8 「あの日」の絵空事
Ⅰ
幼い子供を助けて奇禍に遭った紺野藍造は、病院に運び込まれ、すぐに処置を受けた。だが意識は戻らず、昏睡状態が続いていた。病床で死に瀕している彼の脳内スクリーンに映像が浮かび上がった。
モノクロ映画のような一面の灰色だった。よく見ればそこここに色はある。目を凝らせば赤や青や黄の原色が見て取れた。だがそれが細かく粉砕され、混ぜ合わされると、結果としてまるで灰色一色のように見えるのだった。
今は遠いあの日の記憶だった。紺野はテレビの画面を眺めている。傾いたビルの屋上に船が載り、他にも帆柱のような船の残骸が見えた。そして車とその残骸、家とその残骸、もはや何とも分からぬ夥しい塵や芥が幾重にも積み重なって点々と山が出来ている。その向うに沖から黒い塊が迫って来ていた。
音はない。アナウンサーの絶叫が煩いので消音モードにしていたからだ。映し出されているのは上空を飛ぶヘリコプターからの映像だった。現地からの報道によれば空港も被災しているはずなのだが、このヘリコプターはどこから飛んできたのだろうか。あるいはこの事態とは関係なく既に飛んでいた機体なのかもしれないと思った。ヘリからこの情景を伝えている彼か彼女かは、今何を思っているだろう。
画面上に動いている芥子粒のようなものが見える。自動車だった。駄目だ、と思わず声が出そうになる。避難しようとしているなら方向が違う。そちらには今まさに津波が迫っているのだ。呼吸が苦しい。見たくないと紺野は思った。この映像を見始めてから、感情らしい感情を自覚したのはこれが初めてだった。見続けるのが辛い、なぜこんなものを見せられなくてはならないのか、と思った。だが、テレビの前から離れることが出来なかった。
激しい揺れを感じたのは30分ほど前だろうか。当初、紺野は全く慌てなかった。彼のオフィスが入っている建物は、戦後間もない頃に建った古いビルディングで、都心の近代的なビル群の中では異彩を放っていたが、実はかなり堅牢な作りであることを彼はよく知っていた。その上、16年前に西日本を襲った大地震の後に耐震補強工事を行っている。彼は立ち上がると、念のために玄関のドアを開けに行った。建具が歪んで開かなくなり、部屋に閉じ込められることの用心のためだ。
もっとも、彼が動じなかった理由は他にあった。昨日のうちにコンピュータから、地震に対する注意情報がもたらされていたのだ。それによると一両日中に東北地方を中心に広範囲にわたって震度6弱程度の地震が起きる可能性が70%程度あるということだった。一昨日にM県等で観測された最大震度5弱の地震と、その後群発している体に感じない程度の微小地震からの想定だという。そしてこれに伴って「組織」から紺野に下された指示は「禁足」だった。静観せよ、もし災厄が起こっても、被災地には決して近づくなという意味である。紺野は微かな痛みを感じたが、その時にはまだその正体に気付いていなかった。
災厄が迫っていることを「組織」が覚知する仕組みについては、紺野も詳らかには知らなかった。世界中に散らばっているとされる調査員からもたらされる報告によるものもあるだろうが、多くはコンピュータシステムに蓄積された夥しいデータにアクセスすることで得られる情報をもとに演算しているのだろうと考えている。そして、数ある自然災害の中でも最も予知が難しいのが地震なのである。「組織」では過去に大地震を回避するプロジェクトが検討されたこともあるが、事実上断念されていた。今回も「組織」が地震の危険を認識した時には、もはやそれは避けられないものになっていたのだろう。避けられない災厄にはコンピュータは興味を示さないのだ。
「組織」は慈善団体ではなく、まして災害救助ヴォランティアでもない。回避不可能な災厄に関わったところで、もはや「組織」に出来ることは何もないのである。おそらく被災が予想される地域にいる調査員には安全確保の指示が出ているのだろうが、それを口外することは止められているはずだ。現状変更に繋がることを厳に戒められているからである。自分の安全のみを優先し、パニック災害を避けるためという名目で周りの人間を事実上「見殺し」にすることもあるのだ。今、東北地方に在住する調査員たちはさぞジレンマに苦しんでいることだろうと思った。
そしてこの日の午後、大きな揺れが来た。不気味なほど長く揺れは続いた。これはコンピュータの想定よりも大きそうだ、こちらでこれなら震源地付近は震度6などというものではないだろうと思った。揺れがおさまると紺野はテレビをつけた。各地に津波警報が発令されたというニュースに続いて、空撮映像になったのだった。ヘリで取材をしている記者は、自分は安全地帯にいながら津波に吞まれようとしている人々を眺めている。その立場は「組織」の調査員と似ている。今それを見ている自分もまた、無力なのは同じだった。
川を波が遡上してくる。次いで黒い塊が這うように進んできた。黒い舌で舐めとるように、家や車を飲み込んでゆく。瓦礫の中には墓石や卒塔婆のようなものも見えた。画面が小刻みに揺れるのは、カメラマンの手が震えているからではないのか。画面の左隅に「M県上空」というテロップがあった。そうか、と思った。昨日来の喉に刺さった魚の骨のような痛みの正体にようやく気付いたのだった。
紺野が一人で暮らすささやかな住居は他にあったが、普段からこの事務所に寝泊まりすることもあった。多くの鉄道路線が運転を見合わせている状況下で、無理に自宅に戻る必要はない。家に居てもここに居ても一人なのは同じ、彼には家族などいないのだ。別れた妻との間に娘が一人いただけだ。過去形なのは、もう八年も前から音信が途絶えているからだ。去る者は日日に疎しで、思い出すことも最近は殆どなくなっていた。
元妻の遼子とは別に憎み合って別れたわけではない。少なくとも彼はそう思っていた。それを言うなら彼女とは深く愛し合って結ばれたというわけでもない。彼はただ流れのようなものに逆らわなかっただけなのだ。
自分にはもともと使用人気質とでもいうべきものがあるのだと思っている。彼の両親がともに吉岡家の使用人だったこともあって、彼は物心ついて以来ずっと、自分も使用人の一人だと思って育った。親の手伝いをすることが、そのまま主家の用足しであることもしばしばだった。高校を卒業すると、そのまま自然に父の跡を継いで吉岡家の執事となる道を選んだ。誰に強いられたわけでもない。勉強は決して嫌いではないし、大学に進むという選択肢もあったが、大学に行ってまで研究したいテーマが見つからなかった。昔から本を読むことは好きだったが、彼の場合は一種の活字中毒とでもいうべきものだった。視野の片隅にでも文字が入れば必ず読もうとする。そして読めない文字や、意味の分からない単語があればそれを調べずにはおれないのだった。つまり、彼にとって本は読めることが大事で、内容は二の次だった。そして吉岡家の書斎には、彼が一生かかっても読み切れないほどの大量の蔵書があったのである。
吉岡家の執事となった紺野に、すぐに縁談が来た。相手の遼子は主家と取り引きのある画商の娘で、どうやら彼の方が見初められたらしい。彼にも彼の両親にも否やはなかった。そして彼は彼なりにこの新妻を大切に扱ったつもりだった。二人の間に娘も生まれたが、結局結婚生活は五年ほどしか続かなかった。
ある朝、思いつめた表情の遼子から離婚を切り出された。彼女は「なぜあなたを好きになったか、その時のことが思い出せなくなった」と言った。「あなたは物静かだしとても優しいけれど、あなたといても生の実感が得られない」とも言った。「使用人気質」というのも、その時彼女に投げかけられた言葉だ。彼は自分が結婚という形態に向いていないことを改めて思い知らされた。あっさりと離婚を了承した時に彼女が浮かべた、驚いたような表情を今でも時折思い出す。彼女は彼が変わってくれることを期待していたのかもしれなかった。
そんな彼でも、ただ一人血を分けた肉親である娘の葉子のことだけは可愛がっていた。離婚後は月に一度、決まった日に面会していただけだったが、その距離感もほど良かったのかもしれない。
紺野が43歳の時、主人の吉岡弥太郎が「組織」の立ち上げに関わると、彼は執事をやめて組織の調査員になった。その後「組織」からの命令で、「IT起業家」という偽の肩書で米・カリフォルニア州に出張した。約三年をかの地で過ごして帰国すると、娘の葉子との連絡が取れなくなっていたのだった。彼女は結婚を周囲に反対され、駆け落ち同然で家を出ていた。この時ばかりは彼も元妻を強く詰った。葉子は自分の再婚相手ともうまくやってくれていたので、いきなりこんな衝動的な行動に出るとは予測できなかったのだと遼子は言う。だが考えて見れば、もともと紺野との生活に安住できなかったのは彼女の方だ。家を捨てて飛び出してゆくような激情も、母親譲りなのかも知れないと思った。そしてそんな葉子のことを、彼はずっと好ましく思ってきたのだ。ここは彼女の希望をかなえてやりたいと思った。遼子と話し合って、葉子の方からレスキューを求めてくるまでは好きにさせようということになった。それからもう八年になる。葉子はおそらく東北のM県にいる、とその時遼子は言っていた。
もちろんM県というだけでは、今回の被災地の近くかどうかは分からない。だが、駆け落ち相手の家は港の近くにあると聞いた記憶がある。すぐに彼は遼子に電話をかけてみた。だが、何度かけても携帯はつながらなかった。回線がパンク状態で通話制限が掛かっていると、テレビも報じていた。焦燥感が募る。回線が回復するのを待っていては手遅れになるかもしれない。とにかく北を目指して行ってみようと思った。折よく車の給油をしたばかりだった。「禁足」の指示は破ることになるが、娘の生存さえ確認できればいいのだ。それなら現実に干渉することにはならないだろう。
彼は非常持ち出し用のリュックサックと道路地図、あとはあるだけのペットボトルを持って事務所を出た。葉子と会うことが出来ていた頃に、彼女と交わした会話をなんとか思い出そうとしていた。
Ⅱ
よく晴れた日曜日の午後、紺野藍造は改札の前に佇んでいた。接続する私鉄駅の方からゆっくり歩いてくる葉子の姿を見つけて手を振ると、葉子も嬉しそうに手を振り返してくる。今年十六歳になる思春期真っただ中の娘と、こんなふうに接することが出来る父親は世間にそれほど多くはないだろうと思うとなんとなく誇らしかった。これなら離婚したのも悪いことばかりじゃなかったと思えてくる。葉子はオーバーオールというのか、上下つなぎになったデニムを着て麦藁帽子を被っていた。葉子に似合っていたが、ファッションには疎い紺野でもそれが最近の流行というわけではないとわかる。ここに来る電車の中にも、似たような服装の子は見かけなかった。我流を通す、良く言えば周りに流されない子どもに成長してくれているようだ。
いつもなら紺野が家まで迎えに行くのだが、この日は「港に行きたい」という娘のリクエストで、外で待ち合わせることになったのだ。
「どこに行く?」と訊くと、
「まずは帆船が見たいかな」と言うので、帆船が展示されているドックの方に向かった。そのまま入場券売り場に向かおうとすると、葉子は「外からでいい」と言う。
「外から見ている方が好きなんだ。ねえ、昔もお父さんとここに来たの、覚えてる?」
覚えているも何も、紺野にとってはつい昨日のことのように鮮明な思い出だった。この子がまだ七歳か八歳くらいの頃の事だ。帆船が退役してこの港に係留されてから間もない頃で、今は帆船を取り囲むようにして整備されている博物館もまだ建っていなかった。ちょうど総帆展帆の日に当たっていたので、訓練生たちが総出で真っ白い帆を張り渡す作業を行っていた。葉子はその様子を、いつまでも飽きもせずに座って眺めていたものだ。
「君の方こそ、よく覚えていたね。あんなに小さかったのに」
「あれは忘れないよ。でも、もうあの時みたいに地べたに座って見てられないんだね。残念。ここらあたりもすっかり変わっちゃったなあ」
まるで年寄りのような物言いが可笑しくて紺野は笑った。視界の中にあった観覧車を指さすと、「あれに乗ってみよう」と誘った。だが、乗り場には既に長い行列ができており、最後尾には待ち時間1時間というプラカードを持った係員が立っていた。葉子は「時間が勿体ない。諦めようよ。日曜だからしょうがないよ」と言い、近くにあったカフェコーナーに入ることにした。こちらは空いていて、窓の外に帆船の姿がよく見えた。セルフサービスの飲み物を受け取って席に着くなり、
「学校はどう? 何か部活には入った?」とまずは訊いてみた。葉子はこの春から私立の女子高校に通っているはずだ。
「うん、歴研」
「レキケン?」
「歴史研究部だよ。たったの三人しか部員がいないんだけどね」
「そりゃまた、シブいね」と言って少し驚く。もともと好奇心旺盛な子だが、歴史好きだという話はこれまで聞いたことがない。
「顧問の先生がなんかいいんだよ。庄司先生。『教科書に載ってるのは歴史の上澄みに過ぎない』っていうのが口癖。もともとは生まれた土地の郷土史を専門に研究してたんだって。なんか有名な歌枕の地の傍で生まれたって言ってた。」
「その先生ってのは男? 若いイケメンなのか?」
「男だよ。まだ三十前かな? カッコいいかって言ったらそうでもない。『好きかも』って友達に言ったらドン引きされたもん。『葉子、趣味悪っ』て」と言って笑った。
「そうか、君が歴史に興味あるなら、あれを持ってくればよかったな」
「あれって?」
「うん、僕が勤めている吉岡家に伝わる古文書を解読して、ちょっとした論文みたいなものを書いてみたんだ。それを『吉岡記念財団研究員』っていうもっともらしい肩書をつけて、『地誌研究』っていう、昔からある結構マニアックな学術誌に送ってみたら、これがまんまと掲載されたんだ」
「へえ、凄いじゃん。えっ、読んでみたいんだけど」
「じゃあ今度送るよ。でも論文だから用語とかが難しいし、正直そんなに面白くはない。どんな話か先にざっと聞かせておいてあげようか。
文久三年というのは西暦で言えば1863年だから、明治維新の五年ほど前だね。この年の秋七月、吉岡家のご先祖にあたる蘆岡次郎右衛門という人のもとに、安斎百という人物がやって来て少なくとも四か月以上逗留したんだ」
「7月が秋なの?」
「昔の暦ではそうだ。七夕は秋の季語だって習わなかった? この頃の暦は今とは違って月の満ち欠けを基準にした暦だから、厳密には文久三年と西暦1863年はぴったり同じじゃないんだけど、まあ今はそれはいい。とにかくこの、アンザイモモと読むんだと思うんだが、この人は次郎右衛門ととても仲がいいらしく、毎晩のように一緒に天体観測なんかしてるんだ。だけどどういう人物なのか、正体が分からない。越後かどこか、かなり遠方からやって来た珍しい客人としか書いてないんだ。一体次郎右衛門とどんな関りがある人なんだろう。気になって、兎に角片っ端から周辺の文書を読んでこの人物を探してみたんだ」
「ふうん。で、見つけた訳ね」と葉子がやや食い気味に訊いてくる。なんだ、意外にこういう話が好きなんじゃないかと思う。
「その三年ほど前、万延元年の閏三月。閏三月はわかる?」
「うるう年ってことでしょ?」
「当時の太陰太陽暦という暦では、うるうは一九年に七回の割で、丸ごと一か月増やしていたんだ。三月の後に閏月を入れると、それが閏三月になる。…まあ、詳しくはショウジ先生とやらに聞いてみてくれ。で、その閏三月に次郎右衛門の娘が『瘧』に罹って苦しむんだな。瘧というのは熱病の一種で、マラリヤのことなんじゃないかと考えられている。娘が苦しんでいるのを見兼ねた次郎右衛門は、越後の国に早飛脚を送って『ももよ様』に来てもらえないかと頼んだというんだ。そして実際に『ももよ様』がはるばる江戸までやって来て、『瘧落とし』のご祈祷を行ったんだ。僕はこの『ももよ様』と安斎百は同一人物なのではないかと考えたわけ」
葉子は続きを促すように目を大きくして黙っていた。
「それから更に遡って、安政二年の記述に興味深いものを見つけたんだ。西暦1855年だね。この年の十月二日に江戸に大地震が起きるんだ。約六千人が亡くなったとされている。次郎右衛門の日記にはこの地震の余震の回数や大きさ、日時が克明に記録されているんだけど、何故だか本震があった日のことはほんの数行しか書かれていないんだ。次郎右衛門は隅田川の東岸に居て、そこで被災したらしいんだけど、そのことは、この日行動を共にしていた『安斎様の御息女』という人のお導きで難を逃れたと書いてあるだけなんだ」
「具体的に書いてないのが、かえって気になるね」
「そうなんだ。隅田川の東岸っていうのは、今風に言えば歌舞伎町とか、渋谷のセンター街みたいな繁華街のイメージだよ。次郎衛門はそんなところで『安斎様の御息女』と一緒に何をしていたのか」
「その安斎様というのは、武士階級なの? 蘆岡次郎右衛門は武士じゃないよね」と葉子が訊く。紺野はしばらく考えて名字のことを言っているのだと気付いた。
「吉岡家の先祖は、江戸時代には蘆岡と名乗っていた。代々村役人を務める豪農だったんだけど、新田開発に活躍したりして、領主から名字を許されていたらしいんだな。安斎家の方は僕なりにいろいろ調べてみたけど、結局どんな家なのか全くわからなかった。で、僕はこの安斎家の御息女で、その日次郎右衛門を助けたという女性が、ももよ様であり、安斎百だと思うんだ。その人がどんな方法でか、次郎右衛門の命を助けた。娘のために祈禱もした。霊能力があるようにも書かれてる。天文学にも詳しかった。そんな女性が実在してたら魅力的だと思わないか? で、この辺りのことを論文風に書いてみたわけだ。だけどあくまで『風』だよ。こんなのただの嘘っぱちと言われても仕方がない」
「嘘っぱちってことはないと思うけど」
「確証は何もないんだ。たまたま似た名前の人物がいたというだけかもしれない。嘘っぱちと言って悪ければ絵空事だな。人はそうやって点と点をつないで物語をつくるんだよ。絵空事ついでにもう一つ。安斎百が蘆岡家に長逗留した翌年の元治元年の記述を見ると、蘆岡家に男児が一人加わっているんだ。名前は藍介。不思議なのは次郎右衛門の妻が懐妊したなんて、日記にはどこにも書いてないんだ。妹や娘がお産をした形跡もない」
「つまりその男の子は安斎百の子だってこと?」
「そう考えるのが自然だろう。僕はね、君もということになるけど。自分がその安斎百という人の子孫かも知れないと空想してみたんだよ。藍介と藍造。それこそたまたま名前が似てるだけの絵空事だろうけどね」
「でもロマンがある」
「ロマンね。もう君も高校生だから、こういう話をしてもいいと思うんだが、この世に流布している話に、絶対の真実なんてないんだと僕は思ってる。この世界に普遍的な意味なんてものはなくて、人々がそれぞれの意味を与えているだけなんだ。だから立場が変われば見えている世界も変わるし、正義も変わるんだ。僕が言う絵空事というのはそういう意味だ。あまり変なことを吹き込むなって、君のお母さんには叱られそうだけどね」
「ふうん。ねえ、お父さん」と葉子が顔を上げて正面から父の顔を見た。
「何?」
「お母さんと一緒に観覧車に乗ったことある?」
紺野は驚いてかぶりを振った。
「いや、まさか。そんなのあるわけないさ」
「乗ればよかったのに。乗るべきだったんだよ。絶対」と葉子は言うと、ズズッと音を立ててクリームソーダの残りをストローで吸い上げた。
Ⅲ
紺野藍造は女の懐深く引き寄せられた。意外に強い力だった。女の顔は見えない。若いのか年寄りなのかもよくわからなかった。女の身体はどこに触れても熱く、柔らかかった。これは夢なのだと知っていたから、紺野は安らいだ気分でされるままになっていた。やがて微かな痛みを伴った痺れの感覚がやってきた。それからまた深い眠りが訪れた。
目が覚めてもしばらく、自分がどこにいるのか思い出せなかった。重い掛布団が載っているようで体の自由が利かない。すると鎖骨のあたりに湿った暖かい息がかかり、そこで初めて自分が体の上に載せているのが掛け布団などではなく、生きた人間であることに気がついた。それも女性だった。女性はほとんど裸で、寝ている紺野の上に覆いかぶさり、その上から自分のコート等の着衣をかけているようだった。よく眠っている。
紺野は今の状況を把握しようと努めた。ここは彼の車の中で、彼はシートを倒して寝ているのだということにまず気付く。それからテレビの映像が脳裏に蘇ってきた。見渡す限り灰色一色に染まった、塵芥が積み重なった町。そうだ、自分はあそこに向かおうとしていたのだと思い出す。
昨夜、社用で使っているワゴン車に乗り込むと、紺野はとにかくM県の方向に向かうことにした。遼子との連絡が回復した時点で、少しでも娘が今いる場所の近くに居たいと思ったからだ。高速道路は通行止めなので国道4号線を北上した。都内の道路の歩道は徒歩で帰宅しようとする人々でごった返し、車道は赤いテールランプばかりが見えていた。道路に面した店舗は煌々と灯りを点けていたのでまるで真昼のような明るさだったが、郊外に差し掛かり、交通量が減ってくると今度は嘘のように暗くなった。停電しているのかもしれないと思った。紺野はあまり運転が得意というわけではないし、夜のドライブには慣れていない。余震も続いているのでスピードは出さず、慎重に車を進めた。ヘッドライトに白っぽい人影が浮かび上がり、慌てて紺野はブレーキを踏んだ。すぐに助手席側のドアがノックされた。窓を開けると、
「すいません、この車はどこに向かっているんですか」と叫ぶような女性の声が聞こえてきた。
最初にフロントグラスに見えた人影は高齢者のように思えたのだが、聞こえた声は若かった。そもそも紺野には、女性の年齢がよくわからないのだった。ヒッチハイクにしてはずいぶん乱暴だと思ったが、こうでもしないと停まってもらえないのかもしれない。
「一応、M県を目指しているんですが」と叫び返す。
「MS市まで乗せて行ってもらえないでしょうか。そこの避難所に家族がいるはずなんです」
MSは目指すM県よりはだいぶ手前だ。乗せて行ってやろうと紺野は思った。
「後部座席に座ってください。ちょっと散らかってますが」
「ありがとうございます」
乗り込んだ女性がシートベルトを締めるのを確認して車を出した。女性はそれ以上何も語らず、紺野も敢えては訊かなかった。そんなことより運転に集中したかった。夜道をひたすら走り続け、県境を二つ跨いだ。紺野は路肩が比較的広くなっている所を見つけると車を寄せた。猛烈な睡魔に襲われていたのだ。
「申し訳ないが、眠くてもう限界だ。これ以上走ったら事故を起こしてしまう。あなたも少し休んだらどうかな。それか、先を急ぐなら先に行く車を見つけて乗り継いでくれてもかまわない」
返事を聞かずにサイドブレーキを引き、エンジンを止めた。そしてシートを倒すとそのまま、正体もなく寝入ってしまったのだった。
ふと、上に乗った女が身じろぎをした。前を隠すようにしながら上体を起こす。ドアが開いて冷たい風が入ってくる。女は紺野の体から降り立つと、背中を向けて素早く身づくろいをした。やはりまだ若い女性のようだった。どうして最初老婆だと思ったのかと不思議に思った。だが、そもそもこの人は昨夜の女性と同一人物なのだろうか。それすら怪しい気がしていた。
「ごめんなさい。とても寒かったので」と小さな声で女性が言った。
「えっ」
「明け方。霙が降ってとても冷え込んだから、あなたが風邪を引いたりでもしたら大変だから、温めてあげようと思って、私……」
「ああ、そのことはもういいです。お互いに忘れましょう……」
すると女性はこちらを見て言った。「あの、トイレとか行きたくありませんか。私ここから先は土地勘があるので、ご案内します」
確かに尿意は感じていた。紺野は外で済ませることもできるが、彼女はそうはいくまいと思った。改めて助手席に座り直してもらった彼女の指示に従って車を走らせると、営業しているガソリンスタンドが見つかった。トイレも清潔だった。これから先のことも考えて給油もしてもらうことにして、その間にコーヒーを飲んで一息ついた。
そこから先の道はあちこち寸断され、迂回路になっていたが、彼女のナビゲイトは常に的確で、ほどなく目的地のMS市の中学校に到着した。ここが避難所になっているらしい。
「ありがとうございます。本当に助かりました。で、もしよければ30分ほどここで待っていていただけないでしょうか」
そう言うなり、彼女は紺野の答えも聞かずに避難所の方に小走りで行ってしまった。紺野は携帯電話を取り出すと、また遼子にかけてみた。だがまだ回線は復旧していないようで、やはりつながらない。さてこれからどうしようと思った。あの女性を避難所に送り届けるという役目はこれで果たしたはずだ。彼女を残して出発しても罰は当たるまい。だが、彼にもこの先の妙案があるわけではなかった。
迷ううちに時が過ぎ、予告通りきっちり30分後に彼女は戻ってきた。
「ご家族には会えましたか。御無事でした?」と訊いてみる。
「ええ、ありがとうございます。で、あなたがお探しの方の居場所もわかりましたよ」
紺野は驚いて女性の顔を見た。女性の表情からは何も読み取れなかった。
「あなたがお探しの方は、T市に居る筈です。もっとも、安否まではわかりませんが」
「君は…君は『組織』の人間なのか? いや、いい。答えなくて」
昨夜からの彼の行動は筒抜けになっていて、コンピュータの掌の上で転がされていたということなのだろうか。女は機械のような声で続けた。
「よろしければTの避難所までご案内します。今出れば日が暮れる前に着けると思います」
そこからまた、彼女の指示に従って車を走らせた。そうか、と思い当たった。M県のT市には百人一首の歌にも詠まれた有名な歌枕があるのだ。葉子の駆け落ち相手というのはいつか聞いた高校の歴史教員だった男に違いないと思った。
それにしても、「避けられなかった災厄に『組織』は関わらない」という認識は少し違っていたのかもしれない。紺野は考えを改めざるを得なかった。被災地に残っているメンバーたちには何らかの指示が与えられているのだろう。他にも、最悪の事態を回避するための後方支援的な動き等もしているのかもしれないと思った。
Tの町を通る主要な幹線道路は津波に被災して大きな被害を出していた。既に水は引いているが、当分通行できる状況ではないという。紺野たちは内陸側からTに向かっていた。
「この先にある音楽ホールが広域避難所になっていて、あなたが探している人はおそらくそこに居ます。私たちは手前で車を降りて、徒歩で向かいましょう」
何故とはもう訊かなかった。彼女の言葉はつまりコンピュータの言葉なのだ。そこには必ず意味があるはずだ。彼等が車から降り立った辺りは津波の被害は受けていないようだが、倒壊した家屋がいくつもあった。空が広く感じられる。女が先に立って歩き、目的地の音楽ホールを目指した。あたりには地震で壊れた建物から出た瓦礫や塵芥が即席のぼた山のようになって点々としていた。これまで嗅いだことがないような独特の臭気が漂っている。そんな瓦礫の山の一つに、大きな人形が捨てられているのが目を引いた。よく見ると人形ではない。女児が蹲っているのだった。女は気づくとすぐに走り寄って傍らにしゃがみこんだ。しばらくして紺野を振り返り、「生きてます」と叫んだ。
紺野も駆け寄ったが、こういう時にどうすればいいかわからない。女は冷静で、「お水飲める?」と訊いている。女児がかすかにうなずくのを見て、紺野はペットボトルを差し出した。すぐに女が飲ませてやる。その時女児が目を開けて紺野を見た。その顔を見てやはりそういうことかと思った。何かすぐに食べられるものをと思い、リュックサックを探ってチョコレートを女に手渡した。
「お名前は? いくつ?」と女が尋ねると「ハラダシオリ 6歳」と女児はしっかり答えた。衰弱しているだけで怪我などはなさそうだ。
「とにかく音楽ホールに連れて行きましょう。救護所も開設されているはずです」と女が言い、紺野が女児を背負った。歩き出してすぐ、実は音楽ホールはもう目と鼻の先だったことを知った。
救護所の担当者に女児を引き渡した。女児は疲労と空腹で動けなくなっていただけで、怪我などはないということだった。その後別室に呼ばれて発見時の状況などを説明しているところに「しおりーっ」という女性の甲高い声が聞こえてきた。どうやらあの子の母親が駆けつけてきたらしい。それから、「この子を見つけてくれた方はどちらに」という声が近づいてくる気配がした。聞き覚えのある声、やがてそこに姿を現したのは十年以上経って少し面変わりしていたが、紛れもなく葉子だった。女の子がその足にしがみついている。先ほどの女児だろう。葉子は紺野を認めると一瞬だけ戸惑い、次にその瞳が驚きで見開かれた。もちろん、紺野はとうにこの流れを予期していた。
「お父さん? お父さんなの? えっ、えっ、お父さんがしおりを見つけてくれたの?」
「いや、見つけたのは僕じゃなくて……」と言って紺野は傍らを見たが女はもう姿を消していた。引き際も完璧だと、今更ながらに感心した。
「しおり、という名前なんだね。幼かった頃の君とよく似てる。賢い子じゃないか。ここで落ち合うことに前から取り決めていたんだろ。この子がいたのはほんのすぐそこだよ」
「そうだったの。栞、見つけてあげられなくてごめんね。お父さん、この子の名前は、読みかけの本に挟む栞から取ったの。私もお父さんと一緒で本が大好きだから。この四月から小学校に上がるはずだったんだけど……」
「この子の父親は?」と訊くと、葉子は目を伏せて首を横に振った。
「そうか。その人は例の歴史の先生じゃなかったの?」
「その人よ」
「聞いていた名前とは違う気がしたんだが」と言うと、葉子はほんのわずかだけ笑ったように見えた。
「あれ、庄司先生っていうのは名前の方を呼んでたの。姓は原田。原田庄司。こっちに帰ってきてからは短大で教えてたんだけど……」
紺野は手を挙げて、その先を制した。栞はまだ父親の死を理解できていないだろう。それから言った。
「車で来ているんだ。一緒に東京に帰らないか」
葉子はしばらく考え込んでいた。やがて口を開いた。
「ありがとう、お父さん。でも私もこっちに来てからいろんな人と縁が出来たんだ。これからも助け合っていかなきゃならないから、私はここに残ります。だけど栞のことは縛りつけたくないの。勝手なお願いだけど、もし、この子が東京に出て行く時は応援してやってほしいの。我儘でごめんなさい」
「我儘なもんか。君のお母さんだって決して君のことを責めやしないだろうよ。落ち着いたら連絡してみるといい」
すると葉子は、今度こそはっきりと悪戯っぽく笑った。
「ねえ、お父さん。覚えてる?」
「何を?」
「お父さん、昔私に『この世界には物語なんてないんだ。全部絵空事なんだ』って言ったじゃない。でも、お父さんは私のために、会ったこともない孫娘を助けてくれた。これは凄いことだよ。これは絵空事なんかじゃないよ。絶対」
そう言いながら、葉子は両目から涙をぽろぽろと零している。だが、残念ながらこれもやはり「絵空事」なのだと紺野は思った。その絵を描いたのはコンピュータで、自分はそれに踊らされただけだ。だがそれを今ここで説明することはできなかった。それに自分が娘を助けたい一心で、後先考えずにここまでやってきたことだけは真実だ。だから、
「確かにそうだな。お父さんが間違っていたのかもしれない」と紺野は言った。
「栞、あなたを助けてくれたのはあなたのお祖父ちゃんなのよ。さあ、お祖父ちゃんにご挨拶しなさい」と葉子が言って娘の両肩に手を置いた。すると栞は、
「たすけてくれてありがとう、おじいちゃん」としっかりした声で、真直ぐに紺野を見て言った。有難い、まだ自分にはこの子がいると紺野は思った。
病院のベッドで眠り続けている紺野の閉じた目尻から、その時雫のようなものがあふれて落ちた。




