちゃっただけなのに」
すると彼女は、眉間にぐっとしわを寄せた。顔立ちの整った人がそれをすると、結構恐ろしいものがある。
「……美人が台無し」
「うるさい。あなた、この期に及んで何寝ぼけた事言ってるの」
寝ぼけたって、ひど……。いや待て、一理あるな。何たって私、寝起きだし。
「胃炎、寝不足、栄養失調、熱中症。これだけ揃う事なんてあるのかって、医師も呆れてたわ」
……ごめんそれ、全部サキのせい。恋の病って言うには、いささか情けないけれど。
私が何も言わずにいると、サキは声のトーンを少し落とした。
「ねえ、アオイ。あなたが倒れたのって、もしかして私のせいなの?」
「えっ」
どきっとした。
「あなた、一週間くらいまともに食べていないそうじゃない。一週間と言ったら、ちょうど私があなたに声を掛けた頃だわ」
「……あ」
そうだった。
彼女に声を掛けられてからというもの、胸がいっぱいで食べ物がろくに喉を通らなかった。胃が空の状態で、コーヒーばかり飲んで。そりゃ体調も崩すよね。
「……私の存在が、あなたにストレスを掛けていたのかしら」
淡々と続けようとした言葉の、語尾が震えていた。
瞬間、私は半身を起こしてサキを抱きしめていた。起き上がった拍子にまた少し胃が痛んだが、構うものか。
「……アオイ?」
「サキ、……」
サキがストレス? そんな事あるわけない。あなたがそんなにも自分を責める必要が、一体どこにあるっていうの。言いたい言葉は無数にあるけどどれも声にならず、私はわっと泣き出してしまった。
「サキ、ごめんね。大丈夫、大丈夫だから」
「……アオイ、泣いているの?」
そう言って私の顔を覗き込む。彼女の目元も、心なしか赤い。
「あのね、サキ」
「はい」
「もしも私の身に何が起きたとしても、それがサキのせいだなんて事は絶対に無いからね」
「……うん」
「だから、悪くもないのに自分を責めないで。ずっとそばにいて」
私は、サキの事が大好きだから。
「……うん、ありがとう」
もはやはっきりと涙に濡れた瞳は、いつも以上に美しかった。だけどもう、二度と見たくない。
他の何より圧倒的に美しい彼女の笑顔を守るため、私はもう二度とサキを泣かせたりしないと誓った。確実なものなんて何一つとして無いけれど、今こうして彼女を思う気持ちだけは本当だと言えるから。
「……じゃあ、アオイ。私からも一つ」
「何?」
「お願いだから、何かあったら私に相談して。何でも一人で抱え込まないで」
「……うん」
「こんな私じゃ、頼りないかも知れないけど……」
「そんな事無いよ、ありがとう」
にこっと笑う顔と裏腹に、胸がちくっと痛む。心臓に異常は無いはずなのに、おかしいな。
ごめんね、サキ。
私には、あなたにだけは言えない秘密があるの。
ごめんね。
私があなたに抱いている感情は、あなたのそれとは少し違うの。
病院を出て、徒歩で帰途に着く。大通りを抜けて住宅街に差し掛かると、おもむろにサキが言った。
「それにしても、いきなり泣き出すなんてね」
「うるさいな。サキだって泣いてたじゃん」
「目の前で友達が倒れてたら、そりゃあ泣きたくもなるわ」
……友達、ね。
「私だって仕方無いよ。体調悪くて心弱ってただけだもん」
「どうだか」
彼女は笑って、私の頬をきゅっとこすった。不意に近付いた顔に、不覚にもどきっとした。
「涙の痕、まだ残ってる。子供みたいね」
「サキだって」
お返しとばかりに、私もサキの頬を軽く撫でる。滑らかな肌が心地良い。額に掛かる髪をかき上げて耳に掛けると、彼女は微かに身体を震わせた。
「ん、……」
……お?
これはもしかして。
「サキ、耳弱いの?」
「いえ、別に?」
言葉とは裏腹に、彼女の目元が明らかに泳ぐ。心なしか、少し速足になったようだ。
わっかりやすっ。
「ふーん……」
息を殺して背後から近付き、ふっと耳元に息を吹き掛けた。
「っ!」
声にならない声を上げて、彼女が思い切り飛びのいた。
「何するのよ!」
顔が真っ赤だ。声が裏返っている。
「え、どうしたの。別に耳弱くないんでしょ?」
「……覚えてなさい」
きつい目付きで私を睨むけれど、全然怖くない。むしろかわいいとすら思えてしまう。普段クールなサキの、意外な一面が知れた。
「おお、こわい!」
私はおどけて笑って見せる。
その瞬間、サキの指先がさっと耳元をかすめた。
「ひゃっ!」
知らず、身体がこわばる。いつの間にか、背後から抱きすくめられていた。
……あれ、この体勢ってまずいんじゃ?
「————知ってるんだから。アオイだって耳、弱いでしょ?」
至近距離から首筋を這う吐息に、全身が総毛立つ。
「ちょ……サキ」
いきなり街中で何すんの!
「ねえ、弱いでしょ?」
彼女は笑っている。不規則に揺れる吐息に頭の芯が痺れた。
「許して、お願い」
「だめ」
そう言って彼女はまた笑った。
「もうしないって誓う?」
「……」
「ねえ?」
彼女は声色を変えて囁いた。思い切り低い声にぞくぞくとする。もう限界だ。
「誓う、誓います。だからお願い……」
「……ま、良いわ。今回の所は、これで許してあげる」
そう言って、サキは私を抱く腕を緩めた。身体をよじって逃れると、彼女はしらっとした顔をして言った。
「それじゃ、帰りましょうか」
再び歩き出した彼女は何事も無かったかのように、いつもの涼しげな顔付きに戻っていた。悔しいけれど、完敗だ。
やっぱり私は、彼女に勝てそうにない。