事の終わり
真っ白な草原に、深々と雪が降り積もる。
生き物はいない。植物も生えない。ただ、精霊が遊ぶだけ。
そこには、ほんの一ヶ月前まで国があった。
雪に喘ぐ貧しい国であったが、一時だけ、温かな太陽と恵みの雨、そして繁栄を得ることに成功する。
時間にして十年。
その後、国は元の厳しい寒さに包まれたが繁栄に慣れきっていた人々はかつての暮らしに耐えきれず。
国民は去り、国は国としての体裁を失った。
残ったのは雪の精霊が自由に舞う、見事なまでの雪野原。国も、祈る神子も消え去ったその場所で、雪が降り止むことは決してない。
やがて時は流れ、積もる雪が山となった頃、そこに纏わる一つの物語が出来上がった。
『二人の神子』
それは、虚実織り交ぜて語られる、楽園と呼ばれた国が滅ぶまでの物語。
◇◇◇
『昔々、楽園のような国がありました。優しい王様と優しい神子様がいて、人々は幸せに暮らしていました。ところがそこへ、もう一人別の神子様が現れたのです。別の神子様は楽園が欲しくて堪りません。「もっと幸せにしてあげる」と人々を誑かし、優しい神子様を国から追い出してしまいました。途端、国は雪に包まれて、楽園はこの世から消え去ってしまいましたとさ』
「ねえ、母さん」
「なあに、坊や?」
「楽園のような国って、どんな国だったの?」
もぞもぞと毛布の下で身じろぎながら、少年は物語の詳細を母親に強請った。
今日の寝物語は、知らぬ者はいない程有名な『二人の神子』。
実際にあった話だと言うが、亡き曾御婆ちゃんの時代の事など、少年にとってはもはやお伽噺だ。
ベッドサイドに腰かけている母親は、そんな少年に微笑みながら柔らかな調子で言葉を綴る。
「そうねえ。晴れも雨も思いのままになって、畑も森の恵みも豊かな、素晴らしい国だったそうよ」
「なのに、なくなっちゃったの?」
「そう。別の神子様が、優しい神子様を追い出したから」
「その国の王様や、別の神子様、国の人はどうなったの?」
「王様と神子様は、そのまま城に留まり国に殉じたそうよ。国民は国を捨て離散したと聞くけれど、無事に抜けられたのは少数だと言われているわ」
「じゅ、んじ?」
「ああ、ごめんなさい、難しかったわね。王様と神子様は、そのまま国と一緒に雪に沈んでしまったの」
息子の髪を撫でながら、母親が言い直す。
すると少年の目にウルウルと涙の幕が張った。
「し、死んじゃった、の?」
「ええ」
「国の人も、たくさん?」
「きっと、ね」
「か、可哀そ、可哀想だよぉ」
何度も可哀想を繰り返す少年。母親は慌てて少年を胸に抱きしめる。
「優しい神子様は?国からいなくなった神子様は助けてくれなかったの?」
「神子様がどこへ行ってしまったのかは、誰も知らないの。とある町の酒場に立ち寄ったという話もあるけれど、それ以外はわからないわ」
グスグスと鼻を啜る音。
衝動は収まったようだが、少年はまだ涙声だ。
「………ごめんなさいをしても、神子様は戻ってくれなかったの?」
「………そうよ。母さんもね、御婆ちゃんからこのお話を聞いた時、とっても悲しいお話だと思ったわ。けれど、とても大切なお話だとも思う」
そう言って母親が指差したのは窓の外。
つられて少年が視線を向けると、夜の闇の中、月を反射して光る白いものが遠目に見えた。
「あの山は、今はもう、この世界で一番高い山よ。元々が雪を好む精霊様の縄張りだもの。人が住まなくなった今、雪は精霊様の好きなだけ積もる。きっと、これからもどんどん高くなるわ」
「どんどん、高く」
母親の言葉を繰り返し、少年は雪山をじっと見つめる。
かつて国があったという場所。そこに立つ、世界一大きな山。
(………まるで、お墓みたいだ)
一瞬過った考えに、ぶるりと、寒さのせいだけでなく体が震えた。
その様子に気付いた母親は、少年を優しくベッドへ寝かせ静かに髪を梳く。
「怖くなってしまった?母さんも、子どもの頃は怖かった。けど、今はね、あの山を見る度思うの。決して、恩を忘れぬ人になろうって」
―――もう、お眠りなさい。
優しい声に誘われ、少年はそのまま夢路を辿る。
子どもを寝かしつけた母親は、その寝顔を眺めながら小さく呟いた。
「ねえ、坊や。このお話はね、本当はもっともっと怖いの。もう、ほんの一握りの人しか知らないけれど」
昔々、自分に『二人の神子』を語ってくれた祖母。
一般に語られるそれとは少々筋の違う話を、深い悔恨と僅かな憎しみを込めて話してくれた彼女は雪山の下に沈んだ国の生き残りだった。
「……………私たちは、私は、決して同じ轍は踏まない。踏まないわ、御婆ちゃん」
それは、国が滅んで百年後。どこかの町での小さな出来事。