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彗星の夜  作者: 秋田清
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2 夜の川

 薄暗い路地を軽やかなステップで駆け抜けた。こんな、パンプスなんかでなければもっと速く走れるのにと思うとちょっと歯がゆかった。細い曲がり角を右に折れ、すぐまた左に折れる。やがて川沿いの道に出たところで、もう大丈夫と思って足を止めた。呼吸を整え、ゆっくりと振り返る。しばらく待ったが、やはり追いかけてくる気配はないようだ。

 当然だと安西百代は思った。彼女は幼いころから文字通り故郷の山野を駆け巡っていたのだし、男子に交じって校庭でサッカーもよくやった。運動会のリレーでは決まってアンカーだったのだ。あんなオタクを絵に描いたような、いかにも運動不足そうな男になんか追い付かれっこない。とはいえ、ちょっと油断していたと反省もした。条件の良いアルバイトだったけど、しばらくはやめた方がいいかもしれないと思った。


 百代は週末限定でイベントコンパニオンをしており、この夜はその帰りだった。学生時代に友人に誘われて始めたのが最初で、社会人になってからも不定期に続けているバイトだった。彼女は平日、倉庫会社の事務をしている。職場では地味な制服なので、週末におしゃれなコスチュームが着られるのはうれしかった。支給される衣装は、露出の多いタイトなものが多いので、積極的にジムに通ったり、最近では時々ボルダリングスタジオにも行ったりしていた。規模の大きい人気のイベントの場合は、オーディションで落とされてしまうこともあるので、体形維持は必須条件だった。


 この日は湾岸地区の展示場で一ヶ月半続いたイベントが終わり、簡単な打ち上げがあった。お開きになった後、帰りの電車の中まで運営会社のスタッフの一人と一緒になった。後から考えると偶然ではなかったのだろう。銀縁眼鏡をかけた細面の男性で、年齢は百代より少し上の二十代後半といったところだろうか。確か周りから町田と呼ばれていた。これまでにも何度かイベント会場で見たことのある顔だったが、あまり目立たないので、意識したことはなかった。向こうでは彼女のことを前から知っていたようで、親しげに話しかけてきたのだった。その話の中には、有名なアーティストやアイドルの名前がいくつも出てきて、彼等と仕事で関わったことがあるのが自慢らしかった。コンパニオン仲間の中にはモデル事務所に所属している子もいるし、芸能界に関心がある子が多いのだが、彼女は正直のところあまり興味がなかった。それでも最初のうちは当たり障りなく、相槌を打ちながら聞いていたのだが、「モモちゃんはダンスはやらないの?」だの、「演出家の川嶋さんを知ってるから、今度紹介してあげようか」だのと、慣れ慣れしく迫ってくるに至って、すっかり辟易してしまった。この町田という男はイベント会社の正社員というだけで、彼の主な仕事は、アルバイトのスタッフにあれこれと指示を出すことだ。その川嶋さんとやらに特別なコネがあるとも思えなかった。そうこうするうちに、彼女が乗り換える駅が近づいたのでそう告げると、連絡先を交換しようと言ってきた。これはきっぱりと断った。


 ところが驚いたことに、乗り換えた電車の隣のドア付近にその町田が立ってこちらを見ているのに気付いたのである。ぞっとした。もしも家がたまたま同じ方面なら、百代が降りる前にそう言うはずだ。これは自分の跡をつけてきているのだと確信した。自宅の最寄駅で電車を降りると、予想通り町田は少し距離を置いて後を付いてくる。百代は改札を出ると、自宅とは反対の方向に足を向けた。しばらく歩いてから花屋のウインドウの前で、花を見る体で立ち止まると、後ろを歩く彼も立ち止まるのがわかった。彼女はそのまましばらく待ってみた。もしかして偶然を装って声を掛けてくるかとも思ったのだが、それはないようだ。このまま黙って尾行して、百代の部屋を確かめるつもりなのだろうか。

 丁度その時車道を走る対向車のライトが途切れた。振り返って後ろからの車が来ていないことを確かめると、彼女は一気に通りの反対側まで全力でダッシュした。そのまますぐ、脇の路地に飛び込めば、もうこれで彼は付いて来られないだろうと思った。二つ年下の弟にだって、かけっこで負けたことは一度もない百代なのだ。


 駅のこちら側にはほとんど来たことがなかった。自分の部屋からそれほど離れているはずはないのだが、これまで全く見たことのないような景色が広がっていた。それにしてもこの川は何という川だろう。川といっても彼女の故郷の、彼女がよく水切りをして遊んだ川とはまるで違う。これは両岸をコンクリートで固められた、ほんの申し訳程度地上に出てすぐ先で暗渠になってしまうような、都会の川なのだ。それでも川には違いない。そして彼女は川が、特に夜の川が大嫌いだった。

 理由ははっきりしている。子供の頃に大叔母から聞いた話を思い出してしまうからだ。大叔母は父方の祖父の妹だが、同じ家に住んでいて、他の人たちからも「おばあちゃん」と呼ばれていたから、百代はずっと実の祖母だと思って育った。生涯で一度も結婚しなかった人だ。本当の祖母の方は早くに亡くなっていた。

 その大叔母がまだ幼い頃に川のほとりで遊んでいた時、上流からおくるみに包まれた赤ん坊が流されてくるのを見たという。石の多い川だったが、布にくるまれた赤ん坊の顔はとてもきれいだったそうだ。赤ん坊がもう死んでしまっているのかどうかまではわからなかった。なんとかして引き上げようと思ったが、流れはとても早くて、赤ん坊は幼かった大叔母の前をあっという間に流れ去ってしまった。そして大叔母はそのことを周りの大人たちには告げなかった。大叔母はその時一人だけだったので、自分が見たものが本当に確かかどうか、自信が持てなかったのだ。だが、後からいくら考えてみてもそれが夢や思い過ごしだったとは思えなかった。昔は育てられない幼児は川に流したものだとよく大人から聞かされていたが、まさにその通りの事が起きたのだと思った。その光景は今も目に焼き付いていると大叔母は語った。

「桃色のおくるみだったからあれは女の子だね。新品のメリヤスだった。いいところの子だったのか、それとも最後はせめてきれいな布でくるんでやろうと思ったのか……」

 本当にそんなことがあったのだろうか。大叔母の幼い頃と言えば、今から七十数年くらい前の、所謂戦後の混乱期に当たっている。その頃にはそんなことも起こり得たということだろうか。だが、もともと大叔母の話は作り話や、「盛った」話が多いのだ。相手に合わせて物語を創作することが多かったから、善意にとればお転婆な孫娘が危険な川に近づかないようにと考えてのことだったのかも知れない。もしそうだとすれば効果は覿面だった。おかげで百代は今でも川が怖く、極力一人では近づかないようにしているからである。特にこんな夜の川には、何が流れているかわかったものではないと思ってしまう。赤ん坊の死体ばかりか、もっとずっと不気味な、異形のものが隠れ棲んでいそうである。

 かけっこばかりか木登りでも水切りでも、何をやっても姉に勝てなかった弟が、まるで鬼の首でも取ったように、「お姉ちゃんの弱虫、一人じゃ川に行けないんだって。川が怖いんだって」とよく囃していたのを思い出した。その弟は高校を卒業した後、郷里の町の役場に勤めて堅実に暮らしている。一方の百代は都会で自活しているとはいえ、もともと大学進学に反対だった父は、「事務員なら高卒でも充分だったのに」等と言っているらしい。父の気持ちもわからなくはない。彼女自身今の自分が、本来自分に備わった力を十分に使えているとは思っていないからである。


 大叔母は異能者だったと百代は思っている。過去形なのは、今彼女が高齢者介護施設に入所しているからだ。先月面会に行くと、車椅子に乗った大叔母は最初百代を見ても誰だかわからないようだった。だが暫くするとカチリと音を立ててパズルのピースが嵌るように、百代のことを認識したのがわかった。瞬間、文字通り目が輝いたが、一言も言葉は発しなかった。二人はしばらく目だけで会話した。百代には大叔母が伝えたいことがわかった気がした。ほどなくしてその目の光は消え、彼女の意識は再び靄の彼方に去ってしまったようだった。

 大叔母の名は千尋という。百代の名付け親でもあった。百代という名は若くして亡くなった大叔母の姉と同名で、百代と千尋はこの家系の女子にはよくある名前だったらしい。

 千尋は「話す人」だった。シェヘラザードのように、物語を作っては皆に語って聞かせた。「アラビアン・ナイツ」のシェヘラザードは、国王の悪行をやめさせるために物語を作ったが、千尋はただ話を聞いてくれる人を喜ばせるためだけに作った。彼女は相手のニーズに合わせて即興で話を作ることに長けていたため、どこに行っても人気者だった。近所の寺の住職が、冗談まじりに「千尋さんはうちの商売敵だ」と言うのを聞いたことがある。とはいえ、彼女は特別に謝礼をもらう訳でもなく、もちろん何かの布教をしている訳でもなかった。


 千尋は家族の中でも百代を見込んでいたらしく、彼女には特にたくさんの話をしてくれた。その話題はとても豊富で、後から知ったことだが、日本の御伽草子や、ギリシャ神話とよく似た話もあった。そんな話のネタを一体どこから仕入れているのか、百代は一度訊いてみたことがある。千尋は事も無げに、「全部ラジオだよ」と答えた。文字通りの耳学問だったのだ。実は彼女は今でいうディスクレシア(識字障害)で、自分の名を漢字で書くこともできなかった。活字による読書ができない代わり、ラジオで様々な雑学を仕入れ、それをもとに相手を喜ばせる話を作っていたのだ。落語や講談も好きで、一度聴けば再現することができたらしい。そんな千尋のことを、百代は尊敬してやまなかった。彼女は大叔母の跡を継いで、これからの時代に相応しい「話す人」になりたいと願っていた。だが、そのためにどうしたらいいか、何が必要なのか、彼女なりに模索を続けていたのである。



 駅からそう遠くない割にはこの辺りは暗い。道を隔てた川の反対側には、長い塀が続いているのだが、塀の後ろは真っ黒な木立なのだ。自然林ではなく、種類も様々なかなり高い木が並んでいるようだ。一体この中はどうなっているのか、百代は興味を持った。それに自分が今どこにいるのかも確認する必要がある。彼女はスマートフォンを取り出すとマップのアプリを開いてみた。だが、川の反対側は真っ白になっていて何の情報もなかった。航空写真に切り替えてみた。すると木々の中に非常に大きな建物が写っているように見えた。旅館か何かだったのだろうか、普通の家としては、まずありえないような大きさだ。屋根の形からは洋風建築のようにも見える。本当にこんな巨大な建物が、木立の中に現存しているのだろうか。もしかすると廃墟なのかもしれない。塀の奥は真っ暗で、とても人が住んでいるようには思えなかった。

 しばらく塀に沿って進んでいくと、その塀が道から少し引き込まれたようになり、その先に屋敷門のようなものがあった。彼女はスマホのライトを点けて表札を見つけ、その文字を読んだ。筆文字で「吉岡」とだけ記されていた。やはり個人宅だったようだ。


 その時、まるで天啓のように彼女の中で閃くものがあった。それは論理的な帰結とはとても言えない。いや、寧ろ脱論理というべきものかも知れなかった。今夜町田に跡をつけられたことも、夜の川を見て大叔母を思い出したことも、すべてはここに繋がっていたように彼女には思われたのだ。そしてここからは彼女が、自分の力で新しい物語を作ってゆかなくてはならない。その為には何をおいても先ず、この門の中に入る必要があるのだった。この時の彼女にとっては、それが自明のことだったのだ。


 屋敷門には鍵は掛かっていなかったが、この物語のスタートとしては門からではなく、塀を乗り越えて入るのが正解のように思われた。その塀はといえば、彼女の身長よりほんの僅か高いだけという絶妙なまでの中途半端さで、彼女は苦もなくそれを乗り越えることができた。庭に降り立つと、スマホの明かりを頼りに木立の中を歩いていった。やがて木々の隙間から茶褐色の建物の外壁が見えた。その壁に沿ってしばらく歩き、玄関を見つけた。扉を引いてみたが開かない。こちらの方は堅く施錠されているようだ。

 彼女は辺りを見回すと、すぐに自分が登るべき木を見つけた。大きなくすの木である。彼女はまずその木に登ってから、屋敷の屋根に飛び移ろうと考えたのである。屋根にさえ上れば、屋敷への侵入経路が見つけられるかもしれない。


 子供の頃から屋根の上で昼寝をするのは好きだった。故郷の空は広かったから、晴れた日には遠くの山々まで一望することができた。まさか都会に来てまで知らない家の屋根に登ろうとは思わなかったが、自分の物語のために必要なことなら躊躇はなかった。最近ボルダリングにハマっているのも、この時のためだったような気さえした。彼女はするすると太い幹を登り、次にしっかりした枝を選んで、慎重に枝先に移っていった。予想通り、枝の先は屋根まで達している。体を振って弾みをつけ、首尾よく屋根の上に降り立った時は、まるで龍の背にでも飛び乗ったような気がした。乗り慣れた実家のトタン屋根とは違い、洋瓦の屋根はうっかりすると継ぎ目に足を取られてしまう。彼女はゆっくり慎重に歩を進めた。その瓦の継ぎ目がいつの間にか不思議なほどはっきりと見えているのに気付いた。百代はスマホのライトを消して空の明るい方を振り返ってみた。――有明の月がまさに昇ろうとしていた。


 屋根に上がってみて、改めて彼女は屋敷の広さを実感した。彼女は屋根の一番上まで登り、稜線部分に跨るようにして周りを見渡してみた。すると少し先に大きなトップライトがあるのがわかった。彼女はゆっくりとそこに近づくと、嵌め殺しの硝子窓に顔を付けんばかりにして中を覗き込んだ。最初はまったく何も見えなかったが、次第に闇に目が慣れてくると、視界の隅の方に大きな顔のようなものが見えた気がした。どきりとしたが、「錯覚に決まってるわ。たしかシミュラクラ現象とか言ったっけ」と思った。シミュラクラ現象とは、逆三角形に配置された三つの点を見ると、人間の脳はそれを二つの目と口に見立てて、人の顔だと思い込むという現象の事である。よく天井の木目とか、木の節とかが顔に見えるという、あれのことだ。

 その次に彼女が思ったのは「まるで学校の教室みたい」ということだった。それほど広い空間が窓の下に広がっていたのだ。大きな机の周りに、丸椅子らしきものがいくつも置かれているのが見えた。画架のようなものが林立しているところを見ると、アトリエとして使われていた部屋なのかも知れない。そして、机の上にこちらを向けて置かれている大きな顔面に気付くと、「なあんだ、デッサン用の石膏像だったのね」と思った。錯覚ではなく、本当に顔だったのだ。部屋の隅には小さな寝台のようなものがあって、その上に人の寝姿のようなものが見えた。誰かいるのだろうか。

 そうしているうちにも百代の背後から月の光が差し込んできた。室内が隈なく照らし出される。彼女の目は、寝台の上に仰向けに横たわっている人の姿を見た。まだ若い男性だった。毛布を剥いで裸の胸があらわになっている。呼吸とともにその胸が上下しているのがわかる。生きているのだ。汗の珠が光っている。彼は月の光を浴びながら無心に眠っていた。睫毛が長く、鼻筋のすっきり通った顔立ちだった。「ああ、彼はまるでエンデュミオンのようだ」と、百代は思った。美しい羊飼いエンデュミオンは、神々に愛されて永遠の若さと命を得た。そしてただ眠って一生を過ごしたのだ。眠っている彼を見守っている自分は、さしずめ月の女神アルテミスということになる。エンデュミオンはアルテミスの氷のような心を溶かした。「今、私は物語を見つけたのかも知れない」と、百代は思った。



 自宅に戻ると翌朝、百代は次回からのイベントコンパニオンのエントリーを辞退するメールを送った。そして次の土曜日は、まだ日も高いうちに例の屋敷を訪ねた。塀を乗り越えるとかえって人から見咎められる可能性があると思い、今回は堂々と門から入っていった。念のため玄関のドアを引いてみたが、やはり開かない。そこで前回同様にくすの木に登って、屋根に飛び移った。前回は気が付かなかったが、屋根にはかわいらしい風見鶏がついていた。彼女は二階の部屋の一つに小さなバルコニーがついているのを見つけると、屋根からそこに飛び降りた。部屋に通じる掃き出し窓は施錠されている。どこか開いている窓はないかと探した。窓を破るのは最終手段にしたかったのだ。果たして上の小窓が一箇所だけ施錠されていなかった。人一人がやっと通れるほどの幅だったが、彼女は造作もなく屋内に入ることが出来た。

 百代はまず、例の青年が寝ていた部屋に行った。そこはまるで図書館のような広い部屋だった。天井まで届く壁一面に設えられた書棚いっぱいに、ぎっしりと本が詰まっている。そしてその奥が、トップライトから見えたアトリエだった。隅の寝台は空だった。

 彼女はその後、一つ一つ部屋を見て回った。一階と二階合わせて二十部屋ほどもあり、一部鍵がかかっている部屋もあった。一階の天井は二階よりも高くなっていた。一階には一部和風の建築様式になっているところもあり、そこは他よりもさらに古色蒼然としていた。全体としては掃除が行き届かず、埃がたまっているところもあるが、割れたままの窓などは一枚もなく、蜘蛛の巣も張っていなかった。これは廃墟というわけではなさそうだと百代は思った。誰かが定期的に清掃などしているのだろうか。小一時間歩き回ったが、結局あの青年には会えず、他の人の気配も感じなかった。


 百代は自宅に戻ると、航空写真と対照しながら、記憶を頼りに簡単な見取り図を書いてみた。翌週末はその見取り図を持って、また屋敷に入った。各部屋をめぐり、図を書き直した。今回もまた、誰にも会わなかった。やはり彼はあの夜だけ、偶々屋敷に入り込んであの部屋で寝ていたのだろうか。少しだけ不思議に思ったのは、前回施錠されていた部屋が今回は開いており、別の部屋が施錠されていたことだった。



 昼食を終えて社に戻ると、一足先に戻っていた同僚の森本莉子に声を掛けられた。小柄な女性だが、動作がとてもきびきびしているので、百代は普段から彼女に好感を持っていた。入社では百代の二年先輩だが、高卒採用なので年齢は逆に二つ下である。年配の社員が多い中で、二人の間だけでは敬語は使わず、「タメ口」で話すことに決めていた。

「さっきモモに電話があったよ。町田とかいう男の人。大切な連絡があるから、連絡先を教えてくれって」

「教えたの?」

「まさか。当社では社員の個人情報についての問い合わせにはお答えしておりませんって言ってやった。ねえ、何か心当たりある?」

「ありがとう、リコ。町田って、バイト先のイベント会社の社員なんだけど……」

 そこで彼女は、町田に跡をつけられた夜の話をした。

「そいつ、絶対やばい奴じゃん。モモ、早く引っ越した方がいいよ。そうだ、新しい部屋が見つかるまでうちに来なよ。きったない家だけど、空いてる部屋もあるし。」

 百代にとっては願ってもない話だった。莉子は実家暮らしで、家は下町でもんじゃ焼き屋を営んでいた。確か両親とまだ小さい弟がいるはずだ。

「モモなら私と一緒の部屋でもいいや」と言ってから、少し声をひそめると、

「ねえ、ここも辞めたほうがよくない? その町田って奴に知られちゃってるんだし。モモだったらいくらでも転職の口があるでしょ。あんたみたいな子がどうしてこんなとこにいるのか不思議だもん。あたしもそろそろ辞めようかと思ってるんだ。ここ、平和なのはいいけど、刺激なさ過ぎ」と笑った。

 それから莉子はどこかに電話を掛けていたが、それが終わると、

「ねえ、急だけど今晩うちに泊まらない? お母さんに電話したら、一度連れて来なさいって。どっちにしろいっぺんうちも見ておいた方がいいんじゃない」と言った。



 莉子の家は古い木造の店舗兼用住宅で、一階部分が店になっている。その一番奥の小テーブルに、「予約席」のプレートが立ててあった。莉子に従って席に付くと、奥から両親が顔を出した。一目でどちらが主導権を持っているか分かった。立ちあがって挨拶しようとする百代を小柄な母親は手で制して、

「百代さんでしょ。話は娘から聞いてるわ。今日は遠慮なく楽しんでいってね」と言った。莉子ととてもよく似ている。

「年は私の方が少し上ですが、職場では後輩なので、莉子さんにいろいろ教えてもらってます」と百代が言うと、莉子は「どうだ」と言わんばかりに胸を張って、

「ね、本当でしょう。あたしが指導してるの」と言い、親子は笑い合った。なんだかいい雰囲気だと百代は思った。

「じゃあ、あとはあたしがするから」と莉子が言うと母親はすぐに奥に引っ込んだが、後に残った父親がいたずらっぽく、

「莉子はこの人と一緒に合コンなんかには行かない方がいいな。引き立て役になるだけだから」と言ったので、百代は慌てて、

「そんなこと全然ありませんから。莉子ちゃん、私なんかよりずっとモテてますよ」ととりなした。

「まじめに相手にしなくていいよ、モモ。親父もくだらないこと言ってないで仕事しなよ」と莉子が言い、父親は頭を掻きながら厨房に戻って行った。

「こういう店って、仕込みはそれなりに大変だけど、店が始まると意外に暇なのよ。客が自分で焼くスタイルだからね。それより、急な話でごめんね。それで結局、ごはんはまかないのもんじゃだし」と莉子はすまなそうに言った。

「全然大丈夫だよ。それに私、もんじゃ焼き初めてだから、すごく楽しみ」

「そっか。あたしにとってはソウルフードでも、全国的には無名だもんね」

 莉子は鮮やかなコテさばきで次々ともんじゃを焼いてくれた。店は結構繁盛しているようで、いつの間にかテーブルは一杯になっている。常連客が多いらしく、勝手知ったるという感じで、冷蔵庫を開けて瓶ビールを出したりしている。莉子の父親は、初めてらしい客のテーブルで焼き方を教えていた。

 もんじゃ焼きは百代が思っていたより野菜がたっぷり入っており、辛子明太子やチーズで味の変化も楽しめた。小さく切った餅も入るのでヴォリュームもある。

「もう、お腹いっぱい」と百代が言うと、

「じゃあ、腹ごなしに少し歩いて、お風呂に行かない?」


 莉子に連れられて近所の銭湯に行った。湯から上がるとコンビニに寄って、百代は替えの下着を買った。莉子の方は菓子と飲み物をたくさん買い込んでいる。戻ると店はまだ賑わっていた。二人は外階段から二階に上がった。莉子の部屋は六畳の和室だった。莉子は襖を開けて隣室からビッグサイズのTシャツを持ってきた。ミニーマウスの絵が描いてある。

「これ、パジャマ代わりにどう」

 百代が着てみるとたっぷりひざ下まであった。莉子も手早く着替え、冬は炬燵になる座卓の上に買ってきた菓子類を広げて、「修学旅行以来のパジャマパーティーだ」などと言ってはしゃいでいる。そういえば莉子は弟と同い年なのだったと、改めて百代は思った。そんな莉子に背中を押されるようにして、転職と転居の方針がなんとなく決まってしまった。

「モモに使ってもらう予定の部屋は、まだ今は使えない状態だから、今日はここであたしと寝ようよ。部屋、見たい?」

 何だか見せたがっているみたいだ、と百代は思った。

「じゃーん」と莉子が襖を開ける。隣の部屋は夥しい布や衣装で埋め尽くされていた。色とりどりのウイッグや、おかしな形のサングラスやお面、義手のギミックなども見えた。百代は絶句した。

「これがあたしの唯一の趣味なの。あたし、コスプレイヤーなんだ。ハロウィンまでもう二か月だから、これから忙しくなるってわけ。ねえ、モモも一緒にやらない」



 次の土曜日、百代はまたあの屋敷を訪れていた。これでもう四回目になる。今回でひとまずの区切りにしようと思っていた。とにかく、出会わなければ物語は始まりようがないからである。

 過去二回、この家に来て彼に会えなかったのは、単に時間が違っていたからではないかということに思い至った。彼がこの家に入り込んだホームレスの青年なら、夜でなければ会えないのかもしれない。だから今日は夜まで屋敷にいるつもりで、大きな懐中電灯も持ってきた。それ以外にも用意してきたものがある。

 この屋敷は昭和レトロの洋風建築で、中には立派な和室もある。コスプレの背景としてはまさにもってこいではないか。百代は莉子のコレクションの中から、着付けの要らない洋風のキモノとチャイナドレスを選び、風呂敷に包んで持ってきたのだ。自撮り棒も莉子に借りた。

 いつものように屋敷内に潜入すると、持ってきた衣装に着替え、あちらこちらでポーズを取っては自撮りしながら夜を待った。持参したビスケットを齧り、ミネラルウォーターを飲んだ。一番心配なのはトイレだったので、一応簡易トイレも持ってはきていたが、一階のトイレは使用可能だった。水もちゃんと流れる。


 八月の終わりの暑い日だった。この家は木立に囲まれて昼でも暗いので、外よりはいくらか涼しい筈だが、冷房がないのがつらい。夜になっても気温は下がらず、むしろ暑さを増しているように思われた。百代は一階の和室で衣装を脱ぎ捨て、下着姿でくつろいだ。どうせ誰も見ているものはいないのだ。この部屋は心なしか他所よりはかなり涼しく感じられる。彼女は懐中電灯の灯りを頼りに室内を見て回った。床の間の掛け軸を見て思わずぎょっとした。前に来た時には気が付かなかったが、白い薄物を纏った長い黒髪の女性が描かれており、その下半身はぼおっと背景に溶けている。どうやら幽霊画のようだ。

 百代は子供の頃に、よく懐中電灯の明かりを顔の下から当てて「お化け~」と言って、弟を怖がらせたのを思い出した。今の百代はお誂え向きに絵と同じく白い薄物を着ているではないか。これは面白い写真が撮れるかもしれないと思った。懐中電灯を上向きに置き、自分は髪を乱して絵の前に立ってみた。自撮りしようとしたその時、

「ええええ~っ」という驚きの声が響き渡った。ランタンのような照明具を手にしてそこに立っていたのは、あの夜の青年だった。


 青年はすぐに衝撃から立ち直ると、百代の方に駆け寄ってきた。怖い顔で、

「こっちにくるんだ」と言って乱暴に手をつかんで引いた。もちろん、百代は抵抗せずに付いて行った。物語を動かすためである。不思議と怖さは感じなかった。彼女が連れていかれた先は、孔雀の剥製が飾られた、やけに装飾過剰な部屋だった。古めかしいスタンド型のオイルランプがあたりを照らしている。青年はランタンをテーブルに置くと、これまた古めかしい籐製の椅子に百代を座らせた。

「君は一体誰? 一人で来たの? どうしてあんなとこにいた……」

百代は落ち着き払っていた。

「一度にそんなに答えられないわ。それに、人に名を尋ねるときはまず自分から名乗れって言いません? あなただって勝手にこの家に入り込んでたんでしょ」

 彼はしばらく黙って百代を観察していた。やがて溜息を一つ吐くと、

「どうも君はいろいろと勘違いしているようだな。じゃあ僕の方から話すとしよう。まず、僕の名前は吉岡次郎という。れっきとしたこの家の主人なんだ」

 確かに表札には「吉岡」とあった。

「じゃあ、普段は別のところに居て、時々こうして見回りに来ているんですか」

「違うよ。僕の家はここだけだ。ここに住んでるんだよ」

「嘘。だって…… だってこの家には電気も来てないじゃない。エアコンもないし」

 青年はかすかに笑ったようだった。

「確かに電気は止められているけど、水道は生きているし、LPガスもある。この部屋と隣の客間には給湯設備もあって、シャワーも浴びられる。今年の夏の暑さが異常なんだ。この家は深い林の中にあるから、いつもの年ならもう少し涼しい。さっき君が居た日本間の床下には川の水が引き込まれていて、庭の池につながる水路になってる。だからあの部屋と隣の客間の一角だけは、自然の冷房で少し涼しいんだ。僕はこの通り貧乏で、電気代も滞納しているけど、父の遺言でこの屋敷を守っているんだ。部屋から部屋へ移り住みながら掃除と修理をして、毎日暮らしてるんだよ」

 そういうことだったのかと百代は思った。彼に会えなかったのは、昼の間は鍵のかかった部屋の中に彼がいたからなのだ。

「まだ君の名前と、ここにいた訳を聞いていなかったようだけど」と彼に言われ、百代はもうここは正直に答えるしかないと思った。

「私の名前はモモ、安西モモです。てっきり空き家だと思ったから、中がどうなっているのか興味を持って入り込んでしまったんです。私一人です。こういうレトロな雰囲気が好きなので、写真を撮っていました。本当にごめんなさい」

「それで、これからどうするつもり? もう終電もないよ。君の家は近いの?」

「いいえ」と百代は答えた。しかしこれは嘘だった。前のアパートはまだ引き払ってはいなかった。ここから歩いてもほんの15分ほどの距離だ。

 青年は黙って考えているようだったが、軽く咳払いすると、

「本来なら警察を呼ぶべきなんだろうが、面倒は避けたい。君のその格好じゃ、僕の方があらぬ疑いをかけられるかもしれないしね。そこで一つ提案があるんだが、僕は油絵をやるんだけど、モデルを頼む金がないんだ。もし君がモデルを引き受けてくれるなら、君を警察には渡さない。今夜は客間に泊めてあげられる。どうだろう、そんなに悪い話じゃないと思うけど」と言った。


 百代は青年から見えないように、背後で小さく拳を固めてガッツポーズを作った。どうやらこれでまだ物語をつないでゆくことができると思ったからである。

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