聖女にも休暇はあります。神殿との契約書に書いてありましたので三十日いただきます
聖女の朝は早い。
日の出前に起き、聖堂で祈りを捧げ、朝の結界を張り替える。昼は病人の祝福、夕方は収穫祭の準備、夜は再び祈り。
それを六年間、休みなく続けてきた。
「ミリア様、お疲れではありませんか」
護衛騎士のユストが、聖堂の扉の前で声をかけてくれた。生真面目な青年で、六年間、毎朝私より先に扉の前に立っている。
「ありがとう、ユスト。大丈夫よ」
大丈夫、と答えるのが癖になっていた。
けれどその日、聖堂の鐘が鳴り終わる頃、私の足はふらついた。
「ミリア様!」
ユストが支えてくれて、床に座り込む寸前で踏みとどまった。
「すみません、少し、立ちくらみが」
「少しではありません。顔色が真っ白です。神殿の医師を呼びます」
「呼ばなくていいわ。ただの寝不足」
そこへ、威厳のある足音が近づいてきた。
「何を騒いでいる」
王太子殿下だった。私の婚約者であり、聖女の後見人でもある方だ。
「殿下。ミリア様がお加減を悪くされて」
「また、か。聖女の務めは祈ることだ。祈る体力くらい、自分で管理するのが聖女だろう」
殿下は私を見下ろし、あきれたように肩をすくめた。
「いいか、ミリア。聖女は国の守り手だ。休んでいる暇などない。他の令嬢たちは、遊びたい盛りでも我慢しているんだ。君だけが特別ではない」
特別ではない。
その言葉を、私はもう何度も聞いてきた。
けれど、その日の私は、不思議と頭が冴えていた。ふらつく体の底で、一つの記憶が浮かび上がったのだ。
神殿に入ったばかりの頃、読まされた契約書。
分厚い羊皮紙の束。最初の一ページを読んだところで、神官に「時間がないから、署名だけでいい」と言われた。
私は、あの契約書を、最後まで読んでいない。
「……殿下。ひとつ、お願いがございます」
「何だ」
「神殿との聖女契約書を、読み直させていただきたいのです」
「そんなもの、何のために」
「確認したいことがありまして」
殿下は面倒そうに手を振った。
「好きにしろ」
◇
その夜、私は神殿の書庫から契約書の写しを借り出し、燭台の灯りのもとで、一枚ずつめくった。
長い。細かい。難しい言い回しばかり。
けれど、六年分の疲れは、思ったより頭を冴えさせていた。
そして、第九条で、手が止まった。
『聖女は、初代聖女ハリエットの定めに従い、年に三十日の休暇を取得する権利を有する。休暇中の結界維持は、神殿が責任をもって代理聖女を手配して行うこと』
三十日。
年に三十日の休暇。
六年間、一日も取っていない。
第十条には、さらに続きがあった。
『代理聖女の名簿は、神殿長が毎年更新し、聖女に開示すること』
そんな名簿、見たことがない。
「ユスト」
隣でうたた寝していた騎士を起こす。
「神殿に、代理聖女の名簿はあるかしら」
「代理聖女? 聞いたことがありませんが」
「ない、ということね」
私は、にっこり笑った。
これは、使える。
◇
翌朝、神殿長の執務室に、契約書を持って乗り込んだ。
「聖女ミリアです。休暇の申請に参りました」
「休暇? 何を馬鹿な」
「第九条です。年に三十日の休暇の権利があります。六年間未取得ですので、請求できる分は多々ありますが、今回は今年分の三十日のみ、いただきます」
神殿長は、顔色を変えた。
「そ、そんな条項は存在しない」
「こちらに」
私は第九条を指で示した。神殿長が震える手で羊皮紙を受け取り、読む。
顔が、みるみる白くなっていく。
「それから、代理聖女の名簿の開示を求めます。第十条です」
「それは、その」
「ないのですか」
「準備中で」
「六年間、準備中だったのですね」
にこやかに言うと、神殿長は黙り込んだ。
その横で、殿下が割り込んでくる。
「馬鹿馬鹿しい。ミリア、君が休めば国の結界はどうなる。誰が守るんだ」
「ですから、神殿が代理聖女を手配する義務があります。契約書にそう書いてあります。もし手配できないのでしたら、それは神殿の契約違反です」
「しかし」
「殿下」
私は、真っ直ぐ殿下を見た。
「聖女は国の守り手だと、昨日おっしゃいました。そのとおりです。ですが、守り手を守る仕組みを作るのは、神殿と、後見人である殿下の務めではありませんか」
殿下は、返す言葉を失った。
私は一礼して、部屋を出た。
「それでは、本日から三十日間、休暇に入ります。ごきげんよう」
◇
休暇一日目、私は港町ハーベンへ向かった。
馬車の窓から見える海が、きらきら光っている。
六年ぶりの海だった。
護衛はユストだけ。騎士の制服ではなく、普通の旅装で、荷物を持ってくれている。
「ミリア様、本当に良いのですか」
「ええ。休暇ですもの」
「しかし、神殿は大変なことになっているのでは」
「それは、神殿のお仕事です」
ユストは、小さく笑った。
「ミリア様がそんなことを仰るのを、初めて聞きました」
「私も、初めて言いました」
二人で、笑った。
港町での日々は、穏やかだった。朝は遅くまで眠り、昼は海辺で貝殻を拾い、夜は宿の屋上で星を見上げる。
聖女ではない、ただのミリアとして過ごす時間。
それが、こんなにも楽しいものだと、すっかり忘れていた。
◇
一方、王都では。
らしい、とユストが手紙で教えてくれた。
私が出発して三日目、神殿は慌てて代理聖女の手配を試みた。ところが、名簿が存在しない。急遽、見習い神官の中から数名を選んで祈らせたが、結界の強度は半分以下になった。
一週間後、王都の外れで小さな魔獣が出没し、市民の不安が広がった。
二週間後には、収穫祭の祝福が行われず、農民たちが神殿に押しかけた。
三週間後。
殿下自らが、祈りの間に立った。
聖女の代わりに祈ってみろと、神殿長に言われたのだという。
殿下は祈りの間に入り、五分で眠りこけた。
六年間、私が毎日続けてきたことの重みを、彼はようやく理解したのかもしれない。
◇
休暇の最終日、私は宿の屋上にいた。
夕日が海に沈んでいく。
隣では、ユストが静かに海を眺めている。
「明日、王都に戻ります」
「ええ」
「戻ったら、神殿に条件を出します。代理聖女の制度の整備と、年三十日の休暇の完全取得。それから、一日の祈りの時間の上限」
「通るでしょうか」
「通します。契約書に書いてありますから」
ユストは小さく笑った。
それから、少しだけ息を吸って、続けた。
「ミリア様。一つ、お伝えしたいことがあります」
「はい」
「俺は、六年間、毎朝あなたの扉の前に立っていました。その間、一度も、あなたが休むところを見たことがなかった。今回の三十日間、あなたが笑っているのを見て、俺は心から嬉しかった」
夕日が、彼の横顔を照らしている。
「聖女としてではなく、あなた自身を、これからも守りたいと思っています」
私は、言葉に詰まった。
でも、返事はもう決まっていた。
「次の休暇も、一緒に来てくれますか」
「喜んで。年に三十日、必ず」
「では、決まりです」
海風が、頬を撫でる。
六年間、祈り続けてきた私が、初めて自分のために願ったことは、とても小さくて、とても温かいものだった。
契約書の第九条は、今日から私の宝物になった。
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