砂まみれ
この辺りに避難場所なんてないし下手に動くと絶対迷子になる。悩んだ末に行き着いたのは海だった。昨日ユイが連れてきてくれた岩場を歩きながら日陰を探す。念の為に温度を確認してからゴツゴツとしたそこに腰掛けた。
「はぁ……」
誰もいないから余計にため息が響く。向こうの空でミャアミャア鳴くのはウミネコ。憎たらしいくらい晴れた空に白い影が飛んでいる。さっき岩場の角に止まって海を眺めていたのはカラスだ。山の方に飛んで帰ったから、もしかするとあのクスノキを護っているのかもしれない。
たった1人で置いていかれた悲しい木だと思った。でもあのクスノキは人間が誰もいなくなってもカラスが必要としてくれる。じゃあ私はどうなるんだろう。
これから先、卒業してバラバラになったら。2人に置いていかれた私は誰かが見つけてくれるのかな。
「考えすぎでしょ。大丈夫だよきっと」
大丈夫だと思いたいけど、自分でも止められない汗りと不安が侵食していく。目の前の海がユイの目みたいにキラキラしているから泣きたくなった。
涙が溢れそうで目を擦ろうと手を伸ばすとカチャ、とメガネに当たる。またため息が零れた。
大きくなってたくさんのものが見えるようになって、自分の目の輝きが消えるような気がした。
小さい頃は何でもできる大人がかっこよく見えて早く私もああなりたいと希望でいっぱいだった。あんなにも大人になりたくて仕方なかったのに、いざ近づいてみると大人はそれ程いいものじゃなかった。
子どもの頃は夢を語れば応援してくれた大人達は、人と違う突飛なことを言うと「そんなの叶うはずがない」と否定してくる。
簡単じゃないよ、なりたい人なんてたくさんいる、それだけじゃ生活出来ない、お前には無理だ。
それだけ否定しても「頑張れ」とは言ってくれなくて、だから私も簡単に諦めるようになった。夢が見たくてでも出来なくて、「将来の夢は?」という質問が「何を目指してるの?」に変わるのを虚しく見ていた。
周りの人が徐々に「大人」に変わっていく中で、私は見なきゃいけない現実から逃げた。メガネをかければ、くすんでしまった自分の目も輝いて見えたのだ。でも所詮光っていたのはレンズの方で、自分の気持ちを隠して諦めた私の目は大人と同じだった。自分なりに大人になったつもりで、周りに合わせてみたりした。
それでも違和感と羨望だけが募っていく中で、ユイだけは違っていた。
クラスメイトの目は大人になっていくのにユイの目だけはいつだって輝いていた。それに魅了されて触れた彼の世界は優しく楽しいものだった。いつだってユイは自分の好きなように生きている。
羨ましくて仕方なかった。
私もあんな風になりたい。無くそうとした夢が繋ぎ止められて、白黒に見える世界で一等輝いて見えたから叶えたいと思ってしまったのだ。
「ヒトミ」
優しい声に顔を上げると汗を滲ませたユイが立っている。目が合うとよかったと笑う。
「ここにいたんだね」
「あんまり遠く行ったら帰れなくなるし……」
「携帯も忘れてたしね」
「あ……ほんとだ」
充電器に刺したままの携帯を思い出して、本当に遠くに行かなくてよかったと胸を撫で下ろした。
「ソウと喧嘩でもした?」
隣に座ったユイが聞く。喧嘩、なんだろうか。幼なじみとはいえ人の家で喧嘩するなんて迷惑な話だなと申し訳なくなった。
「喧嘩、っていうか……私が逃げただけ」
「なんで?」
「私が、ソウのこと傷つけたかもしれない……」
俯くと頭に浮かぶのはソウの寂しいそうな怒ったような、見るからに辛い表情。初めて見たし戸惑った。どんな言葉をかければ正解か分からなかった。
好きなんでしょ?
ユイの言葉を反芻する。
私から向くソウへの気持ちがもし恋だとして、じゃあユイに対するこの処理しきれない気持ちにはどんな名前が付くんだろう。今考えてみたって分からない。
どんどん沼にハマっていく思考の中、隣りのユイがふふっと笑う。
「ソウもヒトミと同じこと言ってた」
「え?」
ソウちょっと不機嫌だったし焦ってたよ。
その言葉にごめんと素直に謝る。するとそれは僕にじゃないでしょとユイが笑う。意味深に動いた視線が砂浜の方を指して、それに導かれるままに目をやると気まずそうに首をかきながら茶髪が歩いてくる。気の乗らないように重たい足取りはきっと砂のせいだけじゃない。
「行ってあげなよ」
「……しょーがないなぁ」
ユイにメガネを預けて立ち上がる。岩場を飛び降りてソウめがけて走った。思いっきり飛びついてみると驚きながらも受け止めてくれて、やっぱり大人になったなと嬉しくも寂しくなる。昔、私が躓いてソウに突っ込んだ時は共倒れになったのに。
「ソウ、ごめんね。ユイとは付き合ってないよ。びっくりして黙っちゃっただけ」
「さっきユイから聞いた……あと、俺の方がごめん」
「いいよ。許してあげる」
偉そうだなと笑うソウにつられて私も笑うと後ろからユイが突進してきた。小柄な方とはいえ立派な男の子であるユイに、さすがに耐えきれなかったソウが後ろに倒れる。3人一緒に砂浜に転がると笑えてきて、ソウが何してんだよと震える声でユイに言った。
「僕だけ仲間外れ寂しい!」
「加減しろよ」
「砂まみれなんだけど〜」
これはお母さんが見てたら怒っちゃうな。いつだったかの学校帰りに3人で遊んで帰ったら砂だらけの服を見て言葉を失っていたのを思い出す。次の日の学校で2人とも「怒られた……」と肩を落としていたっけ。
どうすんだよと笑いながらソウが1番に立ち上がって手を差し伸べてくれる。アパートでのこともあって躊躇っていると、ユイは傍に立ってニヤニヤと見つめてくる。恨みを込めて見ていると「ほら早く」と急かされた。
一昨日よりちょっと日焼けしているような気がするその右手に掴まって思いっきり体重をかける。
「ヒトミ太った?」
「ひどい! やっぱり許さない!」
ごめんごめんと謝ってくるソウから逃げるようにアパートを目指す。結構本気で追いかけてくるのですぐに捕まって、それから3人並んで歩いた。誰かが飛び出すことも逆三角形になることもない。一直線になって歩いていると無敵な気がして、どうしようもなく嬉しくて笑ってしまった。
アパートに戻ってくるとユイの部屋の前に昨日と同じように草臥れたオレンジ色のエプロンをしたおばさんが立っていて、私達に気が付かないままインターホンを押して首を傾げた。古いサンダルをカチャカチャ鳴らしながら歩いてきて私達を目に留めると「あらあら」と近づいてくる。
「今伺ったんだけど留守だったのね。自転車があるからいるのかと思っちゃったわよ〜」
よかったよかったと安心したようなおばさんが買い物カバンみたいに下げていたブリキのバケツをじっと見ていると、「そうそう」と思い出したように言った。
「これ、さっき言ってたバケツね」
「ありがとうございます」
「海岸なら花火できるから楽しんでらっしゃいね。大丈夫だとは思うけど火傷には気をつけて」
何かあったら言うのよと微笑みながら、バケツをユイに渡した。さっき探してくると言って出て行ったユイはおばさんに借りに行っていたらしい。やっぱりバケツなんてその辺に落ちてる物じゃないしね。
「あらやだ」
おばさんは小さい目を丸くして呟く。そして「砂まみれじゃないの〜」と近くに立っていたソウの服を叩く。
「さっき海で転んじゃって……」
ソウは努めて優しい笑顔のまま、さり気なくおばさんの手を離してそう言った。私もユイもははは……と笑って誤魔化す。
お母さんには怒られなかったけど、おばさんには嫌な顔をされた。しかしそれも当たり前だろうと思う。汚されて困るのは私達じゃなくて建物の持ち主なんだ。ただでさえ古いのに砂まみれにされたら溜まったものじゃないだろう。
「ちゃんと落としてから入ってちょうだいね」
少し迷惑そうな顔のおばさんが私達にそう声をかけて自分の部屋に戻って行った。
「大丈夫です!」
「すいませんっした」
「気をつけます」
各々謝罪の言葉を返しながら、その顔は笑いを堪えるのに必死だった。でも、さすがに畳に砂はまずいのできちんと落とせるところまでは頑張る。帰ってくる前にちゃんと落としてきたはずなのに、叩けば出るわ出るわで驚いた。面倒になったのかソウは外でTシャツを脱いでしまって、それを見てまた洗濯物が溜まったなと頭のどこかで冷静に思った。
バケツを自転車のサドルに引っ掛けて楽しみだねと弾んだユイの声に笑顔で頷く。
「俺の誕生祝いな」
服を振って砂を落としているソウの言葉にそういえばそうだったなと思い出した。忘れてた〜と馬鹿正直にユイが言うのでまた追いかけっこになって、無意識に手をかけたドアが開いたのでびっくりした。鍵をかけるのを忘れていたようだ。
「不用心だなぁ……」
まずないとは思うけど泥棒が入ったら怖いし危ないから言っておかないと。
笑いながらじゃれ合っている犬みたいな2人に声をかけてから先に中へ入った。泥棒が入った後みたいに荒れているけど、私が家を出た時からこんな感じだった。片付けないとな〜と一旦見てないふりをして黒いワンピースを探り当て浴室に駆け込む。
遅れて帰ってきた2人の汚い! という声に密かに笑った。