家に帰ると怪物がいた
二月の真冬の日だった。
その日は親と喧嘩別れのように家を出て、さりとて祝日の夜に塾は開いていなかったから、適当に人気のない場所で時間を潰してから帰路に着いたのだ。
誰もいない。世界で自分だけが息をして動いているような錯覚に落ちていく静寂。孤独を紛らわせるように星空を見上げて、白い息を吐き出したことを憶えている。
最寄り駅から離れてくると、舗装の中途半端な道路にはヒビ割れが目立つようになる。
注意してないと引っかかって転んでしまうくらい、落差のひどいビビ割れである。今みたいに余裕がある帰り時は別に気にならないが、困るのはむしろ朝だ。急いでると、割と引っかかるのだこれが。
団地街を抜けて一面に広がる水田地帯に入った。
瞼の裏に焼きつくほどに見慣れた風景。
夏はけたたましく、秋は涼やかで、冬にようやく全てが静まり返る場所。
何度も通った道ではあるが、そういう季節ごとの変化を思うと不思議な気分になった。
たった数ヶ月前のことが遠い昔に思えることがあれば、幼少の頃をつい昨日のように思い出せることもある。懐かしさにも似た感情がふつふつと湧いてくるのだ。
僕の家は、そんな田園風景の只中にポツンと一軒だけ建っている。父方の祖父母の家から増築した二世帯住宅である。周辺にはなーんも無いので敷地だけは広く、従兄弟たちと庭で鬼ごっこなどして遊んだ記憶がある。
そんな、僕の家が段々と近づいてくると、門の前に立つ人影が見えた。
この辺には道路の照明灯もないので遠目からだとその人影の正体は分からない。が、意味もなく立ち尽くすその姿はとても不気味に見えた。
父か、と最初は考えたが、すぐに違うと思い直した。
既に2時間経ってる、僕が家を出てから。
それでも塾に行くと伝えてはいたから、今の時間は帰る時間としては何の間違いもない。
そもそも、父は無駄を嫌う性格だから、そんな古典的な手法は取らない。言いたいことがあったら電話を使う。
だから我が家の前に誰かが立ってる、という状況はあまり考えつかない。ましてやこれほど深夜に近い時間帯の話ならば、なおさらだ。
果たして、家の前までたどり着くと、ぼんやり見えていた人影はもうどこにもなかった。
単なる見間違いか、と安堵する反面、我が家の照明が全て消えているのに気付くと、少しだけ心がざわついた。
深夜といっても12時前だ。
僕も外出してるのだから、誰か一人くらいは起きてるのが当たり前だった。人影は、やはりどこにもない。
ドアノブに手をかけた。
「あれ」
鍵が開いていた。
やっぱり誰か起きてたのかな、と思ってドアノブを回すが、その先にはただ暗闇ばかり。誰もいない。
「ただいまー」
虚しく僕の声は消えていくだけ。
やっぱり誰の返事もなかった。
いつもは駆け寄ってくる犬の気配もない。一抹の悲しみを抱えて僕は居間の照明をつけた。
パチン。
照明に照らされ見慣れた我が家の景色が鮮明に浮かび上がった。
ごったに物が置かれたキッチン。部屋のど真ん中に置かれたソファ。すぐ横には家族用テーブル。どれも変わりがない、はずだ。不安な心持ちのままで、犬用のゲージを覗き込む。
だが、そこに犬の姿はなかった。
いつも寝床にしているクッションだけが置かれていた。
クッションには一つのシミがあった。黒く、犬が一匹丸まって寝れるくらいの大きさのシミが。嫌な予感がした。
パチン。
祖父母の寝室。
畳の上に敷かれた布団。そこに寝ているはずの祖父母の姿はなく、代わりに人くらいのサイズのシミだけが残されていた。祖父母の姿は、どこにも。
階段を駆け上がる。
その途中で足を滑らせた。何かに足を取られたらしい。照明も付けずに駆け上がったせいで足元への注意が疎かになっていた。
痛みは特段気にならなかった。さっきからずっと苦しい。スマホのライトをつける。理解が追いつかない。心臓が早鐘を打っている。見てはいけない。足を滑らせた原因。だが確かめないわけにはいかない。そこに目を向けると、
「う、ぁ」
まだ生温かい、黒いヘドロのようなものが蠢いていた。
右足に取り付いている。離してくれない。何かを必死に訴えているようにも見えた。見えただけだ。ありえない。まさか。
ヘドロを振り払って階段を上り切った。
踊り場である。正面には父の書斎があって、右に行けば僕の部屋、左に進んでいくと両親の部屋がある。
父の書斎の電気が付いていた。扉の隙間から明かりが漏れている。くちょくちょと、ナニカが這いずるような音もする。
うまく息が吸えなかった。
どうやって立っているのかも分からなかった。
目眩。ドアノブをつかむ。どうか夢であってほしいと願いながら、部屋の明かりを解放した。
そこには大きな黒いヘドロの、階段にいたそれよりも大きなモノがあった。
そして“もう一人”。這いずるヘドロのすぐそばには、“影”としか形容しようのない人影が立っていた。
人影はヘドロを見下ろすような体勢から、僕の存在に気付いて顔をこちらに少しだけ傾けた。
“影”だ。何も見通せない。何も感じ取れない。そこにはただ暗くて冷たい闇だけがある。闇が、僕をじっと見つめていた。
やがて人影が僕の方に歩み寄ってきた。
ゆっくりとした動作。人としての形を保つのが精一杯とでもいうように、それは足を引きずってこちらに近づいてくる。
ドア。開かない。蹴った、殴った。それでも開かない。窓から逃げようと思い立って、もう腰が抜けて立つのもままならないことに気付いた。
人影の前で無様に転ぶ。
もう無理だ、と。諦めてしまおうと思った。このまま故も分からぬ赤子のように丸まって泣いてしまえばいい。あらゆる現実を拒絶すれば、せめて恐怖からは逃れられる。
だが、黒いヘドロが視界の端に映り込んだ。
無念の塊が、かつて家族の形をしていたであろう、それが。
ただそれだけで、足に力が入った。サッと周りが見渡せた。黒い人影。もはや人としての形を成していないそれは、引き延ばした影で襲いかかってきていた。
咄嗟にすぐ横にあった、腰ぐらいの高さのミニ本棚を投げた。バサバサと六法全書やら何やら分厚い本が宙を舞う。それを片手でヒョイと投げた自分に一番驚いた。これが火事場の馬鹿力ってやつか。
ともかく、視界が塞がったせいか影が一瞬だけ怯んだ。
この隙に、蠢くヘドロを飛び越え仕事机の向こうの窓に渾身の蹴りを入れた。
我ながら完璧な姿勢で蹴りが入り、窓ガラスは何の抵抗もなく砕けた。背後の影、その向こうのヘドロ。それらを最後にほんの一瞬だけ視界に収めて、家の外に飛び出した。
一瞬の無重力の後に始まる落下。
逃げ切ったという達成感と、何か致命的なものを掛け違えたような違和感。
眼下には暗闇がある。夜だからという理由では説明がつかないほど、何も見通せない暗闇が。
「────マジか」
夜という時間帯そのものが既にあの“影”のテリトリーだった。アレから逃げるには夜を明かす必要があった。何か強力な光を手に入れるべきだった。
そして、今更後悔するには遅すぎた。もう体は落下を始めていて、僕にはそれを止める手立てがない。咄嗟に僕は目を閉じて頭を庇うように体を丸めた。
地面にぶち当たることはなく、ただ暗く冷たい闇黒の海へと投げ出されたような浮遊感だけが残った。




