ある少女の思考
顎をくすぐる紅茶の湯気に、ふんわりと甘い香りのパンケーキ。
蜂蜜をたっぷりかけてからナイフを入れて、少し大きめの欠片を口に運ぶ。
「うん、美味しい」
「そりゃあよかった」
率直な感想を述べれば、カウンター向かいの髭も豊かな老齢の店主が嬉しそうに笑った。
「お嬢ちゃんみたいにおいしそうに食べてくれると、こっちも作りがいがあるってもんだよ」
ニコニコと人の良い笑み。
お店に客が疎らだったこともあり、私と店主はそれを切っ掛けに世間話に花を咲かせた。
ポツポツと窓を叩く雨音を音楽がわりに過ごす長閑な時間。
暫く話を続け適当な話題が尽きた頃、店主がちらりと私の鞄に視線を向ける。
「………ところでお嬢ちゃん、買い物、というにはちと大げさな荷物だが、一体この町には何の用事で?」
私が隣の席に置いているのは、ちょっとした用事で持ち歩くには大げさな、しかし旅行には物足りないという中途半端な大きさの鞄だ。
特に隠す理由もないので、私は鞄を持ち上げ軽く笑う。
「いえ、特に用事は。もう要らない、と言われたから、国を出てきたんです」
「要らないって………。彼氏に振られたかい?それとも、仕事を首に?あ、いや、深くは聞かないが、………大変、だったねぇ」
私の返答に店主は驚き、思わず、といった調子で質問を口にした後慌てて手を振り、最後に心底気遣わしげに言葉を付け足した。
私はそれに苦笑してみせる。
「そんなに大事じゃないですよ。助けてって言われたから助けて、要らないと言われたから出てきた。それだけの事ですから」
「そう、なのかい?」
いまいち腑に落ちないといった顔の店主。
私は唸る彼の前で紅茶を一口啜った。あ、紅茶も美味しい。
その後、何処から来たのかと聞かれたので十年過ごした国の名を告げたのだが、店主は何故か途端に顔を蒼くし、私の肩を揺さぶった。
「お嬢ちゃん、お嬢ちゃん。それが本当なら、あんたはとても運がいいよ。あんたは大変な思いをしたけれど、あの国に留まっていたよりはずっと幸せだ」
肩を掴んでの物凄い力説。
どういうことかと問えば、旅の者から聞いた話だが、と彼は声を潜めて語り出す。
「なんでもあの国は、今崩壊寸前らしい。遠目からもわかる程に雪に埋もれ、とても人の住める、いや、生き物が生存できるような場じゃないと。他国の事なんざぁ旅人伝いに聞く程度だし紛いの情報も多いもんだが、何人も同じことを言ってるからな。これは、本当なんだろうよ。お嬢ちゃんは知ってたかい?」
それは初耳だったので、フルフルと素直に首を振る。
「まあ、こういう情報はまず旅人の集まる店でいち早く流れるもんさ。それから、お嬢ちゃんみたいな普通に生活している人々に知れ渡る。………情報をいち早く掴むなら、酒場がお勧め。覚えておいて損はないぞ?」
そう言って歳に似合わない茶目っ気でウインクした店主は、しかし次には顔を曇らせた。
「ある一人が言うには、神子様の呪いだって話だ。前の神子様を理不尽に追い出したから、呪いが掛かったのだと。それまでは奇跡の国と謳われるほどだったというのに。恐ろしいねぇ」
「呪い」
溜息を吐く店主を見ながら、私はその言葉を口の中で転がす。
そしてコテリと首を傾げた。
(別に、呪ってはいないのだけど?)
店主の言う神子とは、十中八九、というか、確実に私の事だろう。
しかし、私は別段彼らに悪意も憎悪もない。呪いとは、まず対象にそれを抱くことが大前提だ。
雪が覆ったというのなら、精霊の仕業だろうが………。
(あの子達には、話をしてから出てきたんですけどね)
自分が去る理由も、今までの礼も、ちゃんと言ってから国を出た。
その後あの子達が何かをしたというのなら、何かが気に喰わなかったか、何らかで機嫌を損ねたか。
(ま、それは彼らが何とかするでしょう。新しい神子様もいることだし)
うん、と脳内で結論付け、私は冷める寸前の紅茶を飲み干した。何とかならなかったら、それはそれだ。
彼らには、別段の悪意も憎悪もない。が、それだけの事。
『助けてって言われたから助けて、要らないと言われたから出てきた』
先ほど店主に告げたように、私と彼らの関係はそれだけ。私が留まった理由も、去った理由も、それ以上でも以下でもないのだから。
「さて、店主さん、ご馳走様。そろそろ行きます」
カップをソーサーに戻すと、私は鞄を取って席を立つ。
店主も憂い顔から好々爺に表情を戻し、お粗末様です、と頭を下げた。
「ここらの精霊様は悪戯好きでな、天候が気まぐれに変わる。道中気をつけてな」
そう言われて空を仰げば、まだ降り続く雨の中、精霊たちが飛び回っているのが見えた。
どうせなら、旅路は晴れの方がいい。
私は店主に礼を言うと、軽く手を上げ精霊を手招いた。集まってきた子達に言付ければ、広がったのは真っ青な青空。
「それでは、失礼します」
目を見開いている店主を後に、私は足を踏み出した。
◇◇◇
―――何処へ行かれますの?
「一度、家へ戻ろうかと」
―――ああ、それは宜しゅうございますね。
クルクルと周囲を舞う精霊たちの囁き声に応えながら、私はどんどんと足を進める。
十年。
大した時間ではないけれど、一応留守を任せている身だ。偶には戻った方がいいだろう。
(戻ったら、今度は別の体を作るのもいいな)
今回は幼女から少女までだったから、今度は男にしてみようか?
「それじゃあね」
精霊に、人に、地上の全てに別れを告げて、私は軽く地を蹴った。