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彗星の夜  作者: 秋田清
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1 まれびと

2024年12月の「文フリ東京39」にて頒布した、合同誌「いよなん2号」に掲載した短編小説「まれびと」の続編をまとめた連作長編小説です。全体としてはファンタジーであり、ちょっぴりSFでもあり、クライムサスペンス風のところもあり、いびつでな不器用な恋愛を描いた小説でもあります。最後まで飽きずに(多分)読んでいただけると思います。

 後になって考えれば考えるほど、あの晩の出来事は夢か幻だったかのように思えてならない。過去から未来へと永劫に続いてゆく時の流れの中で、あの一夜だけが、切り離されてべつの輝きを放っているような、それは祝祭と崩壊が同時に訪れた夜だった。しかし一方で、あれは確かに自分の身に起こったことに違いないのだ。それまで用心して見ないようにしてきたある異質なものを、どうしたはずみかひょっこり覗いてしまったのだろうか。これまでの自分がもう少し注意深く生きて来ていれば、自分にとってのあの夜の意味も違っていただろう。それを題材に万巻の書物を著すことだって出来たかもしれない。後になって吉岡次郎はそう何度も考えた。


 そうはいってもその晩は、いつもの晩とそう大して違っていたわけではなかった。窓の外では古いくすの巨木がかさかさと音を立てていて、それは美しい月夜だった。都内でもこの辺りは、夜になって人通りが絶えるとすっかり静寂に閉ざされてしまう。針一本落としても広い屋敷中に響き渡りそうなほど、静かな夜だった。内部からはどんどん腐食が進んでいるに違いないこの屋敷も、月の光を浴びるとまるで何かつやつやした鉱物の結晶に変化したかのように思われるのだった。


 その時、ふと彼は異質な音を耳にとめた。玄関で誰かが真鍮製のノッカーを使って扉を叩いているのだと気付いた。この日は土曜日で彼女がやって来る日だったので、玄関の近くにある応接室のソファに坐って、今か今かと待っていた。だからノックの音を聴きとることができたのである。最初のうち、彼はまたいつもの不動産屋がご機嫌伺いに来たのだろうと思った。時刻から言ってもそんなはずはないのだが、そういう外の世界の曜日や時間の観念などは、彼には関係なくなっていたのである。それに彼女ならノックなどはしない筈だ。


 いつまでもノックの音が止まないので、次郎はため息を吐いて立ち上がった。テーブルの上からキャンプ用のランタンを持って玄関に向かった。ノックの音はまだ続いていた。

「はいはい、今開けますから。待ってください、そう急かさないで」

苦労して重いドアを開ける。月明りを背に真っ黒な人影があった。磊落な声が響いた。

「昔とちっとも変っていないな、この家は。雨戸は閉めっきりだ。外はいい春の月夜だっていうのに……。おい、次郎、たまには空気を入れ替えているのか? 少しは日光を中に入れるようにしなくちゃいかんな。なんだか少しカビ臭いぞ」

 髪を短く刈った、がっしりした体格の男だった。健康そうに日に焼けている。勝手知ったるという感じで家に上がり込んでくる。

「て、鉄郎兄さん……?」

 男は次郎の兄の鉄郎のようだった。あまりに久しぶりなので、次郎ももう一つ自信が持てなかったのだが。

「お前もちっとも変わっちゃいないな。相変わらずなまっちろい顔しやがって。少しは日光に当たってみたらどうだ」

「兄さん、あんた……」

「お前が言いたいことはわかってるよ。お前より俺の方がよっぽどお天道様に顔向けできない生き方をしてるってんだろ? まあ、いいさ、すぐに帰るから。今日はちょっと用事があって、覗いてみただけだから」


 鉄郎は次郎の五歳年上だから、今年三十七歳ということになる。それにしては早くも髪に白いものが混じり始めていた。会わなかった間に、よほど苦労したのかと彼は思った。

「何だ? まさか生きているとは思わなかったって顔だな。まあ、それが当然かもしれないけどな。この十年、一度も連絡しなかったんだから。お前には悪かったと思っているよ。だけど何といっても親父に見込まれたのはお前で、俺じゃないんだ。実際大したもんだよ。親父は目が高かったわけだ。この家は十年前と少しも変わってないじゃないか」

「外見だけだよ。中はボロボロ。この家の固定資産税がいくらか知ってる? 売れるだけの美術品は売りつくして、画廊は五年で閉めた。母さんの着物や貴金属もあらかた売った。書斎の蔵書だって……」

「本も売ったのか?」

「半分ぐらい……」 

 それを聞くと鉄郎はため息を吐いた。

「それじゃ無駄足だったかも知れんな。実は俺は本を探しに来たんだよ。稀覯本が結構あったんだが、惜しいことをしたな。親父が生前お前にあの本たちの価値を教えてくれていれば良かったんだが……」

 書斎の本は、結構な額の金になった。半分売ってもまだちょっとした学校の図書館並みの蔵書数はある。

「だって、じゃあどうすれば良かったって言うんですか。そうでもしなけりゃ、こんな家を維持することはできないよ。そりゃ、僕が不甲斐ないのは認めるよ。だけど、不甲斐ないのは三代目の常じゃないか。僕だけの責任じゃないよ」

「妙な論法だなあ。でもまあいいさ。とにかく親父に見込まれたのはお前で、俺じゃないんだから。書庫に上がらせてもらうよ。あの本が残っていてくれればありがたいんだが……」 

彼は慌ててランタンと懐中電灯を持って鉄郎に続いた。


 彼らの父親は所謂、立志伝中の人物だった。美術商としては確かな才覚があり、父親から受け継いだ銀座の小さな画廊を、一大美術商社に発展させるために一生を費やしたと言っていい。兄弟二人のうちどちらがその父に似ていたかと言えば、それは文句なく鉄郎だった。だからこそ父は彼を警戒したのかもしれない。自分の中にも確かにある破壊への衝動のようなものを、彼は鉄郎の瞳の中に読み取っていたのだろう。結局、彼が後継に指名したのは弟の次郎だった。


 階段を昇った先が、この広壮な屋敷の中でも一番広い部屋、書斎である。鉄郎は手探りで壁のスイッチを押した。そのまましばらく待ったが、部屋は暗いままだ。天窓からの月明りが唯一の光源である。

「おかしいな。停電なのか? 街灯はついていたが」

「電気代を滞納して止められてるんだ。払えないわけじゃないんだけど。住んでるのは僕一人だけで、食事はほとんどコンビニ飯だし、電気がなくてもどうにかなるんでそのまま。灯りはこれ」と次郎はランタンを手渡し、自分のためには懐中電灯をつけた。

「しかし、あんたも少しも変わらないな。いなくなったと思うと、突然現れる。学生の頃と一緒だ。僕は毎年皆勤賞だったけど、あんたは半分近く欠席だったんだろ。親父が高額の寄付をしていたおかげで卒業できたんだってよく言ってた」

「そうだったっけかな?」

「今さら僕にとぼけたってしかたないだろう。僕は昔からあんたのことが不思議だった。お世辞にも優等生じゃないけど、ヤンキーたちみたいにつるんでタバコや酒をやったり、ナンパ目的のパーティーに入り浸ったりするわけでもないし。あんたは夜は星を見るからと言って昼の間じゅう眠っていたり、そうかと思えば何か月もバイクで旅行してみたり……。僕はあんたが羨ましかったよ」

だがそれも半分は噓だ、と彼は思った。人には向き不向きというものがある。鉄郎のように生きるのはそもそも自分には無理なのだ。彼は実直だけが取り柄のような人間だ。いや「うすのろ」と呼ばれるのが相応しいと自分でも思っていた。だから父の言いつけ通りに忠実に生きてきたのだ。言われたとおりの事しかできなかったが、かといって決して自分を卑下しているとは思わない。言われたことも満足にできない人間が世の中にはたくさんいると思うからである。要は父の残した宿題が難題過ぎたことが問題なのだ。

今に至るまで次郎は、自分の境遇に不満を持ったことがなかった。今の生活だってそんなに悪くはない。それに彼女もいてくれる。

「それにしても、この家は親父の亡霊だ。白状するとな。この十年の間、俺は何回か門のところまで帰って来ていたんだ。表札が変わっていないのを見て、なんとなくほっとしていた。この家はちっとも変ってなかった」

「中はこの通り、化け物屋敷同然だけどね。もっとも、僕が子供のころからその傾きはあったけど……。どうだい、探してる本は見つかりそう?」

「いや、どうかな。それにしても埃がひどいな。最後に掃除したのはいつだ?」

 次郎はポケットから手帳を取り出して開いた。

「おい、ちょっと待て、いちいち記録してるのか?」

「ええと、ちょうど二週間前だな。うん、ローテーションがあるんだ。人を雇う金がもうないから、僕が掃除や修理を一人でやってる。毎日一部屋か二部屋を掃除しながら、家の中で移住してるんだ。寝るのはシュラフ。冬なんかはテントを張ることもある、その方がいくらかあったかいんで。で、一か月でほぼ一周する計算だ」

 そう、そして今夜は土曜だから応接室にいたのだ。

「なんだかまるで、家の中でピクニックしてるみたいなもんだな」と鉄郎が呆れた声を出す。

「まあね。で、何の本を探しているの? もしもう売っちゃった本なら無駄骨だろ?」

「古い和綴じ本なんだが……」

「ああ、それなら大丈夫だ。なんだか僕には全然読めない古文書みたいなやつが沢山あったけど。業者も値段の付けようがないというんで、売らずにみんな取ってあるよ」

 吉岡家は代々、この辺りの名主を務めていた家だという。次郎の父は既に人手に渡っていた父祖伝来の土地を買い戻して、この広壮な屋敷を建てた。父のこだわりは、一部残っていた古い日本家屋を、洋館の中にそのまま入れ込んだことで、依頼を受けた建築家はずいぶん苦労したらしい。先祖伝来の家と土地に対する父の執着は、次郎などの想像を超えるものがあるのだった。鉄郎が探している和綴じ本というのも、その家から見つかったものだろう。

「でもすごいな、鉄郎兄さんは古文書が読めるのか」

「俺は何でも、通り一遍にできるだけだ。何一つ本物じゃないのさ」

「それでもすごいよ。じゃあ、僕は下に行っているから、ごゆっくり。終わったら声を掛けてください」


 懐中電灯で足元を照らしながら、階下の応接室に戻った。いつもならとっくに彼女が来ている時間だった。彼女が現れたら、いまや彼女のための部屋と言ってもいいこの部屋で、一緒に少し酒を飲む。そのあとアトリエに移って少しだけ絵画制作をすることもあるが、本格的に描くのは日曜日だ。その後はこれも彼女のためだけに整えてある客用の寝室で一緒に休む。彼女がその気になれば、そのまま体を重ねる。もちろん拒まれれば強いはしない。気まぐれな彼女だが、これまで待ちぼうけを食わされたことは一度もない。今日は明らかにおかしい。彼女に何かあったのだろうか、彼は珍しく不安になった。


 気を紛らわすように、兄のこと、父のことを考えた。この応接室もまた、兄の言うところの「親父の亡霊」だった。大理石のマントルピース、マホガニーのコーヒー・テーブル、年代物の柱時計、孔雀の剝製。アンティークのスタンド型ランプは、かつてはただの飾り物だったが、今では照明器具として立派に役立っている。安楽椅子にパイプを銜えた父が座っていないのが、どこか不思議なほどだった。

 厳しい父だった。次郎は父に褒められたことがない。試験で満点を取っても褒めてもらえなかった。皆勤賞をもらっても、「お前はうすのろだから、取り柄は実直さだけだ」と言うのだった。その父も晩年にはかなり焦っていたのだろう。盗品や贋作の売買に手を染めるようになり、それが「ケチの付き始め」だった。不渡りを連発して経営が傾き、スタートラインだった小さな画廊だけを残して、会社は人手に渡った。父は次郎に、全財産を譲る代わりに、この屋敷を処分することだけはしないでくれと懇願した。彼は父の申し出を断れなかった。父から初めて頼りにされたことが嬉しかったのだ。今にして思えば、そこで彼の人生はあらかた決したのだった。父の死後、遺言状が公開されると、鉄郎は遺留分を受け取ってさっさと家を出て行った。そのまま十年が経って、今日この家にやって来るまでは音信不通だったのだ。結局僕は貧乏くじを引かされたことになるのだろうか、と彼は思った。だとしてもそれは兄のせいではない。

 その時階上から、「うわあああっ」という悲鳴が聞こえた。鉄郎の声だった。次郎は慌てて階段を駆け昇って、書斎に向かった。



 次郎がこの家を相続してから、最初の三年ほどは庭師を入れて樹木の伐採をしてもらっていた。経済的に余裕がなくなってからは、彼が自分で時々屋根に上って、家に覆いかぶさってくる枝を高枝切り鋏などで切っている。が、全く追いつかない。樹々が野放図に生い茂ったおかげで、屋敷の中は昼なお暗いという有様になってしまった。


 二階の書斎には天窓が切られているので、ここだけはいつでも明るかった。本を半分近く処分してしまうと、空いたスペースを自分用のアトリエに改造した。彼は画廊を継ぐ前には、美大に通って油絵などを学んでいたのだ。あちこちに石膏像を配して、イーゼルをいくつも並べ、自分の描きかけのタブローの他に、売らずに取っておいたお気に入りの絵も飾った。仮眠用に、廃材をDIYして作った簡易ベッドを部屋の隅に設えた。

 先刻、鉄郎がランタンを手に、そのベッドに近づいた時、そこから突然人型をしたものが立ち上がった。完全に虚を突かれた鉄郎は、思わず大声を上げた。先程の悲鳴はそれだったのだ。



 今は再び応接室に場所を移して、その人型をしたものの正体が安楽椅子に収まっている。若い女性だった。どうやら鉄郎にお化け扱いされて騒がれたことが心外らしく、すっかり気分を害しているようだ。最初の出会いの時と全く一緒の状況だったから、次郎は苦笑した。この彼女こそが、次郎が待っていた相手なのである。名は安西モモという。ただし、それが本名なのかどうかは彼も知らない。

「だけど君、そもそもどうしてあんなとこにいたの?」と次郎は訊いた。

「ちょっと早めに着いたから、直接アトリエに行ったのよ。で、ほんのちょっとのつもりでベッドに入ったらそのまま寝ちゃったみたい。気が付いたら灯りを手に持った人が来たから、てっきりツギィだと思って脅かしてやろうと……」

「やっぱり脅かそうとしたんじゃないか。まったく、君はいつもそうだ、もう忘れたかもしれないが最初の時だって……」


 次郎が初めて彼女を見たのは残暑の厳しい夜だった。モモは白いキャミソールを着て、和室の床の間に飾られた掛け軸の前に立っていたのだ。その姿がまるでその、贋作の円山応挙の幽霊画からそのまま抜け出たように見え、彼は心臓が止まるかと思うほど驚いた。

「そりゃ、脅かしたのは悪かったけど……。ねえ、ツギィ。ホントにこの人あなたのお兄さんなの? あんまり似てないみたいだけど」

「母親が違うんだ、俺は愛人の子でね。ついでに言うとこいつは名前は次郎だけど、本当は三男なんだ。つまり、俺は勘定に入ってなかったんだな。こいつが小学生の頃、こいつの母親と長男が交通事故で亡くなってね。俺はその後でこの家に引き取られたんだよ」と、鉄郎が彼に代わって説明してくれた。

母と兄が亡くなったのは、次郎が小学六年生の時だった。母は兄の正男と次郎への接し方をきっぱりと分けていて、どんな時でも兄が一番だった。父も正男を嫡男として扱っていた。幼い頃にはそれで悔しい思いをしたこともあったが、それにもそのうち慣れた。母が次郎に向かって、口癖のように「お前は次」というので、自分で自分にツギィというニックネームを付けた。自虐というより、むしろそんな境遇を愉しんでいたのだ。

 母と兄が同時に死んでしまった時には、悲しいというより一種の虚脱状態に陥ってしまった。世の中にはこんなことも起こり得るのだと思った。それから高校生の鉄郎が家にやって来た。父にとっては、正男に代わる自分の後継者候補を手元で育てようということだったのだろう。それまでこの兄の存在を、次郎は全く知らされていなかった。一目見て正男とはまるで似ていないと彼は思った。そしてやがて、二人は氷と炎ほどに違うと思うようになった。

 兄の正男が生きていてくれたら、自分ももっと自由な生き方ができたのかもしれないと思うこともあった。だが今となっては、この家が次郎にとっての唯一の存在理由になっているのだ。ここを離れては生きられない、と長らく次郎は思っていた。その家を彼に与えてくれたのが父だった。

「で、次郎。このオン……お嬢さんはお前とどういう関係なんだ」

 正面からそれを問われると、彼も答に窮する。すると、

「私たち、週末同居人なの」と代わりにモモがさらりと答えた。


 週末同居人とは、うまいことを言ったものだ。彼女は最初、おそらくこの家が無人だと思って入り込んでいたのだろう。そもそも次郎が応挙の贋作の前で彼女を見つけた時が、初潜入だったのかどうかも定かではない。実はもっと前からこの家に居ついていた可能性もあるのだ。この家は広いし、次郎はローテーションで屋敷を回っていたのだから、どこかで交わらなければ、一生会わないままということだってあり得たわけだ。同一軌道上をめぐる双子の惑星みたいに。


 最初、彼は警察を呼ぼうと思った。当然だろう。いったいどこから入ったのか知らないが、明らかな不法侵入なのだから。だがそうしなかったのは、全くもって「邪な」動機からだった。彼女の容姿が一目で気に入ってしまったのだ。一夜の宿を提供する代わりに、自分の絵のモデルになってほしいと提案した。いや、むしろ懇願した。書面などを作ったわけではないが、彼女がこの家で週末を次郎と一緒に過ごすという契約がなんとなく出来上がった。それ以来、決まって土曜日の夜に彼女はやって来るようになった。そして、それまで女性との交際経験が豊富とはいえなかった彼は、すぐに彼女の虜になってしまったのだった。

 彼女が玄関から入ってくることはほとんどなかった。いつも気が付くと屋敷の中にいるのだ。広い屋敷で、出入りできるところが多いとはいえ、すべてしっかり戸締りはしているはずだ。どこか見落としているところがあるなら不用心だと思い、どこから入ったのかと尋ねても、彼女は笑うばかりで教えてくれなかった。彼にしてみれば、彼女ならいつでもウェルカムなので、出来ればちゃんと玄関から入ってほしいのだが。今夜もどこから入ったのか、いつのまにか屋内に居たというわけだ。

 二晩を共に過ごし、月曜の朝には、彼女は家を出ていく。平日の彼女が何をしているのか、彼は全く知らない。何かまともな仕事に就いているのか、金主が別にいるのかもわからない。普段は何処に住んでいるのだろう。神出鬼没の彼女のことだから、知らないうちにこの家に戻って潜り込んでいることだって、ないとは言えないと次郎は思う。

 彼女の正体は、今もって謎のままだ。安西モモが本名かどうかはもちろん、日本人なのかどうかもわからない。髪と瞳の色は黒だが、むしろ最近の若い日本女性には、彼女のような漆黒の髪色は珍しいのではないだろうか。あれは烏の濡れ羽色とでもいうのだろうか。

 言葉にはなまりはなく、標準的な関東地方のイントネーションだし、どこと言って外国人らしいところがあるわけではないのだが、なんとなくエキゾチックな感じもする。


 彼女と初めて遭遇したのが去年の八月の終わりで、この時はなぜか下着同然の服装だった。その日から秋と冬を越え、今はもう春だ。最初の頃は奇抜な服装をしていることが多く、何かのコスプレなのかもしれないが、アニメ等に疎い彼にはよくわからなかった。そのうち、シンプルなシャツにスカートかパンツという落ち着いた服装の方が多くなった。モデルを務めるためには、脱ぎ着がしやすい服の方がいいからだろう。冬の間はその上にフェイクファーのコートを羽織っていた。いつでも身ぎれいにしていて、金に困っているようには全く見えなかった。



 今夜は突然の鉄郎兄の闖入のせいで、モモとの「夜の活動」がお預けになりそうだと思いながら、次郎はそのモモとの会話を思い出している。彼のためにポーズをとりながら、彼女は好きなギリシャ神話の話をよくしてくれたものだった。ある時は、

「エンデュミオンって知ってる? ギリシャ神話に出てくる美しい羊飼いの青年なんだけど」

「知らないなあ。それは何をした人なの?」

「自分では何もしなかったの。ただ月の女神に愛されただけ」

「愛された? 何もせずに?」

「そう、何もせずに。彼はただ月の光を浴びて眠っていただけなのよ」

「何だろうなあ、それ。それで彼は幸せだったんだろうか」

「幸せだったのよ。きっと。私、エンデュミオンって、どこかツギィに似てる気がするのね」

 それを聞いて次郎は思い切り噎せた。

「なんだそれ。僕はお世辞にも美青年なんかじゃないじゃないか、どこが似てるっていうの?」

「うーん。なんだろう。無口で照れ屋なとことか? でもツギィが寝てるのを見るのは、私、なんでだか好きなのよ。ていうかさあ、ツギィって自己評価低すぎだよ。とっても素敵なのに」と言って彼女は笑った。

「心にもないことを」

「そんなことないって。私はあなたの良さ、すぐに見抜いたよ。すっごく優しいし。ねえ、ツギィは神様って本当にいると思う? なんだかんだ言っても、私は神様っているんじゃないかと思ってるのよ」

 彼女の話はすぐにころころと話題が変わる。

「そうだね。確かに太古の昔には神はいたよ。空でゴロゴロと大きな音を立てて、光の矢を放って家や森を焼いたりした」

「何よ。それって、雷のことじゃない?」

「神が鳴るから『かみなり』なんだ。かみなりが鳴るじゃ、頭痛が痛いというのと同じで重言になっちゃうだろ」

 大学時代、教養課程の民俗学の授業で聞きかじった話をした。

「昔の人は何が何だかわからなくて、無闇に恐ろしいものを「かみ」と呼んであがめて、鎮めるために生贄を捧げたりしたんだ。「かしこし」っていうのはもともと、恐ろしいっていう意味だからね。神頼みだとか、ご利益だとか言い出したのはずうっと後の話らしいよ。雷は今でも怖いけど、そのメカニズムはほぼ解明されているだろ。だから神様なんか現代にはもういないというわけさ」

「だから、そういうとこがツギィってホントつまらないのよね。神様の引き合わせで君に会えたんだぐらいのこと、言ってくれたっていいじゃん。私はツギィにめぐり会えたのは神様のおかげだって信じてるんだけど」

 こんな殊勝なことを言いながら、いまだに自分の正体を明かしてくれないのだ。彼女もまた、ご機嫌伺いに繰り返し訪れる不動産屋同様、何かの思惑を持って次郎に近づいたのだろうか。それならそれでもいいと彼は思う。この家や土地が目的ならくれてやってもいい。どうせすべては死ぬまでの暇つぶしなのだ。彼女と過ごす時間の快楽には何ものも替えられない。



「ところで、兄さん。お目当ての本は見つかったの?」と次郎は尋ねた。

「いや、それが……」と鉄郎は言って、ちらりとモモを見やった。モモは、

「お邪魔なら、ベッドに戻って寝るけど……」と言った。

「いや、それには及ばないよ」と言いながら、鉄郎は一冊の和綴じ本をテーブルの上に置いて、

「俺が探していたのは、『蘆岡次郎右衛門諸事日記』という本だ。俺たちのご先祖様が遺したものだ。次郎も言っていた通り、値段はつかない。俺たち以外にはたいした価値はないものだろうからね」

「ご先祖様は、吉岡という名前じゃなかったの?」と次郎は訊き返しながら、読めもしない日記など、自分にとっても大した価値はないと思った。書いたのは僕と同じ次郎か、いったい何代前の当主なのだろう。

「昔は蘆岡と名乗っていたらしいな。明治になって役所に届けるとき、縁起を担いで「あし」を「よし」に変えたんだろう。葦原を吉原にしたのと同じことさ。で、この次郎右衛門さんという人は幕末の頃にこのあたりの名主だったんだが、その仕事のことやら、家族の身の回りの出来事なんかをこまめに綴っているんだ。安政年間から明治の初めまで、約二十年分の日記が分冊になって残ってた。これは万延元年から文久二年の分だ。だけど、俺の読みたかった文久三年の記事が入った冊子だけが、どういう訳だか欠けてしまっているんだよ。以前は間違いなくあったんだが」

 そう言ってまた、ちらりとモモを見る。

「なによそれ、私が盗んだって言いたいの?」とモモが突然大きな声を出した。



「まあ、落ち着けよ。君がそんなことをする人じゃないくらい、僕が一番よく知っているから」と次郎はいきり立つモモを宥めた。そう言いながらも、内心ではやはり彼女が盗んだのかもしれないと思い始めていた。彼女の他に本を持ち出せる人間が思い当たらない上に、そもそもなぜ彼女がここにいるのかの合理的な説明がつかないからである。

 半分冗談で「契約」などと言ってはいるが、彼は彼女にモデル料を払っているわけではない。土曜と日曜の二晩、寝る場所を提供しているだけだ。滞在中の食事や酒の費用はもちろん次郎が持つが、平日の彼一人のつましい食事よりも、ほんの僅か奮発して張り込んでいるだけ、所詮コンビニで手に入る程度のものなのである。それでも彼女が不平を言ったことは一度もない。食事に関する限り、彼女はまったく贅沢ではないのだ。そんな彼女に、週末限定の疑似恋愛のようなことをさせてもらっている。これではいくらなんでも話がうますぎるではないか。誰もが、「絶対に何か裏がある」と言うだろう。次郎の財産はこの屋敷しかないから、単純に家と土地が目的なのかと思っていた。それ以外にも何かがあるというのだろうか。


 だが、意外にも鉄郎はモモに向かって深々と頭を下げていた。

「不愉快な思いをさせてしまったなら申し訳ない。この通りだ。だけど俺はどうしても君の存在が気になってしまうんだ。それについてはおいおい話す。少し長い話になるが、一緒に聞いていてくれないか」

 そして次郎に向き直った。

「俺はこの十年間、お前のことを忘れていたわけじゃない。それどころかずっと気にかけていたんだ。お前はあの親父に『呪』を掛けられたようなものだからだ。それでこの家に縛り付けられてしまったんだ。あいつは『怪物』だ。子供たちをコントロールするのが無上の楽しみだったんだろう。お前は劣等感を植え付けられて、しかもそれを自覚できなくさせられていたんだ。一方で長男の正男には帝王学を施していた。早く亡くなったのは気の毒だが、正男が生きていたらそれはそれで大変だったろうと思うよ。とにかく、お前はうすのろなんかじゃないし、これまで本当によくやった。俺はなんとかして早くお前を解放してやりたかったんだ」

 次郎には思いがけない言葉だった。この兄が自分のことをそんなふうに思っていてくれたとは気づかなかった。

「親父は謂わば俺たちを洗脳したんだろう。お前には『守る者』の役を振った。俺に振ったのは『追う者』だ。だから俺はこの十年、世界中を駆け回って様々なものを追いかけてきたんだ。その中には彗星もあった」

「スイセイ?」。

「ほうき星の彗星だ。ところで、お前は『ヨーゼフ・コタン彗星』を知ってるか」

 次郎は首を横に振る。モモが言った。

「私、それ知ってる。確かもうすぐ地球に最接近して、肉眼で見えるようになるんですよね。最近、天文好き界隈で盛り上がってるの。私もまんざら嫌いじゃないんで」

 次郎は全く知らなかった。この家にはテレビすらなく、情報はラジオだけだ。鉄郎はうなずくと、

「『ヨーゼフ・コタン彗星』は、今はおとめ座にあって、5等級ほどだ。まだ肉眼で見るのは厳しい。彗星の光はぼおっとした広がりのあるものだから、普通の星よりはずっと見にくいんだ。これから一気に急接近して、マイナス2等程度になると予想されてる。だがこれはあくまでも予想だ。太陽に近づくにつれて、彗星の本体にあたる核が分裂して、最悪消滅してしまうこともあるからね。そもそも彗星についてはまだまだよくわかっていないことが多いんだ。一般にはもっと知られていない」――鉄郎兄は一体何の話をしているのだろうと、次郎は訝しく思った。

「流星と彗星の区別がつかない人もいるくらいだからなあ。流星というのは宇宙空間のチリで、それが地球の大気に触れて燃えるときに光るんだ。彗星はそういうチリをまき散らしていくから、軌道上にはチリがいっぱいばら撒かれてる。そこに地球が突入すると、流星雨とか、流星群と呼ばれる現象が起こるというわけ。彗星の軌道は極端な楕円軌道が多い。太陽のすぐ近くをまるで折り返しのコーンを回るように回ったと思うと、そこから冥王星の遥か彼方まで飛んで行ってしまうんだ。だから周期がとてつもなく長い。有名なハレー彗星の前回の接近は一九八六年だった。次の出現は二〇六一年と予想されている。周期は約75年だけど、これは実はかなり短い方だ。百年を超えるものなんかざらにある。もっとも、大部分の彗星は周期がわかっていないんだが」


 安楽椅子のモモが、熱心に聞き入っているのに次郎は気づく。彼女がこんな話のいったいどこに引き付けられるのか不思議でならなかった。

「さて、ここで俺が探していたご先祖様の日記の話に戻る。文久三年の秋、次郎右衛門は彗星を見てる。それも毎晩のように観測して、詳細な記録を日記に残していたんだ。彼は当時まだ珍しかったガリレオ式望遠鏡を所有していて、それで彗星を見ては精緻なスケッチも残していた。で、大事なのはここからなんだが、最新の論文に載っているヨーゼフ・コタン彗星の軌跡と形状が、その文久三年の彗星とよく似ていると俺は思うんだ。両者は同じ彗星なんじゃないか。だからそれを改めて確認したかったんだが……」

 その本はなぜかなくなっていたという訳だ。

「昔何度も読んで、内容はあらかた頭に入っているからね。俺は間違いないと思う。およそ百六十年経って、一巡りして戻って来たんだよ」――成程、それは確かに感動的なお話かもしれないが、正直言って次郎にはあまりピンと来ない。それに、会ったこともないご先祖がそれを見ていたとして、それが何だというのだ。

「日記によれば、この時蘆岡次郎右衛門の屋敷には長逗留している客人がいて、毎晩一緒に彗星観測をしていたんだ。この人物の身分も年齢もわからないが、俺の記憶が確かなら、名は安斎百という」

「アンザイヒャク?」

「安斎百は『まれびと』だと書いてあった。『まろうど』と同じで滅多に会えない、珍しい客人という意味なんだろうが、ただそれだけの意味ではないようにも思えるんだ。名前のことでいうと、古文書に出てくる人名っていうのは、案外いい加減な書き方をしてるものが多いんだ。音が同じなら字にはあまり拘らないし、短縮形を書くこともよくある。俺は百介とか、百太郎とかいう名前の下の部分を省いたんだろうとずっと思っていた。だが、この百という字は『もも』とも読める」

 モモがスッと息を飲む気配がした。

「俺はずっと男の名前だと思い込んでいたが、女性の可能性もあるんだな。彗星に関する記事ばかり追っていて、他はちゃんと読んでなかった。この安斎百のことが、文久三年の記事にもっと詳しく書いてあったのかもしれない」

 アシオカジロウエモンとアンザイモモ、吉岡次郎と安西モモ。確かによく似ている。似ているどころか、片方は全く同じだ。

「奇妙な符合は他にもあるんだ。さっき前の記事を少し拾い読みしたんだが、蘆岡次郎右衛門は三男で、長男の正太郎は早世、次男の銕造は出奔して、次郎右衛門が家督を継いだと書いてあった。俺たち兄弟の関係と全く同じで、名前も似てる。これらはただの偶然なのかな。長い時を隔てて同じ彗星がやって来てるんだ。前の時は蘆岡次郎右衛門と安斎百がそれを見た。そして今年は吉岡次郎と安西モモがその同じ彗星を見るかもしれないんだ……」

 モモは何故だか真っ青になっている。鉄郎は彼女をまともに見据えると、

「君は『まれびと』なのか。次郎にかかった呪縛を解いてくれるならそれでもいいが、そもそもどうして君は次郎に近づいたんだ。何か企んでいるのか。教えてくれ。君は一体何者なんだ。救済者なのか、それとも破壊者か?」と言った。その時、

「なんだか焦げ臭い匂いがする」とモモがつぶやいた。次郎がはじかれたように窓を見ると、オレンジ色に輝いていた。

「火事か? しまった」と叫んで鉄郎は玄関に走っていった。


 モモがふらふらと立ち上がる。肩で息をしていた。もともと色白な顔はすっかり色を失い、チアノーゼを起こしたように唇が紫色になっている。絞り出すような声で、

「私が何者かなんて、私にもわからない」と言った。

「でもこれだけは信じてほしい。私はあなたの、ツギィの敵じゃないって……」

 ぐらりとその体が揺れ、彼は慌てて駆け寄って支えた。駄目だ、彼女を突き放すことなんて僕にはできないと思った。そのまま抱きしめていたかったが、今はそんな時ではなかった。

 すぐに鉄郎が戻って来た。

「隣の家が火事だ。風が出てきているから貰い火が心配だ。庭木に燃え移ったら目も当てられない。消火栓はまだ生きてる?」

「多分、使えるはずだけど」

「できるだけやってみるか。もう連絡済みとは思うが、念のため119番通報してくれ」

「私がかけます」とモモが言って、ポケットからスマートフォンを取り出した。するりと次郎から離れていってしまう。鉄郎は不自然なほど大きな声で、

「お前はここにいて、いつでも逃げ出せるように準備をしておくんだ。これが天命かも知れん。もしこの家がこれで焼け落ちてしまうなら、それはそれでいいじゃないか」

 続けて次郎だけに聞こえるような小声で、

「彼女から目を離しちゃだめだ。そばにいるようにしろ」と囁いた。

「消防車は既に向かっていますって」とモモの声。サイレンの音が微かに聞こえてくる。

「よし、じゃあなんとかひと頑張りしてみるよ」と言うと鉄郎は再び玄関に向かった。


 次郎も玄関まで一緒に付いて走った。重い扉が開くと、眩い月光が降り注いでくる。その青い冷たい光は、まるで次郎の体を刺し貫くかのようだった。

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