僕が出会ったあの天使、日ノ本鬼子さん
忘れもしない。
あれは僕がまだ中学生の時だった。
塾の帰り道、そう、あの夜、僕はたしかに天使に出会った。
雪がちらつくあの時、ぼくは一人で近くの駅に向っていた。
その途中、いかにも悪そうな5人の男たちに囲まれてしまった。
「ひゃあっはー、ここは通さなぜぇ」
「そこの僕ちゃん、俺達、帰りの交通費がないんだよなぁ」
「俺たちかわいそうだろぉぉぉ」
「有り金全部貸してくれねえか」
「その場でジャンプしてみろやぁ」
僕は足の震えと涙をこらえて、ジャンプする。
チャリ。
「はい、出たぁ、その音がしたやつ全部出しな」
右左の男たちが僕が逃げないよう掴んでいる。
220円。
帰りの電車賃だ。
怖くて。
悔しくて。
悲しくて。
ゆっくり、ズボンのバリバリ財布に手を伸ばす。
ゆっくりなのは恐怖と寒さで手が震えているからだ。
ジャキジャキ……ジャキジャキジャキ………
硬い豆のような粒が揃って硬いものを叩く音。
重量のある金属音を伴っている。
近づいてくる。
ジャキジャキジャキ……
近づく。
ホーネット《すずめばち》の警告音。
ラトルスネーク《がらがらへび》の警告音。
狩られる者が踏み入れていはいけない領域に侵入した時、本能に訴える危険な動物の威嚇音。
雪の舞う路地の先に人影が現れる。
ジャキジャキジャキ、ジャキーン
ひときわ大きな音がした。
背の低いメガネの美少女だ。
かわいい。
僕の中ではロリ系ちっぱい眼鏡っ娘はストライクど真ん中だ。
てか、こんな場面見られたくないし。
危ないよお……逃げてー。
女の子は僕が吊るしあげられているのを見ている。
その目は驚きも恐怖もない。
淡々とした目だった。
そして、人差し指を立てている。
なにか語りかけているのが見えるが……怖さでよく聞き取れない。
まさか、あの子、このお兄さんたちの仲間じゃまいか?
否。
お兄さんたちの言葉で違うのがわかる。
「かわいいお嬢ちゃん、そんな目で見られるとお兄さんたち惚れてしまうなぁ」
「お嬢ちゃん、チョコあげるからおにいさん達と遊ぼうやぁ」
「このお兄さんが小遣いくれるから、ちょい待ってやぁー」
怖いお兄さんたちが僕を締め上げる。
少女は突然、突っ込んでくる。
その時、すぐ目の前にふわりと髪の毛が通りすぎた。
いい匂いが鼻をかすめる。
僕が伸長171cmだからおそらく、彼女の頭の上が見下ろせたので150cmあるかないか。
赤いヘアピンに見えたものは大きな赤いゼムクリップだ。
ゼムクリップをヘアピンにしているのか。
かわいい、この子は天使だ。
瞬間。
刹那。
ばちこーん、ばちこーん。
「だあぇ」
「あばぁ」
じゃきーん、がきーん。
「だらぁ」
「ふぬうぅ」
ばちこーん。
「んぁなぁ」
彼女の頭上の真っ赤なゼムクリップを見下ろしている、その超短時間。
異音が響く。乾いた破裂音と同時にいやな鈍い音。
そして無数の金属の玉が揃って叩く打撃音。
怖いお兄さんたちが吹っ飛ぶ。
あっという間狩られたのだ。
3人は額から血が流れ、煙が出ている。
2人は尻を押さえ悶絶。
あれは僕がこれから受験する学園のベージュ色のブレザーの制服だ。
頭には大きくて赤いゼムクリップの髪留めを付け、左手にはガンメタル色した風変わりなソロバンを握っている。
目元は平常心、かわいい。
「虎の穴そろばん塾主席筆頭、珠算十段暗算20桁オーバー余裕のウチに死角無し」
キメゼリフらしい。
「あのメガネ……」
「あのヘアピン……」
「あのソロバンはっ」
「あのデコピンこそっ」
「あのチビ無双は!」
「ひ、ひっー、日ノ本さん!」
日ノ本と呼ばれる少女、突然目がギラつく。
「コルァ、いま、ロリでちっぱいと言った奴、前へ出ろっ」
カツアゲ兄さんたちは震えている。
日ノ本と呼ばれた少女は、見た目ぷんぷんっとふくれっ面でかわいい。
しかし、その口元から天使には似合わない猛毒が吐かれる。
僕は、彼女の猛毒に侵されたらしい。
ああ、日ノ本さんの全てを全力全身全霊で受け止めたい。
日ノ本さんは独りづつ胸ぐら掴んで尋問する。
「おまいか」
「違います」
「おまいか」
「ち、違います」
「おまいだろ」
「違いますよぉ」
「おまいだな」
「違います」
「おまいしかいねえ」
「チッガイマース」
「いや、おまいだぁー」
でたらめである。
チビを言った奴は2番めに尋問したやつだった。
「チンチクリンでゴスロリきめえといった悪い口はこれか、これかぁ」
「チガッ、ぶべぇ……」
鋼鉄のソロバンをぐいぐい押し付ける。
容赦無し。
冤罪を背負ったお兄さんは目で真犯人のお兄さんに助けを求める。
真犯人のお兄さんは知らないとばかりに目をそらす。
「オレじゃないよう、ちがうよお」
冤罪の男、涙と鼻水をだだ漏れする。
「おまい、運がいいなぁ、ウチの必殺奥義を2度も体験できるたぁ、感謝せぇ」
「ひぃぃぃ」
冤罪の男、下もだだ漏れする、くさい。
少女は人差し指を立て、気合を込める。
「我が究極奥義、全国珠算連盟非公認、虎の穴そろばん塾直伝、額割鉄指弾」
「はぁぁぁぁぁぁ」
指先からオーラが。
否、溶けた雪が湯気になっているだけだった。
「や、やめてくだs」
ばちこーーん。
「あばばばぁぁぁ」
冤罪の男、股間から失禁弾幕と湯気オーラを吐き出して吹っ飛ぶ。
電柱に激突、白目をむいて失神。
天使が登場した時の最初のデコピンも威力があるとはいえ、ノーリアクションだった。
今のは充分に気合の入ったデコピンである。
当然威力ぱねぇ。
冤罪男の口から魂が半分出かかっていた。
4人の男たちはよろめきながらも立ち上がり、4人同時にありえないくらいのジャストタイミングでジャンピング土下座した。
「日ノ本さんはかわいいです」
「日ノ本さんはかっけーです」
「日ノ本さんは天使です」
「日ノ本さんはナイスバディです」
「なら、許す」
男たちは冤罪男を抱き上げ慌て逃げていった。
日ノ本と呼ばれる少女はちらっと僕を見たが何も言わず路地の暗闇に消えてしまった。
惚れた。
天使だ。
僕はあの雪の夜に舞い降りた天使に出会ったんだ。
あの子のキュートな指から放たれる鉄指弾が僕のハートにクリティカルヒットした。
そうだ、いつか会いに行こう。
お礼を言わなきゃ。
そして、そして僕の願い届くかな、あの天使の日ノ本さんに告白するんだ。
あれから3ヶ月。
僕は、段子坂政商学園に合格し入学した。
二度とカツアゲされない強い人間になるため、柔道部に入部した。
この学園の柔道部は名門らしい。
噂では、日ノ本さんは段子坂政商学園経済研究会に所属していると聞いた。
当然、アイドルなんだろう、有名人らしい。
そして今、目の前に研究会の扉がある。
いよいよ扉の向こうに、憧れた天使が待っているはずだ。
ん? 扉の向こうから何やら声が聞こえる。
あの時、聞いた声だ。
間違いない、あの、天使の、日ノ本さんの声だ。
僕はそっと扉に近づき、聞き耳を立て様子をうかがう。
「月並さん、お客様がおかえりですわよ」
かわええ。
「三下せーんせ、お疲れ様でした。
あと……あります。
来月も忘れずにお願いしますね。
てへっ」
ドキドキする。
突然目の前の扉が開く。
中からふらふらっと数学の三下先生が出てくる。
僕には気が付かないのか、そのまま廊下を歩き出す。
口から魂がはみ出ている。
「ひ、日ノ本鬼子。
あれは……お……鬼だ。
この学園に鬼がいる」
はっ、なにか目の覚める思いがした。
僕はノータイムで回れ右して、教室に戻ることにした。
そうだ、部活《柔道部》に行かなくちゃ。