年上の彼
「ねぇ、楽しい?」
「何が?」
ルンルンとした声色で問い返されても、肯定にしか聞こえない。問うのもバカらしくなって、そっと溜め息をついた。その溜め息を聞きつけて、彼が顔を上げる。
「ん? ご不満ですか、お姫様」
「別にー」
不満と言えば不満だが、彼の言う不満とは、そもそも観点が違う気がする。
「薔薇はお好みでなかったかな?」
……ほらね。
「……私は本が読みたいの」
私の手を握っている彼を恨めしげに見つめて、訴えてみる。しかし、彼は笑顔で答えた。
「うん。これが終わったらね」
そんなこと言ってかれこれ一時間だ。
そう、一時間前、彼の前で爪切りなんかを持ち出したのがそもそもの過ちだったのだ。
セーターを着ようとして爪が引っかかったから、これを期に爪を切ろうと思っただけなのだ。しかし、それを見た彼が、慌てて爪切りを取り上げ、あれよという間に、ネイルサロンを開いてしまった。
「たかが爪なのに……」
「るーちゃん、爪綺麗なんだもん。もったいないでしょ」
器用にネイルアートを描き上げていく彼が、手を止めずに言う。
「でも、手入れなんて面倒……。時間掛かるし」
「そういうときは俺に頼めばいいでしょう」
……この男は。何を言い出すか。
「……っていうか、なんでこんな事できるのよ」
そもそも、彼の本職は、ただの会社員じゃなかった? 輸入雑貨を扱う会社の経理って話だったはず。
ネイルアートは、友達がお店でやってもらったのを見たことあるくらいだけど、今の自分の爪はそれ以上。プロ並みの腕ってことですか。
「内緒」
ウィンクなんかしやがったぞ、この男。しかし、バイトで昔モデルしてただけあって、なんとなく様になる。それが少しムカつく。
「……内緒ばっか」
大人ってずるい。大体、お金持ってるからって、何でも買ってくれるのは気にくわない。だけど、欲しいものの意志表示しないと、この男はあるだけ自分の好みで買ってくる。そのセンスも良かったりするから、たちが悪い。気がつけば、私の部屋はこの男の趣味で埋め尽くされていた。最近は、バイトを始めて、自分で買ったりもするけど、彼の方がセンスがいい。
……なんか、もう、色々負けてる気がする。
「おやー? るーちゃんはご機嫌斜めですか?」
ふと、前に座った男がそう言ってのぞき込んできた。目の前にある瞳は空色。
「別にー」
昔から、この空色の瞳が好きだった。でも、時々憎らしくなる。ネイルアートは終わったらしいので、取り敢えず、手を取り戻して、彼のいるテーブルから離れる。
「るーちゃん? ルチルさん?」
私が不機嫌なのがわかったのだろう。彼が不思議そうに私の名を呼ぶ。しかしそれを無視して、本棚から本を手に取ると、テーブルから離れたところにあるソファーに腰掛けて本を開く。
「おーい、るーちゃん、俺いるのに読書すんの?」
「私は本が読みたいって言った」
そう返すと、彼は少し呆れたように聞いてきた。
「しかも、また難しい本読んじゃって……。何読んでるの?」
「ベレヌーレの詩集」
「何語?」
「フランス語」
そこまで聞いて、彼はため息をつく。そして、がたんと椅子を引く音がしたかと思ったら、今度は後ろからぬっと大きな手が出てきて、読んでいた本を抜き取った。
「あ」
「へぇ、フラ語なんて、よく読めるねぇ。楽しい?」
見上げれば、その本を彼が眺めている。
「ちょっと、返してよ」
「やだね。せっかくなんだから俺と遊んでよ」
そんな彼の言葉に、むっとなって手を伸ばしたが、彼はひょいっと腕を上げてしまって、私には届かない。それもそのはず。年の割に小柄な私と、大人の男性として長身の部類に入る彼では身長差がありすぎる。
だから、彼の手から本を取り戻そうと、不安定だがソファーの上に立つ。
「返してって」
しかし、それでも、彼が腕を上げてしまえば、私には届かなくて、思わずソファーの上で跳ねた。
……と、不安定なソファーの上。案の定、バランスを崩す。
「わっ……」
ぐるぐると手を回してバランスをとろうとしたが、遅かった。そのまま、床に落ちる……と思ったが、その前に腰に太い腕が回され、支えられていた。バサリ、と音を立てて本が床に落ちる。
「……あっぶな。怪我してない?」
見上げてみれば、空色の瞳が心配そうに私を見ていた。
「うん。ごめん」
「ほんと、るーちゃん、運動神経鈍いんだから、気をつけて」
「なっ……、それは、カイがいけないんじゃん! 本、返してくれないからっ」
「それは、彼氏と一緒にいるのに本なんか読み始めるるーちゃんがいけないんだよ」
彼のその言葉に、私は目をそらした。
分かってるよ。分かってるけどさ……。
「なんか、いきなり不機嫌だし。俺なんかした?」
……彼のせいじゃない。分かってる。不機嫌なのは自分の問題だって言うのは十分分かってる。
だから、答えられなくて、私は俯いた。
「るーちゃん?」
それでも、答えを待つ彼。だから、私は小さく呟いた。
「……思ってないじゃん」
「え?」
「彼女だなんて、思ってないじゃん」
大人の彼に比べれば、子供な自分が嫌。そんな風に思うことすら、子供じみてて。馬鹿みたいだって思う。現に、彼は驚いたように目を見張って私を見ている。
「遊びだったら、もう、構わないでよ」
あーなんで、そんなこと言うかな。自分。素直じゃない、かわいくない自分が大嫌い。
「遊びなんかじゃないよ。本気だよ」
「嘘」
「嘘じゃない。試してみる?」
彼がそういった瞬間、腰に回された腕がぐいっと引かれ、抱き寄せられたかと思うと、唇を唇で塞がれた。
突然すぎるキスに慌てて離れようとするが、彼の力は強くてびくともしない。やめて、と言おうと口を開いた隙に、彼の舌が入り込んでくる。深くなる口づけが恥ずかしくて、離れたかったが、彼は離してくれない。それどころか、息をする間も与えてくれない。そんな強引なのは初めてで、少し恐くなって目をぎゅっと瞑った。
やがて、彼が唇を離したときには、怒る気力も残ってなかった。ただただ、驚いて、少し怖くて、そっと彼を見上げる。
「俺だってね、我慢してるんだよ?」
空色の瞳が、困ったように笑っていた。
「せっかく、ご両親から預かって、二人きりでいられると思ったのに、バイトなんか始めるし。しかも、バイト先の男の子と仲良くなるし」
「それは……」
「学校にだって、男子はいるだろ?」
「そう、だけど……」
「るーちゃん、中学の時から可愛いかったけど、高校入ってからは綺麗になるから、もう、心配で……」
「心配……?」
心配させてるつもりなんかなかった。というか、彼はいつも余裕だから、心配なんかしてないと思ってた。唖然とする私を抱きしめて、彼はさらに言う。
「俺だって、男だからね。るーちゃんが綺麗になるのは嬉しいけど、程々にしてくれないと、家から出したくなくなるよ」
「程々って……」
そんな無茶な。そこは実感できないので、なんとも出来ないし。
「俺、独占欲強いから」
ささやかれた言葉に、心臓が跳ねた。
「我慢できなくなったら、るーちゃんのせいだからね」
笑顔でそう言った彼は、チュッと軽くキスを落として、私を解放した。そして、落とした本を拾う彼を見て、私は妙に納得した。
つまるところ、彼は本にすら嫉妬してた訳で。
「取り敢えず、何して遊ぶ?」
笑顔で問う彼を振り払う勇気はなかった。
少女×大人な彼
年上の彼