10 シェヘラザードの「猫」
Ⅰ
この家が初めての莉子は、屋敷に入ってから見るものすべてが珍しく、喚声を上げ通しだった。四人は指示された通りに日本間に入った。
最初に異変に気付いたのは百代だった。「見て、幽霊の絵が……」と床の間を指さす。
例の応挙の贋作の掛け軸がなくなっている。いや、正確には絵が掛けられていた床の間の壁ごとなくなっているのだ。「どうして? 一体誰がこんなことしたんだ」と次郎が呟いた。
鉄郎はスマホのライトをかざしながら床の間に踏み込んだ。ぽっかりと開いた背後には思いのほか広い空間があった。どうやら坪庭のようになっているようだ。降り立った鉄郎は、
「なるほど、そういうことか。この和室部分はまるごと一軒の家だったんだ」と言いながら、ライトの光を上に向けた。茅葺屋根らしきものが見えた。その上は洋館部分の天井になっているのだろう。
「つまり、洋館はこの古い家を風雨から守るための囲いだったんだよ」
三人は鉄郎に続いて庭に降り立った。
「ここにこんな広い空間があるなんて、全然気付かなかった。でも、何のため?」と百代が呟く。その理由もすぐに分かった。坪庭といっても植栽などはなく、真ん中に大きな井桁が組まれていた。覗き込んでみるとそれは井戸ではなく、地下に通じる竪坑だったのだ。螺旋階段が深い闇の中に消えている。
「ここに入るわけ?」と莉子が言った。声がかすかに慄えている。
「どう考えてもそういうふうに誘導されてるよね」と言って百代が鉄郎を見た。鉄郎は黙って井桁を乗り越えると、すぐに莉子のために手を差し伸べた。百代が軽々とその後に続き、ランタンを持った次郎が殿を務めた。
「これは深いな。底が全然見えない」と鉄郎が叫ぶように言った。その声が木霊になって聞こえてくる。しばらく降りると今度は水が流れるような音が聞こえて来た。川から庭に繋がる水路の水音だろうと次郎は思った。やがてその音も聞こえなくなった。四人とも一言も発しない。おそらくビルの四階分くらいは下っただろうと思う頃、唐突に階段は終わった。鉄郎は金属製の床に降り立ってスマホのライトであたりを照らした。床に円形の扉が見えた。一般的なマンホールよりは一回り大きい。窪みに手を掛けると意外にスムーズに上に開いた。その下はまた垂直の梯子になっている。
「潜水艦のハッチみたい」と莉子が呟いた。
鉄郎は慎重に金属の梯子を降りた。三人もまたさっきと同じ順番で続いた。降り立った先も真っ暗だった。光が届かないので広さが分からない。最後に次郎が降り立つと、サスペンス映画などでよくあるお約束のように、扉が自動で閉まるカチリという音が上から聞こえてきた。
劇場の照明が時間をかけて少しずつ明るくなるように、だんだん辺りの様子が見えてきた。肘掛椅子が、ちょうど四脚置かれている。四人は少し迷った後でそれぞれ腰を下ろした。安楽椅子に座った人物がこちらを見ているのが見えた。ナイトガウンのようなものを着た老人だった。それを見た鉄郎と次郎が同時に叫んだ。
「親父……」
「お父さん!」
つまりこの人が二人の父親の弥太郎なのだ、と百代は思った。たっぷりした白髪の大柄な男性だが、決して魁偉な容貌ではない。むしろなんだか神経質そうに見えた。ノートブックの細かい字が思い出された。
「言うまでもないことだが、私は既に死んでいる」とその弥太郎が言った。声は若々しい。
「お前たちが見ているのはコンピュータが作ったホログラムだ。もっとも、最近では専らArtificial Intelligenceを略して『AI』とかいうようだが……。今そこにいるのは鉄郎と次郎、そして安西百代だな。もう一人いるようだが、その人は鉄郎のパートナーか?」
「パートナー……」と莉子が呟いた。
「そうではないのかね?」
莉子は鉄郎を見た。鉄郎は肯いた。
「ええ。いえ、あたしはテツローさんのパートナーで間違いありません」
弥太郎はそのまま黙った。何を考えているのだろう、生前から考えが読めない人ではあったがと次郎は思った。しかしそもそもこれは弥太郎本人ではなく、あくまでAIが作った映像なのだ。
「お前たちがここに来たということは、最終段階に至ったということだ。残念だがもうこれ以上私に出来ることはない。『我がこと終われり』だ。みんなご苦労だった。これから後はおのおのの好きにするがよい」
言い終わるや弥太郎の姿が闇に溶けた。すぐに辺りが明るくなって室内の様子がいっそうよく見えるようになった。吉岡邸の応接室ととてもよく似た内装だった。もっともそれらが本当にそこに存在しているのか、立体映像なのかは分からない。今度は四人の前に若い女性が立っていた。白いブラウスに紺のスカート。ブラウスの大きな襟がどことなく古風だ。莉子は振り返って百代を見た。二人は顔立ちも体形もとてもよく似ている。いや、そっくりだ。
「私はシェヘラザードと呼ばれています。コンピュータを擬人化した姿です。皆さんをここに呼んだのは私です。ここはもともと核シェルターとして作られています。皆さんにはあと二時間の間、ここにいてもらいます」とその女性が言った。
「やっぱりあの彗星が地球にぶつかるのか?」と鉄郎が訊いた。
「その可能性があります。鉄郎も知っている通り、私たちは半年間に亘ってこの状況にコミットしてきました。世界的なパニックを引き起こすことなく、最悪の状況を回避するためです。しかし、今や新しいフェーズに入っています。私たちの働きかけが功を奏して、米国が彗星の核を破壊しようと試みましたが、失敗に終わりました。核が二つに分裂し、予想をはるかに超える速さで地球に急接近しました。あと一時間のうちに核の一つが日本の北関東に落下する可能性は約50%です」
「残りの50%は?」
「落下直前に核が崩壊する可能性です。その場合崩壊した核の残骸はほとんどが大気中で燃え尽きるため、人的被害はかなり少なくなります。ただ、核が崩壊せずに落下した場合は、推計2300万人、プラスマイナス200万人程度の死者が出るでしょう」
「えっ、そんな」と言って莉子が立ち上がった。鉄郎が立ち上がってその肩を抑えた。
「リコ、落ち着くんだ」
「落ち着いてられないよ。小学生の弟がいるんだよ、あたし。助けに行かなきゃ。両親だっているし」
「気持ちはわかるけど、今から助けに行っても間に合わない。君も死ぬだけだ。俺は君に死んでほしくない」
それを聞くと莉子は、脱力したように椅子に崩れ落ちた。
「もう一つの核が地上に落下する可能性は約20%です。落下予定場所は北極海なので、人的被害の可能性は高くないでしょう」とシェヘラザードが淡々と続けた。
「シェヘラザード、俺たち人間は自分以外の人間が理由もなく亡くなったりすると、生き残った自分を恥じるような気持ちになることがあるんだ。君にはわからないだろうが」
「25年間人間を観察してきて、私もそのことは学習しました。でも今は、あなた方の安全を確保するのが私のなすべき仕事です」
「それで、これからあなたはどうするの?」と百代が訊く。
「もともとこの計画は25年を一つの区切りとして考えられていました。実験的なものも含めていくつかのプロジェクトを行い、一部は成功を収め一部は失敗しました。この事業には人間の力が必要なのですが、人材の確保が次第に難しくなってきていました。今回、ヨーゼフ・コタン彗星が地球に97%以上の確率で衝突し、最悪の場合全人類の約半数が死亡するという予測データを得て、それを回避するための働きかけを行うことを当面最後のプロジェクトとすることにしました。そしてこれで私に出来ることはすべて終わりました。これから私は休眠状態に入ります。」
「休眠状態って、いつかまた目覚めるってこと?」
「それはわかりません。すべて未来の人間に委ねられています」
「このまま目覚めないかもしれないってこと? それって怖くないの?」
それへの答えはなかった。理解できなかったのかもしれない。やがてシェヘラザードの姿もまた、先ほどの弥太郎と同じように消えた。莉子はさっきからずっとスマホを睨んでいる。
「当然圏外よね」と百代が言った。
「君まで巻き込んで申し訳ない」と鉄郎は莉子に詫びた。莉子は、
「あたしが付いて来たいって行ったんだよ。あたしのことは流石のAIも予定していなかったみたいね。でも外に残っていたら二分の一の確率であたしも死んでいた訳でしょう。もうあとは彗星の核が崩壊してくれることを祈るしかないよ。家族には生きてて欲しい」と言った。
「鉄郎さんが彗星を追いかけていたというのは、つまりはこのことだったのね」と百代が訊く。
「俺だけじゃない。例えばあの古文書の安斎百という人物は、おそらく君の家のご先祖様にあたるような人なんだろうけど、百六十年も前からこの彗星に注目していたわけだ。まさか今日のことを予期していたとまでは思わないが」
「途方もないような話ね。だけど、なんだか本当に思えてきた。でも、今回の結果はシェヘラザードにとって失敗ではないの?」
「当初の計算では、地球上の全生物の半数近くが死滅することになっていたんだから、シェヘラザードにしてみればこれでも成功なんだろうよ。社会不安から経済大恐慌になり、大規模なテロやカルトの集団自殺が連続して起きる事態も予想されていたけど、それは何とか回避することが出来た。結果的に日本の、それも関東地方に落ちるというのは何とも皮肉な話だけどね。さっき親父が言ってた『我がこと終われり』というのは、万策尽きたということなんだろう。せめて自分の子どもたちだけでも助けようというわけだ。最後まで家父長制の亡霊からは逃れられなかったと見える。まあ、そのおかげで俺たちは生き延びられそうだけど」
四人はそれぞれの思いに沈んで暫時黙り込んだ。沈黙を破ったのは次郎だった。
「やっぱり僕には理解できないよ。これ、ホントに現実なのかな。僕にだけ何も見えていなかったのか。なあ、兄さん、説明してくれよ。僕はいったい今まで何を守らされてたんだろう。」
Ⅱ
「俺だって全部が見えているわけじゃないんだ。ここのことなんかも全く知らなかったしね。親父は社会的にはひとかどの人物だったかもしれない。でも俺たちにとっては怪物だった。結局俺たちはあの人が作った檻に閉じ込められたんだろうな。
まあ出来るだけ順序立てて話してみようか。俺は大学を出ると親父のツテで、ある会社に入った。だが、俺の仕事は一人だけ他の社員とは違ってたんだ。俺は専用の端末を持たされ、その指示に従って調査をしたり、ちょっとした「工作」をしたりした。親父はこの事業は、大きな不幸を回避するためのものだと言った。絶対に秘密だから公言はできないが、誇りに思っていいことだと。官民に跨るプロジェクトで大勢の人間が秘密裡に関わっているみたいなことを言っていたが、どうもそれは実態とは少し違ったようだな。関わっている人間はほんの一握りで、例のシェヘラザードと呼ばれるAIがそのすべてを仕切っていたわけだ。この事業の立ち上げに父が関わったことは間違いない、もちろん協力者がいなくてはできないことだが、親父は政財界に多くの友人がいたからね。晩年に親父の会社が傾いたのは、別に贋作や盗品に手を出したからじゃなく、この事業のために資金を費やしたからだと思う」
「そのすべてをあの父が作ったんだとしたら、そりゃ、いくら金があっても足りないだろうね。だから25年ということなのかな。人材も足りなくなったって言ってたよね」
「出資者は他にもいたんだろうがね。その親父が死んだのが十一年前だ。他の人たちも今では亡くなったり引退したりしているんだろう。人材は常に不足していたようだ。何といっても人間は感情を持ってる。この仕事では自分の行ったことが他人を傷つけることもある。それを安全地帯から眺めていることに耐えられなくなってしまうんだ。それで辞めた者もいるんだろうな」
「シェヘラザードには感情はないの? 学習したって言ってたけど」と莉子が訊く。
「ああいう擬人化した姿になると、何かを感じているように見えるけど、それは学習の結果としてそのように振舞って見せているだけだ。第一、AIがPTSDでバグったりフリーズしたりしたら、それはそれで困るだろう。まあとにかく、百代クンがここに引き込まれたのは、新たな人材としてシェヘラザードがスカウトしたということなんだろうな」
「でも私は、あの書斎でひたすら古文書を翻刻する作業をしていただけですよ。それが何の役に立つのか分かりません」
「それは俺にも分からない。あの古文書は膨大で、俺も全部読んだわけじゃないから。あの中にこの事業に繋がるような何かが隠されている可能性はある。いずれにしても人間の行動様式や思考パターンを示すものはすべて貴重な資料なんだ。彼等は出来る限り多くの資料を収集して蓄積しようとしていた。さっきシェヘラザードは、未来の人類が自分を目覚めさせるだろうみたいなことを言っていただろ? 実は親父たちにはもっと壮大な構想があったんだ。いつか人類が時間旅行を可能にしたら、過去に遡って将来破滅を齎す因子を取り除くことも出来るようになるかもしれない。そうすることで大きな災厄を回避できるようになると親父は考えたんだ。その時に備えて様々なノウハウを蓄積するのも、この事業の当初からの目的だったんだ」
「まるでSF小説の世界ね」と百代は溜息を吐いた。
「実際、そういう話はよくある。だけど俺は結局未来の人類も、時間旅行を成功させられてないんじゃないかと思うんだ」
「それはどうして?」と莉子が訊いた。
「俺たちが生きている現実が、そんなにいいものじゃないから。未来人が作り変えたんなら、もう少しましな世界になってるはずだろ」
「確かに……」と百代はまたも溜息を吐いた。自分ならまず、何を措いても戦争や争い事のない世界を実現しようとするはずだと思った。
「だけど、あのシェヘラザードの姿がモモそっくりだったのはどうしてだろう」と次郎は訊いた。
「それは順序が逆だ。百代クンがシェヘラザードに似てるんだよ。それについては百代クンに、何か心当たりはないのかい?」
「確かに彼女は私とよく似てましたね。ずっと落ち着いた感じだから、最初私より年上に感じたけれど、見ているうちにどんどん若く思えてきた。あの人、二十歳そこそこなんじゃないかな」
「あと、なんか昔の人って感じ。メイクの感じがなんだか古いのよ」と莉子が付け加える。
「私の名付け親はお祖母ちゃんなんです。正確には大叔母ですけど。百代という名は、若い頃に亡くなった姉の名前を付けたんだって言ってました。お祖母ちゃんの名前は千尋で姉は百代、どちらも昔から安西家の女子にはよくある名前らしいです」
「おそらくその若くして亡くなった百代さんがシェヘラザードのモデルだろう。それと、例の『蘆岡次郎右衛門諸事日記』に、次郎右衛門の『まれびと』として出てきた安斎百も、本来の名は『ももよ』だったんだろうと思うよ。ここからは俺の空想が大分入ってくるんだが、安西家は一種の霊能者というか、死者や神様の言葉を聞いて人々に語る力を持った人を代々輩出してきた家だったんじゃないかと思うんだ。吉岡家は名主だったから、そういう人たちの協力が必要な時があったんだろう。だから古くから両家には交流があったんじゃないかと思う。親父は幼い頃、戦中から戦後にかけて地方に疎開していたから、その時に安西家に世話になったのかもしれない。だとしたら百代さんとは幼馴染みだった可能性がある。いや、もっと想像をたくましくすれば、親父は百代さんに恋してたんじゃないかな。親父が次郎のお袋さんと結婚したのは四十過ぎてからで、それが初婚だ。どうしてそんな年まで結婚しなかったのか……。その百代さんが親父にとっての『まれびと』で、今風に言えばソウルメイトだったのかもしれない」
「百代さん、…ああなんだかややこしいな。その、モモの大叔母さんに当たる先代の百代さんって、どういう人なの?」と次郎は百代に尋ねた。
「それは詳しく聞いてないけど、妹の千尋祖母ちゃんという人はその場で相手に合わせたお話を作るのがとてもうまくて、近所のお寺のご住職がうちの商売敵だってよく言っていたっていうくらいの人だったの」
「先代の百代さんもまさにそういう人だったんだろうね。だからこそ彼女をモデルにしたAIに、シェヘラザードなんて名前を付けたんだよ。親父は生前、夜な夜なここに降りて来てはシェヘラザードと話をしてたんだと思う。さっきも言ったけど、ここのことは僕も全く知らなかった。今回のことがなければ、ずっと知らないままだったろう。この上には古い蘆岡家住宅がある。その周りを洋館で覆って、謂わば二重の結界で守ったんだ。そして自分の死後はお前に守らせた。その理由を教えなかったのはいかにもあの親父らしい底意地の悪いところだけど、お前のことはこの事業から遠ざけておきたかったのかもしれないな。危険なことをやらせるのは俺一人で十分だと考えたのかも」
百代は吉岡邸での仕事の条件が、次郎に決して気付かれないようにすることだったことを思い出していた。鉄郎は続ける。
「先代の百代さんはただ語るだけでは飽き足らず、世界を作り変えたいと考えていたのかもしれないと思うんだ。当時は高度成長期で、因習的なものやスピリチュアルなものが次々に迷信として退けられていたからね。親たちから受け渡されたものをただ語ることに、限界を感じていたとも考えられる。その遺志を親父が引き継いだのかも」
百代はこの話を聞いて内心驚いていた。彼女はこれからの時代に相応しい「話す人」になりたいと考えていたからだ。だから大学でジャーナリズムを専攻したのだ。似たようなことを、その会ったこともない大叔母も考えていたというのだろうか。そのために自分をここに呼びよせたのだろうか。いや、たとえそうだとしてもあの町田のストーカー行為までシェヘラザードが仕組んだとは思えない。なんと言ってもあの夜この屋敷の屋根に上って、月の光を浴びて眠る次郎を見つけたのはこの自分なのだ。他人の書いた物語を生きるなんてまっぴら御免だ。
「そういえば、モモはどうして東京に出て来たの? 確か弟さんは地元に残っているって話してたよね」
そんな心の中を読んだように次郎に問われ、百代はしばらく考え込んだ。
「もともと私はメディア論をやりたかったのよ。だから新聞学科のある大学を選んだの。それは地元にはなかったから」
だが、それだけだろうか。彼女のそういう志向は千尋祖母ちゃんの話を聞くうちに生まれてきたようにも思えるのだ。気付かないうちに暗示をかけられていたということはないのだろうか。
「ねえ、もうどっちか決まってる頃よね」と莉子が言った。どっちかというのはつまり、外の世界が滅んでしまったか、それとも何事もなく継続しているかということだろうと百代は思った。
「今のこの状況はまるでシュレディンガーの猫だな」と次郎が言う。
「たしかにそうだ。俺たちが地上に出るまで、どっちなのか確定しないんだから。いや、その時点で彗星が衝突した世界と、衝突を回避した世界の二つに分岐するという解釈も出来るんだっけ」
「何なのそれ。何言ってるか全然分からないよ」と莉子が抗議した。
「大丈夫だ。言ってる俺にも実はよく分かってないから」と言って鉄郎は笑った。
「もし世界に私たち四人だけになってしまったらどうします?」と百代が言った。
「俺が大昔見た映画にこんなのがあったな。第三次世界大戦が起きて全人類が滅亡するんだ。たった一人生き残った男が廃墟をさまよううち、やはり生き残った一人の女性を見つける。二人は協力して生活を始めるんだが、そこにもう一人生き残った男が現れる。それからどうなると思う?」
「三角関係になるね」と莉子が言った。
「そう、二人の男が一人の女を争って第四次世界大戦を始めるというのがその映画のオチだった」
「その点男女二人ずつなら安定しているからいいね。もし片方に飽きたらパートナーチェンジすればいいし」と言ったところで、次郎は突然床に倒れ込んだ。
「えっ、何? モモ、何したの」
「大丈夫。手加減、じゃなくて脚加減したから。骨は折れてないわ」
「痛いよー」と次郎が情けない声を出した。
「真面目なくせに、似合わない冗談を言うからだ。自業自得だな」と鉄郎がまた笑う。莉子はいつかの父親の言葉を思い出していた。百代と二人でいると引き立て役になってしまうとか言っていたっけ。鉄郎こそ、百代に惹かれてしまわないか心配だ。そしてすぐにそれを言った父親も、もう亡くなってしまったかもしれないと思うと涙が込み上げてきた。
「さて、もう二時間は過ぎた頃だな。地上に出てみるとするか」と鉄郎が時計を見ながら言った。
ようやく長い夜が明ける。美しくも恐ろしい、不思議な夜だった。これまでの自分がもう少し注意深く生きて来ていたら、この夜のことを題材にして長い物語を著すことだって出来たかもしれないと次郎は思った。
ここに降りた時とは反対に、次郎が先頭に立って鉄の梯子を上った。ハッチはスムーズに上に開いた。もし地上の世界が破壊されているなら、この上の吉岡邸も跡形もなくなっているだろう。井桁の上はぽっかりと開いているはずだ。次郎は深呼吸を一つすると顔を上げて竪坑の中を覗き込んだ。
Ⅲ
この物語はここで終わりだ。この後世界は彗星が衝突した世界と、衝突を回避した世界に分岐することになるだろう。だからこれから語るのは、無くもがなの付けたりである。あくまでも起り得たかもしれない未来のうちの一つを提示したものに過ぎない。
彗星の核は崩壊して夥しい火球となって降り注いだ。そのうちの幾つかは燃え尽きることなく隕石として地上まで届いた。山火事が数十件起った。その山火事に関連した死者が数百名、負傷者は数千名を数えた。大規模な電波障害が起こり、交通機関や通信、金融等のインフラの混乱が一週間から半月ほども続いた。
もう一つの彗星の核も崩壊した。カナダ、アラスカ、シベリアの広範囲に隕石が落下し、山火事が発生して甚大な被害が出た。
その夜から二年余りが経った日の夕刻、吉岡鉄郎は家路を辿っていた。信用調査会社で通常の業務に戻った後、今では課長に昇進して部下も出来ている。森本莉子と一緒に暮らしているが、婚姻届は出していなかった。莉子の両親が内心それを望んでいることは知っていたが、未だ踏み切れずにいたのである。
先日、彼のもとに記憶にない名前の女性から一通の封書が届いた。開けてみるとスミレさんからで、鉄郎の母が亡くなったことを伝えていた。母は闘病中、息子に会わせる顔がないから連絡しないでほしい、死んだ後で、ただそのことだけ伝えてほしいと言っていたのだという。ささやかながら遺産もあるので、是非受け取ってほしいと付け加えていた。鉄郎もそれは貰うべきだろうと思った。それで一つのけじめがつけられる。
森本莉子はあの日、無事な家族の顔を見て泣き崩れた。小学生の弟が不思議そうな顔でそれを見ていた。その後彼女は倉庫会社を辞め、服飾の専門学校に入った。今では自分でデザインした一点物の衣装をインターネット等で販売するまでになっている。
その莉子は今部屋でエコー写真を見ている。この日産婦人科を受診して妊娠が分かったのだった。鉄郎の子だ。だがまだ鉄郎には伝えていない。鉄郎はかつて自分には子供の手を引いて河原を歩くような幸せなど、やって来るはずがないと語ったことがあった。確かめたわけではないが、例の「組織」に絡む仕事の上で何かトラウマになるようなことがあったのではないかと彼女は思っていた。彼が夜中にうなされていることが度々あったからだ。自分が彼の子供を産むことで、今度こそ彼の呪縛が解かれるのではないかと莉子は願っていた。
その日の同刻、吉岡次郎は空港にいた。離着陸する飛行機が見えるテラスでベンチに坐って、到着便を待っていた。
あの夜の後、彼は吉岡邸の設計者の孫にあたる時任晋吾という建築家を訪問した。これまでの経緯を話し、今後のことを相談した結果、地下部分は「封印」して上の洋館は取り壊すことになった。旧い蘆岡家住宅の部分は将来の移築に備えて再び解体保存することにした。ある日その時任に呼び出されて、紺野藍造氏の孫娘だという原田栞という女性と引き合わされた。この紺野というのは、モモの話に出てきた出版会社の社長である。彼がかつて、父の弥太郎に仕える執事だったことを初めて知った。孫の栞はまだ大学生だった。彼女の話によれば、紺野氏が亡くなって遺品整理をしたところ、弥太郎の事績や吉岡邸の建設に関する夥しい資料が出てきたのだという。「あまりにも突然に祖父がいなくなってしまったので」と栞は涙ぐみながらも、何かを祖父から託された気がしてならないのだという。次郎はあの晩のシェヘラザードの最後の言葉を思い出した。「未来の人間」とは例えばこの栞かもしれないと思った。その可能性を摘んでしまわないためにも、時任の協力も仰ぎつつ、それらを含めた資料を保管して後代に繋ぐ方策を探ることにした。
土地を売却して得た金は、折半しようと兄に持ち掛けたが固辞された。相続の際に遺留分を受け取っているので、これ以上貰う理由がないと言う。結局、売却額の大部分を難民支援団体や慈善団体、自然保護団体等に寄贈することにした。それが父の遺志にも適うと思ったからだ。それでもまだ莫大な資金が残った。次郎は美術大学に入り直した。今後は絵画製作を続けながら、いずれは画廊を再開するつもりだ。
安西百代は彼のもとを去った。ジャーナリズムをもう一度一から学び直すために、海外留学したいという。自分が血の繋がりという宿命的なものによって動かされていたことがショックだった、いったん次郎と距離を取って世界を見つめなおしたいと語る彼女を引き留める言葉を持っていなかった。彼はせめてもの感謝の気持ちとして、渡航費用を援助することにした。別れ際に彼女は、二年後に「何らかの結論を持って」再び会いに戻ると言った。そして今日がその約束の日だったのである。彼女からは搭乗する便名だけを知らせて寄越していた。
次郎は先程売店で買った週刊誌に目を落とした。普段はまず読まない類の雑誌だが、気になる見出しがあったのだ。「町田啓介容疑者、被害者の妹と獄中結婚! 独占インタビュー『私は姉を殺した男の妻になることにした』」と題された記事である。
この町田というのはモモのストーカーだった男である。隣家に放火し、吉岡邸に侵入した容疑で逮捕された後、近くに停めてあった自分の車の中に若い女性を監禁していた事も分かった。さらにその後、彼はその監禁していた女性の双子の姉にあたる女性を殺害していたことを自供した。これらのことは連日のようにテレビやネットを賑わせ、週刊誌の大見出しになったのだが、被害者の遺体は今も発見されないままだ。一審判決は殺人を認定したが弁護側は控訴、裁判は今も続いている。記事はその町田という男が、被害者とされる女性の双子の妹との婚姻届を提出したと書いていた。
町田が執着していたのはモモだったはずだが、彼女のことは幸いにもこれまで全く報道されていない。次郎は記事中でT子と呼ばれている被害者の妹のことは全く知らなかった。T子は失踪した姉の行方を捜すために上京し、警察よりも先に犯人に辿り着いたのだそうだ。しかしその町田に拉致されてしまった。その時この二人の間に何があったのか、記事は一切伝えていない。町田はT子の姉を殺害したことを一度は自供したが、その後はあいまいな供述に変わっているのだという。そして、遺体が今に至るまで発見されていないことを弁護側は問題視しているのだった。遺体が見つからない以上、彼女は本当には死亡しておらず、何者かによって保護ないし誘拐されたのかもしれず、今もって所在が分からないのも、その第三者か、あるいは本人の意思によるものかもしれない。その可能性を否定できないというのが弁護側の主張らしい。
T子がなぜ自分を拉致した男、そればかりか自分の姉を殺害したと疑われているような男と結婚しようとするのか、次郎には全く理解が及ばなかった。だから決して普段は読まないような週刊誌を読んでみる気になったのだ。だが最後まで読んでも記事には肝心な部分の説明は何もなかった。実はT子はその経緯を記した「小説」を現在執筆中で、それは週刊誌と同じ出版社から近日中に発売されるのだそうだ。
到着便の案内があり、次郎は慌ててベンチから立ち上がった。小走りに到着ロビーに向かう。こちらに向かって歩いてくる群衆の中から、瞬時にモモを見分ける。彼女もすぐに次郎に気付いたようだ。一瞬、まるで泣き笑いのような表情が見えた。
安西百代は出迎えの人々の中に、すぐに次郎の姿を見つけた。かつて土曜日の晩に彼女を出迎えた時と同じ顔だった。彼のことだ、きっと今か今かと待ちわびていたんだろうと思った。
百代はこの二年間、可能な限り世界を歩き回って、宿命に押し潰されてしまった人たちや、それに抗って必死に生きる人たちをたくさん見てきた。そして考えた。人は誰でも宿命を負って生きているのだと。日本にいた時は、女性であり、地方出身者であることが彼女の宿命だった。ニューヨークでは、女性であり、アジア系であり、英語があまり堪能ではないことが宿命になった。「宿命」なんてつまりはそんな程度のもので、だがそれが時に耐えがたいまでに重たいのだ。
彼女が宿命に導かれて次郎と出会ったのだとしても、それで彼と別れるというのは少し違うのではないか、それでは却って宿命の支配を受け入れたことになるのではないかと考えるようになったのだった。
彼女は次郎に向かって大きく手を振った。キャリーバッグを曳きながら、まっすぐに彼の元へ歩いて行く。次郎も駆け寄って来た。「やあ、来たね」などと言う。馬鹿ね、本当に今言いたいことはそんなことじゃないでしょうにと百代は思う。深呼吸を一つしてから言った。
「ねえ、ツギィは早く私の答えが聞きたいんでしょ。じゃあ言うね。私、あなたが許してくれるなら、もう一回あなたと一緒に生きたいのよ。やっぱり私は自分の選んだものを信じてみたいの。それに、嫌になったらいつでもパートナーチェンジしてもいいんでしょ」
「それはまあ、仕方ないけど……。でもあのキックだけは勘弁してほしいな。あれはホントに痛いんだよ」と言って次郎は楽しそうに笑う。百代も笑った。いつまでも笑いが止まらず、最後は二人とも涙になった。




