4 風見鶏の家
Ⅰ
吉岡鉄郎が女を抱くとき、それは女という属性を抱いているのである。もっと身も蓋もない言い方をすれば、機能としての女性を抱いている。現に今抱いている女のことを、鉄郎はほとんど何も知らない。顔もそれほどじっくりと見たわけではないから、ことが済んで別れた後、街で擦れ違っても気付かないかもしれない。――少なくともこれまでならそうだった。
人並み以上に性欲はある。今日のように長くかかった仕事が一段落した後には、特に女の柔らかさとぬくもりが欲しくなるのだ。だから、普段なら手っ取り早く金で解決するという手段をとる。もちろん体の相性のようなものはあるから、気に入った相手だと俗にいう「裏を返す」こともある。だがそれ以上の執着は起こらない。鉄郎にとって、女性という存在は単に性欲を満たす道具に過ぎないからだ。そういう言い方が顰蹙を買うことはわかっているからもちろん公言はしないが、それが正直なところなのである。こんなのは言い訳にもならないかもしれないが、もともと彼は道具を大切に扱うタイプの人間だ。そして趣味のツーリングの時に彼の相棒となる年式の古いハーレーほどにも、愛着が感じられる女性に出会ったことがこれまで一度としてなかった。ただそれだけのことなのだ。
鉄郎は今日に至るまで一度も、女性に恋愛感情を抱いたことがなかった。それには、生まれ育ちの影響も当然あっただろうと思う。鉄郎の母親はかつて、所謂高級クラブでホステスをしており、父はその客だったのだ。彼女は子供に全く興味のない母親だった。母にとって父はただの金主に過ぎず、鉄郎は父から金を引き出すための打ち出の小槌だった。時々鉄郎の顔を見に来る父の方が、ずっと子煩悩だったくらいだ。子供をまるで顧みない母に代わって、母のホステス仲間のスミレさんという女性が、なにくれとなく鉄郎の世話をしてくれた。後から考えるとこのスミレというのは源氏名だろう。本名は知らない。年齢もわからないが、母よりはずっと若かったのだと思う。前職は保母だったと聞いたことがある。彼に初めて性の手ほどきをしてくれたのもこのスミレさんだった。当時の鉄郎が彼女に対して抱いていた思いこそ、恋に近いものだったのかもしれないと思う。
高校二年生に進級してすぐ、彼は亡くなった兄の代わりに、父の家に引き取られることになった。母はあっさりと鉄郎を捨てた。まだ羽振りの良かった当時の父からの「手切れ金」を元手に、地方都市に行って自分の店を開いたのだ。以来約二十年、鉄郎は母ともスミレさんとも会っていない。
三月の夜、鉄郎は街に出た。それまでの暖冬から打って変わって肌寒い日が続いていたが、この日は久しぶりに暖かった。今回の仕事の疲れ方はいつもと少しばかり違ったのか、鉄郎は珍しく誰かと話がしたいと思った。それでそれができるような店を選んだ。店に入るとカウンターの中には 二十代前半と見える若い女性店員が二人いた。長身の方の女性は、一応バーテンダーのような服装をしているが格好だけだろう。学生かもしれないと思った。店は空いていて、鉄郎の他にはカウンターの端に二人組の客がいるだけだった。やや小柄な方の女性が、自然に鉄郎の担当のような感じになった。こちらは黒っぽいぴちっとしたTシャツを着ている。何をしている人かと訊かれたので、「保険調査員のようなことをしている」とだけ答えた。これならばあながち嘘ではない。鉄郎はこれまでに仕事で経験したエピソードの中から、表に出しても問題ないような話だけを、適当に潤色して面白おかしく話した。ところが、どうしてそんな話題になったのか、四方山の話の途中から「近世日本社会における『夜這い』」について講義することになってしまった。
「あれはそもそも字面のイメージがよくないんだと思う。『よばい』自体は万葉集にも出てくる古い言葉で、呼びかけるという意味の『呼ばう』という動詞が名詞化したものなんだ。プロポーズとか結婚というのが本来の意味だった。それに『夜に這っていく』という字を当てたのは一種の言葉遊びで、駄洒落なんだな。ただこの駄洒落自体ものすごく古いんだけどね」
「江戸時代とかですか?」
「もっと、ずっと古くて平安時代。あの、『竹取物語』にも出てきているんだ。かぐや姫の美しさを噂に聞いた男たちが、夜も眠れず、竹取の翁の家の垣根に穴を開けてかぐや姫を見ようと殺到したというくだりに出てくる」
「かぐや姫の話なら、子供の頃に読んでるはずだけど、そんな話ありましたっけ?」
バーテンダー姿の女性が聞いてきた。話が聞こえていたようだ。
「君が読んだのは、子供向けにリライトしたものだろう? 当然そういう微妙なとこはカットされてたんだろうな」
小柄な方の女性は、意外にもこの話題に食いついてきた。
「昔は、田舎の村の同世代の男女は、ほとんどお互いの体を知ってたって聞いたことがありますけど」
「うーん、まあそれはかなり極端な話だと思うけど。地域によっては戦前まで、『夜這い』の風習が残っていたというのは本当のようだけどね。まず大前提として、武士階級なんかと違って庶民には貞操なんて観念はなかったんだし、純潔が尊ばれることも特になかったようだ。夫を亡くした寡婦が、若い男に性の作法とか技術を教えるなんてこともあったようだしね」
語りながら鉄郎はスミレさんの顔をちらりと思い出した。とても優しい、でもどこか寂しげだった寝顔。
「かつては村全体が一つの家族のようなものだったのかもしれないね。村の外に嫁ぐとか、村の外から嫁を迎えるというのは凄くレアだったようだし」
「それはさすがにちょっと嫌かも……」と小柄な女性が笑う。
「なにしろ江戸時代の農民は、『歩行』が禁じられていたんだからね。この歩行というのは村の外に勝手に出ることを言うんだ。もちろん、例外はいくらでもあって、実は案外ゆるゆるだったという説もあるけど。それでも町人の方がはるかに自由だったのは確かだろうね。いずれにしても、ほとんどの庶民には『家』なんて考えはなかったと思うよ。まあ、家でも村でも縛るものという意味では同じだけど」
「縛るもの……」
「日本語では英語のハウスもホームも『家』だけど、先に入れ物としてのハウスがあって、初めて中身のホームができるんじゃないかと思うんだ。だけど、江戸時代にはほとんどの庶民が、入れ物のハウスを持っていないんだからね。当時は『家』なんかに拘るのは武士と公家の外は、百姓なら名主とか年寄みたいな豪農だとか、町人なら何代も続いた大店とか一子相伝の職人とかぐらいだったろうと思うよ。明治になって、政府が無理やり『家制度』を作って、すべての国民を家に縛り付けたんだ。家の中で最年長の男性を戸主と決めて、その戸主が家族に対して絶対的な権力を持つようにした。ついでに日本という国も、まるごと一つの家になぞらえた。この場合、戸主は天皇ということになる」
そこからまた話は大きく脱線して、江戸時代の五公五民の話や、明治6年の地租改正で土地が初めて私有化されたことにまで及んだ。熱に浮かされたように話しながらも、なんのために自分がそんな話をしているのか、鉄郎自身にもよくわからなかった。漁色のためにわざわざ街に出てきたのに、これでは女性たちに「ドン引き」されてしまいそうだ。
「俺は、古今和歌集の中にある『世の中はいづれかさしてわがならむ ゆきとまるをぞ宿とさだむる』という詠み人知らずの歌が好きなんだけど」
「それってどんな意味ですか?」。
「もともとこの世には、どこにも我が家と呼べる場所などないのだ。結局、自分の足の止まったところがすなわち我が家なのだ。というくらいの意味かな。この世は仮のものだという仏教の考えがもとにあるんだろう。それにしてもさ、本来誰のものでもない筈の地面に所有者が居て、とんでもない値段が付いていることの方が可笑しなことだと思わないかい?」
「私が自分の力で家を買うなんて、一生かかっても無理ですもんね」とバーテンダーの女性が割り込んでくると、「目指せ、玉の輿」と言って笑った。鉄郎が
「なんだかつまらない長話をしてしまって御免ね。疲れていると時々こういうことがあるんだ」と言うと、
「お客さんが、土地の繋がりとか、血縁に縛られるような生き方が嫌いだというのは何となく伝わりましたけど」と小柄な彼女は言った。それから少し考えて、
「あたしは家族が大好きだし、生まれた街も好きだけど、でも時々全然違う何ものかになりたいと思うことはあります」と付け足した。
「だからリコはコスプレやってるのよね。この子のコスプレ、ホントに凄いんですよ、気合いの入り方ハンパなくて」とバーテンダーの女性が言った。
「それはちょっと違う。…違わないのかな、わからないけど」と小柄な方の女性が言った。リコという名前らしい。
鉄郎は時計を見た。そろそろ九時に近かった。会計してもらうことにした。これから風俗店などに行くなら、あまり酔い過ぎない方がいいだろうと思ったのだ。すると、リコは鉄郎の耳元に顔を寄せて、
「あたしも今日はもう上がるんですけど、よかったらどこかで飲み直しませんか」と囁いた。
Ⅱ
指定されたコンビニの前で、鉄郎が半信半疑で待っていると、ほどなくトップスを紺のパーカーに着替えたリコがやって来た。彼女が先に立って歩き、たどり着いたのは居酒屋でもスナックでもなく、ラブホテルだった。グレーのシックな外観で街に溶け込んでいるので、鉄郎は最初全く気付かなかった。
「ここ、前から一度入ってみたかったんだ」とリコが言った。フロントなどはなく、タッチパネルで空き室を探し、先に料金を払うシステムのようだった。リコが当たり前のように支払おうとしているので、鉄郎は慌てて「待って、ここは俺が払うよ」と言った。
部屋に入るとすぐに鉄郎は、
「リコちゃんと呼んでいいのかな。俺は鉄郎だけど」と言った。
もともと女が欲しくて街に出てきたのだから、願ったりかなったりの状況な筈なのだが、まだ信じられなかった。彼女は「テツローさん」とだけ呟いた。
「本当にいいの?」という問いには答えず、「先にシャワーを使わせて」と言ってリコはシャワーブースに入っていった。
鉄郎は室内を見回した。一度は行ってみたかったとリコが言う部屋は、無機質な雰囲気で、よく言えば近未来風だろうか。なんだか宇宙船の中にでもいるような気がした。すぐにリコが戻ってくる。交替で鉄郎もシャワーを浴び、出ると無言のままベッドに入った。彼女があまり慣れていないことはすぐに分かった。それでも懸命に鉄郎の求めに応えようとしてくれている。それがいとおしく感じられた。
ふと、スミレさんのことが脳裏に蘇った。さっきちらりと思い出した寝顔はあの時のものだったのだ。鉄郎は高校二年生の春、突然父親の家に引き取られることになった。鉄郎の希望などは聞かれもしなかった。母と別れることは全く辛くなかったが、スミレさんと会えなくなるのはいやだった。彼女は母の新しい店で、一緒に働くことになっていたのだ。スミレさんは言った。「てっちゃん、私のことなんかきっとすぐに忘れちゃうよね。寂しいなあ」。鉄郎は忘れないと言った。すると彼女は「そうだ、てっちゃんまだあれを経験したことなかったよね。私みたいなおばあさんが初めてでいやじゃなければ、これからしてみようか」と言ったのだ。その時のことをありありと思い出していた。
リコの体の火照りを冷ますように優しく愛撫しながら、いつの間にか身の上話を始めていた。普段ピロートークなどしない鉄郎には珍しいことである。
「子供の頃の思い出というと、必ず思い出す光景があるんだ。まだ五歳くらいの頃だと思うんだけど、父親に手を引かれて河原を歩いているんだ。遊園地かなんかに連れて行ってもらった帰りで、空が夕焼けで真っ赤だった。つないでない方の手には買ってもらった風船の紐かなんかを握りしめているんだ」
「素敵な思い出。きっと優しいお父さんだったのね」
「……。俺は妾の子ってヤツなんだ。親父は滅多にうちには来なかったけど、たまにやって来ると滅茶苦茶に俺を可愛がってくれた。それから大分経って、俺が十七歳の時に兄が突然亡くなって、親父に引き取られることになったんだけど、その頃はもう別人みたいに素っ気なかったな。親父は死んだ兄のことを自分の後継者として厳しく育ててたらしいんだ。戸籍上の妻の産んだ子だし、長男だったから。つまりは『家制度』そのものだな。俺は兄貴に何かあった時のための『スペア』だったんだ。だから俺には心置きなく優しく出来たんだろう。自分だって子供を可愛がれるんだって、周りに見せたかったのかも知れないな。俺はそのための道具だったんだと思う」
「……」
「ひどい親父だったけど、俺と遊んでいる時は幸せだったと思うよ。皮肉な話だよな。俺には子供の手を引いて河原を歩くような幸せなんて、やって来っこないのに」
「そんなの、まだわからないと思うけど」とリコが言う。ここはそう応じるしかないだろう。またつまらない話をしてしまった、と鉄郎は反省して、話題を変えることにした。
「ところで、なにが『ちょっと違う』のかな。さっき、相方の子がコスプレの話をした時にそんなこと言ってなかった?」
沈黙が落ちた。どういうふうに答えようかと彼女が真剣に考えているのが伝わってくる。実は真面目な女の子なのだと鉄郎は思った。
「どんなに幸せな境遇にいても、全然違う自分になりたいと思うことだってあると思うのね。だけど、そのせいでコスプレをやってるわけじゃないんだ。そこに理由なんかないの。あたしは何かを表現したいとも特に思ってないし、その時々で一番しっくりくるものを作って、着ているだけ。でもそうしてできた結果があたしなの。…こんなんじゃ伝わらないかな。例えば今日だって、あたしがやってることって滅茶苦茶だよね。一応断っておくけど、こんなこといつもしてるわけじゃないよ。ていうか、こんなこと初めてだし。知らない男の人を自分からホテルに誘うなんて、普通にアブナイもんね。だけど、日常生活に不満があるからこんなことしてるんだろうって言われると、それはちょっと違うと思うんだな。原因なんてあたしには必要ないの」
面白い子だと思った。だが、原因が必要ないといわれると鉄郎は困惑せざるを得ないのだ。世の中に起こる様々な事象について、その原因を探るのが彼の生業だからである。
鉄郎は表向き信用調査会社の社員ということになっているが、自分の属する組織の本当の名前も、またその全容も知らなかった。組織の裾野が途方もなく広いため、全貌は誰にも見えていないのかもしれない。それとも、実体などと呼べるものは最初からなくて、関わっている人たちも自分の役割を自覚していないのかもしれない。とにかく、彼をそこに送り込んだのは亡くなった父親で、裕福だったころの父がこの組織の立ち上げに関与していた事は疑いない。父はそれを「X機関」と呼んでいた。別に「BTE協会」という呼び名もあるが、誰かが洒落た名前のつもりで仮に付けただけのものらしい。ちなみにBTEは「Bridge To Eternity」の略で「永遠への架け橋」という意味だという。
鉄郎に給与を支給している信用調査会社は実在するが、彼が在籍しているセクションには実体がない。彼は専用の端末を持たされ、そこに送られてくる指示に従って、様々な組織や個人を調査して報告している。調査報告をコンピュータが解析した結果、簡単な「工作」が指示されることもある。工作と言っても、それは例えば踏切の自動停止装置を操作して、列車を遅延させるといったような、ごくシンプルなものだ。
調査対象が企業なら、契約社員や顧客として近づく。個人や家庭の場合は、家庭教師になったり、介護スタッフになったりもする。若手起業家支援事業に応募して、過疎の村に移住したこともあった。調査対象は国内にとどまらない。ある時は西アフリカのある部族に、学術調査隊の一員として入った。何年か後に、その部族は近隣の部族と武力衝突したのだが、そのことに彼の「調査」や「工作」がどう影響を及ぼしたのかは、彼の与り知るところではなかった。父は鉄郎に、この仕事はまだこの世に起こっていない事故のための「事故調査委員会」のようなものだと説明した。
鉄郎が生まれる少し前、1985年の夏に、日本航空のボーイング747旅客機が群馬県の山中に墜落して、520人もの人が亡くなるという痛ましい事故が起きた。単独の飛行機事故としては、当時も今も史上最悪の大事故である。事故調査委員会は二年近くの調査の末、事故機の後部圧力隔壁が損壊したことが事故の主原因だと結論付けた。損壊の理由は、不適切な修理の結果として疲労亀裂が発生したことだった。亀裂が広がって隔壁の強度が下がり、とうとう飛行中の客室与圧に耐えられなくなったのだ。その亀裂が、点検整備等で発見されなかったことも問題視された。つまり、前もって点検で亀裂が発見されていれば、520人の命は失われなかった可能性が高いのである。
問題は、原因はいつも結果に遅れてくるということだ。病気に罹患してから、感染源を探すのと同じことである。もしも、致命的な崩壊をもたらす原因を先に発見することができ、それを取り除くことができれば、崩壊を避けることができる。できなくても、被害を最小にすることができるかもしれない。そう考えた人間がこの組織を立ち上げたのだ。だが、現実には原因を特定するのは難しい。また、バタフライ効果という言葉もあるように、ほんの僅かな違いが大きな差異を生むこともある。「組織」が関与したことによる効果を測定することは、鉄郎の知らない別の誰かの仕事だった。鉄郎は、結局西アフリカの部族紛争を防げなかったが、それはより大きな災厄を防ぐために必要なことだとコンピュータが判断した結果だったのかもしれない。それらの効果を見極め、ノウハウを蓄積してゆくことがこの事業の最大の目的なのだ。
将来的に時間旅行が可能になれば、過去に遡って破滅につながる因子を取り除くことも可能になるかもしれない。その時に備えて今から準備しているのだともいえる。もしそうなれば、地球が膨張した太陽に吞み込まれるという五十億年後まで、人類はカタストロフを避け続けることができるだろうし。その頃までには他の星への移住も可能になっているはずだ。だから彼らの仕事は、「永遠への架け橋」なのである。
Ⅲ
「さっき店で、まず入れ物としてのハウスがあってそれからホームになるんだって話をしてただろ。親父と俺の間にはホームなんて呼べるものはなかったんだけど、引き取られた親父の家というのがなにしろ結構な豪邸だったんだ。屋根に風見鶏がついているような洋風の家でね。家というより屋敷だな。部屋数も二十部屋くらいはあった。それも四畳半とか六畳とかじゃないよ。全部ホテルのスイート並みの広さ。それが二十部屋だからね」
「凄い。凄すぎて想像がつかない」とリコは溜息を吐いた。「で、その家は今もあるの?」
「今は弟が管理している」
「弟さんがいたんだ」
「弟のことをまだ話してなかったな。名前は次郎。長男と同じ本妻の子で、俺より五歳下なんだ。俺が親父に引き取られた時に初めて会ったんだから、当時はまだ小学生だった。こいつがまた可愛い子でね。しかもいいヤツなんだ。あの親父の子供とはとても思えないくらい。親父はこの弟を後継者として選んだんだけど、その時の条件が家は人手に渡すなということだったんだ。親父は晩年になって事業をしくじって、屋敷以外のほとんどすべての財産を失った。それでも真面目な弟は律儀に親父の言いつけを守って屋敷を処分しなかったんだ。今でもそこで暮らしてるはず」
その時、リコの腹がクーッと鳴った。リコは顔を真っ赤にしたが、やがてくすくす笑うと、
「あー恥ずかし。お腹すいちゃったみたい。ねえ、ラーメン食べに行かない。深夜までやってるとこ知ってるから。ちょっとコッテリ系だけどすっごくおいしいの」
そう言ってからさらに付け加えた。
「ここに来たのはあくまであたしの自由意志。だから余計な気は使わないで。テツローさん、なんだかとっても疲れて寂しそうに見えたし。話もあたしには面白かったから、もっといろんな話がしてみたいと思ったの。ホテル代も全部出してもらっちゃってるし、後はラーメン奢ってくれたらそれで充分。セックスの後の濃厚ラーメンがおいしいって聞いたことがあるの。いっぺん試してみたかったんだ」
察しのいい子だと鉄郎は感心した。彼女に金を渡すべきかどうか、その場合いくらが適当かで、鉄郎はずっと思い迷っていたからだった。
それから二人はまるで恋人同士のように腕を組んで、ラーメンを食べに行った。濃厚な豚骨ラーメンをおいしそうにすするリコの横顔を見て、あらためて若いのだと思った。聞けば、まだ二十三歳だというから、鉄郎より一回り以上も下である。実家暮らしで、小学生の弟がいるのだそうだ。普段は倉庫会社のOLで、夜のバイトは最近始めたという。
「ちょっと落ち込むことがあって、気分を変えたくて始めてみたんだけど。もうやめようかと思ってるんだ。あんまり向いてないみたい。あたしんちはもともと飲食店だし、よく手伝いもしてたから、客あしらいは慣れてるはずだったんだけどね。実はコスプレの方も、最近ちょっと醒めてきちゃってるの。結構アンチが多くって。あたしのスタイルは割と自分の感性を前面に出すタイプなんだけど、そうすると『邪道だ』とか、『キャラ愛がない』とか、いろいろ叩かれるんだ。自分が納得できるものを作るには、コスプレじゃ限界がある気がしてきた。デザインとか素材のことなんかも一から勉強したいと思ってたとこなの」
ラーメン店を出たところで、「家の近くまで送ろうか」と鉄郎が言うと、リコは
「ホテルに戻ろうよ。せっかく一泊分の料金払ったんだから、使わないともったいないよ。うち、お店が忙しいから、あたしのことは放任なの。二階から部屋に入れるから、いつ帰ったかなんて誰も気にしてない。そういう家なんだから」と笑う。
そこでホテルに戻ると、また交替でシャワーを浴びてからベッドに入った。それから鉄郎は朝までぐっすり眠った。久しぶりに夢も見なかった。別れる前にLINEの連絡先を交換した。この子のことは少なくともしばらくは忘れないだろうと思った。
数日して、リコからLINEが来た。「会いたい」という言葉を期待して開いてみると、書かれていたのは意外な用件だった。
「気になる動画がUPされてるのを見つけたのでぜひ見て下さい/ここに写っているのは/テツローさんが話していた家ではないですか/それから この中に写っているのは/私が知っている人かもしれません」
添付されているURLを開くと、すぐに動画が再生された。ドローンを使った空撮のようだ。カメラは小川に沿って移動してゆく。両岸に並木のある都会の川だ。川の左側に森のような木立が近づいてくる。カメラは木立の上まで来て、そこで静止する。真上から見た木立はなんだかブロッコリーみたいに見える。その緑濃い木立の中に、建物の屋根が見えた。見覚えのある風見鶏が見えている。鉄郎の記憶よりはずいぶん樹木が成長しているが、間違いない。カメラが屋根の真ん中に開いた大きな天窓に近づいていく。その窓を通して中が見えてくる。二人の人物が向かい合って立っている。若い男女のようだ。着ているものまではよくわからないが、女の方は薄物を一枚纏っているだけのように見える。男が手を差し伸べて女に近づいてゆく。女がこちらを見る。その顔が見えた。カメラに気付いたのだろうか。そこで動画は終わっていた。一分にも満たない動画を、鉄郎は何度も繰り返し見た。そして確信した。これは間違いなく吉岡家の屋敷だ。男は弟の次郎だろうか。それにしても誰がこんな映像をSNSに上げたのだろう。
再びリコからLINEが来た。
「どうでした」
「間違いない」
「あの家の住所を教えてください」
鉄郎が記憶にある家の住所を伝えると、しばらくしてから、今日これから会えないかと言ってきた。鉄郎の方は大きな仕事が済んだばかりなので、いくらでも時間はある。了解の旨を送り、少し考えてから「今夜もラーメンご馳走するよ」と付け加えた。するとすぐに「バカ♡」と返ってきた。
帰宅ラッシュの駅で何とかリコを見つけ、とりあえず近くのチェーンのカフェに入った。飲み物を買って席に着いてすぐ、聞きたかったことを尋ねた。
「知ってる人って、男? 女?」
「女の子の方。男の人の方はあんまりはっきり写ってなかったし」
鉄郎はほっと息をついた。リコが知っているのは次郎の方ではなかった。
「この間のテツローさんの話がずっと頭の隅にあって。ほら、『風見鶏のある家』のこと。昨日突然思い出したのよ、親友だった子が何か言ってたって」
「だったって、過去形?」
リコはなんとも複雑な表情を浮かべると、「あたしはずっと大親友のつもりだったんだけど、急に音信不通になっちゃったのよ。その子が確か前に風見鶏の家の話をしてて、その家でコスプレ写真を撮りたいっていうから、衣装を貸してあげたことがあったのを思い出したの。で、ネットで風見鶏のある家をいろいろ捜してたら、あの動画を見つけたというわけ。それとさっきテツローさんに教えてもらった住所だけど、前に彼女が住んでたアパートのすぐ近くなのよ」と言った。
その女性は名を安西百代といい、リコと同じ会社に勤める同僚だった。去年の夏、百代がストーカー被害に遭っていることを知り、リコは一時的に自分の家に百代を居候させることにしたのだという。
「二人でコスプレしてハロウィンにも繰り出したんだから、二か月以上も一緒に暮らしたのよ。その間にモモの転職先が決まって、新しい会社の近くに引っ越すことになったんだけど、あたし、その会社の名前を憶えていないの。ていうか聞いたのかどうかも覚えてない。その時はまさか連絡がつかなくなるなんて、思いもしなかったし」
しばらくぶりに連絡を取ろうとすると、LINEが使えなくなっていた。電話もかからない。百代はリコの前から忽然と姿を消してしまったのだった。もしかして例のストーカーに見つかって、どこかに監禁されて危害でも加えられているのではないかと、リコはずっと心配していたのだという。
「あの動画、最後に女の子がこちらを見るところ。あれを見て間違いなくモモだと思った。でも、あの動画に写っていた男の人はストーカーじゃないと思う。なんていうか、二人の間の空気感? モモはあの男の人を心から信頼している感じがするの。あの人って弟さんなの?」
鉄郎もそれをずっと考えていたのだった。
「次郎にはもう十年も会っていないんだ。それに写りが悪すぎる。だけど、あの家は弟の家だ。その可能性が高いだろうね」
鉄郎の不安は、あの動画を誰が何の目的で撮影し、公開しているのかということに尽きる。自分のスマホを取り出して、動画を開いてみる。再生数は150と表示されていた。これはまだそれほど多くはない。リコはすぐ鉄郎の考えに気付いたようで、
「あの動画を見て、すぐに場所がわかる人それほどいないんじゃないかと思うな。でも洋風建築と廃墟にハッシュタグが付けてあるから、その界隈でこれからだんだんバズってくるかも。行ってみようと思う人は増えるんじゃないかなあ。あたしだって行ってみたいもん。そもそも何であんな家があって、これまであまり人に知られていなかったのか、普通に不思議」
そこで鉄郎は説明した。「うちの親父は、美術品を売る『画商』だったんだけど、顧客には政財界の大物が多かったらしい。で、彼等のためのサロンという意味であの家を建てたんだ。だけど親父が生きてる頃から、ああいう家があることはあまり外には出てなかった。親父は目立つことを特に嫌う人だったからね」
鉄郎は今では、父はただの画商ではなかったと考えている。だが自分の本当の職業のことも含め、それをリコに告げるのはまだ少し早いと思った。リコは釈然としない顔をしていたが、
「あたしはモモがもし苦しんでいるなら助けたいの。あの動画の最後のところが、なんだかあたしに助けを求めているように見えてしまって。考えすぎだよね」
「俺も確かにあそこはちょっと不自然に感じたなあ。あのカメラ目線のせいで、君も彼女がその百代という子だと確信したわけだろう。彼女がドローンに気付いていないなんてことがあるだろうか」
鉄郎はあの顔が誰かに似ていると思っていたのだ。スミレさんだと気付いた。顔の造作は全く違うが、どことなく寂しい感じがよく似ているのだった。
弟にしろその女性にしろ、今、鉄郎が手を差し伸べるべき理由は何もない。だがもし自分にそれが出来る可能性があるなら、試してみる価値はあるかもしれない。そう鉄郎は思った。何より、その女性はリコの親友だったのだ。そう思う程度には、リコが特別な存在になりつつあった。
そして翌週になって、事態は鉄郎にとって大きく変わった。鉄郎の端末に表示された新たな調査対象が、まさにあの「風見鶏の家」だったのである。




