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彗星の夜  作者: 秋田清
9/10

9 洪水の前

 午前2時。

 バブル景気真っ盛りの頃には「不夜城」に例えられることが多かった都会だが、昨今では終夜営業の店はめっきり減った。今、森本莉子がいるこのファミリーレストランは午前五時までの営業だが、あたりに開いている店は少なく、週末のせいもあってテーブルはほぼ満席だった。莉子は一人で、三杯目のコーヒーを前にして、居心地の悪さを感じていた。吉岡鉄郎との待ち合わせの約束は午前1時だったから、もう一時間もここに一人でいることになる。


 きっかけは莉子がネット上である動画を発見したことだった。その動画には鉄郎の弟の次郎が現に住んでいる洋館が写っており、そこに次郎と思しき人物と共に女性が写っていた。その女性は、莉子がかつてよく知っていた女性ととてもよく似ていた。そこで、今夜鉄郎はその洋館、通称「風見鶏の家」を訪ね、そこにいるのが本当に彼女なのか、彼女は困った状況に置かれていないかなどを確認してきてくれることになっていた。彼はそれもまた自分の「仕事」の一環なのだと説明した。


 ところが、彼女がこの店に着いてすぐ、彼からスマホにメッセージが来た。「ちょっと下手を打って病院に運ばれてしまった。少し遅れる」という。莉子は混乱した。鉄郎は怪我でもしたというのだろうか。それは少し遅れる程度で済む話なのか。彼女はすぐにでも会いに行きたかったが、病院の名前も分からないし、今は深夜だ。近親者でもない莉子が行っても、面会させてもらえないだろう。

 莉子には、そもそも鉄郎と自分の関係をどう呼べばいいのかわからなかった。彼とは行きずりに関係を持って以来、何度かデートを重ねている。最初は彼女の方から誘ったのだ。何故そうしたのかは、彼女自身にもよくわからなかった。強いて言うなら、彼のいつもどこか遠くを見ているような目に惹かれたのだ。孤独な人の眼差しだと思った。付き合ってみると彼は一見がさつで不器用だが、本当はとても優しい。一緒に居ると安らげるのだった。それでも彼には他にも女性がいる可能性もあるし、十歳以上の年齢差がある。恋人と呼ぶには躊躇を感じてしまうのだった。


 思えば動画の中の女性との関係も、ある意味それと似ていた。彼女、安西百代とは以前同じ職場にいた。年も近く、何でも話せる関係で、莉子は無二の親友だと思っていた。彼女のことを、こんな小さな倉庫会社なんかで埋もれているのはもったいない、もっと光が当たるところに立つべき人だと感じてもいた。だから常に彼女を応援してきたのだ。恩を着せるつもりなどない。見返りなどは求めていなかったはずなのだが、その彼女に突然に去られてみると、まるで砂を噛むような味気なさに襲われてしまったのだった。そんな時にあの動画を見つけた。彼女にはそこに写っている百代に似た女性が、自分に助けを求めているように見えて仕方なかった。鉄郎も「なんだか不吉な予感がする」と言っていたものだ。


 大きな影が莉子の前のコーヒーカップの上に差した。振り返ると鉄郎が立っている。どこにも包帯など巻いていないし、顔色も悪くない。普段と変わらない鉄郎だった。力が抜け、思わず安堵の溜め息が出た。

「もう、どうしたのよ、一体? 心配してたんだからね」と莉子は抗議した。

「やあ、ごめんごめん、だけどその説明をする前に何か飲ませてくれないか。のどがカラカラなんだ」と言って、鉄郎はドリンクバーに向かって行った。その後ろ姿を見て、あの肩の広さだ、本当はあの肩幅が好きなのかもしれないと莉子はぼんやり思った。鉄郎は、大きなタンブラーに入れたアイスティーを持って戻ってくると、莉子の向かいに座った。

「さてと、何から話そうか。まずはやっぱり君が心配していた彼女のことだな。彼女はやはりリコの友達の安西百代クンで間違いなかった。もっとも弟に向かってはモモと名乗っていたけどね。毎週土曜と日曜の二晩、あの家で弟と過ごしていたらしい。それはあくまで彼女の意志だそうだ。誰からも危害などは加えられていないし、弟との関係はとても良好そうだった」


 鉄郎は自分がモモに向かって「君は何者だ」と迫ったことや、それに対して彼女が激しい動揺を見せたことは言わなかった。莉子はそれを聞いて少しほっとしたようだったが、

「それが分かったのは良かったけど、でも今あたしが一番知りたいのはテツローさんの事だよ。ねえ、どうして病院に運ばれるようなことになったの? あなたの仕事っていったい何なのよ?」と詰め寄ってきた。

 鉄郎は考えた。この場合彼女にはそれを訊く権利があると思った。もちろんかつての自分なら絶対にまともには答えなかっただろう。だが、今回弟と会ってから、彼は父にだまされていたのかもしれないと思うようになったのだった。弟は父によって謂わば「洗脳」され、あの家に縛り付けられてしまっていた。それなら自分もまた父の「呪」によって、これまでずっと事実とは違うことを信じ込まされていたのかもしれないと思った。そこで彼はこの際すべてを莉子に話そうと決心した。


「わかったよ。それじゃあ順に話していこう。結構長い話になる。君に例の動画を見せられた後、俺に『上』から指示が来た。今度の調査対象はまさにあの風見鶏の家だったんだ」

「そんな偶然ってある?」と、莉子が驚いたように言う。

「偶然じゃないのかもしれないな。まあとにかく俺は指示に従って調査を開始した。今回のはとても楽な仕事だった。あの家の前の道を監視して、通行人の数をカウントすることと、飛来するドローンの数を数えることだけだったからね。そのための部屋は用意してくれてある。屋敷の前がよく見えるアパートだ。もちろん24時間ってわけじゃない。休憩時間もちゃんとある。俺が働いていない時間は別の誰かが見張っているんだろうが、俺はそいつを知らない。この仕事には横のつながりは一切ないんだ」

 いや、つながりがないだけじゃなく、本当は俺一人で、他には誰もいなかったんじゃないかと鉄郎は疑い始めていたのだ。父はこの「事業」が、官民に跨る壮大なプロジェクトであって、大勢の人間が関わっているかのように仄めかしていたが、それは虚構だったのかもしれない。実際にこれに関わっているのは、ごく一握りの人間で、それもどんどん減っているのかもしれないのだ。

「俺は調査員だと前に言ったね。それは嘘じゃないけど、俺の会社で俺のセクションは俺一人だ。上司も部下もいない。俺の仕事は端末に送られてくる指示に従って、世界中を飛び回って、様々な調査をしてはそれを報告することなんだ。時にはごく簡単な『工作』をすることもある」

「それって具体的に何をするの?」

「例えばある人物が、図書館である資料を借りようとするときに、先に借り上げてしまう。または隠してしまう。ある会合に出席するのを阻止する。工作はできるだけ小さい方がいい。例えば電車をまるごと止めたりしてしまうと、そのことが別の思いもよらない影響を及ぼすこともありえるからね。でもそれしか方法がなければ、いくらか荒っぽい方法をとることもある。結果として計算通りの効果が得られたのか、どんな弊害があったのかを測定する人間は別にいるんだ。そうして少しずつ世の中を良い方に変えていく。そういう秘密の組織があるんだよ」

 鉄郎はそう父から教えられたのだ。だがそれも、父の嘘だったのかもしれない。今の鉄郎は額面通りそれを信じているわけではなかった。

「でもそのお仕事って、危険なことはないの」と莉子が言って表情を曇らせる。確かに危険なことは何度かあった。特に西アフリカでの調査で紛争地域に入った時には、常に身の周りに死の危険があった。

「俺は昔から死ぬことがあんまり怖くなかったんだ。もちろん死にたくはないさ。痛いのだって御免だ。でも子供のころから不思議と死ぬことを怖いと思ったことはなかったなあ。昔バイクで事故った時、これで死ぬかもと思ったけど少しも怖くなかったんだ」

 莉子はそれを聞くと何とも複雑な表情を浮かべた。鉄郎はどう言おうか迷いながらも、

「笑わないでほしいんだけど、実は俺、最近死ぬのが少しだけ怖くなってきてるんだ。君と会うようになってからだ。怖いというとちょっと違う。今死んだらもう君と会えないと思うと、何だかもったいない気がしてるんだな。まあ、今はその話はいいよ」と言った。昔からこういう話はあまり得意ではない。

「とにかく、今回の工作の指示は今夜、いや、もう昨日になってしまったけどね、風見鶏の家に行って、そこに迫っている危機に備えよというものだったんだ。だからちょうど君が気にしている彼女の様子を探ることもできると思ったわけ。だけど、今回の指示には正直戸惑ったよ。こんな漠然とした指示は今まで一度もなかったからね。そうしたら隣の家から火が出たんだ」

「つまりそれがその危機だったわけね?」と莉子が訊く。

「俺はそう思った。風もあって、飛び火の危険もあったからね。それで俺は消火栓を使って屋敷の屋根と、それから隣の家との間の庭木にたっぷり水をかけた。出来るだけ燃え移るのを遅らせようとしたんだ。そうしたら意外なほど早く消防が駆けつけてきて、火事は消し止められた。その消防団の中に昔結構親しかった近所の畳屋の小父さんがいてね。俺を知っている人なんか誰もいないと思い込んでいたもんで、すっかり動揺してしまった。話しかけられると何かと面倒だと思ったから、煙を吸って苦しんでいる芝居を打ったんだ。それがあまりにも真に迫っていたんだろうね。救急搬送されることになっちゃったんだ。これには参ったよ。何しろこっちはこんなにぴんぴんしてるんだから。それでどうにか隙を見て逃げ出して来たんだよ」と言って鉄郎は笑った。


 その時鉄郎のポケットの端末が振動した。取り出して内容を確認した鉄郎の顔に緊張が走るのが、莉子にも分かった。

「どうしたの?」

「『上』から追加の指示が来た。もう一度『風見鶏の家』に戻れって。どうやらまだあの家の危機は終わっていなかったらしい」

「ねえ、だったらあたしも連れて行って」と莉子は言った。やはり百代に直接会いたいと思ったのだ。鉄郎は考えた。それは有り得ないことだ。調査や工作の際に余人を同道することは、禁止されているというよりはもともと想定されていない。だが、それを言うなら今回のような抽象的で漠然とした指示も、これまでの15年間で一度もなかったことなのだ。

「いいだろう。一緒に行こう」と鉄郎は言った。


 店の外に出ると、外はよく晴れていて、月明かりが眩しいほどだった。

「なんだか変に静かで、怖いみたい。本当にこれから何か起こるんだとしたら、これって、洪水の前の引き潮のようなものじゃないかしら」と莉子が言った。


 それより少し前、午前一時半。

 吉岡邸の応接室には次郎が佇んでいた。正面の安楽椅子にモモが座っている。だいぶ落ち着いて、頬の赤みは戻ってきていた。次郎は不思議に新鮮な気持ちがした。普段彼女をモデルに絵を描くときは、イーゼルに向かって彼女を横目で捉えるか、上体を捻るようにして見る。寝床の中で睦み合う時も、距離は近いがこれほど真正面から顔を見ることはない。そのせいか、なんだか初めて見る女のように感じられた。


 隣家の火災は消し止められ、数本の庭木が焦げただけで類焼は防ぐことができたが、大活躍の鉄郎兄は、煙を吸ったということで病院に搬送されてしまった。消防隊が去ると、広い屋敷に再び二人だけが残った。といってこれからいつもの手順に戻るのもなんだか変な気がした。それに次郎にはモモに問い質したいことがあったのだ。彼女はいったい何者なのか、そして兄の問いに、なぜモモはあれほど動揺したかということだ。


「君は僕の敵じゃないって言ったよね。僕もそれは信じたいと思う。でも正直言って、なぜ君が僕にこんなに良くしてくれるのかわからない。これには何か裏があると思う方が自然だろ? 僕は画廊経営には失敗したし、画業で食っていけるだけの才能もない。この家を守る以外、何の取り柄もない男だ。それももうそろそろ限界が近づいて来てる……。なぜ君はこんな僕の前に現れたの? 一体何が目的?」と言いながら、次郎はつい詰問口調になってしまったことを反省した。

「御免。でも本当は、これまでもずっと尋ねたかったんだ。だけどあまり追いつめたら、君は僕の所にもう来てはくれなくなるかもしれない。それが怖かった……」


 モモは微かに頬笑んだ。もう、先刻のような動揺はどこにも見られなかった。

「私にも今でも本当に分からないことはあるの。でも…、そうね。とにかく順番に話をさせて。私も頭を整理したいから。まず、私の名前は正しくは安西百代だけど、これくらいは嘘のうちには入らないよね。百代と書いて『ももよ』と読む名前は嫌いじゃないんだけど、ちょっと時代がかった感じだから、いつもはカタカナでモモにしてるの。ミヒャエル・エンデの『モモ』が大好きだから。ツギィは私と初めて会ったのが、あの床の間の幽霊画の前だと思ってるかもしれないけど、あれは実は私にとっては二度目なの。私はその三週間前にあなたを見てるんだ。前にエンデュミオンの話をしたことがあったわよね。あれは実話なの」

 エンデュミオン、それは確か月明かりを浴びて寝ている美青年のことだったっけと次郎は考えた。

「私のアパートはここからそんなに遠くないんだけど、その夜、私はストーカー男に跡を付けられていたの。で、そいつを巻いて、走って逃げたらこの家の前に出たわけ。その後、何だかまるで吸い寄せられるように、気が付くとこの家の屋根に上っていた」

 次郎は驚く。「屋根に? 一体どうやって」

「ちょうどいい場所に大きな木があるじゃない。あれはくすの木? まずあれに登ってから屋根に飛び移ったのよ。そしたら天窓から月明りを浴びて眠っているあなたが見えた。その時これは運命だと感じた。私はあなたとここで新しい物語を作りたいと考えたの。あなたとならそれができる気がしたの。信じてもらえないかもしれないけど、私にとってはそれが本当のことなの」

「じゃあ君はいつも屋根伝いに家に侵入していたのか」

 それで彼女はいつも気付いたら家の中にいたということか。

「毎回ってわけじゃないけどね。この話は実はまだここからが長いのよ。その後私は、ストーカー男に見つからないように友達の家に居候させてもらいながら、新しい勤め先を探していたの」


 ある日、条件の良い求人先を見つけて訪ねていくと、面談もそこそこに「可能なら明日からでも来てください」と告げられた。それはまるで彼女が来るのを待ち構えていたかのようだったという。

「そこが理想的だったのはまず土日が完全休日だったこと。ツギィとの予定は変えたくなかったから。給与も破格に良くて、もちろん社会保険も完備。取材や編集の仕事ももともとやってみたかったことだから」

 タウン誌やミニコミ誌、社内報などの取材や編集を代行することを主な業務内容とする会社だという。オフィスは都心にまだこんな古いビルが残っているのかと思うような貸しビルの一室で、社員は社長を入れて総勢5名しかいなかった。もらった社長の名刺には「紺野藍造」という名前だけが印刷されていた。彼は青いシャツを着ており、ズボンも濃い青だった。七十歳近いだろうか、中肉中背だが少し腹が出てきているようだった。丸い頭は禿げ上がり、周囲に少しだけ髪が残っていた。他の四人は全員若く、男女二人ずつだったが、百代が居る間、ほとんど言葉を発しなかった。出勤初日は研修ということで、社長自らが商店街の取材に出かけるのに同行した。昼は商店街の古い喫茶店で、社長の奢りでオムライスを食べた。貸与されたデジカメで写真を何枚か撮ったら仕事はそれで終わり、後は直帰していいと言われた。信じられないほど楽な一日だった。二日目は一日中ゲラ刷りと原稿の突き合わせばかりをさせられた。社長以外の社員は全員出払っていて、彼女はすっかり暗記してしまうほど何度もゲラを読んだ。三日目はとうとうその社長もおらず、出勤したのは彼女一人だった。机上に「電話番を頼みます。昼食休憩は適宜取って可」という手書きのメモがあった。しかし待てど暮らせど、電話はかかって来ない。こんなことなら読みかけの本を持って来るべきだったと思いながら、スマホのゲームで時間をつぶした。結局一本だけ掛かってきた電話は社長からで、これから帰社するというものだった。


「こんなんで本当にお給料がいただけるのかしらと思っていたら、その日の終わりに翌日からの新しい仕事を指示されたのね」

 この時社長から、ここから以降の仕事内容については口外法度であること、百代が今現在自分で使っている携帯は解約して、今後は貸与した端末のみを使ってもらうことを言い渡されたという。

「もちろん、そんな話聞いていないって抗議したわ。すると社長は今ここでやめるなら三日分の日割りの給与は払う。でも話を最後まで聞けば君は絶対にやる気になるだろうと思う、と言ったの」

 その仕事とは、この会社の親会社に出向して、その社史を編纂するために、創業者についての資料を収集することだった。

「その会社の創業者の名前は吉岡弥太郎。そう、ツギィのお父さんよ。そして会社所在地はこの家の住所になっていたの」

 次郎は首を振った。次から次と意外な話ばかりで、もう何を聞いても驚かないと思っていたのだが、まさか彼女が父のことを知っていたとは思いもよらなかった。


 指示された具体的な仕事内容は、吉岡邸の書斎にある、旧蘆岡家住宅から出た古文書類と、弥太郎のノートブックを解読してテキスト化することだったという。吉岡家の人間、つまり次郎には気付かれないようにするという条件が付いていた。

「古文書は最初全然読めなかったけど、くずし字辞典とか参考書なんかもここにはたくさんあった。何よりノートブックが五冊もあって、そこに細かい万年筆の字でびっしりと釈文が書かれていた。全部あなたのお父さんが遺したものよ。それを参考にして読んでいるうちに、今では大分読めるようになったわね。私はまず書斎にある本を適当に写真に撮って送るの。するとその中のどの本をテキスト化するべきかを言ってくるから、後はそれをひたすら解読して、活字に直した結果を送るだけ。もともと勉強は好きだから、これは慣れてくると意外と面白い作業だった。いったい何の役に立つのか、全然わからなかったけど」


 古文書には、村役人であった蘆岡家の当主が、村内の揉め事を解決するために奔走した話や、氏神から神託を得た話などが書かれていた。夥しい書き込みのあるノートブックと対照すると、弥太郎がこれらの資料のどこに興味を持ち、どこに感銘を受けたのかが分かるのだった。とはいえ、それが社史の編集に役立つとも思えなかった。

「それより何より、私はあくまで自分の意志でここに来て、あなたを見つけたつもりだったのに、誰かに操られていたのかもしれないということの方がショックだった。信じたくないけど、説明がつかないことが多すぎるの。後から思えば、四人の社員は全員サクラだったのかもしれないし、あの社長だって相当怪しい。大体、名前は紺野藍造で上下青い服を着てるなんて、何の冗談なのよ。だけどお給料は前の会社よりずっと良くて、これまで一度も遅配はないし、ずっとあなたのそばに居られるのはうれしかった。だから神様のおかげなんて言ったのよ。でも、とても不安でもあった。楽しいからつい調子に乗ってどんどん沖まで泳いできてしまって、これじゃ岸に戻れないかも知れないと気付いた時みたいな気分なの」

「じゃあつまり、君は平日もずっとこの家に居たわけ?」と次郎は訊いた。微かな匂いとか物音とかに、何となく彼女の気配を感じたことは確かにあった。気のせいとばかり思っていたのだが……。

「ほぼ毎日ね。あなたの行動パターンは大体把握していたし、もし鉢合わせしてしまっても、その時は忘れ物を取りに来たって言い繕えばいいと思った。結局一度も会わなかったけど。でも夜には帰っていたわ。前のアパートの契約はそのままだったから。それと、最初に社長から裏口の鍵を渡されていたから、毎回屋根から忍び込んでいたわけではないのよ」

「その紺野藍造氏がどうしてうちの合鍵を持っていたんだろう」

「どうやらこの家には、ツギィも知らないことが、まだいろいろとあるみたいね。私もこれで、秘密を口外しちゃったわけだけど、これからどうなるのかな」

 どうやら嘘は言っていないようだと次郎は思った。本気でだますつもりなら、もう少し本当らしい嘘を吐くだろう。だが、まだ彼女には語っていないことがあるようにも思える。あの彗星の話はどういう話なのだ? それと古文書に出てくる人名の謎は?

「そうだ、兄貴が探していた古文書は、やっぱり君が持ち出したの?」


 百代はいつも持ち歩いているピンク色のスポーツバッグのファスナーを開けると、中からそのバッグにはまるで似つかわしくない、一冊の古びた和綴じ本を取り出してマホガニーのテーブルの上に置いた。

「ちょうど昨日から解読を始めたのが、この文久三年分の日記だったの。お兄さんも言っていた通り、彗星の観測記録が絵図入りで詳しく書かれてる。そして、問題の安斎百という人名も確かにある。割注がついていて、『蘆岡の縁者、まれびとなり』と書いてあった。でもそれ以上は何も書いてないの。ああ、あと百は私と同じで越後の人らしいことが書いてあったかな」

「それで君は、それを読んでどう思った」

「そりゃ、もちろんびっくりしたわよ。というより気味が悪かったわね。これだけ続けば偶然とは思えないじゃない。私が自分で選んできたつもりの運命が、ずっと昔から決められていたのかもしれないって思った。だったら私のこれまでの人生は何だったのかって」

 だからあの時、彼女は自分が何者か、自分でもわからないと訴えたのだろう。

「でも、お兄さんは古文書の安斎百を知ってた。あなたのお兄さんこそ一体何者なの? 彗星を追っかけてたって言ってたよね。さっきは話題に出なかったけど、あのヨーゼフ・コタン彗星については最近一部SNS上で話題になっている話があるの。地球に衝突するんじゃないかっていうね。人口密集地に落ちたら、数千万規模の犠牲者が出るってまことしやかに書いてる記事も見かけたわ。学会には緘口令が敷かれているんだろうとか、データを改竄されているために気付かれていないんだとか、みんないろいろ言ってる。昨日は、アメリカ大統領が、彗星を破壊するために核兵器を使用する検討に入ったというニュースも出てたわ。もちろんそんなのはみんなフェイクだと思うけど」


 その時、次郎はミシリと、床がきしむような音を聴いた。誰かの足音のようだった。彼は自分の唇の前に人差し指を立てて百代に示した。そのまま聞き耳を立てていると、もう一度ミシリという音が聞こえた。間違いない。

「どうやら、僕ら以外にも誰かこの家の中にいるようだな」と小声で囁いた。



 次郎は百代を応接室に残して、暗い廊下に出た。右手に持った懐中電灯はまだ点けなかった。この屋敷に侵入したものがこちらに危害を加えてくるつもりなら、懐中電灯の灯りは格好の標的になってしまうと思ったからである。ずっと闇の中に潜んでいたのならだいぶ目が闇に慣れているだろうから、こちらが不利だが、こればかりはどうしようもない。


 次郎は腕っぷしにはまるで自信がないが、何としてもこの屋敷を守り抜かなくてはならない。その使命感だけは誰にも負けない自信があった。

 廊下はひんやりしていて、空気の流れが感じられた。木々が風に揺れる音が聞こえてくる。どこかの窓が開いているのだ。やはり賊が侵入したのだろうか。次郎は立ち止まったまま、神経を研ぎ澄ました。この分厚い濃密な闇の中の何処かに、何ものかが潜んでいるのだ。そしてそのものはこちらに対して友好的ではない可能性が高いと思われる。


 その時またミシリという音が聞こえ、次郎は心臓をつかまれたような気がした。予想していたよりもずっと近い。音がした方をゆっくり振り返ると、青白い火花が見えた。右肩に激痛が走った。闇雲に両手を動かすと、手にした懐中電灯が相手のどこかに当たったようで、「ツッ」という声がして、体が離れた。懐中電灯をその方向に向けて点灯すると、円の真ん中に人がいた。中肉中背のまだ若い男性のようだ。次郎と対格差はない。右手に持っているのはどうやらスタンガンらしい。次郎は身構えた。だが次の瞬間、突然男の姿が光の円から消えた。懐中電灯を床に向けると、男がしゃがみこんで、呻き声を上げている。

 次郎の耳元で百代が、

「ローキックを一発お見舞いしてやったわ」と囁いた。いつの間に近くに来ていたのだろう。男が床に落ちたスタンガンに手を伸ばそうとしているのに気づくと、次郎はそれを思い切り遠くまで蹴飛ばした。どうやら他に凶器などは持っていないらしい。次郎はうつぶせの状態で男の上体を床に抑えつけながら、

「モモ、警察に電話を頼む」と言った。しかし百代はすぐに電話はせず、スマホのライトで照らしながらあたりを調べている。男のものらしい鞄を開けると、

「この人色々用意してるわね。ロープが何本もあるわ」

「ちょうどいい、それでこいつを縛ろう」


 男が暴れ回るので苦労はしたものの、次郎が上半身を抑えつけている間に、百代は男の両足首をきつく縛った。さらに両手も後ろ手に縛った。改めて懐中電灯の光を当てて男の顔を見た。

「あんた、町田……」と百代が息を飲んだ。

「誰?」と次郎が訊く。

「例のストーカー男。あれ以来ずっと私を追いかけてたってこと? 信じられない。なんなの、その執念……」

 町田は獣のような咆哮を上げて、体を打ち震わせた。「畜生」と叫んで百代を睨みつけたが、両手両足を拘束されているのでどうにもならない。その時、玄関の方角からノックの音が聞こえて来た。

「吉岡さん、大丈夫ですか」と叫ぶ男性の声も聞こえる。次郎は玄関に向かって走った。すぐ脇の小窓が開いていた。男はここから侵入したのだろうか。ドアを開けると三人の男性がいた。先頭にいる小柄な人物は消防団長の坂巻だった。

「ああ、畳屋の小父さん。助けに来てくれたんですか。え、どうして?」

「いやあ、さっきの火事が放火の疑いが強いもんで、引き続き警戒してたんでね。そしたらお屋敷から大きな物音と叫び声が聞こえたもんだから」

「ありがとうございます。助かりました。不審者が侵入してきていて、いきなりスタンガン? で僕に襲いかかってきて……」と言いながら、次郎は右肩をさすった。一瞬とはいえ、かなり痛かった。

坂巻を伴って男の元に戻った。両手足を縛られた男を見ると、坂巻はちょっと驚いたように「これは、これは……」と言った。しゃがみこんで男の鞄の中を調べていた百代がすっと立ち上がった。手に500ミリの空のペットボトルを持っている。

「これ、この鞄の中にありました」

 坂巻は差し出されたボトルを受け取ると匂いを嗅いだ。

「ガソリンのようだな。この男が放火もしたってことか。火事騒ぎに乗じて屋敷に忍び込んだてえわけだ。馬鹿だな、放火は重罪だぞ。まあ、後は警察にまかせよう」



 やがて数人の警察官がやって来た。彼等はまず町田の戒めを解き、代わりに手錠を嵌めた。ロープと鞄も押収していった。次郎たち二人への聴取は明日、と言ってももう今日だが、改めて行うことになって、警官たちは引き上げていった。連行される町田はぶつぶつ呟きながら左足を引きずっている。「Mが」「ゼフィルス」などと言っているのが聴き取れたが、次郎には何のことやらわからなかった。百代はその様子を見て、

「足の骨、折れてるかもね」と言った。

「君、ホントに強いんだなあ」と次郎は感心した。


 警官たちが去るとまた二人になった。顔を見合わせて、何ということもなく笑い合った。

「それにしてもなんて日だろう。これじゃ、気持ちが高ぶって眠れそうにない。軽く一杯飲もうか」

「一杯だけね。明日もなんだか忙しそうだから」

 応接室に戻ると、次郎はクリスタルのカットグラスを二つキャビネットから出した。そこにコンビニで買った安いスコッチウイスキーを注いだ。一つを百代に渡して、

「これ、オールドバカラだから結構な金になるな。この部屋の調度品をみんな売れば、まだもう少しこの生活が続けられるかな。こんなこと考えている時点で、兄貴が言った呪縛が解けていないということなんだろうけど」と次郎は言った。

「私にも呪縛はかかっていたのよね。それに、今晩はいろいろあったけど、結局何も解決はしていない。いっそ、お兄さんが言ったみたいに、この家が焼けてしまえばよかったのかも。こんな古文書もろともにね」


 その時、コツコツと音がして、庭に面した応接室の窓に人影が写った。次郎は立ち上がるとカーテンを開けた。窓の向こうにいたのは鉄郎だった。

「噂をすればってヤツだ」

 窓の外の鉄郎は手を振って盛んに玄関の方角を指さしてから、そちらの方角に歩いて行った。

「兄貴が玄関に来いって言ってる。なんだろ? モモも一緒に来てみてくれよ」

 今夜これで何度目か、次郎が玄関の重いドアを開けると鉄郎のシルエットが立っている。隣には小柄な女性がいた。

「兄さん、大丈夫なの? 病院は?」

「この通りぴんぴんしてるよ。病院には行かなかったんだ」

 すると次郎の後ろにいた百代が、小柄な女性に向かって、

「リコ! リコなの? どうしてあなたがここに?」と言いながら前に出た。

「どうしてって、黙っていなくなったのはモモの方でしょうが。でもまあ許す。無事で本当によかった」と莉子が答えた。

 百代が莉子に駆け寄り、二人はそのまま抱き合った。鉄郎は次郎に向かって、

「その様子じゃ、外の異変に気付いていないようだな」と言う。それで次郎も外に出た。不思議なほど明るい夜だった。まるで白夜だ。鉄郎が指差す先の空に、明るい尾を引いた彗星が見えた。莉子はスマホを見せながら、

「いま世間は彗星のことで大騒ぎよ」と言う。百代も空を見上げると、

「あっちにもあるわ」と言った。指差す先に、もう一つひときわ明るい彗星があった。


「そう、彗星が同時に二つ出現したんだ。核が割れて分かれたらしい。それに当初の予想よりずっと明るいし、大きい。月があるのにこれだけ明るく見えるのはマイナス2等なんてレベルじゃないな」と言ってから、鉄郎が右手を挙げた。ポケットの中の端末が振動したようだ。百代も自分の端末を取り出すと、

「私にも来てる。えーっと、『ただちに旧蘆岡家住宅に行くこと』ですって……」と、メッセージを読んだ。

「俺のも全く同じ文面だ。どういうことだ。百代クンはどこから指示を受けて動いているの?」と鉄郎が驚いた顔で訊いた。

「たぶん、『BTE出版』という会社ですけど」と百代が答える。鉄郎はしばらく口を開けたまま黙っていたが、

「…そういうことだったのか、それなら君は初めて会う俺の同僚ということになるな」と唸るように言った。

「『旧蘆岡家住宅』って中の日本間のことだよね。何があるのかわからないけど、この際だから行ってみようよ」と次郎が言う。莉子が遠慮がちに訊いた。

「あの、あたしも一緒に行っていいのかなあ」

「君一人置いて行けるもんか。一緒に行こう」と鉄郎が言って、四人は揃って屋敷の中に入っていった。

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