吾輩はインコである『出会い編』
インコが大好きなのに、古今東西インコを主人公にした物語がなく寂しい思いをしておりました。
この度一斉奮起して、セキセイインコに筆を執って頂きました。
インコを飼っている方、インコが大好きな方、それほどでもない方も、ぜひインコの目を通した世界をお楽しみください。
吾輩はインコである。名前はまだ無い。
どこで生まれたかとんと見当がつかぬ。なんでもペットショップのかごの中で、ほかの雛と一緒にピィピィ鳴いていたことだけは記憶している。後から聞いたら、あのかごの中は本来昆虫が住む場所なのだそうだ。
吾輩は虫かごにおがくずを敷いた上に、白いのや青いのと同居させられて窮屈な思いをしていた。
前を人が通る度に珍しがってピィピィ鳴いていたら、ある時通ったうちの1人が吾輩をお家へ連れ帰ってくれた。ジイチャンである。
ジイチャンは、吾輩の1人目の親である。吾輩は鳥であり、セキセイインコである。おおかたのセキセイインコは、ペットショップで暮らしたのちに、里子に出されて人間の親がつくらしい。
ペットショップにいた頃の吾輩には名前がなかったが、ジイチャンが名前をくれた。「レイコ」という。
人間の子どもの名前には一人一人たいそうな由来があるそうだが、吾輩はレイコの由来を知らぬ。なんでも、ジイチャンが吾輩をむかえる前に飼っていたセキセイインコもレイコという名で、その前も、その前のやつもレイコだったらしい。由来は知らぬが、由緒正しい名前ということだろう。
吾輩が鳥として生を受けて、ジイチャンと出会ったために、吾輩はレイコになった。運命というやつである。
吾輩吾輩、というのも疲れた。せっかく名前をもらったので、ここからは「レイコ」にする。
吾輩というのは、夏目漱石とかいうえらい先生の、えらい猫にあやかって使ってみただけである。ジイチャンはべらぼうに優しかったがえらくはなかったし、漱石先生みたいなお屋敷には住んでいなかった。でも、鳥であるレイコには十分だった。
まだ羽毛も生えそろわぬレイコを大きな手で包み込んで、ジイチャンはぬるま湯でふやかした粟をスプーンでひとくちずつ、くちばしまで運んでくれた。レイコもそれに応えるように、いっしょうけんめい粟を食べた。
食べ終わったら、横になったジイチャンのわき腹と畳の隙間に頭を突っ込んで休憩する。ジイチャンのぬくもりと、適度な暗がりがレイコを安心させた。おがくずと羽毛でギュウギュウの虫かごのなかにいたせいか、新しい家は広すぎて明るすぎて、慣れるまではジイチャンのわき腹で過ごさねばならなかった。
レイコの体にレモンイエローの羽毛がすっかり生えそろって尾っぽが伸びてきた頃、ジイチャンがレイコの家を買ってきてくれた。
水飲み場とエサ入れと止まり木がついた、立派なお屋敷である。虫かごじゃなかった。漱石先生のえらい猫も、ついぞ自分専用の家はもてなかったと聞く。誇らしい限りである。
今までジイチャンのわき腹や手やスプーンばかりを見て暮らしていたが、家の中からだと世界が少し違って見える。離れたところからジイチャンの全体の姿を見るのは新鮮だった。
家の外から、ジイチャンが人差し指を差し入れて遊んでくれるのも実に楽しい。
ジイチャンの家の中に、レイコの家ができた。素敵なことだ。
インコを何代もお迎えしてそのたび同じ名前を付ける(または名前を変えても結局は前の名前で定着してしまう)というのは、インコあるあるではないでしょうか。
無事、ジイチャンの家へ迎え入れられた雛のレイコちゃん。
次回から、成長記が始まります。