きざはし
「おはよー!」
「うるさい」
朝、昇降口をゆっくりと通り過ぎる抄夏を捕まえて声をかける。その短髪の少女は、かわいらしく顔をしかめて、私に反抗してくるんだとか……くぅぅ~~。
「おはよう!」
「…。」
「返事してよ。友達でしょ?」
「そんな覚えはない」
「えー! 契約破るの?」
見つめると、また返しにくそうに髪を弄りだした。
「分かったよ…次から」
「契約ね!」
「分かった、分かった。だから今は黙っとけ」
どうやら昇降口で、かなりの視線を集めてしまったらしい。私はどうってことない。でも確かに、彼女はこういうの苦手そうだった。
「…そういえば、介助員マジで辞めたみたい」
「え? 初日で?」
「…うん」
「うーん…あれだけあしらわれたらそうもなるね」
「別にそんなつもりじゃ…」
「そういうつもりじゃなくても、助けようとして拒まれたら辛いものなんだよ」
「…そういうものなのか?」
抄夏にはそういうことはわからないようだ。
「うん。少なくとも私は。だから、私が今日から手伝うね。断るの禁止!」
「は⁉︎ 何を勝手に、」
「気遣わせたくないならやらせて」
顔に迫ると、私の顔を凝視して、そのあとで怯えたようにうなづいた。
「・・・もう、勝手にしろ」
「よし! じゃあ散歩行こ!」
「バカ、これから授業だっつーの」
「学校探検って名義で先生に伝えとく。怒られたら私のせい。いいでしょ?」
「は? 陽子も授業出れないじゃねえかよ。却下。」
「その分、抄夏に勉強教えてもらうから。」
「お前、勝手すぎる。」
「へへぇ、」
色々喚いていたが、どうやら受け入れてくれるらしかった。…気を遣っている風にしない。それがせめてもの気休めになりますように。そう願いながら、車いすを押してみる。…重いのか軽いのかよくわからない。けれど、ここにあるのは確かに人の重みだった。
「おい陽子、何してる?」
即刻、担任に見つかるという始末。…万事休すと打ち拉がれる最中、どうやら先生は私たちの交友に肯定的だと気付いた。…それもその筈、あの野蛮な抄夏を手懐けたと云うのだから。
「学校探検をさせたいなって思ったんですけど、一時間目サボっていいですか?」
「いや…それだと陽子にも迷惑じゃないか? 俺の方でしておくぞ」
「それはダメです。抄夏は私にしか口を聞かないので」
「…そ、そうか。なら、頼んでもいいか? あ、荷物は教室まで持っていってやろう」
意外とあっさりだった。否、この口ぶりは恐怖であろう。先生すら、抄夏の態度に滅入っているらしかった。
先生が私たちの荷物を抱えて去る影を見届ける。
「よかったね。許可もらえた」
「よかないよ、これじゃ陽子にだけ心開いてるみたいじゃん」
「でも、他にいないって言ってた」
抄夏はどきっとしたように肩を上げ、目を丸くする。
「…ったく、変なところだけ覚えてんの」
気のせいかもしれないが、その時かすかに口角を上げていたように見えた。
「それで、どこ行くの?」
「全部回るから覚悟しといてね」
「転ばせたら絶交ね」
「へ? まじで?」
「じゃあ、案内よろしく」
からかわれて快感を覚える。あらら、いとをかし。
「まず、この左。ここはたしか音楽室。音楽科選択の人は使うの」
「次、」
「さらに奥が物理実験室。実験できる」
「次、」
「そして右側が我らが教室。二年で一階教室は一組と二組だけ」
「教室戻ろ。」
抄夏が自力で漕いで戻ろうとするので、私は引き留めようとしてハンドル部分を強く握った。
「やだ。」
そして、大して興味のなさそうな感じではあったが、私は続けた。
「じゃあ、二階の紹介。…あれ、階段ってどうするの?」
「知らない」
「…うーん、困ったなあ」
「じゃあおしまい。途中でもいいから戻ろう」
「あ、おんぶすればいいんだ!」
「…は?」
「よし、乗って!」
「や、やだよ恥ずかしい」
「誰も見てないよ。しかも、どう暴れても私に逆らえない」
我ながらすごーく悪者っぽい顔を作り、無理矢理おんぶする。抵抗として髪を引っ張られているようだが、もはやそこに気が向かないくらい私は感動していた。…驚嘆に近い? 彼女の脚の細さ、押し返す力がないこと、小柄な体、千切れそうな肌。それらに触れて改めて実感する。…抄夏はいくら抗っても普通には生きられない存在だと。
……、
「…おい、急に静かになるな!」
「…ごめんごめん。お尻触れてるからさぁ、」
猛烈に髪を引っ張られる。これは危うく転ぶところだった。絶交だけは御免だ。私は残念だが、手で掴む場所を彼女の脚に移した。…違和感しかなかったが。
「絶交!」
「やだ!」
「不埒!」
「やだ!」
そんな馬鹿みたいなやりとりを重ね、やっと二階に着く。二階の窓からは、この田舎町で多分いちばんにでっかい建物である原子力発電所が見えた。
「…抄夏、思ったより重いね」
「黙止!」
異様に怒っていた。怒っているというよりは、恥じらっていた。
「…抄夏も、女の子なんだねぇ」
「もうやだ、帰る」
「拗ねないでー」
「訴えてやる!」
「かわいいんだからぁ」
私は彼女の頬を突っついてからかうようにする。何を言っても通じないと分かったのか、抄夏は溜息をひとつこぼして、すごーく嫌そうな顔をし、そして黙った。そうか、これが黙秘権というやつか。
「車いす取ってくるために往復の必要があるね。…抄夏は一旦ここで待ってて」
「うん」
彼女の体を壁にかけて、私は一階から車いすを移送してくる。
二日目、塩辛い杪秋の風は窓を潜って彼女の肌を吹き晒した。車いすを抱えて階段をのぼりあがる途中で、寒そうに肌をこする抄夏を見る。…このくらいの配慮は私ができるようにならないとなぁ、
上り終えて、一息つく。案外大変だ。中学ではずっと運動部をやっていたというのに息も上がってる。
「疲れるなら辞めたら?」
「やだ。やるもん」
「あっそ」
感謝もされないのかぁ…なんかむなしいけど、それもやむなし。これからの日々がそれを生むのです。そこにあるのがまさしく希望なのです。
「二階って、実は教室と職員室しかないんだけど、職員室でも見てく?」
「行かなくていい」
「…だよねぇ」
さすがにつまらなそうにし続けるので、私もとうとう諦めを覚える。
「三階いく体力なくなっちゃったから、戻ろっか」
「やっぱ無理しようとしてたじゃん」
「無理するのも楽しいんだよ」
「気持ちわるいね」
「へへぇ」
その後、私のことを心配してなのか「車いす運んできて。」なんて言ってから、器用に手を使って、手すりを伝って階段を下りていく抄夏。精一杯強がっていたのだった。少し危なっかしかったけれど、彼女にはできていた。きっと、誰よりも頑張っている、誰よりも報われるべきなのだ。
「ほら、早く戻ろ、」
踊り場で座り込む抄夏の声を聴く。
「ごめんごめん、やっぱ結構重くて」
「無理しないでね」
抄夏はそう言い残してから一番下まで一気に下っていった。私は一時立ち尽くしていた。立ち尽くすことによって、彼女にはない脚を誇ろうとしていたのか。…違うとも言い切れない。きっとこれは嫉妬だ。つよい女性への。
なんて滑稽な、
「え、陽子、あの小娘手なずけたってマジ?」
「手なずけたんじゃなくて友達になったの。あと小娘はだめ」
一時間目に相当駆けまわったので私はかなりくたくただった。ぐびぐびと水筒を口につけて麦茶を喉に押し込む。ちょっぴり体温も落ち着いてきたようだ。
「え~~、絶対ヤバいよそれ。あとでボコボコのぐちゃぐちゃにされるんだよ。きっと」
「うーん…されたらどうしよ、」
私の知らないところで抄夏は、一日の内にかなり悪者に仕立て上げられていたらしかった。とは言っても、抄夏自身、庇って欲しいという感じでもなかったから、放っておく。悪名が万里を走らなければいいが。否、どうやら彼女は其れに万里を走ってもらいたいらしかった。
「なんで友達になんてなったワケ?」
「うーん…なんかかわいいから…かなぁ」
「確かに可愛いけどさあ…お人好しなのはいいけど、それで自分の身を滅ぼすとかやめてよね。」
心配がしたいのか抄夏を馬鹿にしたいのか微妙な感じの話し方をする彼女は、樋上という。
「樋上には迷惑かけないから大丈夫」
「あのねぇ…」
なにか言いたそうにしていたが、暫く黙って、それから溜息だけを残して彼女は自分の席に戻っていった。
やっぱり、話題になっているらしい。エグイ転校生が来た! とか。誰かが言うには、抄夏は前の高校でなんかやらかしたタイプじゃないか? とか。抄夏はそれを気にしていない感じで、ただ黙って席にいて、たまに用事があると私のところまでこっそりと来た。そして、自然の景観が変化していくくらいの速度で静かに帰っていく。
そう、「こっそりと」。
居心地が悪い。私は珍しくそう感じたのだった。どうして彼女に毒が向くのか、どうして頑張っているのに彼女は報われないのか。社会って本当は相当にイカれてるんじゃないかとか。納得がいかない。不条理だらけ。
今に殴ってやろうか? 一時的にそんな思いがよぎったのも全部、
——きっと抄夏を傷付ける。
「抄夏、いっしょに弁当食べよ」
「…いいけど、ほかの友達もいるんじゃないの?」
例えばあいつ。みたいに樋上の方を向いた。
私はそれを肯ぜずに抄夏に向き直った。
「私、友達いないの。抄夏だけ」
「でもさっき、仲良さそうに話してた」
「樋上は便宜上。他の子も全部そう」
抄夏が怪訝そうに首を傾げて、さらに目を細めた。けれど、なんで? だとか核心的なことを訊こうとはしてこなかった。…やっぱ優しいや。
「…陽子って、ひとりぼっち?」
「つまんない女でしょ」
自虐的な発言に、抄夏は表情を歪めた。雲行きが怪しい。
「そうだね」
抄夏は精一杯笑って、ほんわかとした顔のまま、ごはんをいくらか口に詰め込んだ。
「慰めてよ」
「そういうの苦手」
味気ない返事が一つ。たしかに苦手そうな顔だなあとか思う。
「陽子、今日静かだね」
「ごめんね、私らしくなくって」
「疲れさせちゃった?」
「うん。そんな感じ」
「ごめんね」
……いつも語調の強い彼女は、どうやら慰めようとしてくれているらしかった。気を遣われると心が痛む。…。
「抄夏が作った弁当だよ。食べる?」
抄夏の箸につままれた卵焼きが、私の頬をつついた。
「え?」
「元気だせ」
「うん…?」
抄夏はやはり、精一杯な娘だった。
抄夏は私に向かって可愛らしく笑顔を作った。
「慰めてくれるの?」
「苦手だけど」
「…ううん……・・・すごく元気でたよ」
「ならよかった」
抄夏は、その後はずっと黙っていた。静かに食事をしているだけ。けれどすごくおいしそうに食べていた。
…卵焼き、貰っておけばよかったかも。なんて、徒に思う。
「この後なにする?」
「抄夏は寝る」
そう言いながら椅子を前に動かして、机の上に伏せて見せる。昔、私の家で飼っていた猫にすごく似ていて、やっぱりこの子も愛玩動物の一種なのだろうか? と考えてみたが、確からしい答えは見当たらなかった。
「はは、なにそれ。どっか行こうよ」
「抄夏はそんなに自由に動けないの」
「じゃあここで話していようよ」
「何を?」
たとえば何を聞こうか? と考えていると、不意に昨日の自己紹介を思い出した。そういえば、勉強が好きとか言っていた。
「大学の話とか、」
遠くの方で、ごろごろと雷が鳴る。
「ああね。抄夏、、、東大行くから」
「えっ?」
動揺した眼がすっと降り出したての雨をとらえる。
「それで、みんなを見返すの」
「…そうなんだ。すごいね!」
「うん。抄夏はすごい」
一人称に名前を用いているせいもあってなのか、他人事を語っているように聞こえた。希望なのか絶望なのか区別しきれない何かを期待しているようだった。
「陽子は、あんまり驚かないんだね。」
「…うん。なんか、抄夏なら本当に叶えちゃいそう。」
「ありがと。」
遠退いていくような気がした。遠く、彼方の水平線を跨いで消えてしまう潮風のように。
もしも本当にその時が来たら、背中を押してあげられるのだろうか。
「先に抄夏に言われたら、私がちっぽけだね」
「なんで?」
私はしばし抄夏に羨望を見る。
「すごいじゃん、東大。目指す気にもなれないよ」
「目指すだけなら誰だってできるよ。…で、陽子は?」
「…昔は、医者になりたかったんだ。だけど、私じゃ無理だなって思って、今はとりあえず進学できたらそれでいいかなって思ってる」
「…ふーん」
随分と含みのある言い方をする。
「…絶対、バカにしたでしょ」
「うん」
「可愛くなかったら蹴飛ばしてやってたから」
「…え?」
ぽつぽつと、おおきな雨粒が窓を調子よくたたいた。
自分でも、どういう気持ちでそう言ったのかは覚えていない。