5 ゼフィルス・コレクター
Ⅰ
Mはゼフィルスなんだ、と彼は思っていた。ゼフィルスとは、初夏の野山を彩る小さな美しい宝石のような蝶だ。だが、このシジミチョウの仲間には、あまり目立たないものが多いのだ。羽裏の色の模様がたいていは地味だし、羽を立てた状態で花や葉にとまっていることが多いからだ。金属的な光沢と色彩が、えもいわれぬ美しさを放つ表羽を見なければ、その美しさには気付かないままだろう。Mもまた同じ、彼女の美しさは見る者を選ぶのだ。例えば彼女の髪。生まれてこの方一度も染色やブリーチをしたことがないのではないかと思える黒髪は見事なまでに美しい。烏の濡れ羽色という表現がぴったりだ。瞼は一重で、色白の小顔は派手な顔立ちの並ぶ中では、正直あまり目立たない。だが、彼は今では二十人の女性の中に混じっていても、真っ先にMのことを認識することができる。それだけいつでもMのことを探しているからだ。最近ではMの姿だけが色付きで、それ以外は全部モノクロームに見えてしまうほどだった。
彼女は立ち姿がまた美しかった。適度に筋肉があるのもいい。そして、彼が好きなのは姿かたちだけではない。ほんの少しハスキーな彼女の声も好きだ。もともと彼はアニメの声優のような甲高い甘え声はあまり好みではなかった。その点彼女の声は、落ち着いた知的な感じがするのだった。
彼の名は町田啓介という。私立大学を卒業して以来、イベント運営会社で働いている。自分でもそれほど真面目な社員だとは思っていない。せいぜいが馘首にならないぎりぎり程度の働きぶりといったところだろう。日本人はなぜこんなにみんなよく働くのか、なぜ働く人間が偉いとされるのか、彼は不思議に思うことがある。古今東西の歴史を見れば、本当に偉い人間は仕事などしないものだと思っているのだ。そんな彼が人並み以上の暮らしができているのは、もともと両親が裕福だからだ。彼は親に買ってもらった2DKのテラスハウスに住んでいる。小さいが前庭があり、カーポートには自家用車も置いてある。外車ではないが、大型の黒いミニバンで、これも親に買ってもらったものだ。独身の彼には大きすぎる車だが、たまには両親を乗せることもあるし、荷物をたくさん積めるので、仕事で重宝されることもある。彼は仕事は嫌いだが、運転は好きなのだった。
彼が勤めるイベント会社で、使っているイベントコンパニオンの一人がMだ。だが、彼女はアルバイトなので、いつでも参加しているわけではない。だから最初は本当に珍しい蝶を見るような思いで彼は彼女を探していた。ほんの少しでも人より目立とうとする仲間たちの中では、彼女は化粧も薄く、影も薄かったから、彼女のファンは彼の他にはいなかった。だが、彼女には謂わば生地のままの美しさがあった。彼は最初、彼女のことを心の中でWと呼んでいた。WhoのW、WomanのWである。本名を知ってからはそれがMに替わったのだ。最近では朝起きるとまず一番にMのことを考える。夜寝る前も、眠りに落ちるぎりぎりまでMのことを考えている。この頃は自分の家にMを連れてくることをよく考える。彼がこの家で一番気に入っている場所は風呂場だった。ユニットバスだが、浴槽も大きく、開放的で明るいのだ。そこにMを立たせたい。もちろん裸で。ずっと裸で風呂場に住んでもらってもいいとさえ思っているのだ。俺はストーカーなんだろうかと彼は自問する。多分それに間違いないのだろう。ひそかに相手に忍び寄るというストーカーの原義には確かに合致していると思うからである。
テレビドラマなどで描かれる、ストーカーのステレオタイプにはうんざりさせられる。刑事か何かがストーカーの部屋に踏み込むと、壁一面にストーキング対象者の写真が貼られていて、時にはそれがナイフで切り裂かれていたり、ダーツの的にされていたりするという、あれだ。だが、彼はMの写真など一枚も持っていなかった。単純に必要がないからだ。眼を閉じさえすれば、いつでも目の前に彼女の姿が浮かんでくるのだから。それも自分でも怖くなるほど細部までありありと浮かんでくるのだ。古代の日本人は夢や幻に好きな人の姿が現れた場合、相手の魂が自分を思って、夢路を通って訪ねてきてくれたと解釈したのだそうだ。昔、高校の国語の授業でそう聞いたことがあった。確か、「うたた寝に恋しき人を見てしより 夢てふものは頼みそめてき」という小野小町の和歌を教わった時だ。もしそれが本当なら、彼とMは相思相愛だということになるのだが、残念ながらそれはなかった。Mは彼を思うどころか、名前すらろくに認識していない筈だ。だが、それでもかまわないと思っていた。彼がMに対して本当に初めてのストーキング行為を試み、無残に失敗したあの夜までは……。
そして今、町田は猛烈な後悔に苛まれている。功を焦るあまりに、希少な美しい蝶を取り逃がしてしまったのも同じなのだから。あの場合、焦らずにもう一歩間を詰めてから、捕虫網を揮うべきだった。あるいは逆にもう一歩下がって、蝶が逃げ去る先を見定めればよかったのだ。
あの日、イベント終わりの簡単な打ち上げの後、帰りの電車でMと一緒になった。初めて少しだけまとまった話をすることができた。いったん別れた後、突然向こう見ずな勇気が湧いてきて、気が付くとMを尾行していた。まさかそれが相手にバレているとは夢にも思わなかった。そして彼がほんの一瞬目を離した隙に、Mは素晴らしい速さで通りの反対側まで走り、そのまま雑踏に紛れてしまったのだった。慌てて跡を追いかけたが、もう後の祭りだった。
さらにショックだったのは、Mがそれきりイベントコンパニオンの仕事に姿を見せなくなったことだ。担当に聞くと、既にエントリーを辞退してきているという。やはり俺を避けているのだ、と彼は思った。それも当然だろう。気持ち悪い男だと思われたのだ。だが彼は諦められなかった。それから何度も、彼はあの日彼女を見失った場所に足を運んだ。そこからやみくもに歩き回って彼女を探し回った。視界のほんの片隅にでもMを捉えられれば、即座に認識できる自信があった。だが、毎度のごとく無駄足に終わった。
会社の企画室に彼女の履歴書が残っているかもしれないと気付いた。見つけたのはまだ学生時代の彼女が提出したもので、電話番号は記載がなく、住所も今とは違うようだった。ただ、就職予定の企業名が書かれていたので、藁にも縋る気持ちでそこに電話してみた。きちんと自分の名と社名を名乗り、大切な用件があるので連絡を取りたいと言ったのだが、けんもほろろの応対をされた。
「当社では、社員の個人情報についての問い合わせには一切お答えしておりません」などと言う、こまっしゃくれた若い女性社員の声に、彼は軽い殺意すら覚えた。
ある日、町田啓介が帰宅すると、郵便受けに大判の封筒が入っていた。差出人を見ると母だった。彼はうんざりして溜め息を吐いた。開かずとも内容はわかっていたからだ。中には見合い写真が入っているのである。今年三十歳になる啓介に、そろそろ身を固めろというのだ。二、三年前からそういう話が始まったのだが、最近はその頻度がさらに上がった。今回のお相手は26歳で、釣り書きによれば趣味は料理とお花。秘書検定2級を持っているそうだ。書かれている最終学歴が本当なら、彼よりはるかに優秀なお嬢さんではないか。翻って、Mについては、彼女がこれまで何を学んできたとか、何が趣味だとかも含めて、彼は何も知らないのだった。やはりきっぱりと忘れるべきなのだろうか。見合いをすれば少しは気が紛れるだろうか。同封された写真を開いてみた。カメラマンの撮り方も巧いのだろうが、思いがけないほどに美しい娘だった。普段見ているイベントコンパニオンたちとは全く違う、清楚な美しさがある。
「それでも違うんだ」と彼はひとりごちた。確かにこの女性は美しい。だが彼が求めているのは、こんな当たり前の美しさではないのだった。
Ⅱ
Mに会うことが叶わないまま三か月ほどが過ぎ、季節は晩秋から初冬になった。町田啓介の脳裏に浮かぶMの像もだんだん色褪せ、細部が曖昧になってきたことを、不本意ながら認めないわけにいかなかった。彼はこれまでMの写真を一枚も撮っていなかったことを後悔した。もちろんオフィシャルな写真はいくらか残っているものの、それらは彼の求めるMの像とは微妙に違っているのだった。寒さは簡単に信念を挫くものだ。彼の信念も少しずつ変化してきていた。決してMへの思いが冷めたわけではない。いつかあの希少種のゼフィルスをこの手の中に捉えたいという思いは今も変わっていなかった。ただ、そのためにもまずは「練習」が必要なのではないかと思うようになったのだ。前回の失敗は、突然降ってわいた千載一遇のチャンスに、すっかり舞い上がってしまったことが原因だった。「Practice makes Perfect」、すなわち練習が完璧を作るという、英語のことわざもあるではないか。何事にもやはり予行演習は必要なのだ。
もちろんターゲットは誰でもいいわけではない。数ある候補者の中から、井草翔子という女を選んだ。イベントコンパニオンたちの中でも多くのファンを持つ人気者で、モデル事務所に在籍する現役のファッションモデルでもある。町田が彼女を選んだ第一の理由は、体格がMとほぼ同じということだった。練習台としてはまさにもってこいだと思ったのだ。そしてもちろん、彼にとってのコレクション第一号となるからには、美しい女性でなくてはならない。井草翔子はMとは対照的に、ぱっと人目を引くタイプの美人だった。化粧は確かに濃いが、それだけ化粧映えのする顔立ちだと言うこともできる。彼女を見ていると、エレガントという言葉が浮かんでくる。
チャンスは意外に早くやって来た。ある日曜日の夕方、郊外でのイベント終わりに、一人で帰宅しようとしている翔子に遭遇したのである。彼は翌月曜日が代休なので、それを考えても絶好のタイミングだ。さいわい、辺りに他のモデルやスタッフの顔は見えなかった。
彼はさりげなさを装って声を掛けた。
「翔子ちゃん、お疲れサマ。ところで翔子ちゃんの家ってどの辺りなの?」と訊くと、すぐに答えが返ってきた。町田啓介の自宅よりは大分都心に近い場所だが、そのことはあえて言わずに、家の近くまで車で送ろうと申し出た。彼女は、全く警戒する気配も見せずについて来た。それはそうだ。まさかイベント会社の社員が送り狼になるなどとは、思うはずもなかろう。
「あら、ヴェルファイアね」と翔子が弾んだ声で言う。これには彼はちょっと驚いた。翔子がヴェルファイアを知っているとは思わなかったからである。ヴェルサーチならばともかく。
翔子は何の躊躇もなく助手席に乗ってきた。相談の結果、彼女の家の近くのコンビニまで送ることにして、カーナビをセットした。車を走らせてしばらくしてから横を窺うと、翔子は目を閉じてもう眠っていた。安心しきっているのだ。彼は考えた。このまま真直ぐ自分の家に行く方が、話ははるかに簡単だ。だが、彼女を車に乗せたところを誰かに見られている可能性は否定できなかった。
テレビのサスペンスドラマ等でもよく紹介されているが、今の日本にはいたるところに監視カメラがあり、録画された映像をたどれば特定のクルマの足取りが分かってしまうという。その映像には助手席の翔子の姿も写りこんでしまっていることだろう。後で、彼女の家の近くまで送り届けてから自宅に戻ったのだと証言するためにも、目的地のコンビニの近くまでは実際に行った方が無難だろうと考えたのである。
途中大きな渋滞もなく、目的地のコンビニのすぐ前で左折して細い道に入り、街灯の影になっているところを選んで車を停めた。気配を感じたのか、翔子が目を覚ました。伸びをしながら、
「着いたの? ここはどこ?」という彼女の問いには答えず、彼は翔子の首筋にいきなりスタンガンを押し当てた。
映画などでは、薬液をしみこませたハンカチを口にあてがって失神させる描写がよくある。スプレーを一吹きするだけでころりと寝かされてしまうなんていうのもよくあるが、もちろんあんなのは嘘だ。実際にはあれほどすぐに気絶させられるわけではない。それよりはスタンガンの方が確実だと思った。だが、この段階では大怪我をさせるわけにはいかないので、防犯用の低出力のものを使った。あくまで相手をひるませ、戦意を喪失させる目的のものだ。だが翔子は激しく抵抗した。しかたなく彼は片手で翔子の口を抑えながら、スタンガンを首筋に当て続けた。しばらくすると翔子は、ぐったりと動かなくなった。だが気絶しているわけではないようだ。あまりの苦痛に、文字通り戦意を喪失したのだろう。
彼はいったん車から降り、助手席に回ってシートベルトを外すと、手で口を塞ぎながら翔子を抱きおろし、後部座席に運んで横たえた。ここから先の防犯カメラには、彼女が助手席にいる画像が写っていてはいけないからである。彼は来た道を途中まで戻り、それから自宅に向かった。後部座席からは時折苦しげな低い呻き声が聞こえてきていた。
彼は自宅のカーポートに車を停めると、いったん車を降り、まず先に玄関の開錠をしてから、翔子を後部座席から下ろした。また騒がれるかと思ったが、すっかり諦めたようでもう抵抗はしなかった。両腕で抱き上げると、翔子の下半身がぐっしょり濡れているのに気付いた。どうやら失禁したらしい。彼は舌打ちをした。車内がおしっこ臭くなってしまってはたまらない。敷物を変えないといけないかもしれない。
家に入ると、まっすぐ翔子をバスルームに運んで行った。便座に座らせ、下半身の衣類を剥ぎ取り、シャワーを当てて丁寧に洗ってやった。だが、途端に翔子は獣のような吠え声を挙げ、両手足をばたつかせ始めた。これには彼も焦った。近所に聞こえたら怪しまれてしまう。静かにさせなくては。彼は翔子の顔を広げた掌で押さえつけた。そしてそのまま体重をかけて彼女の体を抑え込んだ。一分か二分、三分か五分、ことによると十分もそうしていただろうか。気付くと翔子の抵抗が止んでいた。顔を抑えていた手をどけると、彼女は両眼を見開いたまま、既にこと切れていた。せっかく一度きれいにしてやったのに、また失禁してしまっている。しかも今度は尿ばかりか、大便まで漏らしていた。半端に開けた口からは血液の混じった吐瀉物が垂れ下がり、ブラウスの胸も汚物で汚れていた。
町田は女の着衣をすべて脱がせると、自分も裸になった。女の体を浴槽に運び、シャワーでその体を隅々まできれいに洗った。それが済むと、女の太股を両手でつかんで左右に押し開いた。征服感のようなものが彼の中から滾り立った。
彼はもう一度丹念に翔子の体を洗った。すべてを消し去るのは難しいかもしれないが、出来るだけ遺体から自分につながる物証になるようなものを除こうと思ったのだ。口もこじ開けて中をよく濯いだ。
首にかかっていた18金のチェーンを外し、苦労して指輪とピアスも外した。これらは今回の戦利品という意味もあるが、身元につながるようなものはできるだけ死体に残さない方がいいと思ったのである。着衣もすべて処分した方がいいだろう。コレクション第一号の証としては写真だけを残すことにした。彼はまず自分の服を着替えると、デジタルカメラを取ってきた。翔子の体をバスルームの床に寝かせて、全身の表と裏、顔のアップ、見開いた瞳孔やくちびる等各部位のアップを上から順に撮っていった。それから布団収納袋を探して持ってくると、その中に翔子の体を収めた。
報道される猟奇殺人事件などでは、犯人が死体の始末に困って、バラバラに切断しようとしたり、セメントで固めようとしたりするという話もよく聞くが、それらが愚かなことを、彼は知っていた。余計なことはせず、腐敗が進む前に出来るだけ早く、出来るだけ遠く、出来るだけ見つけにくいところに遺体を投棄するのが結局一番賢いのである。彼は布団袋を担ぐと静かに車に戻った。大きな音を立てて、近所の人たちに気付かれないようにしないといけない。彼はゆっくり深呼吸を繰り返した。もちろん事故などは禁物だし、職務質問を受けてもいけない。まあ、これだけ気を張っていれば、さすがに事故などは起こさないだろうと彼は考えた。まだまだ夜は長い。
Ⅲ
井草翔子はもともと月曜日がオフだったので、彼女の所属事務所が、彼女と連絡が取れないことを認識できたのは火曜日になってからだった。その日のうちにスタッフが彼女のマンションを訪ねたが、当然留守だった。水曜日には、彼女が何らかの事件に巻き込まれた可能性もあると考え、事務所側は警察に相談したという。まずは迅速な対応と言っていいだろう。
一方、町田啓介は月曜日の早朝には山梨県にいた。東海自然歩道から少し山に入ったところ――所謂青木ヶ原樹海の中である。ちょうど人一人がすっぽり収まるような木のウロを見つけると、一糸まとわぬ状態の翔子をそこに隠した。枯れ枝と葉、土をかぶせて外から見えないようにした。それから家に帰ると、改めて風呂場と車の掃除をした。彼女のスマートフォンは電源を切っただけでは心もとなく思えたので、ハンマーで叩いて破壊した。クレジットカードや名刺も細かく裁断した。それらも含めたすべての着衣と所持品は少しずつ普段のゴミに混ぜて出すようにした。それも、家からは離れた集積所まで車で運んだ。これで、手元に残ったのは「戦利品」のアクセサリー類だけになった。
それから一週間が経ち、二週間が経ったが、若い女性の死体が発見されたという報道はない。彼は、ウロの中で彼女の死体が少しずつ朽ちていく様を想像した。薄桃色をした沢山の蛆が、ぎしぎしと音を立てて彼女の肉を食んでいるのだ。彼は何度も死体を確認に行きたい衝動にかられた。実際に近くまで車を走らせたこともあったが、辛うじて思いとどまった。もしかしたら死体は既に発見されていて、公表されていないだけかもしれない。犯人は現場に戻るという。警察が罠を張って、それを待ち受けているのかもしれないと思ったのだ。
井草翔子の失踪は、全く報道されなかった。ファッションモデルといっても、所謂有名芸能人などではないので、ニュースバリューがないのだろうか。もしかすると警察は、自発的に失踪した可能性も含め、事件性の有無にも確信が持てないままなのかもしれないと思った。
翔子の失踪と町田を結び付けて考える人は誰一人おらず、彼女の自宅近くのコンビニまで車で送ったという言い訳も結局は必要なかった。彼は聞かれてもいないのにそれを自分から話してしまいそうになって、ひやりとすることが再三あった。
春が近づくころには、彼は翔子のことをほとんど思い出さないようになっていた。たまに思い出しても、自分が殺人犯として警察に捕まるかも知れないという畏れではなく、すぐに殺してしまったのは惜しいことをしたと思うくらいだった。あんな状況になってしまっては、生きて家から帰すことは難しかっただろうが、それならなおさら、もっとゆっくり楽しめばよかった。そしてこの次はもうこんな失敗はしないと考えて、次の計画を立てている自分に気付いてたじろぐこともあった。だが、次のターゲットはあくまでもMなのだ。翔子には本当に可哀そうなことをしたが、彼女はMを手に入れるための尊い犠牲だったのだと思うことにした。
三か月が過ぎても、樹海で遺体が発見されたというニュースはなかった。翔子の失踪も相変わらず全く報道されなかったが、彼女のファンたちがSNS上でいろいろと取り沙汰しているようだった。覗いてみると、所属事務所の社長が疑われているなどという噂話が書かれていた。この説では、彼女はこの社長と不倫しており、結婚を迫られた彼が逆上して彼女を殺害、どこかの山中に埋めたのだという。これには「いつの時代の話だよ」「二時間ドラマの見すぎだろ」等のツッコミが入っていた。他には彼女の詳しいプロフィールも載っていた。それによると彼女は九州のO県出身でまだ二十三歳の若さ、地元で看護師をしている双子の妹がいるのだそうだ。そんなことも彼は全く知らなかった。その妹が、姉は殺害されたのだと訴えているという話も紹介されていて、彼は興味を引かれた。記事によると彼女の姉の殺される瞬間の声が、自分の頭の中に響き渡るのを聞いたというのだ。それは間違いなく姉の声だった。そこで彼女はすぐに時計を見て時刻を確認した。―それが姉の死亡日時だと主張しているというのだ。記事にはその日時も記されていた。町田は自分の手の中で翔子が死んだときのことを思い返してみた。あの時は時計を見るような余裕はなかったが、その時刻はほぼ正しいように思えた。彼は普段心霊現象の話などは馬鹿にしているのだが、これには心底ぞっとした。
井草翔子が最後に目撃されたのは、東京郊外で行われたイベントだったことを指摘している書き込みもあった。それが分かっているなら、なぜ自分が疑われないのかが、町田は不思議でならないのだった。彼以外のイベント関係者が事情を聴かれたという話も聞かない。監視カメラの映像で被害者の足取りを追うというのは、やはりテレビドラマの中だけの話なのだろうか。
そしてそこから、彼はまたいつもの疑心暗鬼に取り憑かれてしまうのだ。実は自分は最初から捜査線上に上がっていて、「泳がされて」いるだけなのではないかという疑いである。警察は黒のヴェルファイアの動きを最初からつかんでいて、彼が翔子を家に連れ帰ったことも把握しているのかもしれない。そうだとすると、翔子の遺体を隠した場所の近くまで車を走らせたのは、とても危険だったことになる。
あれ以来彼は、黒のヴェルファイアが禍々しく思えて仕方がなかった。この車のせいで自分は罪を犯したのだと思うと、もう乗りたくなかった。本当なら買い換えたいのだが、親に金を出してもらっているのでそうもいかない。
そのヴェルファイアがちょうど車検を迎えたため、代車のグレーのセダンを走らせて町田啓介は青木ヶ原樹海に向かった。翔子の遺体がその後どうなったか気になって、どうにも我慢ができなくなってしまったからだ。よく晴れた土曜日だった。現場が近づいてくると、思いがけないことに辺りは雪化粧しており、あちこちに吹き溜まりが出来ているようだった。二日前に東京にも降った雨が、この辺りでは雪だったのだろう。
彼は車を路肩に停めて、遺体を隠した場所を目指して歩き始めた。前にはもちろんそんな余裕はなかったが、今回はリュックサックを背負い、ハイカーに見えなくもないような服装を選んでいた。車を停めた場所から遺体の遺棄場所までは、実はそれほど離れていない。あの朝、本当はもっと山の奥まで行ってから、遺体を投棄したかったのだが、袋に詰めた死体が重くて、思うように足が前に進んでくれなかった。そこに大きな木のウロがあった。あまりにもおあつらえ向きな投棄場所が見つかったので、もうここでいいと思ってしまったのである。
その場所へはもうすぐだが、規制線のようなものはやはりどこにも張られていなかった。規制が解かれた後だとしても、もし遺体が発見されていれば、それを示すようなものが何かしら残っていそうなものである。それもないということは、やはり翔子の遺体はまだ発見されていないのだ。
彼は思わず、「あっ」と大きな声を上げた。すぐに慌てて辺りを見回す。さいわい近くには誰もいない。辺りの景色は三か月前とは全く変わってしまっていた。雪のせいだけではない。あの大きなウロのある大木が忽然とその姿を消していたのだ。おそらく腐朽が進行していたのだろう。そのせいでこの冬の風雪に耐えられずに倒れてしまったに違いない。彼は木のあった辺りの雪を掘り返してみたが、翔子の遺体も、それがここにあったことを知らせるものも、そこには既に何一つ残されていなかった。翔子の血や肉は野生動物たちの糧として、その胃袋に収まったとして、骨はどうしたのだろう。大型動物がどこかに持ち去ったのだろうか。髪の毛は吹き散らされてしまったのか。彼は小一時間かけて辺りを捜索したが、小さな骨のかけら一つ見つけることはできなかった。翔子の遺体は誰にも見つけられないまま、完全に消滅してしまったのだ。虎落笛の音が聞こえた。日が翳って寒くなり、もうこれ以上ここにとどまるのは危険だった。彼は帰ることにした。
帰宅した町田啓介は、テーブルの上に死んだ女が遺したチェーンとリング、ピアスを並べた。デジカメの写真も見た。写真の翔子はどう見ても死んでいた。完全に間違いなく死んでいた。彼が自分の手で絶命させたのだ。もともと彼女に対する殺意などは微塵もなかった。そもそも彼女のことをほとんど知らなかった。九州出身であることも、双子の妹がいることも知らなかったのだ。殺意を抱くいわれなどない。実際に手にかける直前まで、彼女を殺そうなどとは思ってもいなかったのだ。だが、と彼は思う。
「この家に連れてきた時点で、彼女を生かして帰すことはできないのは判っていたじゃないか。今になって殺す気はなかったなどというのは卑怯だ。法廷で裁かれることになっても、そんな恥知らずな言い訳だけはすまい。俺は責任を持ってこの手で彼女を殺したのだ。何の責任? もちろんコレクターの責任だ。手に入れるとはそういうことだ。美しいものをただ愛でているだけならコレクターではない」
そして彼が今、本当に手に入れたいのはMなのだった。
Ⅳ
次の土曜日から町田啓介はMの捜索を再開した。半年以上会えていないとはいえ、視界のほんの片隅にでも捉えさえすれば、今も必ずMを認識できる自信があった。手始めはもちろん、彼女を見失った花屋の前からである。そこから少しずつ捜索範囲を広げながら、歩き回った。小さい路地もすべて通ってみた。
路地を抜けて川べりの道に出た途端に、心臓が転倒するような衝撃を受けた。前を歩いているパンツルックの女性が、後ろ姿しか見えないが、それだけ見ても間違いなかった。あれはMだ。彼が見間違うはずはないのである。やはりストーカーとしての感覚は鈍っていなかった。この場所はあの八月の夜に、彼女を見失った地点からもほど近い。彼女はここに戻って来ていたのだ。
今、彼女は片側にだらだらとした長い塀が続く道を歩いている。人通りが多くないので尾行はとても難しかった。彼は彼女の足の速さを身に染みて知っている。もしも彼女が気配を感じて振り返り、町田に気付いたらその時点でゲームセットである。だから彼はMを見失わない、ぎりぎりの距離を保って後を追った。だらだら続いていた片側の塀が、道から奥に引き込まれたと思うと、その先に突然彼女は姿を消した。慌てて彼が走っていくと、そこにはまるで代官屋敷のような門があった。Mはこの門の中に入ったらしい。門柱には「吉岡」という表札がかかっている。ということは個人宅なのだろうか。だが、門の中はまるで雑木林のような木立である。町田は考えた。門の中に入って木立の中で、いきなりMと鉢合わせするような事態は避けたい。彼が躊躇しているうちに、がさがさざわざわと激しく木が揺れるような音が、中から聞こえて来た。揺れている木を探して彼が視線をさまよわせていると、その揺れている木の枝から、何かがどこかに飛び移るのが見えた。何か…、いやあれはMに違いないと彼は確信した。次にMが姿を現した時、今度は木の間隠れに空中を歩いていた。いくらMでも空中浮遊ができるとは思えないから、何か下に足場があるのだろう。それにしても恐るべき身体能力である。
そのMの姿が見えなくなってからも、ずっと町田は門の前に立ち尽くしていた。とっぷりと日が暮れるまで。結局その日、Mが門から出てくることはなかった。町田は今日のところは帰ることにした。初日としては素晴らしい収穫である。
自宅に戻ると、彼はパソコンであの場所の航空写真を探した。そこには木々の間に大きな建造物が写っていた。なるほど、Mはこの建物の屋根の上を歩いていたというわけだ。町田はなんとかしてここを監視する方法を考えた。そしてすぐにひらめいた。今はだれでも簡単にバードアイを手に入れられるではないか。彼は通販サイトを開くと、カメラ付きのドローンを探してみた。いくつもの候補が表示された中から、手ごろな値段のものを選んで購入することにした。翌日には早くもその商品が届いた。それから毎日、彼は仕事から帰ると、ドローン操作の練習にいそしんだ。
そしていよいよ土曜日が来た。町田啓介はドローンを携えて、Mが消えたあの場所に行った。あの木立に隠れた、あの屋敷を空撮するためだ。外での操作は初めてで、最初はなかなか安定した絵が取れなかったが、繰り返すうちにだんだん安定してきた。Practice makes Perfectである。それにしても大きな建物だ。撮影を繰り返すうちに、屋根の中央部分に大きな天窓があり、光線の具合次第で、そこから中が見えることが分かった。何度目かのトライアルで、建物内部の撮影に成功した。建物の中には二人の人物がいた。男と女だ。そして女はやはりMだった。とうとう見つけた、だがまだまだこれからだと彼は思った。その後、バッテリーの駆動時間いっぱいまで、彼は撮影を繰り返した。
自宅に戻ると、大きなテレビモニターにつないで、改めて画像を確認した。彼が見たいのはもちろんMの姿だ。天窓越しに見える部屋の中では、二人の男女が会話していた。話の内容まではわからない。仮に読唇術が使えたとしても、この解像度では難しいだろう。だが、二人の間に親密な空気が漂っていることはわかった。Mの表情はこれまでに、彼が一度も見たことがないものだった。何が違うのか考えていて思い当たった。イベントでの彼女は、常に緊張してこわばった表情だった。彼女は他のコンパニオンたちに比べて、セルフプロデュースがあまり上手くなかったのだ。幼い頃から鏡に向かって、口角を上げたり白い歯を見せたりして、自分を魅力的に見せる笑顔の見せ方を訓練してきたような女の子たちの中では、彼女のように不器用な女の子はむしろ珍しい存在だ。だからこそ彼女はゼフィルスなのだ。彼女の魅力を見出すことができたのは、この町田啓介ただ一人だと思っていた。だがその彼女が、この男の前では実に自然な笑顔を見せているではないか。完全にリラックスしているのだ。これまでこんな彼女を見たことはなかった。
ポタリ、と町田の足元に血の雫が落ちた。いつの間にか下唇を噛み破っていたのだ。Mにこんな表情を浮かべさせることができるこの男に、今自分は激しく嫉妬しているのだと気付いた。
それにしてもあの時、なぜMは屋敷の屋根の上なんかを歩いていたのだろう。彼女がこの家で男と同居しているなら、なぜ木から屋根に乗り移るようなことをしたのか。つまり、Mが普段からこの家でこの男と暮らしているとはどうも考えにくいのだ。それならば普段の彼女は、どこで何をしているのだろうか。どこに住んでいるのだろうか。それを知るためには、彼一人の調査では限界がある。いかに彼が不真面目な社員とはいっても、会社のある日にまで彼女を監視することはできない。人を雇う必要があるかもしれないと思った。
「彼女は正真正銘のゼフィルスだ。それも、今まで誰も見たことのない希少種だ。絶対にコレクションに加えてみせる。そのために俺は既に人一人殺しているのだ」と彼は自分に言い聞かせた。今度こそ失敗は許されないのだ。考えろ。何と言っても、Mはやすやすとヴェルファイアに乗ってくるような女ではないのだから。




