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プロローグ

三限の講義をサボって、ふらりと街に出た。その日は季節外れに涼しく、街行く人はみな浮き足立っていた。六月の爽やかな風を受けて、僕はまた一歩踏み出す。

その時。

「おーい、カズキっ!」

道路越しの声に振り向いて、はっと息を呑む。

「アオイ…」

そこにいたのは、半年前に別れた前の恋人。にこやかに手を振りながら、道路を横切ってこちらへ駆けてくる。

危ない、そんな所を通っちゃあ……だが彼女は、まばらな車の間を巧みに縫って走り抜けた。以前と全く変わらない様子の彼女に、つい微笑が漏れた。そのうち事故って死ぬぞ、と軽口を叩いたのがつい昨日の事のようだ。

だが考えてみれば、何かが変わるほどの時が流れていない事に気付く。半年という月日は、長いようで案外短い。


喫茶店の窓際に座ると、二人はしばらく声も無く、熱いコーヒーをすすっていた。

大人ぶった二人のデートはいつもそこ、よくこうやって何も言わずブラックばかりを飲んでいた。どんなに暑い夏の盛りでも、アイスコーヒーや他の物は頼まなかった。香りの良い湯気の向こうに火照った顔を見合わせては得意がっていた。

下手くそな化粧を笑って、拗ねられた記憶。同じ物しか飲んでいないのに、割り勘という響きにこだわった二人。甘酸っぱくて恥ずかしい、思春期の思い出。

そう言えばこいつ、化粧うまくなったなあ。

「最近、どう?」

先に口を開いたのは、彼女の方だった。

「悪くないよ。そっちの方は?」

すると彼女は微笑んで、カップを持ち上げた。口には運ばず、右手の中でくるくる回す。

「こっちもまあまあかな」

そうして彼女は、注意深くコーヒーを一口飲んだ。彼女は猫舌なのだ。

飲んでから、カップをもう一度回す癖。最後に会った日にも同じようにしていた事を思い出し、奇妙な懐かしさを覚えた。

「ねえ」

「ん」

「煙草、やめたんだ」

「誰かさんが、身体に悪いって言うから」

「よく言うよ。高校から吸ってたくせに」

そう言って彼女は一度言葉を切ったが、すぐにまた堪え切れなくなったかのように笑い出す。

「なんか、変なの」

「何が」

「変わらないよね、私たち」

「気まずくもないしな」

「で、ここからやり直そうって流れにもならないんだよね」

「そこが笑えるよな」

僕らは声を合わせて笑った。

そこから二人はまた黙り込み、ぬるくなりかけたコーヒーを飲む。あの頃息を止めて飲み干したコーヒーは、何でだか以前ほど苦く感じられない。自分の分を飲み終わると、彼女はまた口を開いた。

「でもさ、良い恋したよね」

「ああ、良い出会いだったよ」

もしも、「良い思い出」にできるほどの時間が経っていなかったら、こうも清々しく再開はできなかっただろう。

そして、アオイはひらりと立ち上がる。ふわりと揺れた彼女の髪は、半年前より少し短かった。

「おい、会計…」

「何言ってんの、ここは男が払うもんでしょ」

そう言って白い歯を見せるなり、彼女は行ってしまった。一度も振り返る事無く雑踏の中に駆けていく彼女の背中が見えなくなると、僕は苦笑してコーヒーを口に運ぶ。冷め切ったブラックコーヒーは記憶の中に爽やかな苦みを残し、消えていった。

もう一口飲もうとしてふと手を止め、僕はテーブルの隅のミルクに手を伸ばす。


その日を境に、僕たちの交流は復活した。しばらく送り合っていなかったメッセージを交換し、飾りのない会話を楽しむ。

「昨日、ケンジがのろけてきてさ」

「何あいつ、まだマコと付き合ってんの?」

「んな訳無いじゃん。今はユリ」

僕とアオイが付き合っていたのは、高校二年から大学一回生までの二年間。共に過ごした年月の分、共通の知り合いも多い。

「あいつの彼女って、大体三ヶ月スパンだもんな」

「そうそう。もって四ヶ月」

「最短で三日だっけ」

僕はくすっと笑った。

「何であんなやつがモテるんだよ」

「顔でしょ。じゃなきゃもっと長続きするってt」

「言えてる。あとお前、誤字ってるぞ」

どうやら、向こうも笑っているらしい。相変わらず分かりやすいヤツ。

「そう言えば、アオイはどうなの」

「何が」

「彼氏とか、できた?」

……即座に付いた既読とは裏腹に、まるで何かを思案するかのような間が空いた。合間に何気無く窓を見ると、いつの間にか雨が降り出していた。意識し出すと妙なもので、それまで気にも留めていなかった雨の音が唐突に僕を包み込む。

「その事、なんだけど」

やがて再び、彼女のメッセージが画面上に表示される。

おやっと思った。

「カズキには、言っておきたくて」

「?」

「実は今、付き合ってる人がいるんだ」

「おー」

「それでね、今度一緒に会ってほしいんだけど」

僕は思わず首をひねった。それはまた、何だって。

「別に良いけど。何でまた」

またもや、微妙な間が空く。降る雨は勢いを増し、その中に一人取り残されたような錯覚に陥る。

「詳しい事は、会った時でいい?」

「了解。いつにする?」

「早い方がいいな。明日はどう?」

「OK。じゃあいつものカフェで六時半」

「決まりだね」

アオイのその言葉を最後に、二人のメッセージは途絶えた。


時はしばらく遡る。これは二人が再会する、ほんの少し前の話。


初めて彼女を見掛けたのは、喫茶店の窓際席。五月の眩しい日差しの中、颯爽と歩く姿を一目見て惹かれた。それからも何度か、彼女を見掛けた。彼女はいつも長い黒髪をなびかせて一人歩いていた。

気が付けば目で追い掛けていて、いつしか彼女が通り掛かるのを待つようになっていた。いつもの席で同じコーヒーを飲みながら。


コーヒーカップをくるりと回すと、熱い湯気がぼうと上った。

猫舌の私はいつも、淹れたてのカップを持て余す。冷めるまでの手慰みがすっかり癖になるほどには、この店に通い詰めた。落ち着いた雰囲気が感じの良い、小洒落たカフェ。コーヒーの味も抜群な、私ともう一人のお気に入り。

コーヒーは、まだ冷めない。カップをもう一度回そうとして、ふと手を止める。

「来た」

その日彼女は、淡いブルーのカーディガンを着ていた。黒髪で色の白い彼女によく似合っている。オフホワイトのジーンズに包まれた長い脚に、知らず視線が吸い寄せられる。二つ外されたブラウスのボタン。覗く素肌につい目が行き、慌てて目を逸らしながら、一人で赤面する。

「…はあ」

本当に、きれいな人だ。

歩く度に揺れる長い髪も、頬に影を落とす濃い睫毛も、すらりと長い手足も。ガラス越しに見る彼女の全てが、どれも私を強く惹き付けてやまない。

それなのに私はまだ、この感情の名前を知らずにいた。親しみより純度が高く、憧れより熱っぽい。

まさか、……いいや、ありえない。だって相手は女の人じゃないか。でもだとしたら、この気持ちは何だろう?

彼女の姿を見る度に淡く揺れる心臓は。落ち着き無く彼女を待つ時間の楽しさは。

「……はあ」

答えを見いだせないままに、私はまたため息をついた。

「どうしたの?」

「ひゃあっ!!」

急に耳元で囁かれ、思わず身体が跳ねた。振り返った私の視界に映る、淡いブルーのカーディガン。

え?

「……え、」

「どうも、こんにちは」

急な事態に固まる私を置いて、にこやかに会釈する美しい人。紛れも無いその姿はどう見ても、私がいつも見つめ続けた彼女だ。

呼吸が止まる。全身の血が、ざあっと逆流する。言葉が出ない。息が、できない。

「……えっと、あの」

「いつもここに座ってる人よね。毎日同じ席にいるから、前から気になってたの。向かい、いい?」

これは現実? それとも夢なの。

これが夢なら、早く覚めてほしい。私の胸が、幸せのあまり潰れてしまう前に。


少し冷めたコーヒーの湯気が、二人の間に立ち上った。心臓がばくばくと踊り狂っている。耳が熱い。顔が、上げられない。

「……ねえ、」

「は、はいっ!」

「ごめんなさい」

「え?」

出し抜けに謝られてつい顔を上げると、彼女はふっと笑って言った。

「やっと、目を合わせてくれた」

「う、すみません」

「どうして謝るの」

そう言って、また笑う。ああ、なんて綺麗な笑顔だろう!

瞬きする度に、長い睫毛が緩やかに震える。それはまるで、二匹の黒い蝶が羽ばたいているかのようだった。形の良い口元がアーチを描いて、白い歯が覗く。

とくとくとくとく。しつこく脈を打つ心臓。胸がいっぱいになって、知らず目が潤んだ。彼女が困惑したように目を見開く。

「どうしたの。ごめんなさい、泣くほど嫌だったの?」

先ほどまでと打って変わっておろおろしながら、彼女は 私の顔を覗き込んだ。違う。嫌なんて事、あるものか。私は必死に首を振った。

「違うんです。何か、いっぱいいっぱいになっちゃって」

「どうして?」

「……私も」

「え?」

「私も、ずっと気になってたんです。あなたの事」

彼女の表情から翳りが消え、ぱっと笑顔になる。

「本当に?」

「ええ」

「嬉しいわ。両思いってわけね、私たち」

その言葉に大した意味がないと分かっていても、どきっと心臓が跳ねる。

この瞬間、私ははっきり自分の気持ちを自覚した。決して叶いっこない想い。自覚した瞬間それは切なくて、あまりにも悲しすぎた。

「どうして泣くの、ほら拭いて。変ね、私たち。まだお互い名前も知らないのに」

そう言って差し出されたハンカチの白さが眩しい。気持ちを落ち着かせようとして、コーヒーを一口飲む。冷めすぎたそれは心なしかいつもより苦くて、舌が痺れそうだ。

「……アオイ」

「え?」

彼女はちょっと驚いたように、澄んだ目を見開く。つやのある黒い瞳の中に、情けなくうつむいた私が映っている。

「アオイ、です。私の名前」

「ああ。良い名前ね」

彼女は微笑して、軽く頷いた。

「私は、サキ。……涙、止まったわね」

そう言って彼女は微笑み、私の目元をハンカチで押さえた。優しい指先の感触。たったそれだけで、私の胸は甘く軋んだ。

解読済みの感情に、名前をくれてやる。誰が何と言おうと、これはきっと恋というやつだ。気付きたくなんてなかった。でもこれ以上、私は自分に嘘をつけない。

このひとのことが、すきだ。これが恋だと言わないのなら、言葉など無くなってしまえ。


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