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彗星の夜  作者: 秋田清
7/10

7 もがれた翼

 父が姉を見るときの眼差しには、一種の「熱量」がある。暗い瞳の奥に炎が見える。その暗い炎はまるで、古代の人が初めて見た山火事の火のようだ。そのことに塔子が気付いたのは思春期になってからだったろうか。否、物心ついてからずっと知っていたような気もする。塔子に対して父がそんな眼差しを向けたことは、かつて一度もなかった。


 姉の翔子とは一卵性双生児である。塔子の方がほんの僅かだけ耳たぶが大きいのだが、他に目立った違いはない。だから祖父母は全く二人を見分けることができなかったし、母でさえよく間違えた。幼い頃は、二人を識別するために胸にSとTのイニシャルが大きくプリントされたお揃いのシャツや、もっとわかりやすく、翔子はピンク、塔子はブルーの色違いのシャツを着せられていることが多かった。それをこっそり「取り換えっこ」して大人たちを騙すのがいつしか二人の間で無上の愉しみになった。そして二人が入れ替わっていることを見破るのは、いつも決まって父なのだった。

 塔子は姉に遅れること七分で母の胎内からこの世界に出てきた。祖母は、「昔の考え方ならお前の方がお姉ちゃんだったんだよ」などとよく言ったものだったが、塔子にはそんなことは考えることもできなかった。なぜなら彼女にとって、いつでも姉は絶対的に姉だったからである。毎年の身体測定の結果も(悔しいことに体重の方は塔子の方がいつもほんの僅か重かったのに)、身長は姉が常にきっちり0.5センチ高かった。そして学業成績でも運動でも、塔子はただの一度も姉に勝てなかった。どんな時も落ち着いていて口数の少ない姉と、おしゃべりで落ち着きがなく、よく笑う妹。母は、「塔子は考えていることがすぐ顔に出るけど、お姉ちゃんはお腹の中で何を考えているんだか分かりゃしない」とよくこぼしていたものだった。


 姉とのことで思い出すのは、「あやかしあやと事件」である。小学校高学年の頃、市議会議員選挙があり、校門の前の掲示板に選挙ポスターが貼りだされた。光沢のある紙にカラー印刷のポスターが並ぶ中に一枚、子供が書いたような字で「あやかしあやと」と書かれた更紙のような紙が貼られていた。「あやかしあやと」とは何者か、実在するのか、それとも誰かの悪戯なのか、選挙に興味のない小学生の間でも瞬く間に噂になった。そしてそれは数日後に明らかになった。


 「あやかしあやと」は若めの小父さんだった。当時の塔子の感覚でお兄さんと呼ぶには老成し過ぎているが、かといって父親ほどは年長ではない。おそらく三十代半ばだったのだろう。ぼさぼさの髪と、ポスターの更紙とよく似たガサガサの肌をしていた。鼠色とも黄土色ともつかない色の(後にそれがカーキ色というのだと知った)長いコートを着て、ママチャリに乗っている。荷台には旗指物のようなものが括り付けてあり、赤い布の旗には黒い字で「あやかしあやと」と書いてある。ポスターと同じ字だった。あやかしあやとは演説をするわけでもなく、自転車で町内をただ走り回るだけだった。放課後の子供たちは彼を見つけると、口々にその名を叫んで駆け寄る。彼は子供たちを見ると慌てて方向を変え、自転車を漕ぎ出す。子供たちがそれを追う。中には罵声を浴びせかける子や、ふざけて石を投げつける子もいた。


 ある日の放課後、塔子は一緒にいた数人と彼を追いかけた。姉も少し後から付いて来ていた。気付くと他の子たちはみんな脱落して、塔子一人が自転車を追いかけていた。町外れの両側が畑になった道まで来ると彼は自転車を道の脇に停め、まっすぐ塔子に向かって来た。彼女はびっくりして体が硬直してしまった。男はゆっくり彼女の前まで歩いてくると、コートの前を開いた。その下には何も着ていなかった。がっしりと大きな手で両肩を掴まれて塔子は思わず目をつぶった。その時、ひゅっと音がしたと思うと肩を掴む手が離れた。目を開けると男が頭を抱えて蹲っていた。辺りには大量に血が撒き散らされている。足元に拳大の石が落ちていた。翔子が真直ぐにこちらへ走ってくるのが見えた。塔子は「お姉ちゃん……」と言ったきり、後が続かなかった。

 翔子は妹の危機に、とっさに石を投げて見事凶漢の頭部に命中させたのだった。そして塔子の手を取ると、

「今日はお母さんの所に行く日だよ。早く行こ」と言って走り出した。――塔子の記憶はそのまま母の病室に繋がっている。それが同じ日のことだったのかどうか、今となっては定かではない。

 塔子たち姉妹の母は、少し前から重い病気で入院していた。「血液の癌」なのだと聞かされていたが、それがどういうものかは当時の塔子にはわからなかった。母は病室でも綺麗に化粧していたが、衰えは隠せなかった。髪が抜けてしまったのでかつらを着けていたが、間に合わせのような感じでまるで似合っていなかった。それまでも何度か見舞いには来ていた筈だが、姉と二人だけで見舞ったのはおそらくこの時だけだった。どうしてこの時に限って二人だけだったのか、これも今となってはよくわからない。唯一覚えているのは、母がすっかり細くなった手で塔子の両手を握りしめて、

「御免ね、塔子。でもお父さんの事、頼んだわね」と言ったことだった。すぐ隣に姉がいるのに、姉には何も言わず、一切視線を送らなかった。そして姉も何も言わなかった。


 姉と二人になってから、塔子は「あやかしあやとは死んだかな」と訊いてみた。姉はその時確か、

「馬鹿ね。大人はそんな簡単に死なないよ。お母さんだって『まだしばらくは』死なないからね」と答えたと思う。その言葉のせいで塔子の中では、あやかしあやとの記憶と母を見舞った記憶が、今でも繋がっているのだろう。

 あやかしあやとは子供たちの前に姿を見せなくなり、やがて忘れられた。母は、二人が中学二年生の春に亡くなった。ある意味姉の予言通りだったとも言える。父は人から勧められても再婚はせず、祖父母の力も借りて姉妹を育てた。


 県立高校に進学すると、井草というこの県では珍しい姓と、そっくりの双子だということで、姉妹はすぐに有名になった。だがすぐに、二人の間に格差がついた。翔子が演劇部に入り、一年からいきなり主役に抜擢されたのに対し、塔子の方は庭球部に入ったものの怠けがちで、成績もあまり振るわなかったからだ。姉は学校では女王様のように振舞い、いつも崇拝者の男子たちの通称「親衛隊」を引き連れていた。

 塔子は姉の舞台を見る気になれなかったが、一度だけ何かの行事の際、体育館で全校生徒の前で演じられたのを見たことがあった。自分とそっくりな姉が舞台上を動いて、言葉を発している。恥ずかしさから、劇の内容は全く入って来なかった。ただ、姉の「泣き」の演技には圧倒された。けっして大声を上げるわけではなく、声を殺してさめざめと泣いているのだが、その姿は本当に悲しそうに見えた。一体どうしたらあんなことができるのだろう。まるで何者かが憑依したようだと思った。


 三年生の秋、姉たちの演劇部は県のコンクールで金賞を受賞した。特別審査員として招かれていた高名な演出家は、特に姉の演技を称賛したという。姉は演劇理論が学べる学校に進学し、いずれは俳優になりたいと言い出した。褒められて急にその気になったわけではなく、姉はずっとそのことを考えていたのだった。だが父はそれを許さなかった。幾度とない口論の末、姉は父には一切口を利かなくなった。数日が経って、塔子は姉が机に突っ伏して泣いているのを見た。頬に赤い大きな掌の跡があった。父に付けられたのだろう。姉は何も言わなかったが、ただぶたれただけではないらしいことを塔子はすぐに察した。見舞いに行った日の母の事を思い出した。母はいつかこんな日が来ることを予感していたのだろうか。

 塔子の方は早くに看護学校に進学することが決まっていたのだが、翔子は父の意向に逆らって、一校も受験しないまま卒業式を迎えた。式後、塔子は姉に「お父さんには黙って東京に行くつもり」と打ち明けられた。旅費や生活費など、当座の費用は自分の貯金に加えて、既に友人や「親衛隊」たちから寄付を募っていたのだという。


 姉が出立する日、塔子は一緒にO空港に行った。彼女以外は誰も見送りに来ていないようだった。餞別にバイトで貯めたなけなしの5万円を渡すと、姉はうれしそうに笑った。

「ありがとう、トーコ。いつか倍にして返すからね」

 それきり抱擁も握手もなく姉妹は別れた。翔子は搭乗口のゲートをくぐると、こちらを振り返ることもなくまっすぐ歩いて行った。それが姉を見た最後になるとは、この時はもちろん塔子も思いもしなかった。


 塔子は姉の乗った銀色の飛行機が、ゆっくりと滑走路から離陸していくのを見ていた。

二人の名前の由来について、塔子は母に尋ねたことがある。

「意味より、語呂の良さで決めたのよ。翔子という字を選んだのはお父さん。あんたの字は私が選んだの」

 皮肉なものだ、姉は父が付けた名前の通り、ここから飛翔してゆくのだと塔子は思った。そして自分はそれを地上で見送っている。そういえば飛行場に塔はつきものではないか。あるいはこうも言えるかもしれない。共に地上を離れ、空の高みを目指していても、一方は鳥のように自由に空を翔る。もう一方は地につながれて背伸びすることしかできない。高く伸びすぎた塔はやがてぽきりと折られてしまうのだ。旧約聖書のバベルの塔のように。自分はこの土地にとどまり、父と共に生きていくのだろう。父は姉と違って自分には興味がないから、安心して一緒にいられると塔子は思った。



 塔子がO空港から帰った日、夕食のテーブルに姉が居ないことに気付いても、父は何も言わなかった。姉は父に書置きでも残していたのだろうか。祖父母も父のいるところでは、翔子のことは話さなくなった。その日以来、翔子はあたかも初めから井草家には存在しなかったかのようになってしまった。

 もちろん塔子は姉と定期的に連絡を取り合っていた。姉はアルバイトで生計を立てながら小劇場で役者をしていたが、そのうちに街でスカウトされてファッションモデルの仕事を始めた。「ちゃんと計画して、自分からスカウトされに行ったのよ」と姉はメールに書いていた。塔子の方は看護学校を三年で卒業した。在学中に国家試験にも合格していたので、4月には看護師として働き始めた。


 一人になってみると、姉と比較されないことが心に平安をもたらすことを改めて実感した。これまでは一挙手一投足が姉と比べられていたようにさえ思えた。だが、それもおそらく思い過ごしだったのだろうとも思った。


 看護学校に入って最初の夏休み、高校の同級生だった江藤信人から祭見物に誘われた。浴衣を着て一緒に花火を見た。信人は姉の「親衛隊」のうちの一人でもあった。彼等は翔子に近づく男性を全力で排除しようとしていた。もちろん自分たちも「抜け駆けはしない」ことを誓い合っていた。だがその彼らも父から姉を守ることはできなかったのだと塔子は思った。

 初めて信人とホテルに行った後、塔子は照れ臭さ半分で彼をからかってみたくなった。

「どう、ノブ君、憧れの女神様を抱いた気分は?」

 信人は最初、塔子の質問の意味を測りかねているようだった。翔子のことを言っているのだと気付くと、

「トーコは女神様なんかじゃなく、血の通った生身の女の子じゃないか。もしかして勘違いしているかもしれないけど、べつに『あの人』の身代わりにトーコを抱いたんじゃないよ」

「でも、それだけ翔子は特別ってわけよね。やっぱり私は一生姉さんには勝てないのかな。見た目はほとんど同じなのに、どこがそんなに違うんだろ」

 信人はそんなことも解らないのかと言うように、

「トーコはスポットライトを浴びた舞台の上で、あの人みたいに振舞えないだろう?」と言った。そういうことかと思った。姉は見られる人であり演じる人だったということだ。その時塔子に天啓が訪れた。それなら私は記憶する人、記録する人になればいい。そして塔子はその日から自分のための小説を書き始めた。



「トーコ、私よ、トーコ、私よ」という声が聞こえて、塔子はシャワーを止めた。頭の中で鳴っているような声だった。最初は空耳だろうと思った。隣の脱衣所には誰もいない。が、しばらくしてまた「トーコ、トーコ」と自分を呼ぶ声がする。そんな風に自分を呼ぶのは姉の外にはいない。胸騒ぎを覚えて早めに風呂を上がると、姉に電話してみた。呼び出し音が続き、やがて留守電に切り替わった。塔子は電話を切ると、「連絡をください」とLINEのメッセージを送った。


 数日後、帰宅すると父が受話器に向かって話している声が聞こえてきた。

「ええ、ですから翔子はもう五年近くも私には連絡をしてこないので……。はい、お宅様にご迷惑をおかけしている点は申し訳なく存じますが……。はい、そこはもうよしなに、よろしくお願いいたします」

 電話を切って、塔子のもの問いたげな視線に合うと、

「翔子のヤツ、どこに行ったのか、行方が分からなくなっているそうなんだ。あちらで捜索願を出してくれるというんでお願いしておいた。どっちにしてももう家には関係ない話だ。お前さえいてくれれば俺はそれで充分だ」と言った。塔子の顔を見ようとはしなかった。塔子はスマホを取り出した。姉へのLINEには既読がついていない。

 信人に連絡した。風呂場で姉の声を聞いた話もした。一笑に付されるかと思ったが、

「俺はトーコを信じるよ。もともと人間にはテレパシーの能力が備わっていたという話もあるし、双子ならなおさら、他人にはわからない何かで繋がってる気がするから」と言ってくれた。


 4月になって、ようやくまとまった休みが取れたので、塔子は東京に行くことにした。本当は信人にも同行してほしかったのだが、どうしても休みが取れないということだった。

 投宿予定の空港近くのホテルに荷物を預けて身軽になると、姉の所属事務所から聞いていた警察署に直行した。署内は混雑していて、誰に声を掛けて良いのかもわからない。デパートや銀行のような案内係がいるわけでもない。何とか手隙そうな人に声を掛けたが、なかなか話が通じなかった。ベンチで30分程も待たされた末に初老の男性がやってきて、一緒に階段を上がり、二階の殺風景な部屋に通された。渡された名刺には「生活安全課・相談係」とある。なんとなくカマキリを思わせる風貌で、高校の教頭先生に似ていると塔子は思った。彼女はこの先生が苦手だった。そのカマキリ氏から日本における行方不明者は年間八万人、自殺者は二万人いるという話を聞かされた。だが、塔子はそんな講義を聞くためにここに来たわけではなかった。

「姉が所属していたモデル事務所では、何らかの事件に遭っているのではないかと言ってましたが、それについての捜査は行われなかったんですか」と訊くと、

「もちろんできる限りのことはしましたよ。お姉さんの住んでいたマンションは事務所が借りていた古い物件で、防犯カメラもあるにはあったが、出入りをすべてカバー出来ていた訳じゃなかったんでねえ」と言う。

 要するに翔子がいつから自宅に帰っていないのか特定することができず、だから失踪した時の服装すらわからなかった。聞き込み捜査の結果、彼女が誰かに恨まれるとか、何かトラブルを抱えていたという情報は得られなかったのだという。

「SNSでは不倫の清算で殺されたのではないか、なんて書かれてましたが」と塔子は言ってみた。もちろん塔子自身はそんなことを信じているわけではなかった。あの姉に限ってそれはない。

 するとカマキリ氏はひらひらと顔の前で手を振って、「それが、全くのガセネタでねえ、結局事件性を疑うような事実は何も出なかったんですよ。もちろん可能性を言えばキリがない。あなたのお姉さんは自ら姿を晦ませたのかもしれないし、どこかで自殺しているのかもしれない。事故に遭ったのかもしれないし、殺害された可能性もないわけじゃない。とにかく今言えるのはこの四か月、身元不明の若い女性のご遺体は出ていないということだけです」と言った。

 これ以上の話は聞けそうにないと思い、塔子は礼を言って部屋を出た。

「家族なら、生存を信じているって言うのが普通だと思うがなあ」という声が聞こえた。明らかに塔子に聞かせるつもりの独り言だろうと思った。


 せっかく東京までやってきたのにこのままでは帰れないと思い、次にイベント運営会社に向かうことにした。事務所に聞いた話では、姉が最後にした仕事は、そこでのものだったのだ。塔子は空腹に気づいた。エキナカの店でサンドイッチを食べながら行き方を調べた。マップのアプリでは最短40分程で次の目的地に着くことになっている。都会の時間の流れはO県とは違うと思った。

 その時間通りにイベント会社に到着したが、驚いたことに受付には、若い男女が十人ほども並んでいた。アルバイトの面接だろうか。アポなしで来たのはやはりまずかったか、また明日出直そうかなどと考えていると、

「あれ? 翔子ちゃん? 翔子ちゃんだよね。帰って来てたんだ。今までどこに行ってたの? 心配してたんだよ」という声が聞こえた。声の主を探すと、四十歳前後の男性だった。スーツにネクタイ姿だが、着こなしがどことなくお堅いサラリーマンには見えない。郷里のO県ではあまり見かけないタイプである。丁度外回りから帰ってきた所のようだった。塔子はその男に近寄ると、

「私、翔子の妹の塔子です。一卵性の双子なんです。姉のことを訊きたいと思って来ました」と答えた。

二人があたりの男女の注目を集めているのを感じると、男は「外で話しましょう」と言ってさっさと歩き出した。塔子は慌てて後を追った。オフィスのすぐ向かいのビルにあるカフェに入り、席に着くなり

「僕はあの会社の社員で、山元といいます。翔子ちゃんとは以前何度か一緒に仕事をしたことがあります」と男は名刺を差し出した。

 塔子は先ほど警察に行ってきたいきさつを話すと、

「ここに来れば、姉について何か情報が得られるんじゃないかと思って。何しろ姉が最後に目撃されているのは、この会社が手掛けたイベントなんですから。どんな些細なことでもいいんです」と言った。

 山元はしばらく黙った。

「僕もそのイベントにはいたんだけど、実はそのことでちょっと気になっていたヤツがいるんだよね。あのイベントの後ぐらいからずっと何となく挙動が不審で、翔子ちゃんの噂が出たりすると何だか過剰に反応するんだな。彼女に岡惚れしてただけかもしれないけどね。でも、僕だけじゃなく、みんななんかおかしいって言ってるし。まあそんな大それたことが出来る奴じゃないと思うけど……」

 それは確かにちょっと気になる。

「その人に会えますか?」

「それがこのところずっと休んでるんだ。多分辞める気なんじゃないかな。まあ、会社にとって必要な奴じゃないけど、抱えてる仕事が途中だから、ちょっと困ってるんだ」

「その人の住所はわかりますか?」

「それはわかるけど……。えっ、まさか今から会いに行く気? それはやめた方がいいんじゃないかな。もしあいつが何か知ってるんだったら、一人で会うのは危ないよ」

 だが、そう言う山元にしても一緒に来てくれる気はなさそうだし、さっきのカマキリ氏の様子ではこの程度の情報で警察が動いてくれるとも思えない。まだ日も高いし、その男と密室で二人だけにならなければいいのだ。無駄足になるかも知れないが、とりあえず行くだけは行ってみようと思った。


 それにしても東京は大きい都市だ。生まれてから、一日でこんなに多くの人を見たことがない。スマホがなければこれほどスムーズに移動できなかっただろうと思った。その男、町田啓介の家は都心からは離れているが、一時間まではかからずにたどり着けそうだった。東京の街は裾野もまた広い。山元と別れた塔子は電車を乗り継ぎ、スマホの地図の表示を頼りに、聞いた住所の近くまで歩いて来た。辺りには低層の集合住宅が何棟か建っている。


 塔子の目がカーポートに停められた漆黒のミニバンを捉えた。その黒に吸い込まれるような気がした。その瞬間、恐怖の塊が喉元に競り上がってくる感覚があった。この車は不吉だ。後部座席に翔子が横たわっているのが見えたように思った。近づいてスモークガラスの中を覗き込もうとした時、塔子の口が背後から何者かの手で塞がれた。続いて全身を突き抜けるような激痛が走った。気が遠くなり、四肢の力が抜けてしまった。



「おとなしくしていてくれ。大きい声を出されると、また痛い思いをしてもらわなきゃならなくなるよ」という男の声が聞こえた。

 塔子は椅子に座らされ、背もたれに縛り付けられていた。両腕は後ろに回されて手首を縛られ、両脚も縛られていた。そうやって縛られている間もうっすらと意識はあった。ただ体に力が入らず、抵抗できなかっただけだ。だからそれ以上のことは特に何もされなかったことも解っていた。


 男が塔子の視野に入ってくると、目の前の椅子に腰かけた。銀縁の眼鏡をかけた細身の男。三十歳くらいだろうか。凶漢にはまるで見えない。むしろひ弱そうな印象だった。

「私をどうするつもり? 殺すの? あなた、姉のことだって殺したんでしょう?」

 塔子はどうにか声を絞り出した。自分では落ち着いているつもりだったが、震え声になってしまった。

「君のことは殺さないよ。君だけじゃなく、もうこれ以上誰も傷つけるつもりはない。――それにしても君はお姉さんとそっくりだなあ。翔子が生き返ってきたのかと思ったよ。…翔子には本当に可哀そうなことをしてしまった。抵抗されたからつい乱暴に扱ってしまったんだ。せっかく苦労して捕まえた蝶の羽を、毟ってしまったようなもんだ。だから今回はもっと強力なのを使って、一度でこれ以上抵抗出来ないようにしたんだよ。うまくいった。痛かっただろうが、一時的なものだ」

 羽を毟ったって?

「なんであの車を見ていたんだ」

「あそこで姉を感じたのよ。後部座席に寝かせられているのが見えた。ねえ、姉は今どこにいるの?」

 姉の死体は、とは言えなかった。

「翔子は僕がこの手で殺した。でも死体は今何処にあるのかわからないんだ。青木ヶ原樹海の木の中に隠したんだけど、先月行ってみたら、すっかりなくなっていたんだ。骨のかけら一つ残ってなかった」

 三か月ほどで骨まですべて分解されてしまうなんて、一般的にはそんなことは起こり得ない、と塔子は思った。なんと言っても病院で死亡が確認されたわけではないのだ。つまり、祥子が死んだと言っているのは、今のところこの男だけなのだ。

「本当は死んでいなかったってことはないの? 木の中で蘇生したのかも知れないじゃない?」

「それは僕も考えた。でもそれは無理なんだ。身元が分からないようにと思って、服は全部脱がせたからね。万が一息を吹き返したとしても、季節は冬だよ。あんな山の中で、たった一人で裸で生き延びられるはずがないんだ」


 塔子は、家族なら生存を願うはずだという、例のカマキリ氏の言葉を思い出した。だが、翔子が生存していると考えるのはやはりどうしても無理がある。もし姉が山中で蘇生したとしても、一人では生きられない。仮に誰かに保護されたのだとしたら、それがニュースになっていない筈がない。いまだに姉が見つかっていないことが、彼女が死んでいることの証明になってしまっているのだ。

「どうしたらそんな酷いことができるの? 姉のこと、好きだったんじゃないの」

「いや、僕が本当に欲しいのはMだけだ。君の姉さんはあくまでも練習台だった。もちろん君のお姉さんはとてもエレガントだ。だから手に入れたいと思った。だがMはまるで違うんだ。あれは希少種だ」

 続けて男は何やら聴き取れない言葉をつぶやき続けた。塔子は考えた。「M」というのは女性だろうか。姉はその「M」とやらの代わりに殺されたというのだろうか。信人は塔子を姉の身代わりではないと断言した。それを聞いた時、塔子はうれしかったが、実はそれは姉と塔子ではそもそも比較の対象にならないという意味だったのだ。信人は姉のことを常に「あの人」と呼んでいた。信人にとって姉は謂わば形而上の存在だったのだろう。それではその姉と「まるで違う」Mというのはいったいどういう存在なのだろうか。

「君が翔子の声を聴いたっていう話は本当か? それで敵討ちのためにここに来たって」

 気付くと男がまっすぐ塔子を見つめていた。

「SNSの書き込みを見たのね。私が姉の声を聴いたのは本当よ。でも私が聞いたのは私を呼ぶ声だけだった。ネット上の話にはいろいろ尾鰭が付いてるのよ。私は姉がどうなったのかを知りたかっただけ。このままじゃあんまり可哀そうだから」

 そう言いながら、それは本当だろうかと塔子は思った。今の今まで、塔子は姉を不憫に思ったことなど一度もなかった。可哀そうなのはいつでも自分だったからだ。だがそれは自分とは「別格」の姉と比較するからである。その姉が羽をもがれて、墜落してしまったなんて信じたくはなかった。姉にはいつまでも自由に空を飛翔していてほしかったのだ。


 ふと、今は何時頃だろうと思った。この家の前に着いたのが午後三時頃、それからどれくらいの時間が経ったのだろう。せっかくのホテル予約が無駄になるかもしれないなどと暢気なことを考えて、すぐ塔子は反省した。危害は加えないなどと言ってはいるが、人一人を(それも自分の姉を)殺害したと言っている男と現に向き合っているのである。

「あなた、誰も傷つけないって言ったわよね。だったらなぜ私を縛り付けているのよ」

「僕の計画の邪魔だからだ。もうすぐすべてが成就する。それまでは一緒にいてもらう」

「計画って、あなたはこれからどうするつもり? 会社にも行ってないんでしょ。もしかして死ぬつもりなの?」

 男の目が暗く燃えているのに塔子は気付いた。それは父の姉に向ける眼差しにとてもよく似ていた。

「命なんて別に惜しくもないけど、むざむざ死ぬつもりもない。僕は今夜これからMを攫いに行く。彼女を攫って逃げられるところまで逃げるんだ。君には一緒に来てもらう。計画通りMを手に入れられたら、君のことは解放してあげる」

「あの黒い車で行くの? あの車は不吉よ。それでもし失敗したらどうするの?」

「その時は君と一緒に逃げるかな」と男は笑った。それを聞いて塔子の心の中で怒りとも憎しみともつかぬ感情が沸騰するのを感じた。だがそれは決してこの男への怒りや憎しみではない。自分や姉や父や、その他この世の中のすべての不条理への怒りともいうべきものだったかもしれない。23年の人生でこれまでずっと抑えつけてきた感情だった。

「私までその『M』とかいう人の身代わりにされてしまうのね」と呟いた。するとそれを聞いて男は驚いたようだった。

「そんなことは考えたこともなかった」と言って塔子をじっと見つめた。

「君は翔子よりほんの少し耳たぶが大きいな。鼻筋は同じように通っているけど、ちょっとだけ君の方が低い。抱き上げた時に感じたけど、君の方が身長は僅かに低いな」

 塔子は驚いた。初対面でこれほど正確に、二人の違いを言い当てられたことはなかったからだ。

「僕はコレクターだよ。この世に同じ個体は二つ存在しない。だから『代わり』なんてものはもともとないんだ。中でも『M』は特別なんだよ。まあ、君にはわからないだろうが」

 またぶつぶつと呟き始めた。塔子は訊きたかったことを思い切って訊いてみた。

「ねえ、あなた姉のこと抱いたの?」

 男はしばらく考えていたが、

「いや、残念ながら生きているうちには抱くことはできなかったんだ」と答えた。

 何ということか。それはつまり、姉は死んだ後でこの男に犯されたということだろうと塔子は考えた。


 実は翔子は父とのことがあって以来、男性恐怖症になってしまっていた。そのことを塔子にだけは打ち明けていたのだった。「いくら素敵な人と思っても、あの時のこと思い出すと受け入れられなくなってしまうの」と言っていた。その姉が、皮肉にも亡くなった後に好きでもない男に凌辱されたというのだろうか。塔子は初めて姉を不憫に思った。

「ねえ、あなた、私を試してみる気はないの?」と言ってみた。男は弾かれたように塔子を見た。驚いたようだ。無理もないと塔子は思った。彼女自身が自分の言葉に驚いていたからである。



 井草塔子は口には猿轡をかまされ、アイマスクで目隠しをされて、ミニバンの後部座席に横たえられていた。両手首と両足首はロープで縛られていたが、痛みは全く感じなかった。椅子に縛り付けられていた時とは明らかに違い、ちょっと力を込めれば解けそうなほど緩めの縛り方だった。町田というのはつまりそういう男なのだった。彼女から促されるまで、縛ることさえためらっていたくらいだったのだ。Mを「捕獲」するのだと息巻いていたが、これではうまくいかないだろう、その方がいいと塔子は思った。

 サイレンの音が聞こえる。パトカーではない。あれは確か消防車のサイレンだ。これにも町田が関わっているのだろうか。



 それにしても「自分を試してみろ」などと、まるで娼婦みたいな言葉が自分の口から飛び出してきたのには、彼女自身も驚いていた。相手が殺人者と知った上で、自分から身を任せようとするなんて本当にどうかしていると思ったが、もう遅い。町田はしばらく黙っていたが、おもむろに塔子に近づいてきた。体を椅子に縛り着けていた縄を解くと、塔子の体を抱き上げてベッドルームまで運んだ。足の縄だけは解いてもらえたが、両手は後ろ手に縛られたままで、その上目隠しをされた。その間彼女は抵抗しなかったが、彼の振る舞い方は思いのほか紳士的だった。だが塔子の方は、いつ彼の手が自分の首に伸びてくるかとずっと怯えていた。町田が愛撫の続きであるかのように装いつつ、自分を殺そうとするのではないかと身構えていたからだ。その緊張のせいもあってか、まるで初めての時のような新鮮な感覚があったのも確かだった。

 考えて見れば、彼女はこれまでずっと姉の崇拝者だった信人に抱かれてきたのだ。それが今は、姉を殺した男に許しているのだと思った。これも考えてみれば皮肉なことだった。


 終わって男が体を離した。塔子の両足首を縛り直すと、目隠しを取った。そしてそのまま隣に横たわった。不思議なほど穏やかな時間が流れた。

 彼女は警察で聞いた話をした。警察では姉の失踪を特に事件性のないものと考えているらしいと告げると、

「それは額面通りには受け取れないな。いくら家族でも、捜査情報は漏らさないだろう」と彼は言った。確かにあのカマキリ氏は、捜査状況の実際にはあまり通じてはいなかったのかもしれないと塔子も思った。

「ねえ、あなた本当に姉を殺したの?」とまた訊いた。

「ああ」

「信じられない。姉は私なんかよりずっと強いのに。あなたなんかに翔子を殺せるとは思えないわ」

「だが僕が君の姉さんを殺してしまったのは本当のことだ。…殺す気なんかなかった。本当に申し訳ないと思っているんだ。これは嘘じゃない。おそらく初めから殺すつもりだったら、殺せてなかったんだろうな。もちろんその方が良かったわけだけど……」

町田はくどくどと後を続けた。おかしな理屈だが、妙に説得力はあると塔子は思った。それでも塔子は食い下がった。

「証拠を見せてよ」

「証拠?」

「だって、あなたはコレクターなんでしょ。姉を殺すだけ殺して、後は死体を捨てるだけなんておかしいわよ。何か手元に残しているはずでしょう」と言ってみた。鎌をかけたつもりだったが、男は黙り込んでしまった。圧倒的に弱い立場のはずなのに、今や主導権を握っているのは塔子の方だった。町田は黙ったまま立ってゆくと、しばらくして小型のノートパソコンを持って戻ってきた。USBメモリを差し込んでしばらくキーボードを操作した後、塔子に向けて見せた。画面にはタイルの床に仰向けに横たわった全裸の若い女性が映っている。まるで自分を見ているようだ。翔子に間違いなかった。

「ほら、どう見ても死んでるだろ」

 目は見開かれ、口も少し開いている。気をつけの体勢だが、体のどこにも力が入っていないのが見てわかる。確かに死んでいるように見えた。

「仮死状態の可能性もあるけど」

「さっきも言ったろ。全裸で冬の山中で生き延びられるはずがないんだ」

 言いながらズボンのポケットからゴールドのネックレスを出して、塔子が寝ているベッドの枕元に置いた。さらに広げた掌を見せる。そこにはプラチナらしいリングと、ピアスが載っていた。

「祥子の遺品で手元に残してあるのはこれだけだ。君に返すよ。もともと翔子のものだから、君にも似合うだろう。形見として身に着けてもいいし、警察に持っていけば僕が祥子を拉致した証拠になるだろう。どうでも君の好きにすればいい」

「私を解放してくれるわけ?」

「それもさっき言った。僕の計画が成就するまでは一緒に居てもらう。その後は警察に駆け込もうが君の勝手だ。とにかく僕は今夜Mを攫って逃げる。もう時間がないんだ」

 スタンガンを塔子に向けながら、そう言って手足の戒めを解いた。塔子は立ち上がったが、すぐに平衡感覚を失ってよろめいた。町田は腕を取って立たせると

「玄関で待ってる。早く来てくれ」と言って先に歩いて行った。塔子は部屋の隅に置かれていた自分のバッグに姉のアクセサリー類を入れた。ふと先程のPCを見るとUSBが刺さったままだったので、そっと抜き取ってそれも入れると、すぐに町田の後を追った。


 塔子は再び後ろ手に縛られ、目隠しもされて後部座席に乗せられた。どうやら彼は、自分が逃げ出す心配はしていないようだと彼女は思った。Mを誘拐する計画で、頭がいっぱいなのかもしれない。車中で町田はこれからの計画について得々と語った。彼はこの日のために探偵を雇って、Mが今いる場所の詳細な図面等も手に入れていた。探偵は何度も下見をして、彼のための侵入経路も確保してくれてあるのだという。

「それで、そのMという人を攫って、その後あなたはどうするの? 危害は加えないんでしょうね」と塔子は言った。

「同じ轍は二度と踏まない。なにより大事なのは無傷で『捕獲』することなんだ。後は彼女が受け入れてくれるのを気長に待つしかない」

「それで受け入れてくれなかったら?」

「…その時は仕方ない。きっぱり諦めるさ」

「本当に?」

 目隠しされた暗がりの中で、塔子はMについて語った時の彼の暗く燃える瞳を思い出していた。父と同じ目、自分には一度として向けられなかった目だった。

車が停まった。

「さあ、着いた。じゃあ一仕事してくる。ここでおとなしくして待っててくれ」

「ねえ、ちょっと待って。こんな縛り方じゃちょっと力を入れたらほどけちゃうわよ。それに、足も縛って猿轡もしなきゃ駄目じゃない」

「…君はおかしなことを言うね。逃げたいなら黙って逃げたらいいじゃないか」

「最初はそのつもりだったんだけど、今は最後まで見届けたいの。でも縄がほどけたらまた気が変わるかもしれない。交番に駆け込むかも。だからもっとちゃんと縛ってほしいのよ」と言いながら、確かにおかしなことを口走っていると思った。


 しばらくするとスライドドアが開いて町田が近づいてくる気配がした。塔子はおとなしく両手足を縛られた。そのまま猿轡をされるのを待っていると顎を掴まれ、強くくちびるを吸われた。長い時間の後で彼は言った。

「こんなことを今君に言うのはおかしいが、とにかくありがとう。今日君に会えてよかった」

 塔子は何か言い返したかったが、言葉を思いつく前に口にタオルを押し込まれてしまった。ガチャリとドアが閉まる音が聞こえた。

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