3 鏡の森のなかで
Ⅰ
都心の新しいビルはどれも全面硝子張りで、一見すると硝子と金属だけで出来ているように見える。そういうビルが林立している街を歩くと、鏡の森に迷い込んだような気分になるものだ。そんな鏡の森の中に、まるで立ち枯れた木のように一つだけ取り残された古いビルがあった。そのビルの一室に今、紺野藍造はいる。
部屋の中にいるのは彼一人だけだった。机に頬杖を突き、ぼんやり窓の外を眺めていた。こういうさまを若い人たちは確か「たそがれる」というのだったか、それともそれももう死語になってしまったかと紺野は思った。今は黄昏どころかまだ午前中だ。今日はこの後一件、面接をすることになっているが、それまでは仕事らしい仕事もない。
彼はタウン誌などの制作を代行する出版会社の社長である。だが、その会社の社員は実質彼一人だけで、会社の実体はほぼない。所謂ペーパーカンパニーなのである。そして彼のもう一つの顔は、ある組織のために働く調査員なのだった。気取って言えばエージェントということになるが、実態はそれほど格好の良いものでなく、地味な調査業務を淡々とこなしているだけだ。彼にこの二つの立場を用意し、仕事を与えてくれたのは、彼の元の雇用主だった吉岡弥太郎である。旧家に生まれ育ち、画商として一代で財を成した人物だった。紺野の両親は吉岡家の屋敷で住み込みの使用人をしていたため、彼はその弥太郎と同じ屋敷で育ったのだ。
紺野は高校を卒業するとすぐに結婚し、一女を儲けたがほどなく離婚した。娘の親権は元妻が持ったので、以来ずっとひとり暮らしである。その娘とは比較的良好な関係を保っていたが、最近は大学生になった孫娘が時々遊びに来るようになった。もちろん小遣いをせびりに来るのであるが、紺野が表の仕事としてアリバイ作り程度に細々とやっているタウン誌の編集を手伝ってくれることもあった。そして今回は少しバイト代をはずんだので、今日はこの後何人かの仲間を連れて来てくれることになっていた。
紺野の主家には膨大な蔵書があり、好きに読んでいいと言われていたため、十代から二十代の頃はよく本を読んだ。古今東西の名作と呼ばれるものは一通り読んでいる。その経験は、今の彼の表の仕事にいくらか役に立っているかもしれない。だが紺野はこの二十年ほど、全く小説が読めなくなってしまったのだ。小説だけではない、映画やテレビドラマの類も一切受け付けなくなった。「物語」というのは、その作り手が、「自分には世界はこのように見えている」ということを表明するものでしかないと思うからだ。それはフィクションばかりではなく、ノンフィクションであっても同じことだ。
ソーシャルメディア等の発達もあって、確かに一人の人間が一生のうちに知覚できる世界は広がった。だがそれも、宇宙全体に比べればほんの微々たるものに過ぎない。そしてその微々たる情報ですら、そのすべてを採り入れることは不可能なのだ。そんなことをしようとすれば、処理が追い付かずに脳がパンクしてしまうだろう。
もともと一人の人間の五感に触れてくる膨大な情報は、相互には何の関係もない。そこに関係や意味を見出そうとするのは個々の人間の主観であり、それを支えているのが言語なのだと紺野は考えている。
つまり、我々の身の周りで発生している数多の現象のほとんどは、それぞれ何の関連もなく、作者個人の主観がそこから物語を掬い取っているというわけだ。掬われなかった事物や現象は捨て去られる。だから物語を作ることは同時に圧倒的に多くのものを捨象することなのだ。
現実の世界にはドラマなど起ってはいない。当然悲劇も喜劇もない。物語は時間も切り取るものだから、ハッピーエンドでエンドマークが出た次の瞬間に、現実世界では悲劇的なカタストロフが訪れるかもしれないのだ。いつの頃からか紺野は、物語などを読んでも現実を生きるために資するものなど何もないと思うようになった。
そうなった理由も彼にはわかっている。彼のもう一つの仕事のせいなのだ。彼の調査は彼が所属する「組織」が現実を変更しようとする企てのために利用される。コンピュータが破滅的な災厄の前兆を察知すると、調査員が周辺の調査を行う。そこから上がってきたデータをもとに、コンピュータが最も簡便かつ他への影響の少ない方法で危機を回避できる手段を割り出すのだという。紺野はこの仕事にもう四半世紀近くも従事してきたが、自分の仕事が何かの役に立っているのかを本当には知らない。最近ではむしろ懐疑の方が多くなってきている。
「組織」では一時期、大地震を回避する研究が進められたことがあった。大地震の兆候が捉えられた際、人工的な小地震をいくつか起こすことによって蓄えられた地震エネルギーを分散させようというのである。理論上のシミュレーションを重ね、運用直前まで行ったが結局は見送られた。肝心の地震予測の精度が上がらない上、分散された地震エネルギーが次にどこに影響するかを見定めることが困難だったからだ。だが、この時紺野は思ったものだ。たとえ小さな地震であっても、運悪く転倒してしまう人や、落下物に当たってしまう人はいるだろう。最悪の場合は命を落としてしまうかも知れない。そしてその人は、回避された大地震では死なないはずの人だったかも知れないのだ。だったらその死の責任は、一体誰が引き受けるのだろう。
紺野は若い頃に読んだ志賀直哉の「城の崎にて」を思い出した。当時はなんだか陰気な小説だくらいにしか思わなかったが、一つだけ強く記憶に残っている箇所がある。それは主人公が石を投げてイモリを殺す場面だ。主人公はもともと驚かして水に落そうと思っただけで、殺す気などなかった。それが、イモリを殺してしまった後で「その(イモリの)心持を感じた」、「嫌な気」がして「生きものの淋しさ」を感じた等と作者は書いている。だが当のイモリにしてみれば、それは嫌だとか寂しいなどと言って済ませられるものではないだろうと紺野は思った。もちろん、たった一匹のイモリが死んでも世界にはほとんど何の影響もない。だがそのイモリにとっては、唯一の世界が消滅してしまうということなのだ。そしてそれはスケールの違いだけで、自分にも起こり得ることだと思った。自分を空の上から見下ろしているダイダラボウシのような巨人がいて、それが気紛れに頭の上から大きな岩を落としでもしたら、それだけで自分の世界は終わってしまうのだ。
「お祖父ちゃん、何たそがれてんの?」という声に我に返った。ドアが開いて、そこに孫娘の栞が立っていた。
「たそがれるって言葉、まだ死語にはなっていなかったんだ?」
「何で? ボーっとしてる人に『何たそがれてんの』って、普通に言うけど」
「うーん、それは僕が知っているのとは微妙にニュアンスが違うようだなあ。『たそがれる』というのは、例えば僕のように人生の黄昏に差し掛かったような人間が、窓辺に佇んでメランコリックになっているような様子を表現する言葉だったはずだが……」
「何それ。全然分からないよ。第一、人生のたそがれってどういう意味?」
どうにも話が嚙み合わない。聞けば栞は「黄昏」のそもそもの意味を知らず、「たそがれる」とは単に「物思いにふける」という意味だと思っているらしいのだ。大学生が黄昏の意味も知らないなんて、一体最近の教育はどうなっているのかと紺野は訝った。
今日はこの後、採用面接を一件することになっている。それもコンピュータからの指示によるものだ。問題はその相手が若い女性であるらしいことで、紺野は老人とはいえ男なので、狭いオフィスの中で一対一になるのは避けた方がいいだろうと思った。そこで栞に加勢を頼んだのだ。すると彼女は友人たちも連れて来たいと言った。
「友達にレトロビルにハマってる子がいるんだ。ここの話をしたら、是非見に来たいって。いいでしょ?」
その栞はしばらく窓から外を観察していたが、突然大きく手を振った。どうやら一行が来たらしい。栞は窓を開けようとしたが、
「ねえ、この窓開かないの?」
「開くけど、ちょっとばかりコツがいるんだ」
鉄製のサッシは一部が錆びついていて、簡単には開かないのである。
「いいや、電話するから」と言って栞はスマホを取り出した。紺野の目も舗道を歩いてくる三人の男女を捉えていた。
「ああ、アカリ。こっちからよく見えてるよ。うん、左側。そう、四階。見える? 今手を振ってる。えっ、何? ひったくり? えっえっ、どういうこと?」
紺野はアカリと呼ばれた女性が、スマホを耳に当てながら他の二人の男性に何か言っているのを見た。アカリが前方数メートルのあたりを指さしている。そこでは倒れ込んだ女性が、自転車に跨った男と揉み合っていた。男は黒っぽいフードを被っている。女性の手からバッグをもぎ取ろうとしているようだ。そこに二人が駆けつけてきた。一瞬早く男はバッグを奪い取って自転車を漕ぎ始めたが、一人がすぐさまその荷台に飛びついた。自転車が倒れる。
「ケントからは逃げられないって。競走部なんだから。シュンヤだってずっとサッカーやってたから足速いし」
自転車を捨てて逃げようとした男に、追いついたもう一人が何かしたのか、男は突然もんどりうって歩道に叩きつけられた。「やったー」と栞が歓声を上げる。二人がかりで男を抑えつけているところに、人々が少しずつ集まり始めていた。片手にスマホを持ったアカリが場を仕切っているように見えた。栞は、
「こうしちゃいられないわ。私も行ってくる」と言って部屋を飛び出していった。
Ⅱ
予定外の出来事で面接の時間に間に合わなくなるのではないかと心配したが、警察の方でもこちらの事情を優先してくれたようで、三人はこちらの用件が終わり次第所轄警察署に出向くことになったという。栞に続いてその三人が賑やかに入ってくると、急に単色の部屋がカラフルになったように紺野は感じた。栞は三人を紺野に紹介すると、
「どうよ、お祖父ちゃん。最近の若いもんだってなかなかやるでしょう」と得意そうに言った。すかさず、
「栞は上から見てただけで何もしてないじゃん。私が警察に知らせたし、なんなら最初に気付いて健人と俊哉に的確に指示を出したのも全部私だからね」と亜香里が口をとがらせる。まん丸い眼鏡をかけた小柄な女の子だった。
「あんたたち三人、きっと警察から表彰されるね。私も友達として誇らしいわ」と栞が笑った。紺野は、
「被害者の女性は無事だったの?」と訊いてみた。
「多分大丈夫なんじゃないかと思います。転んだとき腕をちょっと擦りむいたくらいで、一応病院に運ばれたけど、救急隊の人が軽症のようだって言ってました」と健人と呼ばれた青年が答える。なかなかしっかりした男の子だ、この子が栞の彼氏だったらいいとなんとなく紺野は思った。もう一人の俊哉という青年が服を気にしながら、
「俺、一張羅がダメになるんじゃないかって、気が気じゃなかったよ。あいつじたばた暴れ回るし」と言った。男性二人はスーツにネクタイを締めている。できるだけ会社員に見える服装でと、前もって頼んであったからだ。紺野の方は最近では自身のトレードマークになっている、青いシャツとスラックス姿だ。最近は腹が出てきて、ベルトが苦しいのでサスペンダーで吊っている。強いて言うならコメディアンのようで、この中では一番会社員に見えなかった。
「二人とも、よく背広なんか持ってたな。お父さんに借りたのかい?」と紺野は訊いてみた。
「お祖父ちゃん、背広こそ死語だよ。今どきの大学生はみんな入学する時に親にスーツを買ってもらうの」と栞が言った。そうなのか、最近の大学生は入学式にスーツを着るのかと紺野は驚いた。
亜香里は壁に取り付いた古い暖房用のラジエーターや、天井や壁を這う剥き出しのパイプ類に興味津々という感じで室内を歩き回っている。古いビルが好きだというのはきっとこの娘だろう。
「この暖房器具は、冬はとてもあったかいんだけど、中をお湯が流れる時にカンカン音を立てるんだ。それがうるさくってね」などと説明してやると、目を輝かせて聞いていた。
「私、こういう古いビルが大好物なんです。いつまでも遺してほしいなあ」
残念ながらそうはいくまいと紺野は思った。このビルはただ古いだけで特に意匠が凝っているわけでも、文化財的な価値があるわけでもない。テナントもどんどん減って空き室が目立つようになっているのだ。取り壊されるのも時間の問題だろう。
「いやあ、だけどこういう単純明快な人助けっていいよなあ。なんかこう清々しいというか」と健人が言って笑った。
「ほんとみんな偉かったよ。お祖父ちゃん、バイト代アップよろしくね」と栞も言う。
「いや、さすがそれは悪いって。それとこれとは関係ないんじゃないの」と俊哉が言えば、
「だって、これで次号のタウンニュースのトップ記事が出来たじゃない。『お手柄大学生たち、チームワークでひったくり犯逮捕!』って。私、記事書こうかなあ。いいでしょ、お祖父ちゃん?」
紺野は苦笑しながらも考えていた。確かに健人の言う通りだ。人助けは単純明快でなくてはならないのだと。
高齢の紺野が危険な仕事に従事することはまずないが、調査員によっては危険と隣り合わせの状況に身を置かねばならないこともままある。その上仕事の成果も目には見えない。彼等の仕事は万事が単純明快とはいかないのだ。過去にはPTSDを発症した例も聞いていた。
「組織」の調査員は、観察と報告、指示に基づいた工作を行う以外は、目の前の状況に干渉することを禁じられている。彼らが関わることで状況に変化が生じ、最初から計算をやり直さねばならなくなるからである。だから、調査中はたとえ目の前に助けを求めている人がいても、一切手出しをしてはならないと厳重に戒められていた。
以前、西アフリカの紛争地域に派遣された調査員が召還されたことがあった。彼は目の前で調査対象者が殺害された際、指示に従って救援の手を差し伸べなかった。彼が関わったところで、助けられたかどうかは疑問だったし、その場合は彼自身にも危険が及んだであろう。だが遺された家族、とりわけ子供たちが悲嘆にくれているのを見るのはさぞかし辛かったのだろう。その後それがもとで、強い抑圧症状を呈していたのだった。尤も、本人はそのことを全く自覚できていなかったようなのだが。
午前十一時ちょうどにドアがノックされた。面接希望者が来たようだ。紺野は自分のデスクに戻った。三人もそれぞれ席について、仕事をしているフリを始めた。栞が来客を出迎えにドアに向かう。廊下で話す声が聞こえてきた。
やがて栞は一人で戻ってくると、預かった履歴書を紺野に渡し、「すっごく綺麗な人、お祖父ちゃん、絶対採用した方がいいよ」と耳元で囁いた。再びドアに向かうと「ご案内します」と言った。意外にもなかなか様になっている。
紺色のスーツの上下に身を包んだ女性が静かに入ってきて、紺野の前の椅子に腰を下ろした。その顔を見て彼は思わず息を飲んだ。彼女が美しかったからではない。いや、確かに美しいのだが、彼が驚いたのは、遥かな昔に会ったことがある女性だったからだ。
いや、そんな筈はない。彼が知っているその女性はもうとうの昔に亡くなっているはずなのだ。彼は履歴書を見た。「安西百代」と書かれている。年齢の欄には二十五歳とあった。氏名のフリガナはアンザイモモヨ。それは彼が吉岡家に残されていた古文書で見てから、ずっと追いかけていた名前ととてもよく似ていた。彼はかつてその人物について論文の真似事のようなものを書いて、とある学術誌に投稿したこともあるのである。彼はすっかり混乱した。これは一体どう解釈すべきなのだろうか。
子どもの頃に知っていたその女性の名前は知らなかったが、姓はアンザイだったのかもしれない。それはあり得ることだと思った。確かその女性は二十代前半で亡くなったと聞いている。仮に今生きていれば優に八十歳を超えているはずだ。紺野は目の前の女性を凝視した。やはり当時の彼女とよく似ている。これはただの偶然なのだろうか。そして安西百代という名前。
彼がなかなか言葉を発しないので、彼女がもの問いたげにこちらを見ている。紺野は何を言うべきか迷っていた。「私は約六十年前にあなたとよく似た人に会っていますし、あなたの名前も古文書で読んで知っていました」等とはさすがに言えない。こんな彼の動揺さえも、コンピュータは織り込み済みなのだろうと思うと、なんだか悔しかった。
「履歴書を拝見しました。○○大学の新聞学科を出ておいでなんですね。申し分ない経歴です。もしあなたさえよければ、いつからでもこちらで働いていただけます。条件は求人票にあった通りです。明日からでも大丈夫ですが、いかがなさいますか」と言った。
その条件について諸々確認した後、明日から試用期間に入ることで話がまとまった。ちょうど久しぶりに地元商店街の取材をすることになっていたので好都合でもあった。待ち合わせの場所と時間を確認して面接を終えた。紺野が栞の方を見やると、彼女が笑いながら親指を立てているのが見えた。よくできましたという意味らしい。
Ⅲ
結局この安西百代という女性は、その翌週からコンピュータの指示によって新たな調査業務に就くことになり、このオフィスに出勤してくることはなくなった。栞は残念がったが、彼が驚いたのはその彼女の新たな調査対象が、彼の元雇用主である吉岡弥太郎が建てた広壮な屋敷の中に保存されている資料だったことだ。コンピュータが何を企てているのか彼には全くわからなかった。
「組織」の創始者の一人である弥太郎は十年と少し前に亡くなっていた。そしてこの間に、紺野もすっかり歳を取った。世界中に散らばっているとされる協力者たちも一様に高齢化し、亡くなった者も少なくないはずだ。メンバーは補充されているのだろうか。紺野は今回初めて、コンピュータが新しい調査員をリクルートするのを実際に見たことになるのだった。
孫の栞にはもちろん、「組織」のことなどは一切話していなかった。彼女が自分にサムズアップしてみせたのを見た時には、何か気付いているのかと思って一瞬どきりとしたが、単に面接がうまくいったことを無邪気に喜んでくれただけだったようだ。いずれにしても、これ以上「組織」の仕事に栞を巻き込むのは控えたほうがいいと思った。だがコンピュータがそのつもりならば、あの子を引き込むことなどたやすいだろう。あの子は幼い頃に、「組織」に命を救われているのだ。あれは「組織」が一個人を助けた、紺野が知る限り唯一の事例だった。もしかすると当時まだ存命だった弥太郎が、これに関わったのかもしれないと彼は疑ったものだ。以来ずっと、コンピュータは彼女の行動を監視し続けていたのかもしれない。だからと言って、栞に危険な仕事をさせるようなことまではさすがにないと信じたかった。
年が改まってしばらくしたころ、コンピュータから三月末で事務所を閉めるようにとの指示があった。老朽化によるビルの建て替え話はこれまで何度か浮上したことがあったが、今回はそんな話は聞いていない。「組織」がその使命を終える日がいよいよ近づいたのかもしれないと紺野は思った。当初から25年が一区切りであるとは聞いていた。いつかはそういう日が来ると覚悟はしていたが、それでもやはり寂しかった。
事務所を閉める日が近づいたある日の午後、紺野は久しぶりにかつての主人であった吉岡弥太郎の家の近くまでやって来ていた。コンピュータの指示により、時々この屋敷と周辺の観察も行っているのである。春のはっきりしない天気がようやく落ち着き、この日は快晴だった。今の屋敷は弥太郎が建てたものなので、紺野が生まれ育ち、青年期までを過ごした家とは違っている。弥太郎は自分の出自に強い誇りを持ち、先祖の事績等を研究していた。この辺りの土地は、往時はすべて吉岡家のものだった。それを知った弥太郎が買い戻して、現在の広大な吉岡邸を建てたのだ。紺野の幼少時代には、この辺りにはあちらこちらに田畑や広っぱが残り、彼は仲間の子供たちと、日が暮れるまで駆け回って遊んだものだった。それが今はすべて住宅になっている。景色もまるで変わってしまった。変わらないのは吉岡邸の前を流れる川だけである。
紺野は約六十年前のある夏のことを思い出していた。その夏、今の安斎百代ととてもよく似た女性が吉岡家に滞在していたのである。彼女は広っぱの大きなくすの木の下に佇んで、彼にいろいろなお話を聞かせてくれた。そのくすの木は、今でも屋敷のすぐ脇に立っている。彼女の話がとても面白かったので、だんだんに子供たちが集まってきて、みんなで話をせがむようになったのだ。あの女性の名前も「アンザイモモヨ」だったのだろうか。
屋敷の前の川沿いの道を歩いていると、前方を歩いている後ろ姿の女性が当の安西百代であることにふと気付いた。今日は土曜日だが、これから屋敷に「出勤」するのだろうか。追いついて声を掛けようかと思った時、彼女の後を一人の男が歩いているのが目に入った。眼鏡をかけた三十年配の男である。一定の距離を取りながら、どうやら彼女を尾行しているように見えた。何者かは分からないが、彼女やコンピュータにとって有害な存在だろうと直感した。紺野は端末を取り出すと、その男の姿を写真に収めた。「安西百代が何者かに尾行されているようだ」というコメントと共に、その写真をコンピュータに送った。すぐさま引き続き注視するようにとの指示が来た。男は吉岡邸の門の前で立ち尽くしている。百代が戻ってくるのを待っているようだ。これでは紺野はここを動くわけにはいかない。だがあまり長時間になると、相手に気付かれるリスクも高くなる。紺野は焦れた。
小一時間ほども経った頃に、コンピュータからその場から離れるようにという指示が来た。交代要員の手配が出来たということなのだろうと彼は思った。
事務所の近くまで戻ってくると、夕暮れが街に迫っていた。紺野は近所にある公園に足を向けた。彼はこの公園が気に入っていた。梅は終わり、桜はまだというこの時期は人も少なく、ゆったりと寛げるだろうと思ったのだ。
公園の入り口の車止めの所に、まるで人形のような女の子が一人で立っているのが見えた。癖毛がかわいらしい、三歳くらいの子だ。ヒトに限らず哺乳類の子どもはみんなかわいいと紺野は思う。親に捨てられないためのデザインだと聞いたことがあった。栞の母親があの年頃の頃に、公園でよく一緒に遊んだことを思い出した。あの子は砂場遊びが大好きだった。プラスティックの小さなバケツと熊手を娘に持たせ、砂の中に埋めた桜貝の貝殻や真鍮製のボタンや、外国のコイン等をを探させるのだ。だから娘と遊ぶ時には、いつもそれらをポケットに忍ばせていた。娘が小さな指で宝物を摘んで父に見せる、そのしぐさがたまらなく可愛かった。今も思い出す幸福だった日の一コマだ。
それにしてもこの子の両親はどこにいるのだろう。この年代の子供は、何かに気を取られると周りが見えなくなるものだ。近くで大人が見ていないと危ない。案の定、何か小さな虫でも追いかけていたのか、女の子はペンギンを思わせるおぼつかない足取りで車道に出てきた。紺野が立っている道路の反対側からは、すぐに左から宅配便トラックが走って来るのが見てとれた。トラックがスピードを緩める様子はない。ライトを点けるには早い薄暮の時間帯、小さな女の子の姿に気付いていないようだ。
咄嗟に「これは助けなくては」と紺野は思った。「助けられる」とも思った。ごく短い時間の中で彼は冷静に距離とタイミングを測った。実際、若い頃の彼なら何の苦もなく助けることが出来ただろう。問題は彼が今は六十八歳で軽肥満、最近は運動も殆どしていないことだった。逡巡する間にもトラックは近づいてくる。その時、「単純明快な人助けっていいよなあ」という健人の声が脳裏に蘇った。次の瞬間、迷いを断ち切るように彼は車道に向かって走り出した。だが、一歩目でいきなりたたらを踏んだ。体勢を崩しながらも、なんとか女の子のすぐそばに倒れ込んだ。宅配便のトラックが迫って来る。もう間に合わないと思った。その時、この子の母親なのだろうか、若い女性が何か叫びながらこちらに向かって走ってくるのが見えた。紺野は女の子を両手で鷲掴みにすると、渾身の力で女性に向けて放った。ゆっくりと女児の体が空を舞った。だが、それが女性の両手の中に納まるのを、彼は見届けることが出来なかった。
長いクラクションと急ブレーキの音が辺りに響き渡った。




